ローゼンガルテン王国にとって現状は、様々な点で思い通りに進んでいない。そもそも何をもって思い通りというのか。それさえもあやふやになってきているのだ。
もっとも大きな誤算はリリエンベルク公国内での戦い。魔人軍に占拠されたはずの、状況が分かったばかりの時点ではまだ完全ではなかったにしても、いずれは占拠されるはずだったリリエンベルク公国は未だに戦い続けている。しかもリリエンベルク公国南部への侵攻を食い止めているというのだ。
これをどう受け取るべきか王国内では意見が割れている。援軍を送って奪回を果たすべきだという意見。それとリリエンベルク公国が粘っている間に、他公国での戦いにケリをつけるべきだという意見の二つだ。
どちらの意見が優勢ということにはなっていない。心情的には、リリエンベルク公国軍を助けるべきという意見が優先されるが、では援軍を送って本当に魔人軍に勝てるのかとなると確信は持てない。他公国でも戦いが行われている現時点では送り込める援軍の数は限られているのだ。
そうなると他の公国での戦いに集中、なんて速やかに話が進むはずがない。三公国のどれを優先するかなど簡単に決められる話ではないのだ。
「まず優先すべきはキルシュバオム公国でしょう」
宰相の意見はキルシュバオム公国での戦いに決着をつけることを優先すべきというもの。
「理由は?」
何故、キルシュバオム公国なのか。それを聞かなければ国王は何も判断出来ない。難しい決断であるので、公平であることを示さなければならないのだ。
「もっとも善戦しているのがキルシュバオム公国での戦いであること。そこに援軍を投入することで、戦いは一気に勝利に傾く可能性があります」
キルシュバオム公国にはローゼンガルテン王国の中でも最強の軍、花の騎士団=ブルーメンリッターがいる。魔人軍と互角に戦っている花の騎士団に援軍を送ることで、一気に魔人軍を押し込めるかもしれないと宰相は考えている。
分かりやすい理由を口にしただけで、実際はこれが全てではない。
「……その場合、送る軍はどこから出すのだ?」
「中央にいる軍勢はリリエンベルク公国の出口を塞がなければなりませんので、ラヴェンデル公国かゾンネンブルーメ公国のいずれかから軍を引き抜くことになります」
中央の守りを疎かには出来ない。今はリリエンベルク公国軍が南下を食い止めているといっても、それはいつまで続くか分からない。リリエンベルク公国を突破されれば、王都が危険に晒されるのだ。
「どちらが良いと宰相は思っているのだ?」
「ラヴェンデル公国でしょう」
「その理由は?」
「ラヴェンデル公国の戦いは膠着しております。この先も大きく動く気配はございません。一方でゾンネンブルーメ公国では苦戦中です。そこから軍を引き抜くことは不可能。キルシュバオム公国での戦いを終わらせたらすぐにゾンネンブルーメ公国に向かわせなければなりません」
「……ラヴェンデル公国がなんと言うか」
ゾンネンブルーメ公国から軍を引き抜くと決めれば、今度は「ゾンネンブルーメ公国がなんと言うか」という呟きに変わることになる。意味のない呟きだ。
「ラヴェンデル公国には東部にも軍を送っております」
「リリエンベルク公国の出口を塞ぐ為のな」
ラヴェンデル公国を守る為ではない。ローゼンガルテン王国の都合で配置された軍だ。それを軍を引き抜く言い訳に使うのは無理がある。
「どちらを選んでも文句は出ます。正直に申し上げますが、どちらがうるさいかとなればゾンネンブルーメ公国です」
どちらであろうが選ばれたほうは不満を持つ。そうであればより説得し易い相手を選んだ方がマシだと宰相は言っている。戦略、戦術の話ではないのだ。
「……花の騎士団をリリエンベルク公国に送るという方法もあるのではないか?」
善戦している軍を併せれば、勝利の可能性は高くなる。さらにリリエンベルク公国を見捨てるという精神的苦痛も和らげることが出来る選択だ。
「……どうでしょう? 騎士団長はどう思われますか?」
「陛下には失礼ですが、やや中途半端ですな。それにリリエンベルク公国での戦いは長引くでしょう。主力のいない他公国での戦いがどこまで耐えられるか」
国王の考えに王国騎士団長は否定的な意見を述べる。
「……魔人軍の主力はリリエンベルク公国にいる。それを打ち破ることで勝利に近づけるのではないのか?」
王国騎士団長はずっと積極攻勢を主張していた。ここにきて慎重姿勢を占める理由が国王には分からない。
「そうであるからこそ確実に勝てる戦場を作って戦うべきだと思います。今のリリエンベルク公国軍の戦略に巻き込まれるのは良いこととは思えません」
「……その為にリリエンベルク公国を捨て石にするのか?」
ようやく国王も事情が読めてきた。王国騎士団長は大森林地帯に攻め込むことを主張していたが、それは本心ではなかったのだと。リリエンベルク公国南部まで魔人軍を引き摺り出して、決戦を挑もうと考えていたのだと。
「今の状況ではそれも仕方がないかと思います。もちろん、リリエンベルク公国軍には頑張って欲しいと思っておりますが」
王国騎士団長は国王の疑いを認めようとはしない。あくまでも現状を考えて生まれた作戦だと言っている。
「……仮に、仮に魔人軍がリリエンベルク公国を完全に制圧したとして、そこから勝てるのか?」
「戦い方次第では十分に勝機はあります」
「その戦い方とは?」
「魔人もまた食料を必要とします。考えてみれば当たり前のこと。魔人軍は大軍ですが、そうであるからこそ必要とする食料は膨大でしょう。まずはその弱点を突くことです」
「もっと具体的に説明しろ」
王国騎士団長は兵糧攻めを行うと言っている。全体としては分かる。だがどこでどのように兵糧攻めを行うというのか。魔人軍は籠城しているわけではない。各地に散らばっているのだ。
「……魔人軍の物資を狙います。すでにラヴェンデル公国ではそれに成功しております」
その成功はリリエンベルク公国軍、ジグルスが成し遂げたものだ。実行だけでなく計画もジグルス。王国騎士団には関係のない作戦だ。それを王国騎士団長は作戦の一環であるかのような言い方をしている。
「どれだけの物資が蓄えられているのか……かなり長期化する可能性がある」
魔人側もかなりの準備をして戦いに踏み切ったはずだ。一年や二年で枯渇する量ではないだろうと国王は思う。
「それは覚悟しなければなりません。ただ出来るだけそれを早める努力は必要となります」
「それは当然だな」
「方針としてはご了承頂けますか?」
「……方針としてはな」
何故、わざわざこれを聞くのか。国王の頭に疑問が浮かんだ。そもそもキルシュバオム公国の戦いに戦力を集中させるという方針と、兵糧攻めがどう繋がるかも分からない。
「ではその方針で動きます」
「……具体的な作戦は決まっているのか?」
「それについてはお任せ下さい」
「お任せ下さいとはどういうことだ? 作戦計画があるのであれば、きちんと説明するべきだろう?」
その為に今も会議を開いているのだ。そもそも王国騎士団長に独断で戦争を進める権限はない。
「……戦場から物資を消します。味方の分も含めて」
「なんだと?」
「魔人軍に渡すわけにはいきませんので」
王国騎士団長が考えているのは焦土作戦。魔人軍との戦いを行っている地域から、自軍が必要とする最低限の食料以外を無くそうと考えているのだ。
「……ま、まさか」
「陛下が詳細までお知りになる必要はございません。細かな戦術は軍にお任せ下さい」
何故、国王に詳細を説明しようとしないのか。知るべきではないと考えているからだ。王国騎士団長は、宰相も同意している考えで、公国を犠牲にしてその地で焦土作戦を展開しようと考えている。自ら食料を焼き払うほどの過激なものではないが、公国の民を巻き込むことに変わりはない。その為にリリエンベルク公国の出口を封鎖したのだ。逃げ遅れた人々を飢えさせることもやむを得ないと考えて。
そんな作戦を国王に承認させるわけにはいかない。最後の言い訳の余地は残しておこうと考えているのだ。
「…………」
王国騎士団長の考えは国王にも分かる。魔人に勝つ為であれば非情な手段も取らなければないことも。だが、だからといって公国の民を犠牲にすることを許容して良いのか。良いはずはない。出来るものなら、そんな作戦は採るべきではない。出来るものなら。
悩む国王は沈黙のまま。結果それは王国騎士団長が求める答えとなる。ローゼンガルテン王国はリリエンベルク公爵家を滅ぼす道を選択したのだ。
彼等は分かっていない。分かるはずがない。この世界のストーリーが変わろうとしていることなど、台本を持たない彼等に分かるはずがないのだ。
◆◆◆
ストーリーを最も積極的に変えようとしているのは、その物語の主人公自身だ。そもそもこの世界にストーリーがあることを知っているのはユリアーナとジグルスの二人しかいない。リリエンベルク公爵家が滅びるのを防ぐという目的で動いている人々は他にもいるが、明確にストーリーを変えるという意思を持っているのは二人しかいないのだ。
さらにユリアーナにはジグルスに比べて、より強いストーリーを変えるという意識がある。変えたいという思いではなく、変えるという意識だ。
それに基づいてユリアーナは動いている。
「ねえ、エカード。絶対の正義なんてないわ。一方にとっては正義だとしても、他方にとっては悪になることもあるのよ」
「……それは……分かっている」
頭ではエカードも分かっている。彼はキルシュバオム公爵家を継ぐ身だ。綺麗事だけではやっていけないことは教え込まれている。
「だったらどうして悩むの? 正義を貫く為であれば悪名なんて恐れる必要はないはずだわ」
「……本当に正義だと思っているのか?」
「敵は多くの人々を犠牲にして自分たちだけ助かろうなんて考えている人たちよ? 正義に決まっているじゃない」
「その話が事実であればだ」
本当に敵とする相手はそのようなことを考えているのか。それをエカードは疑っているのだ。
「……貴方の実家が調べたことでしょ? 跡継ぎに嘘つくはずないじゃない」
「実家が言うことだから信じられないのだ」
祖父であるキルシュバオム公爵であれば、これくらいの嘘は平気で作りあげる。実家が抱いている野心をエカードは知っているのだ。
「でもエカード。リリエンベルク公国には未だに援軍が送られていないわ。まだ公国内に逃げ遅れた沢山の人がいるのに境を閉じたという話もあるのでしょう?」
「……ああ」
「王国がリリエンベルク公国で暮らしていた人たちを見捨てたのは事実よ。それだけじゃない。ゾンネンブルーメ公国もかなり酷い状況になっているのでしょ?」
「そう聞いている」
「人々から大切な食料を奪うなんて酷いわ。それで保護するのではあればまだ分かるけど、あとは勝手に逃げろでしょ? それってリリエンベルク公国と同じ。見捨てたと同じだわ」
ゾンネンブルーメ公国ではすでに焦土作戦が始まっている。リリエンベルク公国内には介入出来ないが、ゾンネンブルーメ公国であれば王国の意思で軍を動かせる。国王の裁可を得る前に動くことを王国の意思と言って良いのかは別にして。
ただ追認ではあるが国王は認めたのだ。王国の意思と言っても、今は嘘ではない。
「……だからといって、それで人々の支持は得られるのか?」
「苦しんでいる人たちがいる。その人たちは支持してくれるはずよ」
「しかし……王家に刃を向けるなんて……」
支持してくれる人はいるだろう。だが、それと同時に強く批判する人もいる。王家に刃を向けた裏切り者、謀反人として歴史に名が残るかもしれない。
「誰かが正さなければならないわ。じゃあ、それが出来るのは誰かとなったら……エカード、貴方しかいないのよ。英雄の資質を持つ貴方にしか出来ないことなの」
「……しかし」
エカードの心は定まらない。これについてはもう随分前から悩んでいる。ローゼンガルテン王国は魔人戦争を利用して四公国を滅ぼそうとしているという話を実家から聞かされた時から。キルシュバオム公爵家を、公国を守る為にはローゼンガルテン王国を倒すしかないと言われてから、ずっとだ。
悩みに悩み、苦しんでいる時についユリアーナに話してしまった。こんな重要なことを何故、他に信頼出来る仲間がいる中でユリアーナに話してしまったのかは今でも分からない。とにかく話をし、それから何度も話し合いを重ねている。
「……貴方も苦しんでいる人たちを見捨てるの?」
「…………」
「今この瞬間にも苦しみ、命を落としている人たちがいるわ。遠い場所でのことだからと、貴方はそれを無視するつもりなの?」
「それは……」
ジグルスが同じようなことを言っていた。自分たちは目の前の勝利のことしか考えていない。そことは別の場所で命を落とす人々がいることなど考えていないだろうと。
「エカード。貴方の苦悩は分からなくないわ。でもどこかで決断しなくてはいけない。それが出来ないのであれば、それが出来る様な行動を起こさなければならないわ」
「行動?」
「……都に行って、もっと詳しいことを調べてみるのも手よ」
「しかし、そうするにはこの戦いを終わらせなくてはならない。今、俺たちが戦場を離れてはこの戦いはどうなってしまう?」
花の騎士団=ブルーメンリッターがこの戦場を離れれば、一気に魔人軍が有利になる。キルシュバオム公国が危機に陥ってしまう可能性があるのだ。
「……大丈夫なように頑張れば良いわ。それについては私に任せて。必ずここでの戦いを終わらせてみせるわ」
「しかし……」
ユリアーナの大言壮語はいつものこと。その言葉を聞いても安心など出来ない。
「エカード……辛い決断を迫ってごめんなさい。でも……貴方しかいないの。この国を、この世界を平和に出来る英雄は貴方なのよ」
「お、俺は……」
「もっと私が支えてあげられれば良いのに……でも私は無力だから……エカード、私には……こんな慰め方しか……」
ゆっくりとエカードの反応を探りながら、ユリアーナは自分の体を預けていく。
「……ユ、ユリアーナ……だ、駄目だ……」
「ごめんなさい……少しだけ……少しだけでも貴方の気持ちを軽くしたい……全てを忘れる時間を……あげたい……」
「……ユリアーナ」
エカードの抵抗は形だけのもの。拒もうとする手に力はない。その手をゆっくりと横にずらし、ユリアーナはエカードとの距離を詰めていく。
少し見上げればすぐ目の前にエカードの顔。その顔が自分を向いていることを確かめて、ユリアーナは頬に手を伸ばす。近づく唇。エカードにそれを拒む素振りはない。
(……ただの優柔不断……そういうことね)
潤んだ瞳でエカードを見つめながら、ユリアーナはこんなことを考えている。
(でもこれが貴方の本性。苦しんでいる人のことと、自分の名声を並べて考える貴方は、彼とは違う)
エカードの正義感は上辺だけのもの。ユリアーナはそう考えている。エカードは感情のままに行動出来る立場ではないのだが、そんなことはユリアーナには関係ないのだ。
(……彼を助けなくてはならない。彼こそがこの世界に必要な存在。なんとしても助けなくてはならない)
その為にはどんな汚名を着ることも厭わない。ユリアーナの覚悟はとっくに定まっているのだ。この世界のストーリーを変える。その為に主人公である自分が出来ることを、ユリアーナは行おうとしていた。