月の文庫ブログ

月野文人です。異世界物のファンタジー小説を書いています。このブログは自分がこれまで書き散らかしたまま眠らせていた作品、まったく一から始める作品など、とにかくあまり考えずに気の向くままに投稿するブログです。気に入った作品を見つけてもらえると嬉しいです。 掲載小説の一覧(第一話)はリンクの「掲載小説一覧」をクリックして下さい。よろしくお願いします。 

勇者の影で生まれた英雄 #71 交渉の使者

異世界ファンタジー小説 勇者の影で生まれた英雄

 エステスト城砦から撤退して地方軍の駐屯地に勇者軍は戻った。
 ただちに開かれた軍議。その席上でずっと健太郎は浮かない顔をしている。勇者軍の騎士の前では強がって見せたが、健太郎はグレンに手も足も出なかった。それに落胆しているわけではない。
 健太郎はあくまでも物語の主人公なのだ。

(……敵役に一度負けて、そこから自分を鍛えて最後には倒す。それはよくあるパターンだよな)

 こんな楽観的な思いを頭の中で浮かべていた。浮かない顔のように見えるのは、必死に考えているからだ。

(そうだよな。あわやという時に仲間の犠牲で命が助かる。これも良くある話だ。実際に絶妙なタイミングだったし)

 これでもう健太郎はグレンに負けたということに納得してしまった。そして、考えは次に移る。

(でも、グレンが敵役? 違うような気がするけどな。それにグレンは僕を恨んでいる。主人公が恨まれている相手を返り討ちって、ちょっとあれだな。そもそも恨みも間違いだし……)

 少し考えて健太郎の頭に一つの考えが浮かぶ。

(分かった。真実を知ったグレンは過ちを認めて僕の仲間になる。そして、一緒に本当の敵と戦うんだ)

 グレンもまた、健太郎の頭の中では物語の登場人物に過ぎない。

(本当の敵? まさか、フローラは殺されたのか? そうだとしたら、僕は絶対に犯人を許さない)

 犯人なんているはずがない。だが、そうでないと健太郎の中で設定が成り立たないのだ。

(グレンの誤解を解くには真犯人を見つけなければならない。その為には……無理だよ。今の状況で王都になんて戻れるはずがない)

 まったく意味のない悩みで、健太郎は頭を抱えてしまった。
 その様子を見ている周りの騎士たちは、まさか健太郎がそんな妄想で考え込んでいるとは知らずに、心配そうに見つめている。

(他に方法はないかな……そうだ。僕がどんなに真剣にフローラのことを思っていたのかを証明出来れば、きっとグレンだって分かってくれる)

 健太郎の顔に今度はほのかに笑みが浮かぶ。何か考えが浮かんだのかと期待した騎士たちの顔にも安堵が浮かんだのだが

(どうやって? グレンは全く僕の話なんて聞いてくれない)

 また一気に健太郎の顔が曇ったのを見て、落胆する羽目になった。

(……結衣の話なら聞いてくれるかな? そうか、それなら大丈夫かも。よし、結衣に相談してみよう)

 思い立ったらすぐ行動。健太郎の場合は多くの場合、これは欠点になる。席を立って、部屋を出ていこうとする健太郎を慌てて騎士が呼び止めた。

「大将軍! どこに行かれるのですか?」

「ちょっと結衣に相談したいことがあって」

「しかし、軍議はまだ始まってもいません」

「あっ……じゃあ、すぐに戻ってくるから、先に始めておいて」

 そのまま健太郎は、さらに引き止めようとする騎士を振り切って、会議室を出て行ってしまった。
 茫然とそれを見送った騎士たち。しばらくそうしていたが、一人の騎士が口を開いた。

「戦うのだろうか?」

「……難攻不落と呼ばれたエステスト城塞を? それは無理だ」

「そもそも何故、こんな事になったのだ? 話が違うではないか」

「まさか先行軍が負けるとはな。これでは何のためにわざと到着を遅らせたのか。弱ったゼクソン軍に我が軍がトドメを刺すだけのはずだったのに」

 この場にいる騎士は全てが元勇者親衛隊の騎士だ。彼らに戦意などない。楽をして、命を危険にさらさずに戦功だけをあげる。そんな都合の良い考えしか持っていない。

「恨まれていないよな?」

「恨み?」

「俺達はあの奴隷騎士に恨まれていないよな?」

 グレンと勇者親衛隊の関係は最悪だった。勇者親衛隊のほうから絡んでいったせいなので自業自得だ。

「……嫌なことを言うな。俺達は見ていただけだ」

「嘘をつけ。剣を抜いただろうが」

「……それだけでは恨まれないだろ? それに結果として、あの件で奴隷騎士から解放されたようなものだ」

「そうだよな。逆に感謝して欲しいくらいだ」

 あまりにも都合が良すぎる考えだ。

「……俺、あれの妹を攫う場にいた」

 もっと最悪なのはフローラの拉致に関わった者たち。

「残念だったな。諦めろ」

「他人事のように言うな! お前達だって似たようなものだろ?」

「なあ……」

「何だよ?」

「もしかして、グレッグとバトンは?」

「あいつに殺されたのか?」

 グレンではなく、ローズとその仲間たちによってだが、殺された理由は同じだ。

「……ありえるな。となると」

「止めてくれ」

「でもな。そうだとしたら、どうしてまだ無事なのだ? 二人のように王都で殺されていてもおかしくないのでは?」

「そうだ。おかしいだろ。つまり、あれだ。恨みは手を出したグレッグだけで終わったのだ」

「……そうだと良いな」

「きっとそうだ。そう信じよう」

「そうだな」

 類は友を呼ぶ。現実に生きているはずの彼らもまた、健太郎と同じ。極めて楽観的な性格だった。

 

◆◆◆

 騎士たちがそんな話をしている間に、健太郎はすでに結衣に話をしていた。それを聞いた結衣の返答は。

「嫌よ。どうして私がそんな危険な目に会わなければいけないのよ」

「我がまま言うなよ」

 我がままではない。当然の反応だ。

「自分で話をしに行きなさいよ。自分のことじゃない」

「聞く耳を持たない。そんな感じだった」

「……捕えるんじゃなかったっけ?」

 捕まえれば、嫌でも話を聞かせることが出来る。その為に、健太郎は出撃したはずだった。

「グレンが本気で切りかかってくるから。まさか僕も本気になるわけにはいかないだろ?」

「それでも捕まえるのが勇者じゃないの?」

「相手はグレンだ。どうしても手加減してしまう」

「へえ。でも強かったの? グレンって怪我してから腕がうまく動かないって」

「あれ? そう言えば……直ったのかな? 随分と時間が経っているし」

「まあ、そうね」

 なんてことを話しても何の意味もない。ただ思い付いたことを口にしただけ。結衣にとって今回のことは他人事なのだ。

「そんな事より、グレンと話をしてきてくれ」

 健太郎は他人事で終わられては困る。

「だから嫌よ」

「グレンに会えなくて良いのか?」

「……ずるくない?」

 人に頼みごとをする時には健太郎も無駄に頭が回る。それを言われた結衣に明らかに動揺が走る

「会いたがっていたのは結衣だ」

「だからって敵国の城になんて行けないわよ」

「使者だ。使者というのは身の安全を保証されるものだろ?」

「たまに殺される事もあるわよね?」

「グレンはそんな真似しない」

「……まあ、しないわね」

 訪れた使者を殺す。こんなことをグレンが行うとは結衣には思えない。誤解だ。必要であればグレンはいくらでもそれを行うだろう。

「じゃあ、良いだろ?」

「……考えても良いけど、何を話すのよ?」

「僕がどんなにフローラを愛していたか」

「貴方、私に死ねと言っているの? そんな事を話したら、あのシスコングレンは怒りだすに決まっているわよね?」

「そうかな?」

「そうよ」

「でも、グレンの誤解を解くにはそれしかないと思う。僕がどれだけ真剣だったかを知れば、フローラを傷つける事なんてしないと分かってもらえるはずだ」

「真剣ね……」

 健太郎の説明を聞いて、結衣は呆れ顔だ。

「何だよ?」

「フローラの事なんてとっくに忘れて、別の女をはべらせているくせに」

「それはフローレンスがフローラの面影を……そうか」

「何か思いついたの?」

「フローレンスを見てもらえば良いんだ。そうすれば、僕がフローラの事を思い続けていると分かってもらえる」

「……最低」

 フローレンスのことが嫌いな結衣だが、健太郎のこの考えにはさすがに同情を覚える。

「何が?」

「あの女まで危険な目に合わせるつもり?」

「危険じゃないから」

「じゃあ、グレンがフローラに似ているフローレンスを寄越せと言ったら?」

「それはさすがに」

「そうしたら許すと言ったら?」

「…………」

「うわっ、本当に最低ね。考えているし」

「そんな事ない! そもそも僕は許してもらうような事はしてない!」

 必死に言い訳をする健太郎。その必死さが、健太郎が何を考えていたかの証だと結衣は思う。

「そうかしら?」

「そうだ」

「ローズさんに乱暴させたわね」

「……僕がやらせたわけじゃない」

「でもやったのは健太郎の部下。部下の失敗は上司の責任」

「部下の成功は上司の功績、部下の失敗は部下の責任じゃなかったっけ?」

「……貴方、本当に最低ね」

「自分の事じゃなくて、言葉の話だ。とにかく悪い案じゃないよね?」

「健太郎にとってはね。自分は安全な場所で結果を持っているだけ」

 健太郎にリスクは何もない。そういう点では良い案だが、それはあくまでも健太郎にとって。リスクを負わされる結衣としては簡単には受け入れられない。

「大切なフローレンスを送り出すんだ。僕だって辛い」

「……言っている事が無茶苦茶ね。健太郎が大切なのはフローラなの? それともフローレンス?」

「フローラに似たフローレンス」

「ごめん、やっぱり嫌だ。どうして、私が貴方みたいな非道な、女の敵の為に危険な目に会わなければいけないのよ?」

「非道ってどこかだよ?」

「それが分からない健太郎が嫌」

 フローラに似たフローレンス。この言葉にはフローレンスへの愛情がない。実際にどうかは別にして、こんな言葉を平気で口にしてしまう健太郎の無神経さが結衣は気に入らない。

「はあ……じゃあフローレンスに一人で行ってもらうか」

「……本気で言っているの?」

「フローラに似たフローレンスなら、グレンは優しくしてくれるよ。何の危険もない」

「最低、最悪、正直、二度と顔も見たくない」

「……そこまで」

「そんな貴方の為じゃなくて、グレンに会うために行く」

 健太郎のことは気に入らないが、結衣は願いを聞くことに決めた。グレンに会うことは、結衣にとっての利がある。そう考えているのだ。

「本当! ありがとう!」

「御礼はいらない。健太郎の為じゃないから」

「それでも」

「部屋出て行ってくれないかな? 側に居られるだけで不快なの」

「……分かったよ」

 こんなやり取りがありながらも、結衣はエステスト城塞に向かう事になった。フローレンスも共に。

 

◆◆◆

 エステスト城塞に入ってからの銀狼兵団は、ただ敵が来るのを待っているだけではない。
ジャスティンたちは、城塞に備蓄されている物資の量を調べ、城塞に備え付けられている兵器の仕様を調べ、どれだけ戦えるか、何度も試算を繰り返していた。
 兵士たちもまた、城塞内に隠された抜け道や進入路がないか、隅々まで調べまくっている。
 周辺にウェヌス軍がいないうちにと何度も兵器の試し打ちを繰り返す。捕えたままの辺境領軍兵士は信用出来ない。自分達で運用できるようになる為だ。試射を行っては石や矢を回収する。これはかなりの重労働だ。
 そんな様子で兵たちが忙しく働いている城塞内を、それとは対照的にのんびりと歩く女性の姿があった。
 結衣とフローレンスだ。さすがにここまで二人で来たわけではない。馬車に乗り、周りを護衛に囲まれてやってきたのだが、城塞内に入るのを許されたのは二人だけ。それも護衛の騎士は見えない場所まで離れろと言う条件付きだ。
 もっとも結衣の方はそんなことは気にしていない。健太郎には散々、文句を言ったが、結衣も自分が殺されるなんて少しも考えていないのだ。

「ねえ、まだ歩くの?」

「目の前の建物。その最上階になります」

「最上階って、なんだか偉そうね」

「……グレン殿は兵団の団長ですから。当然ではないかと」

「そう」

「さあ、この建物です」

 兵士に扉を開けてもらって結衣とフローレンスは中に入った。

「正面の階段を最上階まで登ってください。左側の部屋に団長はいらっしゃいます」

「案内してくれないの?」

「仕事がありますので。それと案内などなくても階段を昇るだけです」

「見張らなくて良いの?」

「必要ですか? 団長からは何かやるようなら女だろうと容赦なく殺せと許可が出ておりますが」

「…………」

「では、どうぞ」

 兵士の言葉に動揺しながらも結衣は建物の中に足を踏み入れた。フローレンスもすぐ後ろに続く。言われた通りに階段を昇っていくと確かに左側に扉があった。
 その扉を恐る恐る開く結衣。

「部屋に入る前は声をかけるか、扉を叩いて合図くらいするのでは?」

「あっ、ごめん。なんだか人気がないから」

「それといきなり部屋に入ってくるのは関係ないな。まあ良い。どうぞ。ソファーに座ってくれ」

「ええ」

 結衣に遠慮などない。グレンがいたことで気持ちがほぐれたのか、ソファーに深々と腰掛けて、座り心地を確かめている。
 さすがにフローレンスはそうはいかない。遠慮がちに入り口のすぐ脇に立って、俯いていた。

「……あれ?」

 そのフローレンスを見て、グレンが反応した。その反応は結衣にとって半分驚き、半分喜びといったところ。似ているとはいっても、さすがにグレンは何とも思わないだろうという予想が外れたのだ。

「似ているでしょ? 名前もね、フローレンスというの」

「フローレンス? そのフローレンスがどうしてここに?」

「健太郎の恋人なの」

「……本当に?」

「本当よ。ねっ、そうよね?」

「……御寵愛を受けております」

「御寵愛ね」

 ご寵愛など、グレンには皮肉か冗談にしか聞こえない。

「その辺はあまり突っ込まないで」

「まあ、良いけど。それで用件は?」

「早いわね。久しぶりに会えたのだから、もう少し普通の会話をしても良いじゃない」

「忙しい。それに、そちらは俺の敵。敵と馴れ合うつもりはない」

「……そのことで話に来たのよ」

 敵という自覚などなかった結衣だが、面と向かって言われると、そうなのかと思って、少し落ち込んでしまう。

「話って、どんな?」

「誤解をときに来たの。健太郎はフローラを殺していない。あれは自殺だったのよ」

「殺すというのは直接手を下すことだけを指すわけじゃない。それにそんなことは知っている」

「でも誰かに嘘を吹き込まれて」

 健太郎に言われたからではなく、結衣も元々こう思っていた。これがグレンの敵という自覚がない理由の一つだ。

「そっちこそ何か勘違いしているみたいだが、フローラの件は俺が自分で調べた」

「えっ?」

「王都に行った。フローラの墓も見た。どんな風にフローラが連れ去られて、城に入ってからもどうだったか全て調べた。調べた上で、俺は勇者が敵だと判断したのだ」

「……でも自殺」

「正気を失って何の反応もないフローラに毎晩言い寄っていたそうだな。答えがないのに一方的に。始めは恐る恐る、途中からベッドの隣に腰かけて。しまいには体に触れるようになった」

「……嘘よね?」

 この話を結衣は知らない。健太郎が話すはずがない。

「本当だと思うけど?」

「部屋の中に二人きりでいたのよ。それは問題だけど、誰も中で何をされているかなんて分からないじゃない」

「ずっと城内にいて、未だに部屋の中が外から見えることに気が付いていないのが驚きだ」

「……嘘?」

「全ての部屋じゃない。監視が必要な人物に与える部屋についてだけだ。聖女は監視が必要なのかな?」

「…………」

 どちらかと言えば必要だと結衣は思う。自分が監視の必要ない存在だと認めるのも嫌なのだ。

「もしかして、見られて困るような真似を?」

「してないわよ!」

「ああ、そういうことでは一応言っておくと触れた程度だ。性的なことはなかったと聞いている。その前にフローラは命を絶ったからな」

「……でも、フローラが自殺したのは、グレンが死んだと思って」

「仮にそうだとしても放っておいてくれれば良かった。無事だという情報は入らないだろう。でも死んだという情報も入らなかったはずだ。ウェヌスは前回の戦いで何が起こったか未だに詳細を知らないのだから」

「ずっと不安な毎日を過ごすことになったわよ」

「ローズがいる。ローズが慰めてくれたはずだ。それにローズであれば、必ず俺が無事であることを突きとめてくれたはずだ」

 フローラは一人ではなかった。それでは都合が悪い為に、ローズの存在を全く無視して行動を起こした健太郎の心は、やはり善意だけではない。

「そんなことは出来ないわよ」

「出来る。その力がローズにあることを俺は知っている」

「…………」

 こう言われてしまっては、結衣は反論出来ない。ローズのことを結衣はほとんど知らないのだ。

「さて、誤解がないことは分かってくれたな?」

「……それは分かった」

「じゃあ、お引き取りを」

「でも、健太郎に悪気はなかったのよ」

「悪気がなければ人を殺しても許されると?」

「そうじゃない。健太郎なりにフローラのことを真剣に想っていて、それが空回りしただけで」

「あれの真剣って、どういう真剣なのだろう。俺には理解出来ないな」

 健太郎が女性に対して真剣な想いを向けた事実をグレンは知らない。

「だからフローレンスを連れて来たのよ」

「はあ?」

 ここでフローレンスが出てくる意味がグレンには分からない。

「健太郎は未だにフローラへの想いを引きずっているのよ。それでフローラによく似たフローレンスを側に置いているの」

「……それ本人の前で言うか? かなり酷いことだと思うけどな。つまり身代わりってことだ」

「別に私がしていることじゃない。それに健太郎自身がこれを知って欲しいと言うから話したのよ」

「……相変わらずだな。自分の都合しか考えていない」

 その行動によってフローレンスがどう思うかなど全く考えていない。グレンの知る健太郎らしい行動だ。

「そういう男よ。でも、フローラが好きだったのは事実なの」

「それで、そのフローレンスさんとやらを」

「そうよ」

「どうやって見つけた?」

「それが偶然、健太郎の侍女に付けられて。健太郎は一目見て、フローラにそっくりだって」

「侍女ね。貴族の娘か何か?」

「そうよ」

「なるほど」

 結衣の説明を聞いて、グレンは納得した様子を見せている。

「グレンも似ていると思う?」

「どうだろう? 似ているような気もするけど、外見だけじゃな」

「中身は違うわよ」

「それは分かっている……少し話をさせてもらっても良いか?」

「どうぞ」

 グレンの興味を引けた。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、フローレンスを連れてきた甲斐があったと結衣は思ったのだが。

「じゃあ、隣の部屋で待っていてくれ」

「……どうして?」

「あのな、俺は勇者とは違う。いきなり女性を襲うなんてことはしない」

「さすがに健太郎もそこまでは」

「しているけど? 侍女を襲ったとか聞いたな」

「……最低。犯罪者じゃない!」

 これも結衣が知らなかったことだ。

「未遂だけどな」

「そういう問題じゃない」

「それは本人に言ってくれ。とにかく今は隣の部屋に」

「分かったわよ」

 上手く話を逸らされた上で、さりげなく結衣は席を外すことを了承させられてしまった。

「言っておくけど、この部屋は覗けないからな」

「……分かったわよ」

 渋々という様子でソファーを立って部屋を出ていく結衣。そして部屋にはグレンとフローレンスだけになった。

「とりあえず、扉を開けてみろ」

 聞こえるか聞こえないかの小さな声でグレンはフローレンスに告げる。

「えっ?」

「早く」

「あっ、分かった」

 そしてフローレンスが扉を開けると、結衣がその場にしゃがみ込んでいた。

「えっ?」

「あっ……?」

 フローレンスと結衣の間に気まずいものが流れる。

「隣の部屋へ」

「……分かった」

 少しして、隣の部屋の扉が閉まる音が聞こえる。フローレンスは廊下を覗いて、結衣がいないことを確かめてから扉を閉めた。

「聖女には覗き見、盗み聞きの趣味がある。気を付けたほうが良い」

「うん」

「そこじゃあ遠い。今度は隣の部屋で聞き耳立てていそうだから、こっちに来いよ」

「分かった」

 さきほどまでの遠慮が嘘のようにフローレンスはグレンの隣に座った。グレンも全くそれを気にすることなく口を開く。

「確認する必要もないと思うけど、アンナだよな?」

「そう」

「久しぶりだな。変わってない、ことはないか、大人っぽくなった」

「嬉しいような、悲しいような」

 大人びた原因が健太郎との関係にあるのなら、それは悲しいことだ。

「さっきの話は本当なのか? 本当に勇者の?」

「御寵愛? そうだよ。あの女が言った恋人は嘘。ただの慰み者かな?」

「どうしてそんなことに? お前、表通りで真っ当な仕事していたよな?」

「親父の借金のせい」

「……相変わらずなのか?」

 グレンはフローレンス、アンナの父親がどういう人物か知っている。いわゆる幼なじみという関係だ。

「前よりも酷い」

「そうか……どうやって侍女に、なんて聞く必要もないな。勇者を誑かせと誰かに命令されたわけだ。侍女として送り込めるってことは貴族だな」

 貴族で健太郎に接点があるとなれば、元勇者親衛隊の騎士の仕業だと分かる。

「当たり。親父の借金を全部その貴族が肩代わりした。その代償が今のあたいさ」

「でもさ、それこそ勇者を誑かせば、借金なんてすぐに返せるだろ? どうせ酷い目に遭うなら、割り切ってその立場を利用すれば」

「したよ。勇者からは贈り物をたんまりと頂いた」

 アンナも貧民街育ちの強かな女性だ。自分の境遇を嘆くだけでなく、得られるものは、きっちりと手に入れている。

「それなのに? 逃げ出せないのか?」

「親父。借金を返しても、すぐに別の借金を作る。いくら金を作っても駄目。それどころか、どんどん贅沢になって今は表通りに店まで構えてる」

「店まで持てて借金?」

「店をやる頭なんて親父にはないよ。何をやっても失敗して、借金は膨らむばっかり」

 店を維持するのに必要な金まで借金だ。以前よりも借金の規模は膨らんでいた。それはフローレンスを抱えている貴族にとっても好都合。借金を返済されては困るのだ。

「あの親父さんだからな。アンナには悪いけど、そもそも真面目に仕事をすると思えない」

「その通りだよ。もう抜け出せない」

「……もう縁を切ったらどうだ?」

「弟が」

「もう大人だろ? 弟だって独り立ちしないと」

「弟が親父を見捨てようとしない。なんとかしようと、一緒になって泥沼にはまってる」

「裏町育ちとは思えない純な性格だったからな」

 弟のこともグレンは知っている。直接会うことはほとんどなかったが、アンナから散々話を聞かされていたのだ。

「そう。純というか、ここまでくれば馬鹿だよ」

「まあ」

「もう諦めた。あたいの人生なんてこんなもんさ」

 諦めないと、好きでもない男に身を任せられない。毎晩の苦痛に耐えられない。

「……殺してやろうか?」

「えっ?」

「お前の父親を殺してやろうか?」

「どうやって?」

 アンナの口から拒否の言葉は出なかった。

「殺すのはどうとでも。ただ、すぐには無理だな。しばらくは、この場所を離れられない。それに生きて逃げられるかも分からない」

「じゃあ、駄目じゃない」

「殺してもらうことには抵抗はないんだな?」

「…………」

 改めてグレンに聞かれると、言葉に詰まってしまう。

「気にするな。どうにもならない親や子供に死んで欲しいと思うのはアンナだけじゃない」

「そうなの?」

「ああ。俺は家族にそう思われて殺された人を知っている」

「…………」

「分かった? そう、俺が殺した。もう随分前と言って良いのかな。言い訳をすると裏町で無事に住むにはそれをやるしかなかった。でも、まあ言い訳だな。俺は何の関係もない人を殺したのだから」

 裏町に住み始めたばかりの時に引き起こした親分との揉め事。それを治める代償がこれだった。子供にさせることではない。それどころか裏町でもかなりヤバい仕事だ。

「……レン兄」

「だから、お前の親父も殺してやれる。俺が直接出来なくても頼める人はいる。ただし条件がある」

「条件?」

「かなり卑怯な条件だ。アンナを今の境遇にした貴族と同じだな」

「……今のまま、勇者の慰み者でいろって言うの?」

「そう」

「……酷いよ」

「酷いよな。でもアンナ、俺はフローラの仇を討つ為なら何だってする。誰を傷つけようとも必ず敵を討つ」

「……私が殺そうか?」

 健太郎を殺す。もっともそれが容易に出来るのはアンナだ。お茶に毒を入れるでも良し、夜中に無防備で隣に寝ている健太郎に剣を突き立てるでもいい。

「それじゃあ敵討ちにならないし、アンナがタダで済まない」

「そう」

「この場所で討てればな。それで終わりなのに」

「そうならない?」

「だってアンナを寄越したってことは戦う気がないってことだろ? この間、逃がしたのが痛かったな。まさか、あんな簡単に追い詰められると思っていなかった」

 前回の戦いはグレンの圧勝。実はグレン本人がそれに驚いていた。グレンの当初の計画は、何とか砦近くに引き込んで、矢でも石でも使って殺そうという考えだったのだ。

「じゃあ、どうするの?」

「また機会を狙う。そういう場を作るしかない」

「その為の情報が欲しいんだね」

「そう」

 戦場を作ることなど簡単には出来ない。そうであれば健太郎の日常生活の中で狙うしかない。常に側にいるアンナであれば、それが出来る時を調べることが出来る。 

「……良いよ。でもあたいも条件がある」

「何」

「親父を殺すだけじゃなくて借金もチャラにして欲しい。それと弟の暮らしをなんとかして欲しい。あとは……」

「欲張りだな。でも良いよ。何とかしよう」

「あとは子供の時、泣いているあたいを慰めるのに必ず言ってくれた言葉が聞きたい」

「……何だっけ?」

 言葉を掛けていたグレンのほうはそれが何か分からなかった。それが慰めになっていたと知らなかったのだ。

「フローラがいなければ」

「ああ、あれね。どうして?」

「良いから。これも条件だよ」

「分かった。もし、この世にフローラがいなければ、俺の妹はアンナであって欲しいな。俺達、きっと凄く仲の良い兄妹になれる」

「……レン兄」

「えっ?」

 自分に抱き付いてくるアンナに最初は戸惑ったグレンだったが、やがて昔のように優しく頭を撫で始めた。アンナが父親のことで悲しんでいた時にグレンはこうやって泣き止むまで慰めていた。
 アンナにとってグレンはいつも自分を慰めてくれる優しい兄だったのだ。