リリエンベルク公国の陥落、そして封鎖は徐々に民衆の耳にも届くようになってきた。リリエンベルク公国内との取引を行っている商人たちがその最初。その商人たちから他の人々に話が伝わっていった。ただその段階になるとローゼンガルテン王国も隠すよりも、自らに都合の良い内容で情報を流すことを始めている。判断の正当性を民衆に理解させ、混乱を抑えようという考えだ。
そうはいってもリリエンベルク公国が魔人の手に落ちたという事実の衝撃で、まったく混乱がないなんて状況にはならない。それは仕方がないことで、ローゼンガルテン王国としては陥落の事実だけで騒いでいる分には許容範囲だ。魔人への恐怖がリリエンベルク公国封鎖を仕方がないものを人々に思わせることになれば尚良い。
そんな中、多くの人々とは異なり、冷静に事態を考える人々がいる。情報を最初に王都にもたらした商人たちだ。アルウィンの実家、ヨーステン商会もその一つ。
「……リリエンベルク公国との商売を止めろ?」
当主である祖父の言葉に、アルウィンは怪訝そうな顔を向けている。何故こんなことを言われるのか分からないのだ。リリエンベルク公国との商いはアルウィンの商売の基。それを止めろというのは商売を止めろと言われているのと同じだ。
「王国の意向に逆らって、何やら良からぬことを企んでいるそうではないか」
「良からぬこと……いや、真面目に商売しているつもりです」
「封鎖された領境を超えようとしていることだ」
「それは、リリエンベルク公国の軍が戻ろうとするのを手伝っているだけです」
祖父が言っているのはリーゼロッテたち特別遊撃隊をリリエンベルク公国内に運ぼうとしていること。それを「良からぬこと」などと言われるのは納得がいかない。
「王国はそれを禁じている」
「公国の人たちが公国に戻ろうとするのを何故、禁じるのですか? 一時的でも封鎖を解いてくれればそれで良いのです」
「それが王国の意向を無視しているというのだ!?」
とうとう祖父は声を荒らげてしまった。アルウィンが自分の言うことに逆らおうとするのが気に入らないのだ。
「……ああ、もしかして王国に何か言われましたか?」
「……軽く注意されただけだ」
「それでリリエンベルク公国との商売まで止めろというのですか?」
特別遊撃隊の移動を手助けするのは商売ではない。アルウィンにも違法なこと行おうとしている自覚はあるので、それを止めろと言われるのはまだ分かる。だがリリエンベルク公国との商売は関係ない。
「リリエンベルク公国などすでにない」
「……本気で言っているのですか?」
「リリエンベルク公国は滅亡した。だから王国は領境を封鎖したのだ」
「だから本気で言っているのかと聞いているのです!」
「本気に決まっている!」
「…………」
信じられない言葉。そんな言葉を発した祖父を、アルウィンは無意識に睨み付けてしまう。
「……なんだ、その顔は?」
アルウィンに睨まれた覚えなど一度もない。小さい頃に我が儘を聞いてもらえなかったことで怒ったアルウィンに睨まれたことはあるが、今はそれとは意味が違う。
「リリエンベルク公国内ではまだ戦いが続いています。それを知らないのですか?」
「……勝ち目のない戦いだ」
「だから見捨てろと。いえ、物資の補給を止めて、戦うことすら出来ないようにしろと言うのですか?」
「…………」
アルウィンの言葉に黙り込む祖父。そこまでのことは考えていなかったのだ。そもそもリリエンベルク公国内部のことは詳しく知らない。大商家であってもそれを知る術はないのだ。
ただヨーステン商会は違う。もっとも事情を知っているアルウィンから聞けば良かったのだが、それを怠っていたのだ。
「勝ち目はあります。その為にリリエンベルク公国に戻ろうとしている人たちがいる。すでに公国内で新たな戦いを始めようとしている人もいる」
「……わずかな数だ」
「そう思うのであれば王国はただちに軍を送れば良い! 何もしないで諦めるなんてあり得ない!」
「王国の批判は止めろ!」
「…………」
ただ王国が止めろと言っているからそれに従う。そういうことなのだとアルウィンは理解した。
祖父を見つめるアルウィンの視線に侮蔑の色が混じる。商人としても尊敬していた祖父。そんな祖父に初めて抱いた感情だ。
「別にお前の考えなどどうでも良い。ヨーステン商会はリリエンベルク公国内との商売は止める。これは決定したことだ」
「……それはどうぞ勝手に。俺は俺の商売を続けます」
「思い上がるな! お前一人でまともな商売など出来るはずがない!」
「やってみなければ分からない!」
何もしないで諦めるなんてあり得ない。ついさっきアルウィンはこう言った。それは自分自身にも向けられている言葉なのだ。正直アルウィンも魔人との戦いに勝ち目があるとまでは言い切れない。だがその為に戦おうとしている仲間がいる。彼等を裏切ることなど出来ないのだ。
「……ではやってみるが良い。その代わり、失敗して謝ってきても、ヨーステン商会にお前の居場所はない。その覚悟をするのだな」
「最初からそのつもりです。長い間、お世話になりました。以後、俺が行ったことで王国に何を言われても、関係ないと返して下さい」
「……当然だ」
「では失礼します」
椅子から立ち上がって部屋を出て行くアルウィン。その背中に祖父は声を掛けようとしない。
「父上……」
それに心配しているのはアルウィンの父親だ。
「どうせ、すぐに戻ってくる。その時は下働きからやり直しだ。孫だからと甘やかしすぎたのだ」
「そうですか」
戻ってきても受け入れる意思がある。それを聞いて父親はホッとした顔をしている。
「あの……」
「ああ、お前にはきちんと別の働き場を用意する。これまでよりもずっと責任のある立場だ。アルウィンに付き合わせて苦労をさせたからな」
声を掛けてきたはローラントだ。ローラントはアルウィン付きとして働いていた。アルウィンが出て行ったことで自分の身を心配しているのだろうと祖父は考えたのだ。
「いえ、そうではなく私もお暇を頂きます」
「……なんだと?」
「アルウィン様との商売のほうが私には向いておりますので。それに……将来性も感じております」
「本気で言っているのか?」
アルウィンに向けられたのと同じ言葉を、今度はローラントに向けることになった。
「もちろん、本気で申しております。失礼ですが旦那様がたは何も分かっておられない。アルウィン様はすでにヨーステン商会の看板など必要としておりません。とっくに独り立ちしております」
「……商売はそんな甘いものではない」
「それは追々お分かりになります。では長い間お世話になりました。私にアルウィン様を知る機会を、そして師匠に巡り会う機会を与えて頂いたことには深く感謝しております」
「師匠……?」
「ああ、あとこれまでの商売でもすでにヨーステン商会ではなくアルウィン様の名で行ったものがあります。そこで得た利益についてはアルウィン様のものということでよろしいですね?」
当主の問いに答えることなくローラントは話を進める。ローラントにとっての師匠はジグルスだ。ジグルスの発想はローラントの好奇心を強く刺激する。しかも実際に商売として成立するのだから驚きだ。好奇心を満足させてもらい、さらに実利も得られる。こんな楽しい仕事を辞められるはずがないのだ。
「それは……」
「まさかそれまで取り上げるなんて真似はなさらないですよね? それではアルウィン様の商売を邪魔しようとしているようなものです。それともまさか?」
「……分かった。好きにしろ」
「では失礼します」
まんまとローラントは事業資金を得た。考える時間を与えなかったローラントの作戦勝ちだ。ジグルスが関わった商売はほぼ全てアルウィンの名で行われている。ジグルスの人脈を使った商売なのでヨーステン商会の名は必要なかったのだ。リリエンベルク公国との商いだけでなく、ラヴェンデル公国軍、そして花の騎士団との取引もそれに含まれている。取引量としてはそちらのほうが遙かに多いのだ。
「おや?」
建物を出たローラントの目に入ったのはアルウィン。先に部屋を出たアルウィンが待っていた。
「……待っていてやった」
「へえ……それで私が出てこなかったらどうするおつもりだったのですか?」
「どうもしない。お前は出てきた」
ローラントがヨーステン商会に残る選択をすることなど、アルウィンの頭にはなかった。ローラントの問いの答えなどないのだ。
「私がいないと仕事になりませんからね」
「ああ、悔しいが認めてやる」
「ほう、今日は素直ですね。何かありましたか?」
何かあったもなにも実家を出たのだ。ヨーステン商会の看板を完全に外して、商売を行うことが決まったのだ。
「忙しくなりそうだからな。持ち上げておかないと」
だがアルウィンはそれを言わない。ヨーステン商会を出ることは始める時から決めていた。その前提でジグルスと話し合いを行い、出来るだけ実家に頼らないで商売出来る方法を一緒に考えてきたのだ。
「では、まずはどこからですか?」
「得意先から新しい注文がきた。これが注文書だ」
「注文書……えっ、これは?」
アルウィンから渡された注文書を見たローラントの顔色が変わる。彼には珍しいことだ。
「期待通りの顔だ。それを見られただけで独立した意味はあるな」
「……当然ですね。あの方がそう簡単に死ぬはずがない。しかし……これだけの物資を、しかもここ届けられるのですか?」
「そこを届けるのが俺たち……アルウィン商会だ」
ヨーステン商会の看板は捨てた。これからは新しい看板で商売を行うのだ。
「ローラント商会では?」
「おい? じゃあ、アルウィン・アンド・ローラント商会でどうだ?」
「長い……では……アルとロー、いえ、ウィンとラントでウィン・ラント商会ではいかがですか?」
「……誰の商会なのか……でも良いか。よし、ウィンラント商会で行こう」
「いえ、ウィン・ラント商会です」
「何が違う?」
文字にしなければ何が違うか分からない。実際にはローラントはウィンとラントの間にわずかな間を空けて声に出しているのだが、微妙過ぎてアルウィンには聞き取れない。それはそうだろう。わざとなのだから
「では商会名がウィン・ラント商会。アルウィン様と私が共同経営者ということで。皆さん、よろしいですね?」
「「「はい!」」」
「えっ……?」
ローラントの問いに返事をする何人もの声。アルウィンが気付かないうちに十人ほどの人が近づいてきていた。
「さすがに二人では手が回りませんので従業員を雇いました」
「……早すぎるだろ?」
独立を決めたのはついさっきなのだ。
「これくらいの先が読めないようでは商人なんて務まりません。あっ、アルウィン様も……」
「うるさい」
「まあ、役割分担ということで。では始めましょう。我々の商売を」
「ああ」
◆◆◆
竜巻が戦場に巻き起こる。土煙をあげながら前に進むそれは、さらに勢いを増しながら魔人軍に向かって、突き進んでいく。巻き込まれた魔物が宙を舞い、ずたずたに引き裂かれていく。暴れ回る竜巻によって、ぽっかりと空いた魔人軍の陣の隙間。そこに突撃をかけたのは花の騎士団だった。
「一気に突き破るわよ!」
先頭に立つユリアーナが檄を飛ばす。その檄を聞いた兵士たちは、もの凄い勢いで魔人軍に向かって突き進んでいく。
「邪魔よ! そこを退きなさい!」
花の騎士団の勢いを止めようと指揮官クラスの魔人が出てきても、それはユリアーナによって討ち取られてしまう。それによりさらに混乱する魔人軍。
花の騎士団の勢いは増すばかりだ。魔人軍の陣に深々と食い込んでいく。
「ユリアーナ! 突出しすぎだ! このままでは孤立する! 少し後ろを待て!」
ユリアーナに忠告してきたのはレオポルド。ユリアーナとレオポルドの部隊の勢いが凄まじすぎて、後続が付いてこられていない。孤立を恐れて、少し勢いを落とすべきだと考えたのだ。
「待っていたらそれこそ孤立するわ! 一気に敵本陣まで突き進むべきよ!」
「しかし……」
「私の言うことを聞いてくれないの!?」
「……わ、分かった。恐れるな! このまま一気に敵将を討つ!」
だが結局、ユリアーナに従うことになる。今のレオポルドにはユリアーナに逆らう力はない。仮に逆らうことが出来たとしても彼の部下たちは言うことを聞かないだろう。
ユリアーナとレオポルドの部隊は、ほぼ完全に彼女の支配下にあるのだ。
「死にたくなければ前を空けなさい! 私の邪魔をしないで!」
ユリアーナ自身は部隊が付いて来ようが来まいが関係ない。敵将を討つ。それだけを考えている。前に立つ魔物や魔人を打ち倒して、後方にいるはずの敵総指揮官に向かっていく。
「……君、ちょっと張り切りすぎだね?」
そのユリアーナの前に立ち塞がる魔人がいた。
「……わざわざ迎えにきてくれたのかしら?」
その相手に対してはユリアーナも問答無用に斬りかかったりしない。見るからに只者ではない雰囲気を漂わせている相手だ。敵の総指揮官ではないとユリアーナは考えている。
「迎え? まさか。君にはここで止まってもらう。永遠にね」
「……それは無理ね。今の私は誰にも止められない」
「そうはどうかな?」
「じゃあ、試してみるわ!」
無駄口を叩くのはもう十分。相手が目的の人物ではないと分かれば用はないのだ。目的の人物であっても殺すことに変わりはないが。
風の刃が宙を舞う。それとほぼ同時に、ユリアーナは剣を構えて前に出る。
「……なっ?」
だがその足は相手の懐に飛び込む直前で止まることになった。先に放った魔法が腕を振るうだけで弾き飛ばされたのだ。
「これくらいで驚くなんて……君は運が良かったのだね?」
「……どういう意味?」
「この程度の魔法が通用する相手としか戦ってこなかったって意味さ」
「……そうね。でも、運が良いと言われるのは納得いかない。私は運が悪い方よ!」
止めた足をまた動かして魔人の懐に飛び込むユリアーナ。だが相手はそれを許してくれなかった。ユリアーナが振るった剣は相手には届かない、だけではなく、今度は相手のほうから間合いを詰めて、剣を振り終わった瞬間の隙をついて蹴りを放ってくる。
それを大きく後ろに跳ぶことでユリアーナはなんとか躱した。
「……こういう運の悪さを言ったつもりはないのだけど」
相手の言う通り、ここまでの実力者と対峙したのは初めて。魔人戦争を甘く見る気持ちはとっくに捨てているが、思わぬ強敵と対峙したことで、まだ考えが甘かったとユリアーナは思い知った。
「ではどういう運の悪さなのかな?」
「それを話す必要あるかしら?」
「ないね。ただ私も運は悪いほうなのでね。同じ境遇に身を置く者として少し気になっただけさ」
戦闘中に雑談、といっても気を抜いているわけではない。お互いに相手の隙を探っているのだ。
「そう……私のは大切な人を、そうとは気付かずに失うような愚かな運よ」
「それは運なのかな? でも奇遇だね。私も最近、大切な人を失った。何も出来ないままに」
「……好きだったの?」
何も出来なかったのはユリアーナも同じ。その想いが焦りとなり、こうした強引な戦い方をさせているのだ。
「君が思っているのとは少し違うね。恋愛ではなく家族愛に近いものさ」
「……私も恋愛とは少し違うわ。家族愛でもない。なんだろう……同士というか……生きるのに必要な人だった」
「それはまた……この戦いで?」
ユリアーナの言葉の重さ。「生きるのに必要な人」が具体的にどういう存在か分からないが、想いの強さは感じられる。
「そうよ。貴方たちがリリエンベルク公国に攻め込んだせいで」
「戦争だ。それを責められてもね。それにそんな大切な人と離れ離れでいる君にも責任がないかな?」
「貴方たちが引き離したのよ。ずっと一緒に戦っていたのに私はここに来る羽目になり、彼はリリエンベルク公国に戻ることになったわ」
「……その人はリリエンベルク公国の部隊の? まさかと思うけど、銀髪の……?」
ユリアーナが誰のことを言っているのか分かってしまった。
「……知っているの?」
「……戦場で会った。僕も少し前までラヴェンデル公国にいたからね」
戦場で会った、は嘘だ。会ったのは学院時代。ただラヴェンデル公国の戦いにジグルスが参戦していたことはフェンも知っていた。
彼はラヴェンデル公国の戦いが膠着したことで、激しい戦いになるだろうキルシュバオム公国に移ってきたのだ。
「そう……」
「……ふむ、困ったね。隙を誘うつもりが、こちらの気が抜けてしまいそうだ」
ジグルスを生きるのに必要な人だというユリアーナ。それを知ってしまうとどうしても戦う気が削がれてしまう。自分の気持ちを落ち込ませている大切な人の死。それはジグルスの母であるヘルの死なのだから。
「それはラッキーね。私はまだやる気満々よ」
そんなフェンの事情などユリアーナに分かるはずがない。気合いを入れ直して、戦いを継続させようとしたのだが。
「……こちらは止めておこう。お偉いさんはとっくに逃げただろうからね?」
「逃がさないわ」
「それは無理だ。逃げ足であれば、まったく負ける気がしない。では、また」
「逃がさない!」
背中を見せた相手に剣を振り下ろすユリアーナだが、それが相手に届くことはなかった。後を追おうにも相手の駆ける速さは明らかに自分よりも上。とても追いつけそうにない。
気が付けば周囲の戦闘もかなり落ち着いている。戦いは終わったのだ。決着が付くことなく。
ユリアーナの苛立ちの日々はまだまだ続くことになる。