クレインに知らされた母親の真実の姿はグレンの心に大きな傷を与えた。だが、そのことがグレンとヴィクトリアの距離を縮めるきっかけにもなり、グレンに一つの小さな決断を促すことにもなった。
通された部屋。そこにある小さなベッドで眠る赤子を気難しそうな顔でグレンは見詰めていた。
「お前な。それが自分の子供を初めて見る親の顔か?」
そんなグレンにヴィクトリアが文句を言ってくる。
「いやあ。こうして見ても信じられなくて」
「ヴィクトルはお前の子だ。それを疑うのか?」
「そうじゃない。そうじゃないけど自分に子供がいるのが信じられなくて。探しても自分の子供だって印なんてないし」
こう言うとグレンは本当に、恐る恐るといった様子で、袖をまくって腕を見たり、お腹を覗いたりしている。
「……たまにお前が馬鹿に思える」
「たまに言われる」
「だろうな」
感動の対面とはほど遠い状況に、ヴィクトリアはやや不満げだ。
「どうすれば実感が湧くかな?」
「俺に聞くな。俺は自分の腹を痛めて産んだのだ。生まれる前から自分の子だと思っている」
「それはそうだ。男親はそうはいかないからな」
しかもグレンは、ヴィクトリアのお腹が大きくなっていく過程も出産の様子も知らない。自分の子供以前にヴィクトリアの子供だということも今ひとつピンと来ていない。
「そうだな。実感か……髪の色は二人共、銀髪だからな。瞳の色は」
「翠。つまりヴィクトリア似だ。ヴィクトルはヴィクトリア似だな。大丈夫か? 性格は俺に似ろよ」
「おい。失礼だろ」
文句を言いながらもヴィクトリアの顔にはようやく笑みが浮かんだ。
相変わらず恐る恐るといった様子だが、ヴィクトルの頬を指で突きながら話しかけているグレン。ようやく父親らしいところを見られて喜んでいるのだ。
「そうしていると父親って感じだがな」
「俺の実感は変わらない。どうも駄目だな」
「だからか? 今まで会おうとしなかったのは?」
今日までグレンは子供に会うことを様々な理由をつけて避けていた。それらの理由が嘘であることはヴィクトリアも気付いている。
「それは違う」
「じゃあ、何故だ?」
「ヴィクトルも一国の王だから。国王同士は対等でなければならないのに、子供の時を知られていると思ったら、きっとヴィクトルは気後れする」
「……お前、相手は赤子だぞ? それに成人まで会わないつもりだったのか?」
まさかの理由にヴィクトリアは呆れ顔だ。
「さすがにそこまでは。それに理由はそれだけじゃないから」
「後は?」
「ソフィアに子供が出来たら会おうとも考えていた」
ソフィアとの間には子供がいない。子供を育てられる状況ではないと意図してそうしていたのだ。そうであるのに別の女性との間に子供がいたという事実はグレンにとってかなり罪悪感を覚えるものだった。
「……ソフィア様か。それは分からなくもない。では、どうして会う気になった?」
ソフィアに対してはヴィクトリアも引け目がある。グレンがソフィアの気持ちを考えて会うのを避けていたというのは理解できる。だがそうなると、気持ちが変わった理由が気になる。
「親に愛された記憶のない子供は可哀想かなと」
やや皮肉を感じさせる笑みを浮かべながら、これを告げるグレン。その笑みの意味をヴィクトリアは、すぐに理解した。
「……もしかして自分のことか?」
「実際はどうだったかは知らないけど、記憶には残っていない」
「父親は?」
「ほとんど家にいなかった。たまに帰ってきても、相手をしてくれるのは剣を教える時くらいだったな」
「それが思い出ではないのか?」
父親から剣を教わるというのは、良い思い出だとヴィクトリアは思った。
「今思えば、父親は勇者だから、相当に手加減していたとは思う。それでも六歳の子供に木刀を打ち込んでくる鍛錬だからな。それを良い思い出って言えるか?」
残念ながらグレンは剣を教える父親からは愛情ではなく、恐怖しか感じていなかった。
「それは……だが、それ以外の時は?」
「無愛想な人で話しかけてくるのは用がある時くらいだ。その用も何かを持ってこい、その程度だった」
「それではな……では、母親は?」
父親との良い思い出はグレンにはない。そうであれば母親と思ったのだが。
「今、母親のことを聞くかな?」
その母親のことでグレンは昨日から酷く落ち込んでいるのだ。
「あっ、悪い」
「まあ良いけど」
「良いのか?」
「少し気持ちの整理はつけた。母親はとにかく厳しかった。勉強を教える時も剣を教える時も。優しさなんて微塵も感じられなかったな」
母親に対するグレンの記憶も父親に対するそれと変わらない。一緒にいる時間が父親より長かった分、厳しさの印象は強いくらいだ。
「普段は?」
「……考え事してたな。その考え事をたまに俺に向かって話していた。話の内容は、子供に話すようなことじゃない。当時は意味なんて分からなかったけど」
今はそれが何であったか少し分かる。母親は常に人を貶める方法を考えていたのだ。
「……そういうことか」
「親と遊んだ記憶がとにかくない。愛されたと思える記憶もない。だから、あんな話を聞くと、もう全てが信じられなくなる。そういう思いは自分の子供にはさせたくない。長くなったけど、それが会おうと思った理由だ」
「そうか……整理を付けたとは?」
「どうしても話をそれにしたい?」
「気持ちを知っておきたい」
少しでもグレンの気持ちの支えになること。それが妃である自分の役目だとヴィクトリアは思っている。正妃であるソフィアがいない今、それを行うのは自分しかいないのだ。
「……じゃあ、説明すると。俺は勉強も剣も小さい頃から叩き込まれた。勉強は簡単なものだけど剣はかなりだな。もっと言えば魔導術式も」
「何だって?」
魔導術式が使えることをヴィクトリアは知らなかった。ウェヌス王国との戦いでグレンは、夜襲などの銀狼兵団単独での戦闘以外では一度も使っていなかったのだ。
「俺は、ちょっとした魔導術式も使える」
「お前という奴は……まあ良い。お前だからな。要は英才教育を受けていたということだな」
「そうなる。それのおかげでウェヌス国軍で働けるようになったのだから、教わった意味はあった。ただ、それは両親が亡くなったから役立ったわけで、そうでなかったら? 両親は俺に何をさせたかったのだろう? これが悪い考えの一つ」
「一つって……」
「ああ、これが俺の心の整理の付け方だから、一つ一つ事実を確認して、それを受け入れるか、もしくは一つでも良いから自分にとって良い事実を見つける。それが真実であるかのように論理づけて、それで気持ちを納得させる。こんな感じ」
「……面倒くさいな」
面倒くさいと思う気持ちだけでなく、それで気持ちの整理がつくことが不思議でもある。
「うるさいな。俺のやり方だ」
「確かにそれで整理が付けられるなら良いことだな。それで後は?」
気持ちというのは論理的に整理出来るものではないとヴィクトリアは思うのだが、これは口にしなかった。触れてはいけない部分であるように思えたからだ。
「俺の腕には小さい頃から腕輪が嵌っていた」
「腕輪? それがどうした?」
いきなり腕輪の話になって、ヴィクトリアは戸惑っている。
「普通の腕輪ではなかった。力を押さえる魔道具だな」
「魔道具……」
「母親が作ったのだろうな。それが魔道具だと分かった時、それは俺に勇者の子ではなく普通の生き方をして欲しいと望んでいたのだと受け取っていた。でも、だったら何故、あんなに厳しく鍛えたのかと疑問に思う。やっぱり何かに俺を利用しようと思っていたのかという疑いが浮かんでしまう」
「悪いことばかりだ」
「良いことで見つかったのは一つだ。両親は殺される時に俺に隠れろと言った。俺が剣を使えることを知っているのに、自分たちを守れではなく隠れろと言った。それが信じられるただ一つの出来事だ」
「それは間違いないな。自分の命よりも子供の命を大切にする。親として子供を愛している証拠だ」
ようやくグレンの両親の愛情を知るエピソードが出てきた。少しホッとしたヴィクトリアだったが。
「ただよくよく考えたら、フローラを守れだったのかもしれない」
「……どうしてそれを思いついてしまうのだ?」
「それでも好意的に全く受け取れないわけではない。愛されていた可能性もあるわけだ」
「それで整理が付いたのか?」
これであれば論理的でも何でもない。そうであって欲しいという願望からくるものだ。ただこのほうが人間味は感じられるとヴィクトリアは思ってもいる。
「別のことも考えた。どちらかと言えば、これの方かもしれない」
「何だ?」
「何の根拠もないことだが、俺の母親は父親を王にしたかったのではないかと考えた」
「……その為の謀略を?」
「そう。その謀略そのもので王にするのか。それとも今の俺がそうであるように、それを破ることで王にするのか。どちらであっても父親を王にするという目的であれば、最悪ではない」
少なくとも母親には父親に対する愛情があったのだと思える。動機は愛情ではなく、利己的なものかもしれないが、それでも道楽で人を殺すよりは、目的があるだけマシだ。
「そうなるとお前は父親が歩む道をたどっていることになる」
「あっ、気にしていること言うかな? それは俺にとって最悪だから、心の隅に置いておこうと思ったのに」
「そこまででは無いだろ? 親の意思を継ぐというのは悪いことではない」
「母親の手のひらの上で転がされているとしたら最悪だ」
軽い調子で話しているが、グレンにとってはかなり重い問題だ。自分の進んできた道が自分のものではないなど、決して受け入れられるものではない。
「……そういう表現もあるな」
「ほら」
「結局、何の整理も付いていないではないか」
「……情報が少ないから結論にはまだ早い。そういう整理だ」
何をどれだけ考えても結論が出るとはグレンは思っていない。真実を知る母親はすでに亡くなっている。そして恐らくは母親の思いを知る者もいない。父親以外に存在するとは考えられないのだ。
「つまり先送りだな」
「だから、どうして悪い表現を使う?」
「無意識だ。気にするな」
「……その前に意識しろ。ここはまだ気を遣うところだろ?」
ヴィクトリアの先送りという表現は正しい。どうにも結論が出そうにないので、気持ちが揺れないように脇に追いやっているだけだ。
「では、そうする」
「まあ、どうでも良いけど。動揺が収まれば、案外、冷静に考えられるものだと分かったから」
「そういうものなのか?」
そう簡単に割り切れることなのかヴィクトリアには疑問だ。
「少なくとも俺はそう。何だかんだ色々な経験をした事が役に立っているのかもしれない」
「そうか……では、一つだけ聞いて良いか?」
胸に浮かんでいる不安をヴィクトリアは思い切って尋ねてみることにした。
「何を?」
「……お前は大丈夫なのか?」
「大丈夫?」
「話に聞いたような母親に育てられて、人を人として見ることが出来るのか? 人付き合いもなかったであろう?」
グレンも母親と同じなのではないか。これがヴィクトリアには心配で仕方がない。感情まで論理的に整理しようとするのは、そういうことではないのかと思ってしまう。
「……どうだろ? 人として見ているとは思っているけど、正直、自分ではそれが人並みなのか分からない」
「そうか。でも見ている自覚はあるのだな?」
「まあ。フローラがいたからな。全く人と触れ合わなかったわけじゃない」
「そうだったな……」
グレンにはフローラがいた。守りたいと思う大切な存在がいた。それをヴィクトリアは知っている。そして今、フローラの存在の重さを知った。
「フローラのおかげはあるな」
クレインの言う人としての温かみが自分にあるとすれば、それはフローラのおかげ。グレンはそう思う。
「……妹だからな」
血のつながりがあれば当然。そんなつもりでヴィクトリアはこれを言った。
「まあ。でもフローラは養女だ。血のつながりはない」
血のつながりがないから、母親とは違っていられるのかもしれない。グレンはそのつもりでこれを言った。
「養女だったのか?」
「そうだ」
「……ほう。それで養女だと知ったのは?」
結果、ヴィクトリアの嫉妬心は膨れ上がることになる。妹だから仕方ないと思えていたことが、そうではないと分かったのだ。
「養女に来た時から。つまり最初からだな」
そのヴィクトリアの変化にグレンは気が付かないまま、隠すことなく真実を答えてしまう。
「ほう」
「……何?」
ヴィクトリアのこめかみにわずかに浮いた青筋を見て、グレンもようやく不機嫌になっていることに気が付いた。だがその理由が分かっていないグレンは怪訝そうな表情を見せている。
「つまり、お前は血のつながりがない相手を世界一大切だと言っていたのだな」
「だから、何?」
「鈍感! これはヤキモチだ! これくらい気が付け!」
「はっ?」
ヴィクトリアの口からヤキモチという言葉が出てきたことにグレンは驚いている。
「お前、亡くなった妹のことが好きだったのか?」
「そう言っている」
「よくも抜け抜けと……」
ヴィクトリアのこめかみの青筋がはっきりとしている。怒りが強まった証だ。
「いや、だから妹としてだ。義理であってもずっと兄妹として生きてきたんだ。血のつながりがあるなしなんて関係ない」
これは嘘。兄としてか男としてかの結論はグレンの中でもついていない。だが、それを正直に言えないほど、ヴィクトリアの感情は明らかだ。
「本当か?」
「本当だ。しかし……ヤキモチね。へえ」
これ以上、追及されない為にグレンは話を逸らそうとする。
「……悪いか」
それにヴィクトリアは嵌まった。
「全然悪くない。そういう気持ちを持つのが意外だっただけだ。それを嬉しいと思う自分が少し照れ臭いかな」
「そ、そうか」
グレンの言葉にヴィクトリアは恥ずかしそうに俯いてしまう。こんな反応を見せられると、グレンもただ話を逸らす目的だけではなくなってしまう。
「……またデレてる。もしかしてわざと見せているのか?」
「わざと? ……そういう意識はないが」
「そうか……まあ、良いや」
グレンはヴィクトリアの後ろに回って、背中から抱きしめていく。
「おっ、おい」
「ちゃんと自分は両親が愛し合って出来た子だと思えたほうが良いと思わない?」
「それは……」
グレンはそう言うが、ヴィクトルは二人が愛し合って出来た子供ではない。当時のヴィクトリアはただ勇者の血筋をという思いしかなかった。
「別に生まれた後からだって良い。愛し合っていると思ってもらえれば、それで良いと思う」
それはグレンも分かっている。ヴィクトルが成長していく中でどう感じるかの問題だと思っているのだ。
「そうだな……でも、グレン」
「何?」
「俺は子供の横で抱きしめられるのは良いが、抱かれる趣味はないぞ」
「……駄目か」
「当たり前だ!」
グレンはヴィクトリアのパンツのボタンを外そうとしていた手を仕方なく離した。
◆◆◆
ルート王国の王都ルーテイジの執務室で、ソフィアは複雑な表情で手紙を呼んでいた。その前でじっとその様子を眺めているのはシャドウだ。ソフィアが読んでいる手紙はシャドウが運んできたものだった。
やがて、読み終わった手紙を折りたたんでしまうと、ソフィアはシャドウに視線を向けた。
「手紙の中身は知っているのね?」
「いえ。全く」
「えっ? そうなの?」
全てではなくても概要は聞いてきているものとソフィアは思っていた。
「はい。陛下が思い詰めたような顔をされていたので、只事でないのではないかとは思っております」
「そう……ヴィクトリア様の手紙の内容も?」
「中身を言付かってはおりません」
「そう……」
ソフィアの表情が困惑したものに変わる。シャドウに相談しようと思ったのだが、中身を知らされていないと聞いて、話して良いものか悩んでいるのだ。
「何か大きな問題が?」
「どうかしらね? 国としては何の問題もないと思うわね。でもグレンにとっては問題かも」
「陛下の問題は国の問題ではありませんか?」
特にルート王国は国とも呼べない小さな国で、グレンの存在が全てといえる。グレン個人の問題が国政に直結してもおかしくない。
「この件は直接の関係はないと思うわよ。それにあったとしてもグレンが何とかするわよ。そういう内容ね」
「そうですか。読まれている間、表情がすぐれなかったので」
「ちょっと複雑なの」
「はい……」
「夫であるグレンの手紙で頭に来て、競争相手である側妃の手紙で慰められるってどうよ?」
「はっ?」
思っていたのとは全然異なるソフィアの悩みにシャドウは戸惑ってしまう。
「どう思う?」
「いや、内容が分かりませんので、何とも」
「それもそうね。簡単に説明するとグレンの母親には少し問題があって、そのことが私にも関係ないことではなさそうなの。そのことが許せないなら、自分を嫌いになってもかまわない。これがグレンからの手紙。嫌いになんてなれるはずがないのに、こんなこと書いてくるなんて無神経よね?」
「はあ……」
これだけではシャドウにはさっぱり分からない。グレンの母親が生きていれば、ただの嫁姑問題であるようにも聞こえてしまう。
「ヴィクトリア様の手紙は、グレンを長く引き止めていることのお詫び。グレンが自分の子供に会ってくれて嬉しかったということ」
「それは……」
ソフィアの気持ちを慮って、シャドウは言葉を発することが出来なかった。
「平気よ。続きがあるの。グレンは私に子供が出来るまで会わないでいようと思っていたことを教えてくれたの。それでも会う気持ちになった理由も説明してくれている。更に、グレンを引き止めていることで子供を作る邪魔をしているって、二度目のお詫び」
「そうですか」
ヴィクトリアに対する悪意がソフィアにないようだと知って、シャドウはホッとした様子だ。
「もう、すごい気の遣いよう。ここまでする必要ないのに」
「それは気になさらずに」
「だって」
「ヴィクトリア様ご自身の為でもあるのです」
「そうなの?」
自分に気を遣うことがどうしてヴィクトリアの為になるのかソフィアには分からない。
「お二人の関係が悪いと思えば、陛下はヴィクトリア様に近づかなくなるでしょう。それはヴィクトリア様の望むことではございません」
「……逆かもよ」
シャドウのように思える自信はソフィアにはない。
「ソフィア様。陛下が一番に考えているのは正妃であるソフィア様です。それを疑う必要はないと思います」
「疑っているのではないし、私は自分が何番かなんて関係ないのよ」
一番であることを望んではいけない。グレンと付き合い始めた時からずっとソフィアはこれを心掛けてきた。この気持ちは今もそのままだ。
「ソフィア様は……まあ、止めておきましょう。陛下のお相手に順番を付けるなど、不敬ですし、そもそも陛下はそういうことを考えられていないでしょうから」
「でしょうね。私もそう思う」
「ゼクソンに行かれますか?」
「えっ?」
「陛下とお会いになって、色々とお話をされたほうが宜しいのでは?」
離れていれば不安は募るばかり。こう思って、シャドウはゼクソン王国行きをソフィアに提案した。
「そうしたい……けど、駄目ね。私の国はルート王国よ。王であるグレンがいない間は私が、何も出来なくても、私はいなければならないのよ」
「……はい。愚かなことを申し上げました。お許し下さい」
シャドウはソフィアに向かって恭しく頭を下げた。ソフィアには王妃として至らないところは山ほどある。だが、ソフィアのこういうところは紛れもなく王妃なのだとシャドウに感じさせる。
「良いわよ。悩んでいるのは、そのことなの。さっきも言った通り、順番なんてどうでも良いの。元々、私は二番目だったからね。それでも側にいられるだけで良いと思った。今もそう」
「しかし、ソフィア様は正妃であって」
シャドウが思う王妃として一番足りないところはこれなのだが、なかなかソフィアには通じない。
「そのことよ。私が正妃で良いのかな? 国王としてのグレンの隣にはヴィクトリア様の方が相応しくないかな?」
「……もしかして私のせいでしょうか? 私が陛下の正妃に相応しいものをなどと申し上げたせいで」
「全くないとは言わない。でも、シャドウに言われなくても、いずれ思ったことよね。それが少し早くなっただけ。そして、それは悪いことじゃないわね」
元大陸を統べる皇帝家であったセントフォーリア家の血を引いているというだけで、ソフィアは皇女としての教育をきちんと受けてはいない。それどころか成長してからは盗賊に交じって暮らしていたくらいだ。
男としてであっても、王族として育てられたヴィクトリアにはどうしても引け目を感じてしまう。
「そうですが、別に今すぐどうということでもありません。やはりお詫びするべきことです。間者の身で意見など身の程を知らない仕業でございました」
「それグレンの前で言ったら怒られるから。立場に関係なく、全員が宰相のつもりでやれ。グレンが皆の前で言った台詞よ」
「全員が宰相ですか。しかし、それは」
「ちょっと言い方が極端ね。でも、これはグレン自身の心構えだと思うわよ。まだグレンがウェヌス国軍の小隊長だった頃に言われたそうよ。視点を一段上にして物事を考えろって」
「それは、親しかったトルーマン元帥の言葉ですか?」
「いえ。別の小隊の小隊長ね」
「その言葉をですか」
今では王となったグレンが平民である小隊長の言葉を守っている。シャドウには少し驚きだった。
「グレンにはそういうところがあるのよ。それが正しいと思えば、誰の言葉であっても大切にする。それが、グレンをグレンにしている理由ね」
「陛下を陛下にとは?」
「人が流してしまうような言葉や情報をグレンは頭の中に留めておくのよ。そして、それを何かの時に引き出してくる。何て言うのかしら、得た経験や知識を無駄にすることをしない、そんな感じね」
それだけでなく、些細な情報をいくつも組み上げて、一つの形にしていく。それが謀略となり、その逆に相手の謀略を破る材料にもなる。
「なるほど。だから、いきなり王となっても、何か事が起こっても、それに対処出来るわけですか」
「そうね。常に一歩上で一歩先を考える。その為に必要な知識は貪欲に吸収する。それがグレンの凄さね」
「……やはりソフィア様は、陛下のことをよくご存知です」
「付き合いが長いだけよ」
「それが大切なのではないですか? 王とは孤独な存在です。それを支えるのは、ただガムシャラに……また偉そうなことを申し上げるところでした。王がどういうものかなど分かっていないくせに」
支える形には色々ある。共に考え、戦うことだけではなく、ただ側にいるだけでも相手にとっては支えになることも。
「そうなの? 私にはよく分かっているように思えるけど」
「形ばかりのものです。本来は仕える相手と本当の意味で思考を合わせることが出来れば良いのですが」
「それって、難しくない?」
「難しいです。特に陛下はお考えを読むことが出来ません。それが悔しくもあり、嬉しくもあります」
「悔しいは分かるけど、嬉しいって?」
「少々、不遜な物言いになりますが、考えが簡単に読める相手では、お仕えし甲斐が変わってきます」
間者に徹しようとしていても、人である以上は感情はある。この人に仕えたいと思える相手が主であって欲しいと思う気持ちは、完全に消し去ることは出来ない。
「シャドウってグレン好みね」
「はっ?」
「グレンはそういう職人気質な人が大好きなのよ。それも不思議なのよね。本人は万能っぽいのに、それが嫌なの。何か一つに特化したいという気持ちがあるみたい」
「……あらゆる分野で特化しているようにも思えますが」
「専門家には勝てない。そういう気持ちがあるのよ。ただグレンが人とズレているのは、グレンの努力は、その専門家の努力を超えていたりしているところね。しかも、本人はそれに気が付いていないの」
「……分かるような気が致します」
楽しそうにソフィアは話しているが、シャドウにとっては改めてグレンに仕えることの難しさを思い知らされる内容でもあった。
「全く、とんでもない男に惚れちゃったわね。でも後悔はない。出会えて良かったと心の底から思っているの」
「はい」
「話に付き合ってくれてありがとう。そうなのよ、グレンがどこまで突き進もうと私はただ付いて行くだけ。それを思い出せた。それで良いのよ」
「はい。私もそう思います」
ただ付いて行く。ソフィアの心は、それを思い出しただけで晴れ渡った。
そして、その理屈も打算もない真っ直ぐな心こそがグレンがソフィアを受け入れ、妻にしたい、家族になりたいと思わせた理由だった。
この人だけはずっと自分を愛し続けてくれる。こう信じさせてくれるソフィアは、王妃としては至らない点は多々あっても、妻として、家族としてはグレンにとってなくてはならない存在なのだ。