捕らわれたマリアがいるのは王都の城に昔から存在した監獄塔。身分の高い者が罪を犯した場合に、閉じ込めておく場所だ。
監獄塔と呼ばれているが待遇は悪くない。部屋はそれなりの広さがあり、掃除も行き届いている。ベッドのシーツは毎日変えてもらえるくらいだ。食事も、さすがにフルコースとはいかないが、王宮の料理人が腕を振るった、美味しい料理が昼と晩に提供される。一杯だけとはいえ、ワインまで振る舞われる。
アーノルドの好意というわけではない。囚人とはいえ、グレートアレクサンドロス帝国の皇后であったマリアには、それに相応しい待遇が用意されたというだけの事だ。
マリアに不満があるとすれば退屈であるという事。たまにグランフラム王国の役人が、マリアの異世界の知識を聞きにくるが、それ以外の時間は一人で、ぼんやりと過ごすしかない。
最初の頃は死の恐怖で震えているだけのマリアだったが、最近は色々な事を考える余裕が生まれている。グランフラム王国が自分の持つ異世界の知識を求めており、それがある限り、殺される心配はないと思えてきたからだ。
いかにして異世界の知識を出し惜しみして延命を図るか。逆に自分の価値を思い知らせて、処刑を取りやめにさせるか。マリアには考える事が多い。
もう生き延びる事だけでは満足出来なくなっているのだ。強欲もここまで徹底すれば、大したものだ。
「……アーノルドよ。彼を何とかして口説かないと」
一人で過ごす退屈の時間のせいで、最近、癖になってしまった独り言をマリアは呟いている。
自分の処分を決めるのは国王であるアーノルド。アーノルドさえ何とかすれば、罪を免れる事が出来る。うまくすればアーノルドの側室、そこから更に正室になどという考えまで膨らんできている。
「それは無理だな」
「誰!?」
自分の独り言に応える声。驚いて声のした方向に顔を向けたマリア。
「……嘘?」
そこに立っている人物を見て、更に驚く事になった。
「何が「嘘」だ? よく分からない反応だな」
「……リオンくん、わざわざ会いに来てくれたの?」
マリアの、この見事な変わり身にリオンは苦笑するしかない。リオンが、この場に来る目的が、ただ会いに来る為のはずがない。それが分かっていてマリアは、咄嗟に媚びる態度に切り替えたのだ。
「私、ずっと一人で寂しくて。来てくれて、嬉しいわ」
リオンの苦笑を見て、マリアは更にリオンに媚びてくる。リオンの殺意を、何とか消そうと必死なのだ。
「そうだろうと思って来た。俺が退屈なんて感じないようにしてやる」
「……そっ、そう。嬉しいわ。でも、こんな所でって、ちょっと恥ずかしいわ」
リオンの言葉の意味を分かっていて、マリアは惚けている。ようやく希望の光が見えてきたところ。ここで殺されるわけにはいかないのだ。
「……恥ずかしい?」
「でも、リオンくんなら良いわ。私……本当は、ずっとリオンくんの事が忘れられなかったの。学生時代のあの時に戻りたい。ずっと、そう思っていたけど、それが許されなくて」
エアリエルが聞いていれば確実に、リオンへの折檻が始まるところだ。自分やヴィンセントの為と分かっていても、さすがにマリアが相手では許さないはずだ。
「……大勢いた攻略対象の一人だ」
自分を攻略させる事で、アーノルドとエアリエルの仲を邪魔する気を失くさせる。これが、リオンがマリアと関係を持った理由だった。
だがそれは失敗。マリアは全ての男性の気持ちを自分に向けたいのだ。アーノルドを忘れることも、諦めることもなかった。
「リオンくんは違うの」
「よく言う。体の関係を持ったのが、俺一人でない事は知っている」
「それは……違うの。私、訳が分からずに、ただ一生懸命に主人公の役割を果たそうとしただけなの。貴方も私と同じだと知っていれば、そんな悩みも相談出来た。そうすれば、きっと違う未来が二人にはあったはずよ」
リオンの態度を嫉妬とみたマリアは、密かに手応えを感じている。リオンを自分に夢中にさせれば、又、違った可能性も生まれてくると考えて、必死でリオンを口説きにかかっている。
「それは、お前の夫であるランスロットへの裏切りだ。一度、裏切った女が、もう一度裏切らないと、どうして信じられる?」
「違うの。私はランスロットが好きで妻になったわけじゃない。そうしないと、この世界では生きられないと、頼る人のいない世界に一人で放り出されて、野垂れ死にしたいのかと言われて……」
「脅されて仕方なく結婚した?」
「……そう。辛かった。そんな時に思い出すのは、リオンくんと過ごした時間。それが私の支えだったの」
伏し目がちに、少し震える声で、マリアはリオンに想いを告げる。それは、あまりに儚げな雰囲気で、抱きしめたくなる衝動を堪えるのは大変だろう。リオンでなければ。
「そうか……だが、どんな事情があろうと、お前がやった事は許される事じゃない。お前は死刑になる。これは逃れられない事だ」
「……そんな。それは誤解よ!」
「俺がお前のやった悪行を知らないとでも思っているのか? それどころか、誰よりも詳しく知っていると思うが?」
「それは……」
マリアが行った数え切れないほどの悪行の多くで、手先となって働いていたのはリオンの組織だ。それをマリアは思い出した。
「……でも、その悪行に手を貸したのはリオンくんよ」
リオンも同罪。それをマリアは訴えた。
「知らない。仮にそうだとしても、それを証明する事は出来ない。一方でお前の悪行を証言する人は大勢いる」
レジストはリオンの組織だ。だが、この事実を証明する力は今のマリアにはない。そもそも、レジストの全容を把握している者は、リオンとレジストの中でも限られた幹部しかいない。手先として動いた組織がレジストだと示す事も出来ないはずだ。
「……私がした事にされているだけよ。私は嵌められたの」
裏社会との繋がりで、リオンを脅すことは無理だと判断したマリアは、直ぐに元の手法に切り替えた。
「証拠がない」
「証拠はあるわ。命令は全てランスロットから出ているの。機密扱いになっていたけど、調べれば分かるはずよ」
この証拠はマリアの言う通り、存在する。ただマリアの指示で、捏造された証拠ではあるが。これがマリアの最後の切り札なのだ。
「……証拠があっても無理だな」
「どうして?」
「アーノルドはランスロットを助けたいんだ。その為には、ランスロットは騙されただけで、本当の首謀者は別にいるとしなければならない」
「……それが私?」
実際に首謀者であるくせに、リオンの言葉に本気でショックを受けているのが、マリアのマリアらしいところだ。
「他にいない。お前は知っているはずだ。事実なんて関係なく、グランフラム王国は、お前を処刑する。それで真実は闇の中。グランフラム王国にとって都合の良い事実だけが残る」
「…………」
事実など関係ない。ヴィンセントは無実の罪で処刑台に立たされたのだ。それをマリアは知っている。
マリアが自分には罪はないと主張すればするほど、グランフラム王国にとってマリアは邪魔者になる。マリアがグランフラム王国で助かる術はない。
「ちょっと可哀想だけど自業自得だ。諦めるんだな」
「……嫌よ。どうして私が、こんな所で死ななくてはならないの!? 私は……」
ゲームは終わり。お前はもう主人公ではない。リオンの言葉がマリアの頭をよぎる。だが、これで諦めないのがマリアだ。自分が主人公でないなら、誰が主人公かを考えてしまう。
「お願い。私を連れて逃げて。貴方の為なら私は何だってするわ」
「逃げるって、何処に?」
「どこでも良い。大丈夫よ。私とリオンくんが組めば、この世界では無敵よ。戦闘でも政治でも。二人で新しい国を作りましょう。そして……幸せに暮らすの」
そして、その国で世界を制覇しましょうという言葉を、ぎりぎりマリアは飲み込んだ。こういう言い方はリオンが嫌うものだという咄嗟の判断だ。この判断は正しい。但し、マリアには残念な事に、根本的なところで間違っている。
「……マリア、お前の気持ちはよく分かった」
「分かってくれた?」
「ああ、きっと分かってくれたと思う。お前に、ずっと騙されていた事も、お前の本性も」
「……えっ?」
リオンは第三者の事を話している。それが誰か、マリアは直ぐに知ることになった。
「……ああ、よく分かった。自分がどれほど愚かであったかがな」
リオンとは違う男の声。声だけで相手が誰か分かるほど、マリアのよく知る人物だ。
「……ラ、ランスロット」
柱の影から現れたのはランスロットだった。その顔は赤紫色をしている。自分の信じていたものが全て虚構であったと知って、怒りと絶望の両方が、ランスロットの胸を焦がしている。
「さて、邪魔者はこれで消える。これは俺からの二人への差し入れだ」
こう言ってリオンは、懐から一本のワインを取り出した。そのワインをテーブルの上に置くと、ランスロットに近づいて短剣を差し出す。
「良ければどうぞ。あれは大人しく乾杯するような女じゃない」
ワインの中身が毒である事はマリアにも分かっているはずだ。そしてマリアは、高貴な者の嗜みとして、自害を選ぶなんて殊勝な性格ではない。
「……ああ、使わせてもらう」
ランスロットは素直に短剣を受け取った。リオンの言う通り、マリアが穏やかに死を受け入れるような女でない事は、本性を知る前から分かっている。
振り返る事なくリオンは、そのまま部屋を出る。扉を閉めても部屋の中の喧騒が耳に届く。マリアの怒鳴り声、それも、やがて途絶えて、部屋が静寂に包まれた。どのような決着になったのかは、微かに聞こえる荒い息遣いが教えてくれた。
扉を開けて、また部屋に入るリオン。
「……しぶといな」
床に倒れているランスロットの死体に一瞥をくれてリオンは、そのすぐ横に血まみれで立っているマリアに話し掛けた。
「……あ、貴方の思い通りになんて、ならないから」
「いや。思い通りだ」
「なっ? がっ……」
リオンの言葉の意味を確かめる間もなく、マリアは顎に強烈な打撃を受けて、床に倒れていく。
「簡単に殺してしまうと不満に思う人たちがいるからな」
床に倒れたマリアの腹を踏みつけて、リオンはマリアの知りたかった意味を伝えた。
「……殺さないで。なんでもするから」
「その言葉が本心からのものであるかは、これから先、証明してもらう」
「……どういうことかしら?」
もしかすると殺されないで済むかもしれない。リオンの言葉からそれを感じ取ったマリアの顔には笑みが浮かんでいる。つい先ほどと同じ。リオンに媚びを売る笑みだ。
「……大将。商品を傷つけるのは感心しませんね?」
だがマリアの顔に笑みが浮かんでいたのは、わずかな時間だった。割り込んできた声。その声をマリアは知っている。その言葉の意味も良く分かっている。
「もともと粗悪品だ。少しくらい傷ついても問題ないだろ?」
「まっ、今回のこれは商売じゃないですからね」
さらに部屋に入ってきた男たちが、呆然としているマリアを手際よく拘束していく。
「や、止めて」
我に返ったマリア。救いを求めてリオンに視線を向けた。無駄であることは分かっているはずなのに、そうするしかなかった。
「生きたいのだろ? その為には何でもするとも言った。やってもらおう」
「い、嫌! た、助けて! お願いだから! この男たちには渡さないで!」
男たちはマリアも知っている者たち。彼女が多くの貴族女性を売り渡した相手だ。その彼らの手に落ちるということはどういうことか。それを想像して、マリアは怯えている。体を武器に成りあがってきたはずなのに。
「……お前はまだ何も知らない。彼女たちの悲しみも、苦しみも……これまでとは違うからな。お前は何も得ることは出来ない。ただ死の時を、いつ来るか分からないその時が来るのを待つだけの毎日を与えてやる。絶望を知れ。その時がお前の死ぬ時だ」
さらにリオンはマリアから、わずかな希望も奪い去ろうとする。物語が終わっている今、補正が働くことはない。男たちがマリアに惚れることもない。あったとしても何の力にもなれない。
救いのない毎日。それが続き、その先には死が待っているのだ。
「……い、嫌……嫌ぁああああっ!! 助けてっ!! お願いだか……んん……んんん……」
口に布を詰め込まれ、それでも懸命に叫び声をあげようとしているマリア。だが彼女がどれだけ足掻こうと、助けなどこない。マリアは男たちに抱えられて、部屋から連れ出されていった。
部屋に残されたのはリオンと、男たちによって運び込まれた女性の死体。そしてランスロットの死体だ。リオンは二つの死体に男たちが持ってきていた強い酒を振りまくと、指先に浮かんだ炎を移した。
一気に燃え広がる炎。それを少しの間、見つめていた後、リオンは部屋を出て廊下を進んでいく。捕らわれた人が逃げられないように設けられた廊下を塞ぐ鉄格子の向こう側で、リオンを待っている者がいる。マリアを連れて行った部下たちではない。
「終わった」
格子の扉をくぐり抜けたところでリオンは待っていた男、アーノルドに終わったの一言を伝えた。
「彼女をどうするつもりだ?」
「それをお前が知る必要はない。死ぬ時期と場所が変わった。それだけだ」
「……すまない。こんなことまでお前に頼ってしまった」
謝罪を口にするアーノルド。ランスロットとマリアを生かしたかったのはアーノルドではない。セイド宰相を中心とした臣下たちなのだ。
「これくらいは何でも無い。ただ……情けなくはあるな。こんなことでこの先どうするつもりだ?」
マリアとランスロットを殺すことに関しては、恩に着せるつもりはリオンにはない。直接手にかけることはしなかったが、二人の死に関わることが出来たことを喜んでいるくらいだ。
だが大罪人に死を命じることも出来ない王で、この先やっていけるのかという疑問はそれとは別だ。
「信頼出来る者を見つけていく。今もいないわけではない。ただ力を持たせてやれないだけだ」
アーノルドに純粋に忠誠を向けている臣下は当然いる。近衛騎士団長のランバートなどはその代表だ。だが近衛には国政に関わる権限はない。
国政に関わる重臣の多くはアーノルドの父親の代からその地位にいる者が多い。それが問題の一つだ。
「……まあ、焦らないことだな。今回の戦乱の結果、三侯家は滅び、王家はその権威を失墜させた。これまで押さえつけられていた奴らが野心を露わにするのも仕方がない」
リオンも今のグランフラム王国の問題は分かっている。滅んだ侯家に自分が成り代わろうという野心が、静かな混乱を生み出しているのだ。
「ああ、分かっている」
グランフラム王国ではこの先、静かではあるが激しい権力争いが繰り広げられることになる。新しい秩序が固まるまで。その秩序が王家を頂点としたものになるかはアーノルドの頑張り次第だ。
「……最初に見つけるのは汚れ仕事が出来る奴だな。お前は甘すぎる」
「それがリオン、お前であって欲しいと思うのは俺の我が儘か?」
別に謀略に限った話ではない。他の分野でもリオンの能力は高い。何よりもリオンが存在するだけで王家の権威は、瞬く間に復活する。アーノルドはそれが分かっている。
「我が儘だ。俺はグランフラム王国には恨みしかない。生まれることさえ、許されなかったかもしれないんだ。この国は俺に冷たすぎる」
生まれた時からずっとリオンは、フレイとしてだが、グランフラム王国に存在を否定されてきた。そんな国に愛着などあるはずがない。グランフラム王国がリオンを疎ましく思った以上に、リオンはグランフラム王国を恨んでいるのだ。
「それでも俺はお前とは兄弟だと思っている」
「……勝手に思っていろ。ただ俺は甘くない。今のまま、お前がだらしない国王で、グランフラム王国が酷い国になったら、容赦なく潰すからな」
逆にそうでなければ手出しはしないと言っているようなものだ。兄弟と思うという言葉も拒否しなかったリオンにアーノルドは少し驚いた。
「……厳しい弟だ。今に始まったことではないか」
「俺が悪いわけじゃない。お前が出来の悪い兄だからだ」
「……そうだな」
兄とまで呼んでくれた。リオンの気持ちは分からない。そうであってもアーノルドは自分の心が震えるのを感じている。
「ああ、もう一つ、忠告しておくことがあった」
「何だ?」
「好きな女は大切にしろ。簡単に諦めるようなら初めからプロポーズなんてするな」
「えっ……?」
「惚けるな。シャルロットさんのことだ」
「……お、お前、どうして知っている!?」
シャルロットに求婚したことを何故か知っているリオン。その事実にアーノルドは激しく動揺している。
「俺の諜報網を甘く見るな。ああ、まあ、この先は心配するな。プライベートは詮索しない。お前たち二人がイチャイチャしている様子なんて聞いても苛つくだけだからな」
「お、お前な……えっ? それは?」
リオンの言葉には自分にとって重要な情報が含まれている。それにアーノルドは気が付いた。
「シャルロットさんはグランフラム王国に残る。説得にはかなり苦労したけど、なんとか納得してくれた。あっ、苦労したのはフラウと別れるのを嫌がっただけだ。だから嫉妬するなよ」
「そうか……残ってくれるのか」
「また一つ貸しだな。まあ、これは返してくれなくて良い。返す相手はシャルロットさんだ。彼女には俺は大きな借りがあるから」
エアリエルとフラウを守る為に、シャルロットの大切な時を無駄にさせた。シャルロットはそうは思っていないだろうが、リオンはそれを申し訳なく思っている。
「……分かった。ではそうしよう」
リオンが自分に対して、心を開いてくれたのはシャルロットのおかげかもしれない。アーノルドは、そう思った。そして自分も、シャルロットに大きな借りが出来たと思った。
「言いたいことは以上だ。じゃあ。俺はこれで」
「ああ、これで……」
また会おうとは二人とも言わない。会えることが必ずしも良いこととは限らない。それが分かっているからだ。
今この瞬間がもっとも二人が近づいた時。そして二人の距離はまた離れていく。気持ちの問題ではなく、お互いの守るものの為に、二人は違う道を歩むのだ。