「行ったり来たり忙しい奴だな」
これがゼクソン王都に到着したグレンに向けてのヴィクトリアの第一声だった。それを聞いて、グレンは青筋の立て方を教えてもらいたくなった。グレンが忙しくしている原因の一端はヴィクトリアにもあるのだ。
「わざと怒らせようとしているのか?」
「そのつもりはない」
「お前が……それは良い。俺だって忙しくしたくてしているつもりはない」
「それは嘘だな。お前は忙しいのが好きなのだ」
「……それは否定出来ないな」
グレンが抱えている仕事は義務感だけでこなすにはあまりに膨大で責任も重いものだ。文句を言いながらもグレンは好きで働いている。
「今度、ルート王国に行く時は俺を連れて行け」
「そうだな。ソフィアに一度は会っておかないと」
「それもあるな」
「ん?」
それ以外に何があるかグレンには心当たりがなかった。
「移動中は独り占め出来るだろ? 考えたのだが、マリアはずるいと思うな」
「何が?」
「常に一緒ではないか。移動中は独り占め。ゼクソンでもルートでも一緒。それだけ一緒だとそろそろ追い抜かれたか?」
「……何を追い抜かれたか聞くのは止めておく」
男として育てられたから、というだけでは説明出来ないほどヴィクトリアは性について開けっぴろげだ。逆にあまりに無知であったから気にしないのではないかともグレンは思い始めている。
「アシュラムの使者が来ている」
「誰が来た?」
アシュラムの使者が現れたことは移動中に伝令から聞いていたが、誰とまではその報告には含まれていなかった。
「王太子だな」
「……何故、それを伝えなかった?」
外交の使者に王太子が来る。それは普通のことではない。その事実にも驚いているが、そんな重要な情報を伝えてこなかったヴィクトリアにもグレンは驚いている。
「驚いただろ? 俺も驚いた」
「まさか……俺を驚かせたかったのか?」
「そうだ」
望み通りにグレンの驚いた顔を見ることが出来て、ヴィクトリアは嬉しそうな笑みを浮かべている。
「……どっと疲れた」
「そうか、移動は大変だな」
「……相手してやらない」
ボケだとは分かっても、それに乗ってやる気にはグレンはなれなかった。
「それは酷い。俺はずっと一人で寂しかったのだ」
「ここでデレるな」
「だって俺だけ一人で……」
完全にデレモードに移るヴィクトリア。それに引き込まれそうになる気持ちをグレンはぐっとこらえる。ここで甘やかせばヴィクトリアが図に乗ることは分かっているのだ。
「……まずは仕事だ。何か話をしたのか?」
「していない。今の俺は国政に権限があるわけではない。そう言って会談は断った。宴席の場はちゃんと設けたが政治の話は一切していない。少しは話したか。国を立て直している最中だとは言った」
「向こうからは?」
「何も。俺に権限がないと言ったら、あっさりと引き下がったくらいだ」
「そうか……」
権限がないと分かると前国王であるヴィクトリアにも話すことをしない。王太子が来たことといい、アシュラム王国はかなり重要な話を持ってきたのだと考えられる。
「すぐに会うか?」
「いや。王太子と会うとなれば、それなりに身支度も準備も必要だ。それを口実に明日にしよう。まずは状況の整理」
「分かった。では会議室に行くか」
「……いや、マリアの部屋に行く」
「何故だ!?」
「俺を驚かせた罰だ」
「……酷い」
本気で落ち込んでいる様子を見せるヴィクトリア。こういうところが王としての甘さであり、女性としての可愛さだ。あくまでもグレンの基準ではだが。
「冗談だ。侍女のミストの話を聞きたい」
「……ああ、そういうことか。では行こう」
グレンとヴィクトリアは連れだってマリアの部屋に向かう。来ることをあらかじめ知らされていたのだろう。部屋ではマリアがお茶を用意して待っていた。
「早かったわね。久しぶりに会ったのだから、もう少し話をしてから来ると思っていたわ」
「マリアは優しいな。グレンとは大違いだ」
「お前な」
「事実だ」
「……今は仕事中。それで?」
グレンの視線がお茶を入れているミストに向く。それに構うことなく手を動かし続けるミスト。だが、その口がわずかに動き出し、くぐもった声がグレンたちの耳に届いた。
「アシュラムも気付いた。王はそれなりのようで代替わりをした」
「何?」
「重臣を一新する為」
「それは分かるが、思い切ったことをするな」
重臣を一新したとなれば大いに不満が出たはずだ。場合によっては味方であった者も敵に回しかねない。
「口実はウェヌスの代替わり。自国もこの危機に代替えを行い、人心を一新すると」
「混乱は?」
「かなり。それでも強行した。恐らくそれで炙り出すつもり」
「……無茶をする。混乱の中でウェヌスを迎え撃つつもりか」
グレンの思った通り、アシュラム王国では混乱が起きている。内で揉めている状況で外の敵を迎え撃つことが出来るのか。外敵を前に国内がまとまるようなことになればいいが、そうならなければまともに戦うことは出来ない。
「混乱していなくても勝てない。そういう判断」
「……間違ってはいないか。炙り出せそうなのか?」
「そこまでの情報はまだ」
「こちらは?」
アシュラム王国とは別にグレンは銀鷹傭兵団関係者を調べさせている。グレンはその成果をミストに尋ねた。
「数人。外務大臣、将軍が一人。文官で怪しいのが二人」
「早いな」
「向こうが動いた」
アシュラム王国の人事はグレン側の調査にも役立っていた。まさかの人事に慌ただしく動き出したところをヤツの組織の手の者に掴まれたのだ。
「そういうことか。しかし、外務大臣と将軍か。この国と同じだな」
「将軍は本命の可能性有り」
「へえ。胴体がようやく見えたか」
「元傭兵。腕を買われて仕官した。国内で功績を次々とあげ将軍」
将軍は傭兵上がり。恐らくは銀鷹傭兵団の出身者であるのだろうとグレンは考えた。そうであれば末端ではない可能性も高くなる。
「その功績は怪しいな」
「調査?」
「不要だ。重臣が一新となったがそいつらは?」
「将軍は残った。一新されたのは文の高官だけ。軍は手つかず」
「これから戦争だからな。そこまでは出来ないか。あれ? 代替わりと言うことは王太子って?」
代替わりというからには国王も交替したはず。王太子が国王になり、王太子の息子が新たな王太子に。
「先王の孫。年は十三」
使者は王太子とはいえ、未成年の十三歳の少年。この情報もグレンは今始めて聞いた。
「……リア」
「違う! それは教えるつもりだった! その前にグレンがここに来ようと言うから……」
「……信じよう。でも、それでは何も聞けないし、何も話せない。どうしてアシュラムは未成年の王太子を使者に?」
「それは調べてない。ただ同行したのは元宰相」
同行者はまず間違いなく今回の人事刷新で宰相の座を降りた人物。これも重要情報だ。
「……リア」
「それも同じだ!」
「……信じよう。どちらかと言えば、向うに話があるってことか。他に情報は?」
「ない」
「分かった。以上だな」
「マリア様、私は茶器を片付けて参りますので、一旦下がらせて頂きます」
報告が終わった途端に、がらりと口調も声音も侍女らしきそれにミストは変えた。
「ええ。構わないわ」
「陛下、ヴィクトリア様、失礼いたします」
「ああ」
お盆に茶器を乗せて部屋を出て行くミスト。扉が閉まったところでマリアとヴィクトリアは大きく息を吐いた。
「緊張していたのか?」
「何度聞いても慣れないわ。ああいう話し方をする時のミストは得体の知れない雰囲気だもの」
「周りに自分が話していることを聞かせない為らしい。俺達にははっきり聞こえるのに他には聞こえないのだからな。どういう技なのか」
「そうね」
「あれだけの者達を抱えていて、どうしてウェヌスの先王はとか考えてしまうな。さて分かったことはアシュラムも動き出した。きっかけが俺と前回の使者のやり取りだとすると、先王本人か周りの誰かは分からないが、それなりの人物がいそうだ」
「そうだな」
「それか前から怪しんでいたか。それでも出来る人だな。ただ今回のことで敵にもばれた。さて、どう動くか」
「分からない」
「……リア、ごめん。返事は良い。今の独り言みたいなものだ」
「だったらそう言え」
「今から独り言を言いますなんて人はいない。そもそも俺が考え事をする時に独り言を呟くのは知っているだろ?」
「退屈だ」
「マリアと話せよ。二人だって久しぶりだ。ルート王国のこととか聞けば良い」
「何だか邪魔者扱いだな」
「そうね。私達は邪魔者だわ」
「……こういう時は協調するからな。でも、今は駄目だ」
「もう、分かったわ。ではヴィクトリア様、私がルート王国のことをご説明しますわ」
「ああ、頼む」
二人が会話を始めようとするのを確認すると、すぐにグレンは自分の思考の中に沈んでいく。
「強行だとすると暗殺。それをするか? 国王を暗殺しても先王がいる。それに暗殺なんてなると却って今の混乱は治まるな。それはない……」
会話を始めようとした二人だが、グレンの独り言はかなり過激な内容。結局、それに耳を傾けてしまう。
「反乱か? どれだけが同調する? 代替わりと言っても軍には影響はない。不満を持つ者は少ないはずだ。裏切り者の将軍にどこまで人望があるか……新参の成り上がりだ。同じ位置にいる人たちは快く思っていないはず……ないか……」
グレンの独り言は止まらない。呟いては思考に入るを繰り返している。
「ウェヌスの侵攻に合わせて反乱、もしくはウェヌスの戦いの中での裏切り。これの可能性が高いな。その将軍は潰しておくべきか? 捕えたいところだな。事を起こすまで待ちか……」
次々と呟かれるグレンの独り言。ヴィクトリアとマリアはもう、それから耳を離すことが出来なくなった。
「戦争中となるとウェヌスとの競争か。元々、その予定だな。ただ将軍の協力者がいるとなるとウェヌスの侵攻は早い。それを越えられるか? ……何か手を打つ必要がある。ウェヌスはいつか? この混乱を利用しないはずがない。時間はないな……」
ぐるぐるとまわるグレンの思考。この日、ヴィクトリアとマリアはグレンの母親がどういう人物なのかを知ったような気がした。
◆◆◆
アシュラムの王太子との謁見の場。グレンは正装を身にまとい玉座に座っている。隣にはヴィクトリアもいる。同じく正装だが、ヴィクトリアのそれは王妃としてのものではなく、いつものような男装だ。おかしな光景ではあるのだが、アシュラムの王太子は到着した時に、すでにヴィクトリアの男装姿を見ている。今はもうそれに戸惑うことはなく、きちんとした態度で挨拶を始めた。
「グレン王、初めてお目に掛かります。私はアシュラム王国王太子ウォーレン・アッシュベリーと申します」
まだ子供とはいえ一国の王太子。所作はきちんとしたものだ。
「ゼクソン王国国王代行グレン・ルートです。まずはお待たせしてしまったことをお詫びします」
グレンも子供だからと侮るような態度は見せない。一国の王太子、他国の使者に対するに相応しい丁寧な応対をしている。
「いえ、お忙しいところを押しかけたのです。気にしておりません」
「それはありがたい。では早速ですが、王太子殿下の今回の訪問の主旨をお聞きしたい。使者として王太子殿下が訪れるなど異例のこと。こちらは少し戸惑っております」
「はい。我がアシュラム王国は貴国との友好を求めております。私が貴国に参ったのは我が国の誠意を示す為です」
「そうですか。その友好という言葉の具体的な内容をお聞かせ頂けますか?」
これは前回ゼクソン王国を訪れた使者にも尋ねたこと。これに対する回答を持ってきたのでなければ相手が王太子であっても、あまり意味のあるものにはならない。
「恐れながら」
グレンの問いに対して返ってきた声はウォーレン王太子ではなく、その後ろに控えていた老年の男のもの。同行してきたアシュラム王国の前宰相だ。
「何か?」
「私はトマス・シモンズと申します。無官の身で外交の場に立ち会う無礼はお許し頂きたい」
「今は無官といっても前宰相であられた方。問題はありません。それで?」
「具体的な内容につきましては私の口から説明させて頂きたい」
「なるほど。それは構いません」
さすがに交渉ごとを王太子に任すつもりはアシュラム王国にはなかった。グレンとしても相手が誰であろうときちんと交渉が出来ればそれで良い。
「更に失礼を言わせて頂くと、御人払いをお願い出来ないでしょうか?」
シモンズ前宰相の言葉に周囲からざわめきが起こる。この場にいるのはゼクソン王国の重臣たちだ。人払いを求めるのはその重臣たちを信用していないということになる。
その周囲のざわめきをグレンは視線だけでおさえると口を開いた。
「これは公式の外交ではない。そう申されているのですか?」
「そこまでは。王太子殿下が申した通り、我が国は友好の継続を求めております。しかし、友好関係を確認する上で、お互いに厳しい発言をすることになるでしょう。それは記録に残すべきではないと」
「なるほど。貴国の中には我が国との友好を望まぬ方もいるということですか」
「……貴国の中にもいるのでは?」
「おりません」
シモンズ前宰相の問いをきっぱりとグレンは否定した。
「その御言葉を信じろと?」
「今、この場にいる者達は私の考えを知った上で、私を国王代行として認めた者だけです。具体的な方法には異論はあっても方針に異議を唱える者はおりません」
「……そうですか」
グレンの説明を聞いたシモンズ前宰相は複雑な表情を見せている。もともとは余所者であるグレンがそこまで臣下を掌握しているという驚き。それだけの統率力を持った王を戴いたゼクソン王国を羨む気持ち。そして、少しそれを疑う思いが混ざり合ったものだ。
「貴国もそれを求めて、先王は王権を移譲されたのではないですか?」
「……なるほど」
「だが良いでしょう。貴国との間では色々を話し合わなければならない事柄があります。それを全てこの場でというのは無理な話です。事前協議という意味で別の場を設けます」
「ありがとうございます」
「では私の執務室でよろしいですか? 御二人だけであれば広い会議室を使うよりも、その方が話しやすいと思います」
「はい。お願い致します」
◇◇◇
グレンの執務室はお世辞にも綺麗とは言えない。汚れているわけではないが、机の上には多くの書類が山積みにされ、それ以外にもあちこちに書物や書類が散乱している。
ウォーレン王太子とシモンズ前宰相を部屋に迎えた後も、侍女がまだその片づけをしていた。
「散らかっているのはご容赦ください。机にずっと座って仕事をしているのは苦手でして」
「はあ」
ではどのように仕事をしているのだろうという思いをシモンズ前宰相は口にしなかった。
「話し合いは片付けが終わった後にするとして、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「護衛の軍は連れてこなかったのですね。御二人と騎士が十名。そう聞いております」
王太子の他国来訪に同行する供の数としてはあまりに少ないとグレンは思う。ウェヌス王国との同盟後は、ゼクソン王国とアシュラム王国の関係はどちらかといえば緊迫している状況のはずなのだ。
「護衛の部隊とは国境で別れました」
「……なるほど。自国では部隊で護衛し、他国である我が国では騎士十名だけですか」
「警戒しないことも誠意かと」
「ちなみにどれくらいの護衛部隊だったのですか?」
「千名ほどです」
「……その心遣いは無用でした。王太子殿下の護衛とあれば、千が二千でも我が国は入国を認めたでしょう。さて、ミスト。もう良い。全てを片づけていたら、いつまで経っても話し合いが始められないからな」
部屋の片付けをしていたのはミストだ。そのミストにグレンは片付けを終えるように伝えた。
「承知致しました。では私はこれで失礼させて頂きます。お茶のお代わりは如何いたしましょうか?」
「その時には呼ぶから外で控えていてくれ」
「畏まりました」
つまり指示があるまで廊下で周囲を警戒しながら話を聞いていろ、ということだ。
「では何から話しましょうか? まずは貴国の意向をお聞きすることですね」
「はい。率直に言わせて頂きます。我が国と共にウェヌス王国と戦って頂きたい」
「それは出来ません」
「そうですか」
間髪入れずに拒否を告げたグレン。だが、それにシモンズ前宰相は動揺を見せない。このグレンの回答は予想していたのだ。
「ウェヌスと我が国は同盟を結んだばかりです」
「しかしその同盟も永遠に続くものではありません。いずれウェヌスの方から破棄してくることは明らかではないですか?」
「そうだとしてもそれはまだ先のこと。同盟の条件である民の受入れは途上、交易もまだまだこれからといった状況です。今、それを捨てて貴国の為に戦うことに利はありません」
同盟が永遠でないことなどグレンは最初から分かっている。永遠であってはグレンの方が困るのだ。
「それで一時の利を得たとして、単独でウェヌスと戦うことが貴国に出来ますか?」
「そう出来るようにしたいと思っております。それに貴国が負けることを我が国は望んでおりません。貴国が勝てば良いのです」
ともに戦うことは出来ないが、アシュラム王国が負けて良いとも思っていない。アシュラム王国が勝ってくれたほうが時間稼ぎとなってグレンとしてもありがたい。
「それが出来ないから、こうしてお願いに参ったのです」
「出来ないのですか? 貴国と我が国の国力、軍事力はほぼ同等と思っております。我が国が出来たことが貴国に出来ないとは思えません」
「国力はともかくとして、軍事力は貴国に及ぶものではありません。我が国にはグレン王、貴方はいないのです」
アシュラム王国が求めるのはゼクソン王国の軍事力というよりグレンの力。ゼクソン王国でグレンが成したことをアシュラム王国でも実現して欲しいのだ。
「それは買い被りというものです。戦争は一人の力で勝てるものではありません」
「その一人の力でグレン王は我が軍の追撃を退けたではありませんか」
「懐かしい話ですね。失礼ですが、あれは貴国の軍が拙かっただけです」
「つまり、我が国の軍は貴国に劣るということです」
「あの時のままであれば。今、この時まで貴国は何をされていたのですか?」
失敗を経験していてそれを活かさない。そういう組織はグレンが認めるものではない。
「それは……」
「この件で議論を重ねても結論は同じです。我が国は同盟国であるウェヌス王国を優先します」
「……では、せめてウェヌスとの共闘は止めて頂きたい」
「それも出来ません。ウェヌスと結んだのは同盟です。相手からの要請があれば我が国はそれに応えなければなりません」
ウェヌス王国との同盟はそういった同盟なのだ。それを破れば同盟も破れる。それをグレンは望んでいない。
「それでは我が国に勝ち目はない」
「戦い方次第だと思いますが、厳しいのは確かですね」
「どうしても受け入れてもらえないのですか?」
「はい。何度も申し上げている通りです。ウェヌスと我が国は同盟関係にあります。一方で貴国とは何もない。国としてどちらを優先するか。それは宰相であった貴方であれば分かるはずです」
「……はい」
国と国との約束を簡単に破棄するような真似は、その国の信用を落とすことになる。相手だけではない。他の国からも信用出来ない国だと思われるだろう。そうなればもう国として終わりだ。
「さて、貴国が望まれる友好関係というものは難しいようです。決裂ですか」
「……いえ、もう一つお話を聞いて頂きたいことがあります」
「何でしょう?」
「我が国の望みを受け入れて頂くのが無理であれば、せめて、ここにいる王太子殿下を預かって頂けないでしょうか?」
「それもまた貴国の望みですが、預かると言うのは?」
「もし我が国がウェヌスに攻め滅ぼされるようなことになったら、王太子殿下を保護して頂きたい」
「無理ですね」
「何と!?」
シモンズ前宰相のこの頼みにもグレンは迷うことなく拒否を返した。
「それがウェヌスに知られ、要請があれば我が国は王太子殿下をウェヌスに差し出すことになります。それは保護とは言いません」
「成人もしてない王太子殿下を殺されることが分かっていて差し出すと?」
「はい」
同情を誘おうというシモンズ前宰相の言葉を受けても、グレンの答えは変わらない。
「ウェヌスに知られなければ良いことではないですか? 差し出せと言われてもいないと言えば」
「それはウェヌスに対して信義に背くことになります」
「……グレン王は心優しき御方と聞いておりましたが、それは誤りでしたか」
シモンズ前宰相は何とかグレンの心に訴えようとするが、それは無理だ。グレンには通用しない。
「誤りですね。さて、これが本題のようですね。そこでお聞きしたい。この交渉を考えたのはシモンズ殿ですか?」
「はい」
「そうですか。ちなみに先王に退位を勧めたのは? それを考えたのは誰ですか?」
「それも私が」
「そうですか。アシュラム王国にはシモンズ殿以上に策略や謀略に長けた方はいますか?」
「私などは大した才はありません。はるかに長けた者がいるはずです」
「つい先日まで宰相であったシモンズ殿がそういう言い方をされるということはいないという意味です。少なくとも要職には就いていない」
「……はい」
シモンズ前宰相はグレンの話を事実だと認めた。それはつまりアシュラム王国においてシモンズ前宰相がもっとも謀略に長けていると自分で認めたことになる。
「想定していた中で最悪ですか。参ったな」
「どういうことです?」
「始めに受け入れ難い要求を出し、それを拒否した相手が後ろめたさを感じたところで本来の要求を出して認めさせる。しかも未成人である王太子殿下本人を同席させ、情に訴えかけながら。ありがちなやり方です」
「……はい」
自分の交渉術は全てグレンに見抜かれていた。それを知ってシモンズ前宰相は落ち込んでいる。
「常套手段ですからそれは良い。ただ、やらなければいけないことをしていません」
「やらなければいけないことですか?」
「交渉相手のことを調べていません。私のことをちょっと調べれば通用しないと分かるはずです。少なくとも情に訴えるやり方は」
「何故でしょう?」
「王太子殿下は確か十三才ですね? 私はその年で両親を殺されました」
「何と!?」
こんなこともシモンズ前宰相は知らなかった。グレンについて何も調べていないも同然だ。
「身内は妹だけ。頼れる人は誰もいませんでした。そうした状況で私は妹と二人で治安が良いとは言えないウェヌス王都の裏町で暮らしていました。自分もそうですが孤児なんて珍しくない場所です。そんな私が未成人だから可哀そうだなどと思いますか?」
「いえ……」
そんな境遇だからこそ同情も生まれることもある。だがグレンはそうではないのだとシモンズ前宰相は思った。これを今さら知ることがそもそも間違いなのだ。
「シモンズ殿は失敗が分かり切っている方法を持ち出してしまった。ご本人が言う通り、あまり策略には向いていない方です」
「はい」
「さて、そのシモンズ殿がどうして紛れ込んでいる裏切り者に気付き、それを一掃する為に先王を退位させるなどという大胆な策を思い付けたのでしょうか? 本当にご自身で思いつきましたか? 誰かにそれとなく仄めかされたのではないですか?」
「誰か……」
シモンズ前宰相には策謀の才はない。それは銀鷹傭兵団にとって好都合だ。ゼクソン王国におけるシュナイダーのように本人が気付かないまま、踊らせることが出来る。シモンズ前宰相の話を聞いて、グレンはその可能性を考えている。
「経緯を考えてください。誰に何を聞き、何を話したかを。その中にそういった者がいませんでしたか?」
「それは……」
「我が国の外交担当は全て裏切り者でした。片方だけで背信を隠し切れるものでしょうか?」
「……そうか」
グレンの話を聞いてシモンズ前宰相は何かを思いついた様子だ。
「いたのですね?」
「グレン王の話を持ち帰った者の報告を受けて我が国の交渉記録を調べさせました。その結果不審があると報告を受け、グレン王と同じように貴国側だけでそれが出来るものかと言ってきました」
「それは誰ですか?」
「我が国の外務大臣であったイーストンという者です」
ヤツの組織による調査の結果あがっている銀鷹傭兵団の関係者の名前がここで出てきた。これでグレンの考えは裏付けられた。喜べることではないが。
「それで?」
「失敗は自分の責任であるので外務大臣の地位は返上すると。ただ自分がいなくなっても裏切り者は残る。他の部署にもいるかもしれないと」
「それを探そうとは言わなかったのですね?」
「ウェヌスは、いつ攻めてくるか分からないので時間がないと言われました。なんとか一掃する方法はないかと相談を持ち掛けられて」
「その方法が代替わりだったと。王が代われば要職にあった者は入れ替わる。それが良いと言われたのですか?」
「いえ、それは先王陛下と相談して決めました。負けてもアシュラム王家を存続させることに通じると思い」
代替わりについては、銀鷹傭兵団は関わっていない、とはグレンは思わない。知らず知らずに誘導されていた可能性もあるのだ。
「現陛下の命をもって、というところですか。最悪は国の形を失っても良いと覚悟したわけですか?」
「はい。王太子殿下が生き残れば、それに先王陛下がいれば後見として支えることも出来る。領土は小さくなっても将来の再興に望みを繋ごうと考えた結果です」
国が滅びる前に降伏することをアシュラム王国は考えていた。間違ってはない。降伏によって相手が王家の存続を許してくれるのであれば。
「甘いですね。ウェヌス王国はアシュラム王家を残すことなどしません」
「そんな……」
「恐らくアシュラム王国は占領された後、名を変えて別の王が立ちます。ウェヌスの誰かが王になる。エイトフォリウム帝国をご存知ですか?」
「はい」
「それと同じです。ウェヌス王国が帝国になり、アシュラムはかつての八葉と同じ王を戴く従属国になる。それがウェヌス王国の野望だと俺は思っています。大陸全土の征服の始まりに先々の不安となる王家など残しません」
銀鷹傭兵団やその黒幕であるランカスター家についてはまだ話す気にはなれない。知ったとしてもシモンズ前宰相に何が出来るとも思えない。話すだけ無駄だ。
「確かに……」
「さて、どうしますか?」
「どうとは?」
「全てを捨てる覚悟があるのでしたら、何か出来ないかを考えても構いません」
「本当ですか!?」
「全てを捨てる覚悟があればと言いました。代償は大きなものになります」
「……話を聞かせて頂いても?」
「話を聞くと御二人をアシュラムに返せなくなります」
「では私だけで」
「それでは話せません。シモンズ殿だけであれば貴国は切り捨てる決断をするでしょう。内容を知られて裏切られたのでは堪りませんから」
「……考える時間を頂きたい」
「どうぞ。ただ時間はありません。先王の退位がウェヌスから仕掛けたこととなると、すでにウェヌスは侵攻の準備を進めているはずです」
「……分かりました」
これでこの日の会見は終了した。シモンズ前宰相は考える時間を求めたが考える余地などない。何も手を打たなければアシュラム王家は亡びるのだ。
最悪の状況を提示して、それよりもわずかに良い状況を選ばせる。シモンズ前宰相は自分が行うとしたことをグレンに返されたことに気付いていない。