目の前で燃え盛る炎。魔法を使っての、懸命の消火活動が続いているが、その勢いが衰える様子はない。燃え盛る炎の中には大勢の味方がいる。早く火を消して、彼等を助けなければならない。美理愛も、そんな焦る気持ちをどうにか落ち着かせて、魔法を唱える。
彼女が使える水属性の最上級魔王。魔法の効果範囲の火が消える。だがそれは全体から見ればわずかだ。美理愛の魔法は強力ではあるが、それは敵を倒す為のもの。広範囲で燃え盛る火を消すのに有効な魔法などは知らないのだ。
どうしてこんなことになってしまったのか。意味のない後悔が美理愛の胸に広がっている。今更、というのではない。パルス王国軍は十分に警戒していたのだ。
――軍全体を前進させることが決まった。斥侯はことごとく魔族に討たれ、先の様子はいつまで経っても分からない。このまま斥侯を出し続けて犠牲を増やすよりは、軍全体で押し込んだ方が安全。そういう判断だった。
動き出したパルス王国軍。進軍してすぐに魔族のものと思われる砦が見つかった。
すぐに部隊を砦周辺に配置し、臨戦態勢を整えたが、魔族が攻撃をしてくる気配はない。砦も良く見れば、あちこちが作りかけのまま。未完成であることは明らかだ。
下された判断は、砦は完成前にパルス王国軍が近づいた為に放棄されたものであるというもの。少数の偵察部隊を砦に近づけ、中を確認させたところ、確かに魔族はいなかった。
それに安心して、幾つかの部隊を砦に突入させた、その時。
砦から一気に火が立ち上った。燃え盛る砦。その中にはパルス王国軍の多くの兵が取り残されている。罠だった。
――罠に嵌まって、多くの犠牲を出すことになったパルス王国軍。それでも前に進まなければならない。そしてまた、別の砦が現れた。同じように魔族が攻撃してくる気配は見えない。
同じ罠にはかからない。そう決めて、砦を放置して前に進んだ。
そのパルス王国軍の後背から魔族は奇襲をかけてきた。それによってまた多くの兵が死ぬことになった。これも罠。砦の中に魔族はいたのだ。砦に潜んでいた魔族は、パルス王国軍が通過するのを待って、その後方から攻撃を仕掛けてきた。そう判断された。
そしてまた新たな砦が姿を現す。ヒューガは魔族の魔は悪魔の魔ではないと言ったが、今の美理愛はそれを受け入れられなくなっている。魔族の策は、悪魔の所業としか思えないのだ。
この砦には魔族がいた。警戒しながら近づいた哨戒部隊に攻撃を仕掛けてきたのだ。それを見て、慌てて後続の部隊が砦に詰める。激しい抵抗を受けながらも、数の力で圧倒したパルス王国軍は砦の門を打ち破って、内部への侵入を果たした。
炎があがったのはその時だ。
燃え盛る砦。懸命の消火活動が続いている。前に出て水属性の魔法を唱える魔法士たち。その中に混じって同じように魔法を唱えている美理愛。
これが戦争。敵を倒すためには味方の犠牲さえ厭わない。
「ミリア、もう下がってください!」
消火活動に参加している美理愛に、アレックスが後方に下がるように告げてきた。
「まだ火が!」
「もうすぐ消えます! あとは軍の魔法士に任せても大丈夫ですよ!」
「でも……」
途中で作業を止めることに美理愛は抵抗を覚える。
「先に進まなければいけません!」
「先にって……また砦が現れたらどうするの!?」
この先も罠が待ち構えているのは間違いない。無策で進軍しては、また味方の犠牲を出すだけだと美理愛は思った。
「備えの兵を置いて先に進みます! とにかく魔王城への到着を急ぐことになりました! こんな小競り合いで、これ以上、兵を損耗させるわけにはいけません! 敵の本拠地で一気にけりをつけます」
アレックスは決戦を急いでいる。魔王を討つことで戦いが勝利で終わるのであれば、それは正しいのかもしれない。だがその戦いも厳しいものになるはずだ。
犠牲を少なくする為には、優斗と自分が頑張るしかない。そう美理愛は考えた。
「……分かりました」
美理愛は消火活動を止めて、アレックスと一緒に本隊に戻る。アレックスの言う通り、美理愛が離れてすぐに砦からあがるのは白い煙だけになった。
なんとか火を消し止めた。そう思って、安堵した美理愛であったが、悪魔の所業というものは、そんな甘いものではない。
砦の方から多くの悲鳴があがった。
「何!?」
「魔族……いや、魔獣の襲撃ですね」
「魔獣?」
砦近くに現れた魔獣と思われるものの数はそれ程多くはない。精鋭であるはずの魔法士たちが、その程度の魔獣にやられてしまうのが美理愛は驚きだった。
「部隊を出せ!」
「ねえ、アレックス。あの魔獣は強いの?」
「知っている魔獣のようですから、強さはそれほどでもないと思います。でも、まんまとしてやられました。あれは魔法士をおびき寄せる罠でもあったようです」
「どういうことかしら?」
「あの魔獣は火に強いのですよ。そして恐らく、魔法士の多くが魔力切れになる頃を狙って襲ってきた。接近戦では魔法士は敵いません……急げ! 敵は大した数じゃない! 一気にけちらせ!」
美理愛が砦の方を見返すと、優斗が既に砦の前に着こうとしている。魔獣相手、それも多くない数であれば、彼一人で十分だ。次々と魔獣を斬り倒していく優斗。だが立ち上がっている魔法士は、既にかなり少なくなっていた。またパルス王国軍は多くの犠牲者を出すことになった。
◆◆◆
魔族側の罠にパルス王国軍は見事に嵌まっていく。ここまで事が思い通りに進むと、魔族の側も喜ぶよりも、パルス王国軍の愚かさに呆れる気持ちのほうが強くなってくる。
そしてこの罠を考えた者への恐れの気持ちも。魔将の一人ケイオスも例外ではない。
「……ヒューガって奴は、えげつない策を思い付くものだな」
魔族側の罠は、元々ヒューガが考えたものだ。魔族の為ではない。ドュンケルハイト大森林を小数で守るにはどう戦えば良いかと考え結果、生まれた策。それを聞いていたヴラドが自分たちの戦いに利用したのだ。
この策の目的は敵の数を削るだけでなく、敵を疑心暗鬼に陥らせることにある。砦を無視して進めば、伏兵となって後背をつく。備えの兵を置いて行けば、それだけ敵の数は減る。一つ一つ潰していこうとすれば、それだけ月日がかかり、物資の補給が大変になる。さらにドュンケルハイト大森林では自然の魔獣による襲撃という脅威もある。
問題は、相手の将に砦の罠を読みきられた場合。その場合は相手に被害を与えることなく、自軍は数を減らすことになってしまう。だが今回の戦いで、その心配は無用だった。
「貴方も面白がっていましたよね? それに実際に準備したのは貴方ですよ」
ケイオスは四人の魔将の中では頭脳派であり、作戦立案を担当している。ヴラドからヒューガが考えた策を聞き、それを実行したのはケイオスだ。
「まあな。もう少し時間があればな、あと何度か仕掛けられた」
魔族の力をもってしても、限られた期間では、何十もの砦を造ることなど不可能だった。罠に使える砦はもうないのだ。
「そうですね。さて罠はこれで終わり。どうやら思惑通り、一気に向かってきそうですね?」
「そのようだな」
「あれ、どう思いますか?」
「魔獣相手ではな。本当の力量は図れん。まあ強いことは強いな」
優斗は魔獣相手に戦った。今回の戦いが始まって、初めて戦う姿を見せたのだが、魔獣相手では力量は完全には測れない。
「勝てますか?」
「魔族にそれを聞くか?」
「貴方だからですよ。他の二人は典型的な魔族。勝つとしか言わないですからね。その点、貴方は物事を冷静に分析する能力がある」
「お前はそれを姑息な策士と呼んでいた」
「……いつの話です? 昔の話を持ち出すのはいい加減にやめてもらえませんかね? もう一度聞きます。勝てますか?」
「……分からん。一対一では辛いかもしれんな」
ケイオスは、ヴラドが求める通り、正直な考えを口にした。他の二人には求めるだけ無駄な答えだ。
「二対一でなら何とかなるのですね? あと敵の主戦力は聖女もいますね。まあ、あれはどちらかと言えば戦争向きで、集団相手の魔法のほうが得意そうです。一対一なら逆にどうにでもなりそうですね。あとはアレックスとかいう男ですが」
「話にならん。あれは剣術じゃなくて踊りだ。ただ綺麗に舞うだけ。怖くもなんともない」
「それはケルベスの台詞ですよ。貴方が戦ったわけじゃないでしょ?」
「だが事実だ」
「そうですね……そうなると勝ってしまいますね」
敵で戦力となるのは優斗と美理愛の二人だけ。敵二人に対してヴラドたち魔将は四人。優斗を二人で押さえ込められるのであれば、まず勝利は間違いない。
美理愛相手であれば一人で十分だとヴラドは考えているので、優斗に三人の魔将が向かえることになる、のだが。
「魔王様が生きていればな。四人が揃っていて初めて勝てる」
「魔王様が死んでからも戦い続けるつもりはないのですね?」
「戦いは嫌いだ。正直、自分でもなんで魔族なのか不思議なくらいだ」
「逆ですよ。魔族なのになんで戦いが嫌いなのか不思議」
「同じことだ」
魔王を失えば、ケイオスに戦う理由はなくなる。魔将は一人欠けることになる。
「……まあどっちでもいいです。ライアンはどうしますかね?」
「勇者に一騎打ちでも挑むんじゃないか? そうでなければ山に籠って鍛錬だな。あいつは魔王様以外は最強である事にしか興味がない」
さらにライアンは、ただ勇者を倒す為だけの戦いには参加しなくなる。戦うにしても戦い方に拘るようになってしまうのだ。複数で優斗と戦うなど受け入れない。
「そうですね。ケルベスは?」
「聞かなくても分かるだろ? 間違いなく一人でパルス軍に突っ込んでいくな」
「死ぬためにですね?」
「そうだ。あいつはライアンとは違う。魔王様以外には何もない。そしてそれは俺もだ」
そして残るケルベスは、勝利ではなく死を望むようになる。
「そうですね。それは私も……」
「お前は違う」
「何故です? 私だって魔王様を想う気持ちは貴方たちに負けませんよ」
「それを否定するつもりはない。ライアンについても、魔王様への気持ちが俺たちより劣っているなんて考えていない。ただお前にはライアンと同じように他に気持ちがある。姫はどうするつもりだ? 姫を放って、お前は死ねるのか?」
ケイオスは、そしてケルベスも魔王以外には何もない。魔王のいない世界に未練などないのだ。だがヴラドは違う。この世界に、魔王以外にも大切な存在がいる。
「……ここでそれを持ち出しますか?」
「今だからだ。ちゃんと決めておいたほうが良い。死にきれないというのは、俺からしたら、辛いことだと思う」
「そうですね……」
負けるつもりで戦っているわけではない。だが魔王は、いつ死が訪れてもおかしくない状況なのだ。
それは明日かもしれない。その時にどうするか。無様に思い悩むようなことにはヴラドもなりたくない。ケイオスはケルベスの様に魔王に殉じるか、それとも新たな生きがいを求めるのか。
今すぐに決められことではない。ヴラドにとっても魔王の存在はとても大きなものなのだ。
「さて、行くか。奴らが魔王城に着く前にもう少し削りたいところだ」
「ええ、行きましょう」
◆◆◆
グランを乗せた馬車は東に伸びる街道を進んでいる。王都を発って幾日目か。出発当初は数えていたが、もう止めにした。馬車の窓は完全に塞がれていて、外の景色は見えない。わずかに隙間から漏れる光で昼か夜かを識別して、日数を数えていたのだが、細かく把握したからといってそれに何の意味があるのか。グランはそう思ってしまったのだ。
気になるのは目的地はどこなのか。東に延びる街道をまっすぐに進んでいるのであれば、イーストエンド侯爵領に辿り着いてもおかしくない頃。
その可能性はないだろうとグランは思う。イーストエンド侯爵の下にグランを置くことは、今回の一件を企んだ者たちにとって、かなり危険なことだ。グランが知っていることをイーストエンド侯爵に話してしまえば、それをどう利用されるか分からない。
今回失脚したのはグランだが、次はその者たちが同じ目に遭うかもしれないのだ。イーストエンド侯爵が新貴族派を追い払おうと思えば、間違いなくそうなる。それが分からないほど馬鹿ではないはずだ。
(……馬鹿であることは事実か)
当初は、馬鹿な貴族が保身の為に事をでっち上げたのだとグランは思っていたのだが、そうではなかった。
(……裏切られた。間違いなく裏切られた)
裁定に提出された証拠。それはグランがアレックスに渡した計画書だった。しかも、グランに不利になる部分だけを抜き出してあった。
それでも罪は不正の証拠を勇者に渡すために細工をしたことくらい。裏切りは驚きであったが、騒ぐことはしなかった。それだけであれば罪は軽い。下手に騒いで、他のことまで公になっては困る。そう判断したのだ。
しかし、その判断は甘かった。貴族が不正を犯した証拠まで虚偽とされてしまったのだ。グランには信じられなかった。調べればすぐに本物の証拠だと分かるはずなのだ。
(……やはり、おかしいな)
アレックスの裏切りがあったとしても、そこまでのことは出来るとは思えない。グランのいない新貴族派にはそんな力はないのだ。
裁定は明らかに、グランを無理矢理にでも罪に落とそうとしている。司法庁の長官は有力貴族派だ。新貴族派に手を貸すとはグランには思えない。懐柔出来るくらいなら、グランがとっくに行っている。
新貴族派の中核である自分を失脚させる為、という可能性も考えたが、そうなると今度は何故それにアレックスが協力するのかという疑問が残る。
(……もしかして儂は認識違いをしているのか)
アレックスには裏切りの動機がある。彼に何かを企んでいる気配があったことは、グランも気付いていた。ではそれは何か。これも分かっている。
(……ローズマリー様じゃな。やつはローズマリー様の隣に座ろうとしている)
だがそれはローズマリー王女に好意を持っているからではない。アレックスは玉座に就きたいのだ。
(愚かな……自分の器量も分からないのか。いや、しかし……ユートも同じか)
アレックスには王になる器量はない。では優斗にはあるのか。あるとはグランは思えなくなっていた。優斗は子供だ。時折見せる残虐性も精神が子供だからだとグランは考えている。
(……儂は何をしていたのか)
その子供をパルス王国の王にしようとしていた。今であれば冷静に考えることが出来る。優斗が王になってもパルス王国は良い国になどならないと。
グランもアレックスと同じだ。私欲で動いていた。国政に参加したい。そこで自分の力を発揮したかった。
だから見て見ぬふりをした。勇者など必要ないという事実を。
(いつの間に、こんな風になってしまったのか……)
始めはもっと純粋な気持ちからの行動だったはずだ。自分の国が一部の特権階級に支配されている事実に怒りを覚え、国の行く末を憂い、何とかしようと立ち上がったはずだった。それがいつの間にか、自分が特権階級になることにすり替わっていた。
(ふむ……儂が罪に落ちるのは当然か)
自嘲の笑みが漏れる。自分は過ったのだ。過った者はその過ちを償わなければならない。三年の流刑。それを終えてから、またやり直そう。グランは覚悟を決めた。実際にはすでに決まっている。こうした思考はこれが初めてではないのだ。
だが先の見えない移送が、その覚悟を揺らがせ、そしてまた同じ思考を繰り返させていた。だがそれも、もう終わりだ。馬車はその動きを止めている。
「目的地に着きました。馬車を降りてください。手荒な真似はしたくありません。大人しく指示に従ってください」
ようやく目的地に到着した。それを護送の兵が告げてきた。
パルスの兵じゃからな。こうでなくてはならん。
「騒ぐつもりはない。今、降りるから待っておれ」
開いた扉から地面に降りる。陽の光に眩んだ目。それが戻った時、グランの視界に入ってきたのは一面の緑だった。
「ここから少し歩くことになります」
「そうか……ここはどこなのじゃ?」
「間もなく分かります」
「ふむ。東にまっすぐ進んで来たのであれば、イーストエンド侯爵領の北の森林地帯じゃな」
「……グラン殿は元筆頭宮廷魔法士ですので、あまり非礼な真似はしないようにと言われておりますが、罪人であることに変わりはございません」
「そうじゃな。すまんかった」
大人しくしていろ。それを丁寧な言葉で言われたのだ。それに反発するほどグランは愚かではない。指示通りに口を閉じ、護送の兵に前後を挟まれる形で先に進んだ。
「着きました。ここから下に降りてください」
しばらく歩いたところで兵はグランに下に降りるように告げた。
下といってもどこに降りるのか。そう考えたグランであったが、すぐに地面に空いた大きな穴に気付いた。その穴には吊り梯子が垂らされている。その吊り橋を降りろということだ。
「……ここは?」
「グラン殿の流刑地への入り口です。穴を下まで降りましたら、背面に外に通じる横穴があるはずです。そこを進んでください」
「……そこを抜けたらどこに着くのじゃ?」
底が見えない深い穴。地下に降りて何があるのか。その答えはグランには一つしか思い付かなかった。
「もう、お分かりでしょう? ドュンケルハイト大森林です」
「……嘘じゃ! 儂の刑は三年の流刑のはずじゃ!」
「はい。三年間のドュンケルハイト大森林への流罪がグラン殿の刑です」
「大森林で三年も生きられるわけがないじゃろ!? それは死刑と一緒じゃ!」
「そう言われましても、そういった刑ですので」
「ではせめてこの首輪を外せ! 魔封じの首輪を外してくれ!」
拘束されてからずっとつけられている首輪。魔封じの首輪と呼ばれている、それは名の通り、魔法を使えなくする魔道具だ。
それを付けられたままでは、グランに戦う術はない。
「それは出来ません。魔法士は刑の間は魔法を封じられる規則です。それにそれは付けた人にしか外せません。グラン殿もご存じでしょう?」
「……儂を殺す気か?」
「私は流刑地にグラン殿をお連れしただけです」
「…………」
兵の言う通り、彼はただ命じられるがままに移送しただけだ。グランを殺そうと考えている者は他にいる。
「手荒な真似はしたくないのですが?」
「……分かった」
「言うまでもありませんが、グラン殿が下に降りたらこの吊り梯子は引き上げます。グラン殿がいつまでも吊り梯子に掴まっているような場合は吊り梯子を切ります。怪我をしたくなければ速やかに降りてください」
「…………」
「では降りてください」
「……水と食料は?」
「特に渡すようにとの指示は受けておりません」
「……そうか」
ドュンケルハイト大森林。ここに送られる流刑者は表立っては処刑が出来ない人たち。王族であったり、名声が高い人であったり、そういう人ばかりとグランは聞いている。その人たちに彼も名を連ねることになった。大物の仲間入りだ。
自嘲的な笑みを浮かべながら、グランはゆっくりと吊り梯子を降りる。下に降りるにつれて日の光が届かなくなり、周りは真っ暗になる。どれくらいの時間がかかったのか、吊り梯子が切り落とされる前に、下に辿り着いた。
足下には吊り梯子と思われる感触。悪あがきをした人が過去にいた証だ。その人たちの骨も近くあるのかもしれないとグランは考えた。恐怖はない。まさかの事に、心が麻痺してしまっている。
飢え死にするのを待つか、それともひと思いに魔獣に食い殺されて死ぬことを選ぶか。選択は簡単だ。苦しい時は短いほうが良い。それに冥土の土産にドュンケルハイト大森林を見ておくのも悪くない。
そう考えてグランは、先に見える光に向かって歩み始めた。
◆◆◆
「西から侵入者? もう、この忙しい時に」
もうすぐドュンケルハイト大森林にヒューガが帰ってくる。王の帰還の準備で人々は大忙しだ。それがなくても重臣であるエアルたちは普段から忙しい。
大森林にたどり着いたエルフたちの対応もそれなりに大変。彼等の住む場所を確保する為の拠点の拡充はずっと続いている。住む場所が決まったあとは、大森林について教え、仕事を与える等々、慣れるまでは色々と面倒を見なくてはならない。そしてなによりも奴隷にされていたエルフたちの看病は、数も増えて看病する側の負担も大きくなっている。
当然、忙しいからといって鍛錬に手を抜くわけにはいかない。強くなることも、狩猟の成果を高める為の国にとって大事な仕事なのだ。
そんな時間に追われる日々を過ごしている中での侵入者の報告。
「どんな様子なの?」
エアルは苦い顔だ。
「人族であることは間違いありません」
「……そう。じゃあ、放っておけば? 変な動きがあるようなら消しちゃって」
わざわざエアルたちが動かなくても魔獣が始末してくれる。警戒すべきは結界の存在に気付かれること。その気配があった時に動けば良いとエアルは考えた。
「そのつもりだったのですが、首輪をしているのを確認しました。それで判断を仰ごうと」
「奴隷ってこと? なんで人族の奴隷が大森林に来るのよ?」
「分かりません」
まだ接触していないのだ。事情など分かるはずがない。
「そうよね。聞いた私が悪かったわ。ヒューガ、いえ、王の絡みかしら?」
「その可能性があるかもと思いました」
「でもそんな連絡は来ていないわ。う~ん、とりあえず確保だけしておこうかしら? ヒューガ、違う、王が戻ってから。どうするか決めたほうが良いわね」
「……はい」
真剣な表情で侵入者について報告をしていた部下の表情が緩む。笑いを噛み殺しているのは明らかだ。
「何よ?」
「エアル様は無理に王と呼ばなくて良いのでは?」
「……そういうわけにはいかないの。私だけ馴れ馴れしくして、新しく大森林に来たエルフたちとの間に溝が出来たら困るでしょ?」
最初からヒューガに仕えていた人たちと新しい人たちとの間に確執が生まれてはならない。そう考えて、エアルは自分の言葉遣いを気にしているのだ。
「気を使いますね?」
「それが側近の義務でしょ? 王の側近くにいれば、やっかみの対象になる。私ひとりが文句を言われるのは良いけど、それでヒューガが困ることになったら」
「……王ですね」
これを指摘する部下の表情には、はっきりと笑みが浮かんでいる。
「あっ……」
「そのうち慣れますよ」
「そうであって欲しいわ。とにかく、その人族は確保しておいて。南の拠点に……そうね。自由にはさせておけないから、監禁ってことで」
「わかりました」
「じゃあ、お願い」
ドュンケルハイト大森林に王が帰ってくる。多くのエルフを救った英雄が帰還するのだ。
だがエアルにとっては、仲間たちを救ってくれたことに感謝はしているが、ヒューガ本人が無事に帰ってきてくれることの喜びのほうが大きい。
ただこれは臣下ではなく、一人の女性としての感情だ。それで良いのだ。ヒューガが求めているのは臣下としてのエアルではないのだから。