イーストエンド侯爵家の領主館。その執務室で今日も、チャールズとクラウディアは各地から届けられる報告書や決裁書に目を通している。
クラウディアはこういった仕事が得意だ。王家に生まれた彼女。王女であっても、きちんとした帝王教育を受けている。パルス王国は特別そうしているということではなく、男子がおらず、クラウディアが王位継承順で一位だったからだ。
本人は政務よりも魔法のほうを頑張りたいのだが、残念ながら満足のいく結果が出ていない。怠けているということではなく、クラウディアの魔法は魔族が使うものであるので、教えられる人がいないのだ。とはいっても鍛錬に費やされている時間が短いのは事実だ。そういう点では、本人に自覚はないだけで、やはり怠けているのだろう。
一緒にいることの多いチャールズも魔法の鍛錬に関しては、協力的ではない。クラウディアは傭兵で身を立てる必要などない。今のように自分の能力を活かして、侯爵領の政務を見ているほうが彼女に相応しいと考えている。
そのチャールズだが、今日は少し落ち着かない。クラウディアにあまり良くない報告をしなければならないからだ。
「まずはエルフの件だね」
「何か分かったの?」
「結論から言えば、あんまりだね。彼等との接触には成功した。これ自体にも相当、苦労したね。まとまった巡廻の兵がいる所に相手は決して現れない。まるでこちらの動きを読んでいるかのようだった。読んでいないにしても、かなり動向を見張られていたのは間違いないと思う」
イーストエンド侯爵家はきちんと考えて、網を張っていた。その網をエルフたちは、ことごとく突破してしまったのだ。これが偶然であるはずがない。
「そうなんだ……でもそんな状況でよく接触できたね?」
「まとまって接触するのを諦めた。ちょっと兵には危険を冒させることになったけど、相手がこちらに危害を加えるとは思えなかったからね。一人ずつでかなり広い範囲に展開した。それでようやく一人の兵が接触に成功した。といっても接触した兵が言うには、相手が困って出てきたっていうのが正しいのかな? 向こうから姿を現したそうだ」
「それで?」
「ヒューガという名は知らないって相手は答えた」
「そう……彼等が何をしているかは分かったの?」
期待していた答えは得られなかった。それを得たとしても、たちまちどうにかなるわけではないが。
「どうやら安全な場所を探して避難しているらしい」
「避難……何から避難しているのかな?」
「貴族とか奴隷商人だね。そういった者達からの襲撃を避けるためみたいだ」
イーストエンド侯爵家が接触したのは他の地域で暮らしていたエルフ。奴隷にされていたエルフではない。奴隷にされていたエルフにはハンゾウたち間者が同行している。イーストエンド侯爵家との接触など許さない。
「……それが大森林なんだね?」
「それは上手くはぐらかされたみたいだね。目的地は決まっていない。出来ればレンベルク帝国まで行きたいけど難しい、なんて言っていたらしい。レンベルクは確かに奴隷制度そのものを認めていない。そういう意味ではそれらしいけど、嘘だよね」
「だよね。レンベルクに行くには大森林を通るか、東方連盟を通るかだものね。大森林を通り抜けられるならレンベルクまで行く意味はないし、東方連盟に行くくらいなら、ここに留まった方が良いもの」
エルフにとって、もっとも安全な、実際はそうでもないのだが、場所はドュンケルハイト大森林。そこをあえて通過してレンベルク帝国に向かうなどあり得ない。では東方連盟はとなると、自ら危地に飛び込むようなもの。捕らえられて奴隷にされるだけだ。
「そう。イーストエンド侯爵領内にはエルフの奴隷なんていない。少なくとも私が知る限りはね。エルフにとっては安全な土地なはずだよ。それなのに彼らが領内に留まっている様子はない。やはり大森林だね。大森林に向かってエルフたちは移動している。そしてそれを誘導している人族がいる」
「大森林で何かが起こっているね?」
「そうなのだけど、それを確かめる術はない。さすがに大森林まで探索の手を伸ばすわけにはいかない」
伸ばしたくても伸ばせない。ドュンケルハイト大森林は間者といえども無事に戻ってこられる可能性が低い場所なのだ。
「仮に出来たとしてもやらないほうが良いね。パルスの兵が森に入ったなんて知ったら、エルフたちの反発が凄そうだもの」
昔の出来事とはいえ、長命のエルフの中には実体験として知っている者もいる。そうでなくても、エルフ族の苦難のきっかけを作ったのがパルス王国の侵攻であることは全てのエルフが分かっているはずだ。
「そういうことで、悪いけどこれ以上調べるのは難しい。あとは父上から聞くしかないね」
「……伯父様が何を知っているの?」
「エルフの件はこの領内だけじゃないみたいだ。もっと大規模で何かが起こっているようだよ」
「えっと、どういう事かな?」
「各地で奴隷商人への襲撃が起こってる。表沙汰になっていないものも含めれば相当な数に上るらしい。それだけじゃなくて貴族への襲撃もね。こっちはほとんど表沙汰になってない。それはそうだよね? 非合法の奴隷を所有していましたなんて言えるはずががないから
「そうだね……」
「襲撃犯はほとんどが死んでいるらしいけど、生き残った何人かの証言がどうやら得られたらしい」
「その死んだ中に……」
「ごめん。そこまでの情報は入ってない。でも父上ならもう少し詳しい中身を知っていると思う」
「そう」
クラウディアが気になるのは、その死んだ襲撃犯の中にヒューガがいないか。だがチャールズは、実際には父であるイーストエンド侯爵でも生存は確認出来ていないだろうと思う。
表沙汰になった事件は極一部に過ぎず、闇に葬られたものも多いはずだ。もし、その中でヒューガが討たれていたら、情報は得られない。
「……父上はもうすぐこちらに来る予定だから、その時に聞いてみよう」
「戻ってくるの?」
「そうなんだ。その件の報告もある。魔族領への侵攻がいよいよ始まる。実際にはもう兵は王都を出ている頃かな」
「……ねえ、そんな状況で伯父様は王都を離れていいの?」
いよいよ魔族との本格的な戦いが始まる。その重要な局面でイーストエンド侯爵が領地に戻ってくるというのは意外だった。
「詳しいことは連絡が来ていないけど、東がそろそろ本格的に問題になりそうらしい」
「傭兵王ね?」
「そう。傭兵王が動くとしたらパルスが魔族領への侵攻を始めた時だろうっていうのが父上の考え。僕もそう思う。傭兵王はパルスが東に介入できなくなる状況を待っているはずだ」
「でも伯父様が戻ってくるほどの状況なの?」
東方でも戦乱が起きようとしている。それが問題であることはクラウディアにも分かるが、はたしてイーストエンド侯爵が領地に戻る必要があるのかは疑問だ。
「それが……何かおかしいんだよね? 領地に戻るのは父上だけじゃない。ノースエンド伯もウエストエンド侯も領地に戻る。サウスエンド伯は領地には戻らないけど、魔族侵攻軍への物資輸送任務に就くことになった」
「それって……」
「あきらかに不自然。四エンド家を王都から引き離そうとしているとしか思えない」
何らかの意図が働いてる。領地にいて王都の状況を知らないチャールズでもこれくらいはすぐに分かる。問題は自分の父親を含めて四エンド家が、まんまとしてやられたかもしれないということ。そんな力を持つ者がいるとすれば驚きだ。
「……新貴族派じゃないよね?」
「どうしてそう思うのかな?」
「軍の編制は最終的には王の裁可によって決まるとはいっても、その前に高官たちでの協議があるよね? 伯父様たちはその協議で負けたのよ。つまり有力貴族派とされている人たちの中から、裏切り者が出た」
パルス王国で事が決められる過程をクラウディアは知っている。その過程において四エンド家が専横と他勢力に批判されるくらいの大きな影響力を持っていることも。
「……その可能性は高いね。数を考えればそれしか考えられないか」
「新貴族派は有力貴族派が持っている地位が欲しいのよ。有力貴族派を引き込もうとするかな?」
「でも、自分たちの意見を通すには数が力だよ。それくらいしそうな気がするけど」
「うーん。でもな、私が知っているグラン殿って、あれで結構真っ直ぐな人のような気がするの。取り込もうとするにしても清廉な人を選ぶと思うの。有力貴族派で清廉な人って実は四エンド家だったりするよね?」
「まあ。言いたくはないけどそうだね。有力貴族の悪名は四エンド家以外の貴族が全てだから」
絶大な権力を持っている。だからといってそれを利用して私腹を肥やそうとするかは別だ。少なくとも四エンド家は、周囲はそう見ていないとしても、私欲の為に権力を行使しているつもりはない。
広大な領地を所有しているので真面目に領政を行っていれば、豊かになれるという理由もある。中途半端に権力だけを持っている有力貴族家のほうが悪事に手を染めているのは事実だ。
「それをグラン殿が行うかな?」
「……グラン殿は失脚しているよ。彼はもう新貴族派の主導的立場にはいない」
「そうなの?」
「王都に戻ってすぐに拘束された。不正貴族の糾弾、その行為に逆に不正があったという罪に問われてね。告発したのは新貴族派。内部争いだね。でもそうか。それが行われたってことは、新貴族派に新たな主導者が立ったってことだね」
「……アレックス殿じゃあないね。主導者の位置にはアレックス殿がいるにしても、彼にこんな工作が出来ると思えないわ」
アレックスに四エンド家を出し抜けるような策を弄することが出来るとは、クラウディアには思えない。
「他に誰がいるかな? 正直、僕には思いつかない。新貴族派の武の中心である近衛第一大隊長、宮廷筆頭魔法士に代わる者。そんな人間が新貴族派にいたかな?」
「新貴族派以外なら心当たりがあるわ」
「新貴族派以外で?」
「ひとりは陛下。陛下はこれまでも新貴族派の動きを止めようとしなかったよね? 消極的支援っていって良い感じね。それを自身が主導的な役割に立つことにした。陛下であれば有力貴族の一人や二人、寝返らせることが出来るはずだよね?」
「……そうだね」
クラウディアの説明を聞いてチャールズは驚いている。良く思い付く、というだけではない。自分の実の父親をここまで冷静に分析出来ることに驚いているのだ。
これはチャールズに足りない、足りないと父上であるイーストエンド侯爵から言われていること。組織の長として、私情を廃して、冷徹な判断を下す能力に近い。
「もう一人。こっちのほうが厄介だね。エリザベート様。この方は策謀という意味では手段を選ばなそうな人だから、これくらいやってしまいそう」
「エリザベート様? あの方はそんな人なのかい?」
「そっか、チャールズは知らないよね? エリザベート様がやった事、やろうとした事は王宮の中で隠されているものね」
「どうしてかな?」
「公になるとローズマリー様の立場が悪くなるから。でも伯父様は知っていると思うわ。私よりもずっと」
王位継承順の一位はクラウディアだったが、彼女には魔族の影響を受けているのではないかという疑いがかけられていた。その疑いが晴れない限り、晴れることはないのだが、ローズマリー王女が実質的には一位。その王女の母親を公に罰するわけにはいかない。
「……エリザベート様はどうしてそんな真似を?」
「王妃になりたかったじゃないかな? もっとも王妃になって何をしたいのかというのが問題だけどね」
「何をしたいのだろう?」
「さあ、さすがにそこまでは分からないよ。でもパルスを思ってのことじゃないよね? そうだったら周りが邪魔するはずがない」
これは、間違いではないが、全面的に正しくもない。何の為であろうとエリザベートが行うことなら全て邪魔しようとする者もいた。
「……そのエリザベート様が今回の件を主導している? クラウはそう思っているのかい?」
「その可能性がある程度だよ。断言は出来ない」
「可能性があるとして、何故、今回の件で割り込んできたのだろう? 新貴族派につく理由が分からないな」
「……私のせいかも」
「クラウの?」
「そう。今、パルスの王位継承権はローズマリー様しか持っていないわ。権力を握るには絶好の機会よ。新貴族派だろうが有力貴族派だろうがどっちでも良いのよ。王権は本来その上にあるものでしょう? ただ今のパルスの現実は必ずしもそうじゃない。そうなると協力するのは弱い方とよね」
それだけではない。何もしなくてもローズマリー王女は王位に、もしくはその伴侶が王位に就くことになる。それではエリザベートは困るのだ。玉座に就くのを助けてこそ、その後の影響力が得られる。しかも本命以外を玉座に就けてこそ。それがアレックスだったということだ。
「どうして? 弱い勢力と組んでも、負ける可能性のほうが高いよ?」
「弱い方に手を差し伸べてこそ相手に感謝されるもの。ましてそれで勝てたとしたら、影響力は相当に強くなるわ」
「……クラウって顔に似ず策謀家なんだね」
「えー、そんなことないよ。チャールズが生真面目すぎるのよ。今説明したのは当たり前のことだよ?」
「そう……どっちにしても王家が出てきたってことだね?」
「そうだね。目的は全然違うけど」
「王家の力を高めようってのは同じだよね?」
「エリザベート様が強めたいのは王家の力じゃなくて自分の力だけだよ。そして、その最大の障害は……さすがにこれは言葉に出来ないね」
エリザベートの最大の障害は国王だ。国王の妃という立場があるからエリザベートは城にいられるのだが、それに関しては別の理由があれば良い。ローズマリーの母、王母という立場だ。
チャールズもこれくらいはすぐに分かる。そうなると不安が胸に湧き上がる。
「クラウは良いのかい?」
「……良くはないけど、私には何も出来ない」
「イーストエンド侯爵家の力を使えば良い。自分で言うのも何だけど、結構な力があるはずだよ。僕の力じゃなくて、父上の力だけど……」
「……それは出来ないよ」
「どうして? 頼んでみるくらいはしても良いと思うけどな?」
クラウディアはいつものように余計な気を使って、遠慮している。チャールズはそう考えたのだが。
「頼むことも出来ない」
「遠慮なんていらないさ。父上だって少しは考えてくれるはずだ」
「……伯父様はもう決めている。王を捨てても国を守るって」
「えっ……?」
「そうじゃなければ領地に戻ってこないよ。伯父様はきっと陛下よりも国そのものを守ることを選んだのよ。下手に王都に残っていたら自分も巻き込まれる可能性がある。自分に何かあったら東を守れないかもしれない。そうであるならば難を逃れて、東の守りに専念しよう。今回の件はそういうことなのだと思うわ」
話を聞いたチャールズは、クラウディアの言う通りなのだろうと考えた。
四エンド家は国の盾。その使命を忘れてはいけない。その使命の前には爵位や栄達など何の価値もない。国の難事には全てを捨てて盾の使命を全うせよ。
これは幼き頃よりイーストエンド侯爵家の嫡男として叩きこまれてきた教えだ。
「すまない」
「どうして謝るの?」
「父上はイーストエンド侯爵家の長としての使命を全うしようとしている。その為に王を、クラウの父上を見捨てようとしている」
「……それは一家の長として仕方ないことだよ」
「でも……」
「ありがとう。その気持ちだけで十分。チャールズは優しいね」
「優しいだけじゃね」
優しいだけでは家を保つことは出来ない。優しいだけではクラウディアを守ることは出来ない。彼女を守りたい。これは従兄妹としての気持ちではない。こんな気持ちを抱くことは許されない。それが分かっていても、それで想いが消えるわけではない。
「……そうだ。ひとつ良い話題がある」
「何?」
「王都の貧民区が火事で焼失した」
「嘘?」
「嘘じゃない。貧民区のほとんどが焼けたみたいだ。公にはなっていないけど、放火みたいだね?」
「……それが良い話題?」
クラウディアは貧民区と関わり合いがある。ヒューガを通しての関わり合いであるので、彼女自身はそれほど深い関係ではないが、それでも知った顔は何人もいるのだ。
その貧民区が放火されたなんて話題は、良いことのはずがない。
「これだけだと悪い話題だね。安心して良いよ。クラウの知り合いたちは多分、全員無事だから」
「良かった……でもやっぱり」
「最後まで聞いて。なんか随分と強かな人たちなんだね? あらかじめ予測していたと思えるくらいに用意周到だったみたいだ。詳細までは分からないけど、どこかに隠れていて火から逃れただけじゃなくて、どさくさに紛れて王都を脱け出したみたいだよ。今は東に移動している」
「東?」
「そう。きっと目的地はここだ。クラウが良ければ、こちらからも迎えを出そうと思っているけど、聞くまでもないよね?」
「うん、お願い」
今日初めてクラウディアの表情に心からの笑みが浮かんだ。
「じゃあ、すぐに迎えを出すよ。もしかしたら父上と合流して来ることになるかもしれない。到着は一カ月後くらいかな」
「……騒がしくなるよ」
「そうなのかい?」
「チャールズは大丈夫かな? 子供たちとうまくやれれば良いけど……」
この言葉は自分自身に向けたものでもある。貧民区の人たちとクラウディアの関係は浅い。ただ顔を知っているというだけの関係なのだ。
「そこまで言われるとちょっと不安になるね」
「悪い子たちじゃない……ただ、ちょっと大人なだけだね」
「子供なのに大人?」
「会えば分かるよ」
「そう。じゃあ僕も楽しみにしておくよ」
「うん」
物事が動き出している。これまで表に出ることなく、水面下で進められていた出来事の影響が目に見える形となって現れてきたのだ。今はまだそれぞれ小さな動きではあるが、やがてそれらは触れあい、重なり合い、大きなうねりとなって大陸を飲み込んでいく。
そのうねりにクラウディアとチャールズも巻き込まれていくのだ。