キルシュバオム公爵家によるローゼンガルテン王国支配は、当初の想定とは大きく異なり、停滞している。そもそも当初の想定が楽観的であり過ぎたのだ。魔人との戦いの最中に簒奪を行うことそのものが極めて楽観的ということだが。
ただキルシュバオム公爵であるルドルフが、簒奪行為そのものが失敗であったなどと認めることはない。彼が認めるのは支配が進まない原因だけだ。それも、原因があると認めているだけで、受け入れてはいないが。
「ゾンネンブルーメ公からは何と?」
「速やかに増援を送るようにとの要請が届きました」
ルドルフの問いに答えたのはハイマン騎士団長。国王不在であるが、これはローゼンガルテン王国の国政会議の場だ。
「それだけか?」
増援要請だけであれば気にすることはない。だがそれだけでは済まないことをルドルフは知っている。
「……かなりご立腹のようです。我が国の裏切りを疑う言葉まで口にしているとの報告がありました」
「そうか……」
ゾンネンブルーメ公国の戦況は良くない。主戦力である花の騎士団=ブルーメンリッターを送り込んでいるのだが、それでも優勢に戦いを進められているとはとても言えない状況だ。
それはそうだ。魔王軍もまた主戦力のほとんどをゾンネンブルーメ公国に集中させているのだ。ただこれはローゼンガルテン王国には分からないことだ。
「ユリアーナの寝返りはほぼ間違いないようです」
「……分からん。カロリーネ王女に付くならまだしも、何故、魔人に味方するのだ?」
ローゼンガルテン王国が分かっているのはユリアーナが魔人側に寝返ったこと。そのユリアーナがゾンネンブルーメ公国で暴れ回っていること。それが苦戦の原因だと考えられている。
「寝返りの理由はまったく分かりません。それが分かっても、今更どうにも出来ないでしょう」
「そうだな」
魔人に付いたユリアーナが戻ってくることはない。本人にその気があっても許されるはずがない。
「エカード様の騎士団に対応させるべきだと思います」
「そんなことは分かっている。だが、それが出来ないというではないか?」
ブルーメンリッターとそれを支援するキルシュバオム公国軍には、魔王軍の闇王軍と巨王軍の二軍が当てられている。それで互角に戦っているのだから善戦なのだが、それを喜ぶ余裕はローゼンガルテン王国、というよりゾンネンブルーメ公国にはない。
ブルーメンリッターが戦っている地域以外で、ゾンネンブルーメ公国は甚大な被害を受けているのだ。
「……恐れながら、現状は動かせる駒が足りません」
「それも分かっている」
主力のブルーメンリッターが闇王軍と巨王軍に押さえ込まれている間に、ユリアーナの軍と死王軍がゾンネンブルーメ公国の街や村を次々と落としている。
ローゼンガルテン王国の他軍は当然それを止めようと活動しているのだが、それを更に龍王軍が邪魔するという展開だ。
「ラヴェンデル公国は動きませんか?」
魔王軍に対抗するには動かせる軍が足りない。それをラヴェンデル公国に求めようとハイマン騎士団長は考えている。当然の考えだ。
「……西の国境地帯での戦いが終わらなければ、援軍は難しいという回答だ」
「ほとんど戦闘は行われていないのではありませんか?」
ラヴェンデル公国の西部森林地帯での戦いはほぼ終息している。それがローゼンガルテン王国軍の認識だ。
「そうなのだろうな」
「……援軍の拒絶を認めるのですか?」
「まさか。ただ、大軍を要求するのは難しいな。魔人との戦いが続いているのは事実だ」
「それは……そうですか」
ハイマン騎士団長はルドルフがラヴェンデル公国に強く出ない理由が分かった。キルシュバオム公国も同じなのだ。魔人との戦いが続いているという理由で、かなりの自国軍を領内に残している。
その状態で、ラヴェンデル公国に領土を空にして援軍を送れとは言えない。そこまでの強制力は、まだキルシュバオム公爵家にはないのだ。
「それでもなんとか主力となる部隊を参戦させるつもりだ。これについてはラヴェンデル公国も拒否は出来ないはずだからな」
キルシュバオム公爵家も花の騎士団を参戦させている。かれらの所属は王国騎士団なのでキルシュバオム公国から参戦していることにはならないが、エカードを筆頭にメンバーの多くが関係者であることは間違いない。
「……それでも花の騎士団にはかなり劣りますか」
ラヴェンデル公国で花の騎士団のメンバーと同等の力を持つと考えられるのは、嫡子であるタバートのみ。戦力としてはかなり劣るとハイマン騎士団長は考えた。
「そうだとしてもいないよりはマシだ」
「それはまあ……」
「不満なら王国騎士団の再編を急いではどうだ? 王国騎士団が万全であれば、もっと戦いは楽になるはずだ」
「もちろん、進めております。そう遠くない時期にかつての力を取り戻すことでしょう」
王国騎士団は今回の政変により多くの騎士を失った。戦いによってではない。キルシュバオム公爵家による簒奪を受け入れずに出奔したのだ。
騎士の減少は軍や部隊を率いる指揮官の減少。その影響は少なくない。
「ふむ……王女殿下の行方は掴めたか?」
ルドルフが気にしているのは出奔した騎士たちがカロリーネ王女を旗印にして立ち上がること。騎士だけであれば恐れる数ではないが、それにラヴェンデル公国が加われば無視出来ない勢力になってしまう。
「それについては私が」
声を発したのはモーリツ宰相。カロリーネ王女の捜索に関してはモーリツ宰相が責任者となっている。
「何か分かったのか?」
「はい。シュベルクの街に現れたという情報が入りました」
「シュベルク……確か、ラヴェンデル公国領に近い街だな? それで?」
「捕らえようとしたのですが、失敗しました。その後の行方は分かっておりません」
「それでは……」
何の価値もない情報だ。ラドルフはそう受け取った。
「王女殿下はシュベルクで人を募っていたようです。また、周囲に仲間らしき人はいなかったとも聞いております」
「……人を募っていた? それはどういうことだ?」
「街角に立って大声で勧誘していたとの報告が上がっております」
「そんな真似をして、何の意味がある?」
そんなことで人が集まるはずはない。ラドルフはそう考えている。
「分かりませんが、それが必要な理由があるのではないでしょうか?」
「理由?」
「少なくとも今は王女殿下の周りには誰もおりません。ラヴェンデル公国領の手前でそんな真似をするからには、繋がりもないものと考えます」
「なるほどな……」
カロリーネ王女とラヴェンデル公国が繋がっているのであれば、領境で立ち止まることなどないはず。仮にシュベルクで何かを行うにしても、ラヴェンデル公国は護衛の為に人を出すはずだとモーリツ宰相は考えた。
この考えにはルドルフも納得だ。
「いかがなさいますか?」
「いかがとは?」
「人を募るのには目的があるはずです。放置しておいてよろしいのでしょうか?」
カロリーネ王女はキルシュバオム公爵家を討つ為に人を集めようとしているとモーリツ宰相は考えている。それに対する処置をどうするか、ラドルフに判断を求めた。
「……放置はしていない。保護を急ぐのだな」
それに対してラドルフは、モーリツ宰相が求める明確な指示を出さなかった。言葉にするべき内容ではないのだ。
「……承知しました」
モーリツ宰相はそれを受けて、自らの判断で動かなければならなくなる。難しい判断だ。
「そうだ。王太子殿下のお相手だが、一人推薦したい者がいる」
「……それはどちらのご息女ですか?」
大きく話が飛んだようだが、そうではない。これはモーリツ宰相にとって判断材料になるものだ。
「エカードの下にクラーラという騎士がいる。聡明で美しいと評判の女性のようなので、王太子殿下の伴侶に相応しいのではないか?」
ルドルフが王太子の相手に推薦したのはクラーラ。
「……彼女ですか?」
これにはハイマン騎士団長は驚きだ。クラーラは王国騎士団の騎士であるのでハイマン騎士団長は当然知っている。彼女の身分も。
「人物重視ということだ。もちろん嫁ぐ時にはしかるべき身分を用意する。キルシュバオム公爵家の身分をな」
「そうでしたか……彼女はすでに知っているのですか?」
「いや、知らない。だがこの件で騎士団長の手を煩わせるつもりはない。手続きは全てキルシュバオム公爵家で行う。自家の養女にするのだから当然だな」
自家の養女にするからだけではない。エカードの反発を抑え込む為でもある。エカードがクラーラに惹かれているという情報はラドルフの耳にも入っている。だからこそクラーラを選んだのだ。
エカードの相手はカロリーネ王女。その可能性が完全になくなったとしても、また別の政略結婚が待っている。相手が誰かなど、今はまったく決まっていないが、平民であるクラーラでないことだけは確実だ。
「……王太子殿下へのご説明はどうされますか?」
「それは宰相に任せよう」
宰相が推薦したという形にするということだ。
「承知しました。では、その件につきましてはすぐに話を進めます」
責任を押しつけられていると分かっていてもモーリツ宰相はルドルフには逆らえない。簒奪を積極的に支援した立場であるからではない。今となっては何故、そんな愚かな真似をしてしまったのかとモーリツ宰相は後悔している。
だからといってキルシュバオム公爵家と戦う力はモーリツ宰相にはない。周囲の人たちにとってモーリツ宰相は、ハイマン騎士団長と並ぶ王国最大の裏切り者なのだ。立ち上がっても味方する者などいない。
彼に出来ることがあるとすれば宰相の地位に留まり、わずかであっても王国内で影響力を持ち続けること。何の役に立つかは分からないが、殺されてしまえばそれで終わりなのだ。
◆◆◆
何故、自分は目の前に立つ相手に剣を向けているのか。ウッドストックは相手の動きに油断なく目をこらしながらも、そんなことを考えている。向かい合う相手はローゼンガルテン王国の騎士。騎士団を抜けた今は仲間とは言えないが敵でもない。戦う相手ではないはずだった。
だが現実として、ウッドストックは騎士たちに殺気を向けられている。殺し合いが始まろうとしているのだ。
「……引くつもりはありませんか?」
なんとか戦いを避けられないかと、こんな問いを向けてみる。
「それはこちらの台詞だ。死にたくなければそこをどけ」
「それは……そういうわけにはいきません」
「では仕方がない」
目の前の騎士がこれを言い切る前に、別の騎士の剣がウッドストックに襲い掛かった。相手は引くどころか、ウッドストックを生かすつもりがないのだ。
ただ、騎士たちにとって残念なことに、この程度の奇襲で討たれるウッドストックではない。振り下ろされた剣に自分のそれを合わせて防ぐと、力任せに押し込んだ。
「うぉっ」
その圧力に耐えきれずに後ろに倒れ込む騎士。だが攻撃はそれで終わらない。ウッドストックが一息つく暇を与えずにもう一人が剣を振るってきた。
だがその剣にもウッドストックを驚かせるほどの鋭さはない。剣を引き戻したウッドストックは、思い切り相手の剣に叩きつけた。
「ぐっ」
その激しい衝撃に声を漏らす騎士。
「……こういうこと言うのは恥ずかしいけど、貴方たちでは僕に勝てないと思います」
二人を相手にしてもウッドストックは負ける気がしない。もともと気弱で大口とは無縁な彼がそう言うのだ。それだけ実力差は大きいということだ。
魔人戦争の英雄の一人になるはずだったウッドストックと、戦場に出ていない小貴族家の騎士だ。それも当然のこと。
「……逃がすわけにはいかない」
まさか「自分もそう思いますから、どうぞご自由に」なんてことは立場上言えない。こう考える騎士は、まだウッドストックを甘く見ているのだ。そうさせるのはウッドストックの甘さだ。
「……僕はずっと戦場で戦っていました。殺しを躊躇うことはありません」
自分の甘さをウッドストックも自覚している。だからせめて口で相手を脅すことにした。
「……それがどうした?」
それでも騎士は引こうとしなかった。
「強がりは止めておけ。その男は元ブルーメンリッター所属。ローゼンガルテン王国で最強の騎士団の一員だ」
そんな騎士たちにウッドストックの強さを教えたのはカロリーネ王女だった。
「……ブルーメンリッター」
「まさか、知らんのか? この戦争でもっとも多くの魔人を討った騎士団だ。それとも花の騎士団と言えば分かるか?」
「……おい? ブルーメンリッターって、あのキルシュバオム公家の人間がいる騎士団だろ?」
もう一人の騎士はブルーメンリッターを知っていた。思い出したというのが正確だ。そしてそれは、それを言われた相手も同じ。
「……どういう……いや、今は良い。分かった。ここは引く」
何故、キルシュバオム公爵家の騎士が邪魔をするのか。それを疑問に思った騎士だが、裏があるのであればここで聞くべきではないと考えて引くことを決めた。裏のあるなしは関係なく、本当にウッドストックが自分たちではまったく敵うことのない実力者で、実戦を経験している猛者だと分かったので戦いを避けたのだ。
警戒しながら後退る騎士たち。ある程度、距離が開いたところで後ろを向いて駆け出していった。
「……とりあえず助けてくれたことの礼を言うべきか……それとも礼は無用か?」
「御礼なんていりません」
「そうか……お主一人か?」
「はい。僕一人です」
「そうか……」
ウッドストックを見つめるカロリーネ王女。逃げる隙はあるかと探っているのだが、そんなことをウッドストックには分からない。
「あ、あの……王女殿下はどうやってリリエンベルク公国に行くつもりですか?」
ウッドストックは見つめられているのが恥ずかしくて、少し顔を赤らめながらカロリーネ王女に問いを向けた。
「ん? それは……分からん」
何故、ウッドストックは自分がリリエンベルク公国に行こうとしていると思ったのか。それを不思議に思ったカロリーネ王女だが、とりあえず答えを返した。知られて困る答えではないのだ。
「えっ? じゃあ、どうして仲間を募っているのですか?」
「どうしてって……妾一人では何も出来ないと思って」
「そうですか……僕も一人で飛び出してきたのですけど、リリエンベルク公国に入る手立てがなくて……」
リリエンベルク公国領への入り口は封鎖されている。王国騎士団の許可を得ていないウッドストックでは通してもらえないのだ。
「……お主、何故、リリエンベルク公国に行こうとしている?」
「それはもちろん、リーゼロッテ様やジグルスさんと一緒に戦う為です」
「……本気で?」
「本気ですけど?」
「……妾を騙そうとしているのではない?」
リーゼロッテは、ウッドストックはキルシュバオム公爵家が送ってきた追っ手だと疑っていた。そうでなければウッドストックがこんなところにいるはずがないと考えた。王国騎士団を抜けたことなどカロリーネ王女は知らないのだ。
「どうして僕が王女殿下を騙さなければいけないのですか?」
「どうしてって……お主、戦いはどうした?」
「ブルーメンリッターは抜けてきました。エカード様の許しも得ています」
「それを信じろと?」
「……無理して信じて欲しいとは言いませんけど、嘘はついていません」
別にカロリーネ王女に疑われてもウッドストックには関係ない。一人でなんとかしてリリエンベルク公国に入るだけだ。
「……何故、妾を助けた?」
カロリーネ王女の疑いは消えない。ただ彼女のほうはどちらでも良いとは思えない。ちょうど一人で行動するのは厳しいと思い始めていた時なのだ。
「それは王女殿下ですから。それに……王女殿下の言葉がなんだか胸に響いて」
「言葉?」
「名も無き勇者たちよ。あれってジグルスさんたちのことですよね? あれを聞いて、王女殿下もリリエンベルク公国に行くつもりなのだと分かりました」
「ああ、あれか……」
「僕も名も無き勇者の一人になりたいと思って、騎士を辞めました。世間に名が知られる必要なんてありません。知って欲しい人に自分を知ってもらえれば。そのほうが良いって」
魔人戦争の英雄なんて肩書きをウッドストックは求めていない。共に戦い、共に死んでも良いと思える人たちと一緒にいたいのだ。
「……妾もそうだ。王女の肩書きなどどうでも良い。そんなものがなくてもジークは、リーゼロッテは一緒にいられる友なのだ」
「そうでしたか……じゃあ、頑張りましょう。まずはリリエンベルク公国に入る方法を見つけることです」
「ああ、それなのだが……方法がまったくないわけではない。可能性はなくはないというべきか」
入国方法が分からないと言ったのは嘘ではない。だが方法を持っているかもしれない人物をカロリーネ王女は知っている。
「どういうことですか?」
「アルウィンを知っているか? 元々学院生で、卒業後は商人として活動していた男だ」
「ええ、知っています。ジグルスさんと仲の良かった……そうか」
ジグルスと親しく、商人となっているアルウィンであればリリエンベルク公国に入国する手段を持っていてもおかしくない。ウッドストックもそれが分かった。
「アルウィンなら方法を知っているはずと思ったのだ。ただその彼の居場所が分からない。実家にはいないらしくてな」
「彼を探すことですか……」
「探すのは難しい。だから見つけてもらうことにした。街角で仲間を募っているのは、その為でもあるのだ」
「……見つけて貰えるでしょうか?」
カロリーネ王女の噂が広がるまでにはかなりの時間が必要だとウッドストックは思う。噂が広がりきるまで無事でいられるかという心配もある。
「絶対の自信はない。ただ、あやつらであればという思いはある。アルウィンが、いや、ジークがただリリエンベルク公国に籠もって戦っているだけでいるはずがないからな」
「……そうですね。僕もそう思います」
カロリーネ王女はジグルスが生きている前提で話をしている。そうでなくてはならない。こんな思いも必要ない。間違いなくジグルスは生きている。ウッドストックも同じように考えている。
その彼と合流する前に、カロリーネ王女とウッドストックは出会った。これは運命、という言葉は大袈裟だが必然だとウッドストックは思うことにした。共にリリエンベルク公国に向かおうとしている二人が出会ったのだ。入国は約束されたようなものだと。