パルス王国に新王が即位して半年以上が経った。その間、パルス王国は特に大きな問題もなく落ち着いている。親王派という新たな派閥の登場は人々を驚かせたが、それによりパルス王国の政治に乱れが生じるようなことはなかった。
そもそも新たな派閥の領主となった元サウスエンド伯爵、パウエル相談役の目的は王権を衰退させないこと。イーストエンド侯爵を中心とした有力貴族派へ傾きすぎた権力バランスの均衡を取り戻そうとしているだけなのだ。国政についても、ことごとく対立するようなことはなく、是々非々で対応を行っている。
といってもパウエル相談役が行っているのは、もっぱら非なものを国王であるアレックスが認めてしまわないように教育を行っているに過ぎない。それでは対立など起きるはずもない。
一方でイーストエンド侯爵側も別に権力を振るってパルス王国を己のものにしようなどという気持ちはない。王国にとって良いと信じている物事を進めているだけだ。
そういった状況で、ようやく物事が落ち着いたと人々が感じていたところへ驚きの情報がもたらされた。
傭兵ギルドによる東方支部の除名。それが各国に通達されたのだ。
東方支部は傭兵ギルドの掟である絶対中立を破り、マーセナリー王国に組織ぐるみで加担した。その為、東方支部を今後一切、傭兵ギルドとは認めないというものだった。
その通達は驚きをもって各国に受け止められたが、大混乱になったかといえば、それほどでもない。事は東方だけの問題。パルス王国や西方諸国では傭兵ギルドは変わりなく営業を続けている。各国の反応はせいぜい事態の確認の使者をギルド本部のあるパルス王都に送ってきたくらいだ。
それも一通り終わり、傭兵ギルド長であるサイモンが今回の責任を取って、その職を退くこと。新たな傭兵ギルド長に西方支部長が就任した事が伝えられると、もうそれ以上、何も騒ぐことはなくなった。東方を除いて。
傭兵ギルドのその通達を受けて、東方支部は除名ではなく傭兵ギルドからの独立だと宣言した。東方は新たな傭兵ギルドが運営する。そう宣言したのだが、それを東方各国がそのまま受け入れることはなかった。
真っ先に異議を唱えたのはマンセル王国。相手がたとえ自国の同盟国であろうと、一国の思惑で動くような組織は傭兵ギルドとして信用できない。まずは無関係である明確な証拠を提示しろと東方支部に迫った。それに対して当然、東方支部は無関係を主張したが、マンセル王国は証拠の提示がないかぎりは信じないと突っぱねた。
これにはヒューガが少し関係している。ヒューガはソンブを使者としてマンセル王国の宰相にパルス王国同様に交易所の設置と通行自由の許可を与えてくれるようにお願いを行った。その際に見返りとして提供したいくつかの情報のひとつが、東方支部がマーセナリー王国に通じているという事実。盗賊の事情にも通じているヒューガ側の情報は、状況証拠としてマンセル王国のシュトリング宰相を十分に納得させるものだった。
マンセル王国は既にマーセナリー王国を潜在的な敵国として認識している。そのマーセナリー王国の息のかかった組織を自国の中に置いておくわけにはいかないのだ。当然、態度は強硬なものになった。
そしてマンセル王国よりもさらに強硬だったのがマリ王国。自国内のギルド職員、傭兵はマリ王国内から叩きだされた。
マリ王国の周到なところは追い出す先をミネルバ王国にしたことだ。ダクセン王国はマーセナリー王国の勢力下にある。マーセナリー王国は東方支部の独立を当たり前に認めるわけであるから、そこに追いやられても困ることはないが、ミネルバ王国となると話は違ってくる。
ミネルバ王国もマンセル王国の姿勢を見て、東方支部に対する態度を硬化させている。結果、行き場を失くしたマリ王国内の傭兵とギルド職員は、そのままミネルバ王国を通過し、更に国境を越えてパルス王国に入った。
当然、何事もなく無事に過ごせるはずがない。傭兵ギルドにより拘束され、徹底的に尋問を受けた。そしてそれにより得た情報を、傭兵ギルドは惜しげもなく公表していく。次々とマーセナリー王国との繋がりを認める証言が明るみになっていく。
結果、東方支部は崩壊した。
マンセル王国、マリ王国、ミネルバ王国、そして当然、アシャンテ王国もギルド職員、そして傭兵の追放にでた。それらはほとんどがパルス王国に追いやられ、その中の多くが傭兵ギルドの法で裁かれていく。
追いやられたギルド職員の代わりは速やかに中央から派遣され、人員を全て入れ替えた形で傭兵ギルドとして営業が再開される。
東方支部で残ったのはダクセン王国内にある支部店と支店のみ。そうなると傭兵王にとって存在意義などない。そもそもマーセナリー王国内には傭兵ギルドなどなかったのだ。傭兵のほとんどと東方支部長ほか数人のギルド職員をマーセナリー王国に組み込み、東方支部は解散された。
「思っていた以上に見事なお手並みだな?」
ヒューガが感心するほどに迅速な対応で、傭兵ギルドは混乱を収めたのだ。
「まあ、西方支部長はそれなりに優秀だからな。問題があるとすれば都市国家連合の気質に染まり過ぎて、商売っ気が強すぎることくらいだ」
後任となった西方支部長については当然、ギルド長であったサイモンは良く知っている。
「傭兵ギルドも商売だから別に良いだろ?」
「金持ちしか相手にしなくなるかもしれんだろ?」
「そうなれば、やがて新たな商売が生まれるさ。一般人向けの便利屋ってところかな?」
「なるほど」
ニーズがあるのであればそれを商売にする人が出てくる。確かにその通りだとサイモンも思った。
「なんだったら、ギルド長がやってみるか? 割と稼げるかもな」
「……勘弁してくれ。もう組織の長はこりごりだ。結局、俺にはそういうのは向いていないのだ」
サイモン自身が言うほど向いていないわけではない。そうでなければ傭兵ギルドの長など何年も務めていられるはずがない。
「じゃあ、この国で働くってことで良いんだな?」
「ああ、その為にここに来た」
「セレネの為にだろ? あっ、それは結局、自分の為か」
「うるさい」
「一応、聞いておくけど、一緒に来た人は自分の意思で来たんだよな?」
「ああ、強制は全くしていない」
サイモンは多くの人を連れて大森林にやってきた。その多くが東方支部にいたギルド職員だ。行き場を失った彼らにサイモンは声をかけた。彼等にとっては救いの手だ。職を失ったというだけではない。多くの仲間が傭兵ギルドに捕まり、罰せられているのだ。
かなり弱みに付け込んだ感はあるのだが、それでも最後は本人の決断であって強制ではない。
「傭兵は駄目だと聞いたので、一人も連れてきていない。本当にそれで良かったのか?」
「ああ。今、この国に傭兵を迎える余裕はない」
「傭兵が駄目で、ギルド職員は大丈夫なのか? それに前にギルド職員は求める人材ではないと言っていただろう?」
「傭兵が駄目なのは彼等には規律がないから。今のここはある意味、個人の勝手に任せている。それでも問題なくやっていけるのは、それぞれに規律があるからだ。エルフ族としての規律、国に仕えていた事や軍で教え込まれた事により身につけた規律」
アイントラハト王国には法律らしい法律はない。もともと持っている文化、風習、価値観等がバラバラな多種族国家だ。いきなり、それらを共通のものにしようとしても無理がある。そう考えた結果だ。
「なるほど。傭兵は個人の力で生きているからな。そんなものは持ち合わせていないか」
「それを押さえようとすれば、規律を守らせる為に法や組織が必要になる。そんなものを準備する余裕がない」
「ギルド職員は?」
「思ったよりも早く上が固まった。そうなると指示を受けて動く人間が必要になる。まさに官僚だ。適任だろ?」
政務を担当するものとしてはグラン、ユリウス、シエン、シェリルがいる。それに軍務と兼務でカルポとソンブが入る。意外とこの人数で回っているとヒューガは考えている。
あとは手足となって働く者がいれば、かなり物事の進みは早くなるはずなのだ。
「……それでも多すぎたな。さすがに三百近い文官は必要ないだろ?」
サイモンの同行者は三百人近くいる。サイモンの直下にいたカイン等、ギルド兵を使って広く勧誘した結果だ。
「別に文官だけが仕事じゃない。好きな仕事をすれば良いんだ。それに今まで一般職員だからって、この先もそうだとは限らない。能力があれば、上の仕事をしてもらうことになる」
「そうか」
「それに全員が残れるわけじゃないからな」
「どういう意味だ?」
「ギルド長……サイモンさんか。サイモンさんだけを先に通したのにも意味はある。今頃は厳しい入国審査が始まっているはずだ」
サイモンに同行してきたからといって、無条件で入国させるわけにはいかない。他の人たちと同じように審査が行われるのだ。
「入国審査とは?」
「ここで生活するのに相応しいか確認する。エルフだと簡単に分かるんだけどな。人族の場合はそれなりの手間と時間を掛けないと」
「……どんな事をするのだ?」
「たとえば……エルフに奴隷のふりをしてもらって、相手の反応を見る。リリス族と、リリス族って人族でいう魔族な、リリス族としばらく接する機会を持ってもらって反応を見る。あとは生活態度とか色々」
「おい……」
人族にそれをクリアできる人がどれほどいるのか、サイモンは不安になった。奴隷のふりをしたエルフ族はまだ分かるが、魔族と普通に接することを求められるなどは相当にハードルが高いと思うのだ。
「内容を考えたのは夏だからな。俺もちょっと厳しいかなとは思ってる。それに人を試すようなこと自体、あまり気は進まない。でも仕方ない」
「何故だ?」
「ここにはエルフ族、人族、魔族、客人だけどドワーフ族が一緒に暮らしている。それ以外もいるな。とにかく色々な種族、国の人間が混在してるんだ。これって結構大変な事だろ? ちょっとしたきっかけで調和が崩れてしまう可能性がある」
「……そうだな」
今現在、上手く行っていることがすでに奇跡だとサイモンは思っている。
「それを守る為には人が心の中に持っている偏見を消し去らなければならない。それが出来る人だけがこの国の国民になれるんだ。一応、それなりに時間はかけるつもりだ。逆にいえば、ずっと世話をしてもらってるのに偏見を取り払えない人間なんかと俺は付き合いたくない」
「大変だな……俺がその入国審査を必要としないのは知り合いだからか?」
完全に偏見を取り去ることは難しいとサイモンは思う。その困難なことをヒューガたちは行おうとしているのだ。
「それもあるけど、サイモンさんはそもそもダークエルフと呼ばれているセレネの恋人だったんだろ? 偏見がないのはそれで十分に分かる」
「なるほど。一応、喜んでいた方が良いのだろうな」
「もちろん」
「それで俺は何をすればいい?」
「逆に聞きたい。何をしたい? 何が出来るでも良いけど」
「傭兵だった頃に戻って、ただひたすら自分を鍛えたい、と言いたいところだが、さすがに無理だな。傭兵ギルド長の頃の経験を活かして、とりあえずは事務仕事か」
「……別に鍛えてもいいけど。まあ、それは個人の趣味でも十分に出来るか。鍛えると言う意味ではここは最適な場所だからな。あとは事務仕事ね。じゃあ、まずはグランさんの下で働いてもらおう
「グラン?」
サイモンにも聞き覚えのある、それでいてこの場でヒューガが口にするのは意外に思える名だ。
「グランさんを知ってた? 名前くらいは知ってるか」
「ということは、パルスの宮廷筆頭魔法士だったグラン殿で間違いないのだな?」
「そう、そのグランさん」
「……こんな所で生きていたとは。そのグランもお前に仕えているのか?」
「一応。客将扱いだけどな。グランさんはパルスに仕えていた人だから。エルフたちにとってはな。まあ、今では誰もそれを気にする人はいないと思う。グランさんの頑張りは皆知ってるから。そういう意味ではそろそろか……」
「では俺も客将からだな」
「何で?」
サイモンの申し出に不思議そうな顔を見せるヒューガ。
「俺もパルス人だ」
「生まれは関係ない。エルフ族に禍根があるのはパルスという国に対してだからな」
グランはパルス王国において宮廷筆頭魔道士という立場にいた。だがサイモンはそうではない。ただこれだけがサイモンを無試験で受け入れる理由ではない。
「仮にパルスに仕えていたとしても、サイモンさんは平気だ。文句を言う人はいない」
「何故だ?」
「サイモンさんはセレネの恋人だから」
笑みを浮かべて理由を告げるヒューガ。面白がっているのだ。
「……お前、まさかそれを皆に話したのか?」
「受け入れてもらうには一番手っ取り早い方法だ」
「まったく……まあ、良い。つまり俺は客将ではなく正式に仕える事を認められたわけだな?」
「そう」
「分かった。サイモン・ハロウズ、ヒューガ王に心からの忠誠を捧げる事を誓います」
「アイトラハト王ヒューガ・アルベリヒ・ケーニッヒの名において、サイモン・ハロウズをアイントラハトの国民であり、我の忠実な臣下と認めよう……よろしく」
「……中々に堂に入っている」
サイモンは、これまで何度かヒューガから覇気を感じたことはあるが、このような礼儀にかなった形で威厳を示す姿は見たのは初めてだった。
「こういうことにも慣れてきた」
「では、これより俺は王の臣下。よろしくお願いいたします」
「あっ、うち、敬語とかいらないから。公式行事の場以外はこれまで通りで」
「……分かった」
こうしてアイントラハト王国に新たな民が増えた。それが何人になるのかは、これからのこと。少しずつ、確実にアイントラハト王国は国としての形を作りあげていっている。
◆◆◆
アイントラハト王国が着実に国を固めている一方で、外の世界は相変わらず混乱が巻き起こっている。
大森林から遠く離れた大陸の西側。ユーロン双王国末弟王ネロの居城は今、その周囲を多くの軍勢で囲まれていた。
「まいったな。どうやらバレたようだ」
「バレたとは何のことですか?」
ネロの呟きを聞いて問い掛けてきたのは、娘を嫁がせようと画策していた男爵。それが成功し、今ではネロの一番の側近だ。
「こっちの話。それで勝てそうかな?」
「難しいです。次兄王の軍勢は一万。一方のこちらは千を少し超える程度ですから。本来であれば守る側が有利なのですが、この城では……」
ネロの居城は城といっても守る城壁も城門もない。大きな屋敷といった程度の防御力だ。
しかも立っている場所は平地。地形によって守る術もない。それどころか、四方全てから敵に攻められるような状況なのだ。
この地をネロの居城と指定した父王に何らかの意図があったか、そこまででなくても悪意が込められているのは間違いない。
「いる場所を間違ったか」
事前にもっと守り易い場所に移動しておくべきだった。今更だがネロはそう思った。
「しかし、次兄王の進軍は急なものでした。その余裕はなかったと思います」
「そうだね」
パルス王国でネロがエリザベートと通じて何かを画策していると聞いた次兄王の動きは早かった。
素早く証拠集めを行った、なんてことはなく、父王に事の次第を報告し、軍を発する許可を得たのだ。次兄王には確信があったのだ。証拠などなくても父王がそれを許可する事を。
そして、当たり前ではあるが、ネロに何の通告もなしに軍勢を引き連れて、ここにやってきた。一万というこの程度の屋敷を囲むには多すぎる数を引き連れて。
「まず勝ち目はありませんが……」
「使者は?」
「待たせております」
ただ次兄王もいきなり攻め寄せることはしていない。使者を送ってきていた。
「では会いに行こうか」
「はい」
次兄王からの使者が待っている謁見室にネロは向かう。扉を開けてその使者の姿を見たネロは、思わず顔をしかめた。ここ数年はまったく会うこともなかったが良く知った顔だ。次兄王の腹心であり、幼馴染でもある人物だ。
「待たせたね」
「いえ、大した時間ではありません」
「それで? 兄上は何をしにきたのかな? あんな大勢の兵を連れて」
「簡単に言えば詰問です」
「僕は何か兄上に責められる様な真似をしたかな?」
心当たりはあっても自らそれを話す必要はない。ネロは最後まで惚けるつもりだ。
「それを聞きに伺いました」
「じゃあ、聞こうか」
「末弟王ネロ様には、パルス王国におられるエリザベート様と結託して騒乱を起こそうとした疑いがかかっています」
「身に覚えがないな」
使者の話は予想通りの内容。なんら動揺することなくネロはそれを否定した。
「ではお聞きします。以前、末弟王様が兵を動かしたのはどうしてですか?」
「訓練だね」
「その後も軍備を増強している理由は?」
「国を守る者として、当然のことだと思うけどな」
こんなことは行動を起こす前に、言い訳として考えていた。それをそのままネロは答えた。
「ではエリザベート様にパルスを使って、我が国を攻めさせようとした理由は?」
「……知らない」
いきなり質問が核心に迫ったことで、わずかに動揺を見せてしまったネロ。他にも行っていたことはある。それを順番に問い質されると思っていたのだ。
「エリザベート様に指示されましたね?」
「知らないよ」
「エリザベート様はパルスでそう証言されています」
「嘘だ」
エリザベートに何かあったという情報はネロの耳には入っていない。伝える余裕もなく、事を起こされた可能性はあるが、そうだとしても自ら認めることではない。
「事実です。末弟王様の為に我が国を攻める必要があった。確かに証言したと確認されています」
「……証拠は?」
「我が国の者がその証言を聞いております」
「僕は知らないな」
「末弟王様はエリザベート様の独断だとおっしゃるのですね?」
「知らないと言っているだけだ」
エリザベートが事を起こそうとしていたことを事実として使者は語っている。それに乗るつもりはネロにはない。
「そうなると、事の主犯はエリザベート様になります」
「エリザベートが本当にそんな事をしたのならね?」
「極刑になりますね。唆されていたというのであれば、まだ情状酌量の余地はあるかもしれませんが、主犯では」
「……それはエリザベートの為に、僕に罪を被れと言っているのかな?」
「いえ、事実を確認しているだけです」
エリザベートに同情させて自分に罪を認めさせようとしている。そうネロは思ったが、それを受け入れたからといってエリザベートが助かる保証などない。
「……僕は知らない。それが事実だね」
少し答えを悩んだが、ネロは自分の無実を主張することにした。
「誓ってですね?」
「真実であることを誓うよ」
「……では誓約の証を。この件は次兄王様を通じて父王様に報告をされます」
そう言って次兄王の使者は懐から紙を数枚取り出して、その中の一枚をネロに渡した。誓約書と書かれたその紙には、今回のパルス王国での企みはエリザベートが主導したものであり、ユーロン双王国は一切関知していないという内容が書かれている。
「他の紙は?」
「末弟王様が認めた場合の書面、あとは白紙のものです」
「用意周到だね?」
「その為の使者ですから。ではサインを」
「分かったよ」
もう一度文面を読み直したあとで、ネロはペンを取って署名欄に自分のサインを書いた。使者はネロのサインを確認した後、丁寧に誓約書を折りたたんで袋に入れ、封をしてまたネロに差し出してくる。
「何?」
「封のところにも署名を。行うつもりなどまったくありませんが、偽造防止です」
「ああ、なるほどね」
言われた通りに自分のサインを書き、ネロはそれを使者に返した。
「確かにお預かりしました。では私はこれで失礼します」
「出口まで送ろう」
「……そうですね。お願いします」
同席していた男爵の先導で、二人は出口に向かって歩いて行く。
「エリザベートはどうなるのかな?」
「先ほど申し上げた通りです。罰は極刑かそれに近いものになるでしょう」
「そうか」
エリザベートのことを考えるとネロにも罪悪感が湧いてくる。だが今はとにかく自分の身を守ること。エリザベートのことは、その後だと考えた。打てる手があればの話だが。
「さてここまでで結構です」
話していた部屋から出口まではすぐの距離。さして時間がかかるものではない。
「いつ引き上げるのかな?」
「そうですね。それほど時間はかからないでしょう。せいぜい半日、保っても一日です」
「……言葉がおかしい。保ってとはどういう意味かな?」
「この屋敷が燃え尽きまでの時間だ」
「なんだって?」
「これで終わるとでも思っていたのか? 相変わらず馬鹿な出来損ないだな」
「お前……」
いきなり態度を変えた使者。だがこれこそが、ネロも良く知る使者の本来の態度なのだ。
「薄気味悪いガキだったお前をさんざん誑かしてきたが、それも今日で最後だな」
ネロにとってこの使者は、幼い頃から次兄と一緒に何度も自分に嫌がらせをしてきた嫌な相手。さっきまでの態度を見て、大人になってさすがに変わったかと思ったが、そうではなかった。
「そんな真似をしてただで済むと思っているのか? 子供の頃の虐めとはわけが違うんだぞ?」
「今からやる事は処分だ。父王陛下のお許しも得ている」
「なんだって!?」
「お前の罪状は魔族との密通。王族とはいえ、ただで済む話じゃない」
ネロにとってはまさかの理由。それを知る人は数えるほどしかいないはずなのだ。では次兄王や父王に伝えたのは誰なのかとなる。
「……裏切ったな?」
可能性がある人物で今、身近にいるのは男爵しかいない。ネロは厳しい視線を男爵に向けた。
「申し訳ありません。でも魔族の血を引く子供を何百人も抱えているような方に娘を渡す訳にはいかないのです」
男爵はあっさりと自分が裏切ったことを白状した。
自分の娘をなんとかネロの正妃にと頑張ってきた男爵だったが、この事実に気が付いた時に考えを改めていた。多くの子供がいたことでもかなり気持ちが引いたのだが、さらにその母親が魔族であると分かると、ネロに対する恐怖心まで湧いてしまったのだ。
「僕は信じてはいけない者を信じたのか」
事を成すには、心から信頼できる仲間が必要。ヒューガの言葉を聞いて、そういった人を増やそうとしたネロであったが、今回はそれが裏目に出た。
「ネロ様が悪いのです。私はネロ様に忠誠を捧げようと思っていたのです。でもネロ様の所業は、とても普通の人に出来るものではありません」
「そいつは人族じゃないからな」
「なんだって?」
「お前は自分がなんで父王陛下に嫌われているのか知らないのか?」
「そんなの知るわけがない」
「お前はな、父王陛下の本当の子供ではないのだ。お前は王妃殿下が淫魔によって孕まされた結果出来た子供だ」
「嘘だ!」
実際に副官の断定した言い方はネロに対する嫌がらせに過ぎない。王妃が淫魔に襲われたのは事実だが、父王と王妃の仲は、それ以前も後も仲睦まじいものだった。ネロは父王の実子である可能性は十分にある。
だがそういった仲の良さがネロを不幸にした。王妃は淫魔に襲われた事実を隠しておかなかったのだ。それも父王に伝えるだけでなく、それをもって王妃の座から退こうとしてしまった。その結果、ユーロン双王国の重臣にまで事実を知られてしまうことなど考えずに。
ネロは父王に、そして重臣にまで疑いの目で見られることになった。
もし王妃が自分の胸にだけ、その事実を留めておけば、ネロの人生は変わっていたかもしれない。
「嘘かどうかはすぐに分かる。あっ、違った。真実かどうかは俺たちにはすぐに分かる」
「なっ……あれ」
ネロは自分の胸から剣の刃が飛び出している事に気付いた。痛みはそれほどでもない。だが、強烈に胸が苦しくなり、口から血が溢れ出てきた。
「すみません。すみません」
ネロを背中から剣で突き刺したのは男爵だった。
「……き、き、み?」
「娘の為なのです。ネロ様を討ち取れば罪は不問に帰すと言われて。すみません」
「…………」
「やはり魔族だな。そんな状態で普通に話せるとは。男爵、どけ。とどめは俺がさす」
剣を抜いて、ネロの前に立つ使者。ネロに抵抗する力など残っていない。ただじっと、その様子を見つめるだけ。副官の剣が一閃。ネロの首が宙に飛ぶ。
転がる自分の頭の感触。わずかに残った意識と呼べるかも微妙な感覚の中で、もしかして自分は同族である淫魔を苦しめていたのかという悔いがネロの心に浮かぶ。
そんなネロの意識も、更に使者が剣を突き刺した瞬間に消えた。
野心を持ちながらも、何もなす事なくネロの一生は終わってしまった。そして、この結果はまたパルス王国に戻る事になる。