月の文庫ブログ

月野文人です。異世界物のファンタジー小説を書いています。このブログは自分がこれまで書き散らかしたまま眠らせていた作品、まったく一から始める作品など、とにかくあまり考えずに気の向くままに投稿するブログです。気に入った作品を見つけてもらえると嬉しいです。 掲載小説の一覧(第一話)はリンクの「掲載小説一覧」をクリックして下さい。よろしくお願いします。 

勇者の影で生まれた英雄 #60 接近

異世界ファンタジー小説 勇者の影で生まれた英雄

 裏町を出た健太郎と結衣は、予定通り買い物をする為に表通りの店に入った。あらかじめ決めていた店だ。
 人の行き来の多い大通りに面している店であるのだが、他に客の姿はない。店の方で気を使って人払いをしたのか、そもそも普段からこのようなのか分からないが、どちらであろうと護衛の騎士たちにとっては、追い出す手間が省けて良いことだ。

「さてと。嫌なことを忘れるには買い物が一番。どれが良いかな?」

 買い物をするまでもなく結衣は裏町であったことなど気にしていない様子だ。健太郎のほうはさすがにそうはいかない。恨まれていると言う言葉にひどく傷ついていた。

「はあ」

「わざとらしいため息をつかない。そんなことしたって慰めないから。今の私にはそんな暇ないの」

「別に頼んでいない」

「頼まれたってしない。あっ、あれ良いかも?」

 気になる服を見つけて、結衣はとっとと健太郎の側を離れて行った。残された健太郎は肩を落として、何度もため息をついている。

「あの、大丈夫ですか?」

「慰めてくれて、ありがとう。フローレンスは優しいな。結衣とは大違いだ」

「……いえ」

 これだけしつこくため息をつかれては、声を掛けないではいられない。なんてことをフローレンスは口にしない。

「僕はあんなことしていないから。信じて欲しい」

「はい」

「信じてくれるよね?」

「はい」

「僕はしていない。僕は傷ついたフローラを救おうとしただけだ」

「はい……」

 健太郎のしつこさにうんざり顔、を見せることもフローレンスはしない。少し困ったような顔を見せただけだ。

「そうだ! 御礼をしよう!」

「はい?」

「慰めてくれた御礼。何か欲しいのがあれば買ってあげるよ」

「いえ、私は……」

 健太郎を慰めた覚えはフローレンスにはない。

「遠慮しないで」

「でも……」

「じゃあ、僕が選んであげるね。ちょっと待って」

「あの……」

 立ち直りの早い健太郎だった。店のあちこちを回って服を探し始める健太郎。そんな健太郎の姿をフローレンスは……全く見ることなく品物を眺めていた。
 建物に入る時から分かっていたが、どれもフローレンスが手にした事などない高価な服ばかりだ。恐る恐る目の前の服に手を伸ばしてみれば、生地はこれまで経験したことのない滑らかな手触りをしていた。
 フローレンスの口から小さなため息が漏れる。この服一着で何日生活出来るのか。そんなことを思ってしまったのだ。
 フローレンスがこんなことをしている間に、結衣は気に入った服を次々とカウンターの上に積み上げていた。

「大人買い。一度やってみたかったのよね」

 フローレンスには意味の分からない言葉を口にしながら。
 健太郎はというと、幾つかの服を手に取って悩んでいる。どの服の色も白。健太郎の好きな色だ。やがて一着の服を手に持ってフローレンスのところに戻ってきた。

「これどうかな?」

 持ってきたのはやはり白い服。胸元には大きな花柄の刺繍。スカートの裾はフリルがいくつも重ねられていた。腰の部分には幅広の布が当てられ背中の方でまるで花びらのような形で結ばれている。
 素敵ではある。これはお店のセンスのおかげだろう。ただ問題は。

「ドレスですか?」

「そう。フローレンスによく似合うと思う」

「私はドレスなど……あのお高いのではないですか?」

 ドレスなど着る機会はない。その言葉を途中で止めて、フローレンスは値段の話に変えた。

「知らない。でも平気だよ」

「…………」

「あっ、あれだ。実は僕が払うわけじゃなくて今日の分はジョシュア様が持ってくれるって。結衣がそう約束してきていて」

「そうなのですか?」

「だから心配しないで。王太子様だからね。ちょっとくらい贅沢したって平気だよ」

「そうですか」

 フローレンスの視線がさりげなく結衣に向かう。その瞳にわずかに怨嗟の色が浮かんだことに健太郎は気が付かない。

「だからどう? 気に入ったら買ってあげるよ」

「……でも、私などには」

「フローレンスに絶対似合うから」

「でも……」

「じゃあ、僕の為だと思って受け取ってよ。それならフローレンスも受け取れるよね?」

「……そこまで仰るなら」

「良かった。じゃあ、服はこれで良いから……」

「えっ?」

 プレゼントはこれで終わりではなかった。

「アクセサリーが必要だよね?」

「……本当に大丈夫なのですか?」

「平気。服やアクセサリーの値段なんて、僕が作る軍の予算に比べれば安いものさ。なんてね。比較することじゃないね。じゃあ、選んでくる」

 フローレンスに服を渡すと、また健太郎は店を巡り出した。店員にアクセサリーの置き場を聞き、そこに向かって行く。当然、それもフローレンスは見ていない。自分の手にあるドレスをじっと見つめていた。

「……これ売ったらいくらだろ?」

 そして、また視線が結衣に向く。

「あの服は全部で幾ら? 借金なんて一気に返せるの? ……異世界人ってだけで、どうして贅沢出来るの?」

 ドレスを持つ手に思わず力が入る。それに気が付いたフローレンスは慌てて手を緩め、わずかに出来た皺を伸ばす。実際は撫でるだけで皺をすぐに消えた。フローレンスが知る素材とは物が違うのだ。

「……私はドレスで体を売るんだ。売春婦と何が違うのよ」

 滲みそうになる涙を堪えながら、フローレンスは呟いた。

 

◆◆◆

 裏町でのゴタゴタはあったにしろ健太郎、そして結衣にとっては有意義な時間を過ごして城に戻った。
 部屋に戻った健太郎は早速、フローレンスとの距離をもっと近づけようと、二人の時間を作ることにした。
 何かする必要もない。ただ一言、お茶を運んできたフローレンスに話をしようというだけだ。フローレンスはそれに逆らうことは出来ないのだ。

「今日は疲れたね」

「いえ。それ程でも」

「フローレンスって貴族の娘だよね?」

「あの……貴族とは名ばかりの小さな家です」

 今日訪れた裏町の出身だなんて口が裂けても言えない。

「そう。家族は?」

「父と弟がいます」

 これは事実だ。飲んだくれて仕事をしない父親と、どうしてこの父親からこんな真面目な息子が生まれたのかと思うような弟がいる。

「お母さんは?」

「……亡くなりました」

 これも本当。フローレンスは幼いころから母親代わりをしていた。望んでのことではない。そうせざるを得なかったのだ。

「ごめん。悪いことを聞いたね」

「いえ。もう随分前の話ですから」

「弟さんは何をしているのかな?」

「弟は体が弱くて、特に何をするでもなく」

 弟が健康であれば、フローレンスの人生もまた変わっていたかもしれない。ただそのことをフローレンスが恨むことはない。大切な弟なのだ。

「じゃあさ、僕の従卒にしないか?」

「えっ?」

「丁度、従卒を選んでいるところなんだ。その中の一人に弟さんを入れてあげても良いよ」

「弟は体が弱いので」

「あれ? もしかして働けないほど、体が弱いの?」

「はい」

「それは心配だね。そうだ。今度お見舞いに行こうか?」

「あの……王都にはいないので」

 弟のところになど連れていけるはずがない。まだ裏町で暮らしているのだ。

「領地?」

「はい。いえ、静養所にいます」

 あらかじめ取り決めていた家族についての話を間違えて、慌ててフローレンスは言い直した。失敗した。そう思って動揺したフローレンスであったが、健太郎にはそれは無用なことだ。
 別に本当に弟に興味を持っているわけではないのだ。

「じゃあ、無理だね……女性に年齢を聞くのは失礼かもしれないけど」

「十六です」

「若いね。もっと大人に見えるよ」

「よく言われます」

「この世界では十六って大人だよね?」

「……まあ」

 何をもって大人というのか分からないので、フローレンスは曖昧な答えを返した。これも健太郎にはどうでも良いことだ。ただの話の繋ぎに過ぎない。

「……恋人なんているのかな? いるよね? フローレンスは美人だから」

 本題はこれだ。

「そういう方はいません」

「そう! あっ、親が決めた婚約者がいたりして」

「いません」

「そう! フローレンスはどういう人がタイプ?」

「……あの」

 健太郎の問いにフローレンスは戸惑いを見せている。

「あっ、こういうことを聞くのは失礼だよね?」

「失礼というか……タイプとは何でしょうか?」

 タイプという言葉をフローレンスは知らないだけだ。

「えっと、好み」

「どのような男性が好みというご質問でしょうか?」

「そうかな?」

「特にはありません」

 男性の好みを聞かれても、フローレンスはどう答えれば良いか分からなくて困ってしまう。

「全くないということはないよね? 教えてくれる?」

 それでも健太郎は重ねて男性の好みを尋ねてくる。

「……家族を大切にする人。普段はそっけないけど実は優しい人。ちょっと意地悪だけど、そうされても嫌じゃない人。頭が良い人でしょうか」

 仕方なく思いつく言葉を答えたフローレンスだが。

「……何だか具体的だね? やっぱり好きな人いるんだ」

 答えすぎたようで、健太郎を落ち込ませてしまった。

「えっ? あっ、違います。近所にそういうお兄ちゃんがいて、私はお兄ちゃんがいないから羨ましいなって、ずっと思っていて」

 失敗したと焦ったフローレンスは、つい地が出てしまっている。貴族令嬢はお兄ちゃんなんて言葉は使わない。

「……そのお兄ちゃんのことが好きなの?」

 フローレンスにとって幸いなのは、貴族の言葉遣いや礼儀作法に健太郎が疎いことだ。そうだから騎士たちは裏町育ちのフローレンスでも大丈夫だと送り込んだのだ。

「いえ。好きな方はいません。特に好みもございません。どうしてもと仰るので無理やり考えただけです」

「そう。外見とかはないのかな?」

「ありません」

「……そう」

 こんな間抜けな会話で、どうして健太郎が元の世界ではモテたのか。単に外見が良いからだ。健太郎としては、自分みたいな人、という言葉が出てこないかとずっと期待していたのだが、その期待は見事に裏切られた。
 だからといって、これで終わる健太郎ではない。しつこさも健太郎がモテる?理由の一つなのだ。

「僕に聞きたいことあるかな?」

「……特にございません」

「そう……」

 更に撃沈。それでもアプローチは終わらない。

「そうだ。異世界の話をしてあげる。珍しい話だから面白いよ」

「はい」

「異世界ではね、空を飛べるんだ」

 インパクトのある話をと考えて、健太郎はこれを選んだ。

「空を飛べる、ですか?」

「そう。乗り物に乗って、空を飛べるんだ」

「はい」

 残念なことにフローレンスの反応は健太郎が考えていたものではなかった。

「あれ? 反応が薄いな。面白くない?」

「想像がつきませんので、どう反応すればよろしいのかも分かりません」

 インパクトが強すぎるというか、突拍子なさ過ぎるのだ。

「鉄で出来た乗り物なのだけど?」

「……鉄が空を飛ぶのですか? ますます分からなくなりました」

 鉄と言われてもフローレンスの頭に浮かぶのは鍋程度だ。鍋が空を飛ぶ様子を想像してみても健太郎が望むような驚きは生まれない。

「おかしいな。メアリー様は楽しそうだったのに」

「申し訳ございません」

「いや、謝る必要はないよ」

 健太郎の言う通り、謝る必要はない。一国の王女として接待というものを知っているメアリー王女とフローレンスでは反応が違うのは当然だ。

「じゃあ、別の話で。僕の生まれた国ではね。全ての子供が教育を受けられるんだ」

「…………」

「六才から十五才までは誰でも……これも面白くないか」

「全ての子供と言うのは?」

 この話にはフローレンスは驚いていた。興味を引かれてもいる。

「あっ聞きたい?」

「はい」

「全て。裕福な家の子も貧しい家の子も。例え親がいなくても勉強出来る」

「貧しい家の子も……でも働かないと生活が」

 勉強をしたくても出来ない。家計を支えるために子供の時から働かなければならない。これが現実だ。

「国が支援してくれるから大丈夫」

「国が……でも勉強しても役に立たない」

「成績が良くて良い学校に入れば、良い仕事先が見つかる」

「……でも、貴族と平民では」

 平民が就ける仕事は決まっている。その仕事で勉強が役に立つかと考えれば、微妙だとフローレンスは思う。

「そういうのはないから。僕の生まれた国にはそういう身分はない」

「…………」

 身分格差がない世界。これもまた想像がつかないが、そうあって欲しいという思いは、フローレンスの胸に浮かんだ。
 
「そういう制度なんだ。王もいない。それに似た立場の人は居るけど、統治はしない。統治は別の人がする。国民に選ばれた政治家だね」

「セイジカ?」

「国を動かす仕事をする人のこと。法律を作ったり、国の予算を決めたり、その予算で方向性を決めたり。分かり易く言えばこういうことかな」

「その方を国民が選ぶのですか?」

「そう。国民主権と言ってね、これも簡単に言うと、国民が自分たちで自分たちの為の政治を決めるってことかな」

「……そのようなことが出来るのですか?」

「実際にやっているから」

「…………」

 自分たちで自分たちに良いような政治を決められる夢のような世界。フローレンスの感想はこれだ。

「そうか。貴族であるフローレンスにとっては良いことじゃないね。大丈夫だよ。この世界で出来ることじゃないから」

「……どうして?」

「理由は色々とあるけど、結局、選んでも国王が選ばれるだけだよね? だったら同じさ」

 これはグレンに指摘されたことだ。

「……そうですか」

 この世界では実現出来ないと知って、フローレンスは少し落ち込んでいる。

「進んだ良い制度だけど、この世界にはまだ早いってことだね」

「勇者様でも変えられないのですか?」

「変えるよ。僕はこの世界を変えてみせる。まずは戦争を失くすことだ。その為に僕は強い軍を作るんだ」

「あの、戦争を失くしたいのに、軍を作るのですか?」

 軍は戦争をするために必要なもの。健太郎の言葉にフローレンスは矛盾を感じた。

「戦争を失くすには他国が逆らえない強い力が必要だよね? 僕に勝てないと思えば、他国も戦争なんてしてこないよ」

「……この世界の全ての国を倒すのですね?」

「そうだね。そうなれば誰も逆らう者がいなくなる。あれ? 何か違うような……大体は合っているか」

「……結局、力ね」

 理想を口にしていても、実際に健太郎がやろうとしているのは力ある者が他を支配する世界を作ること。フローレンスはこう理解した。
 今と何が違うのかとも思ってしまう。

「何?」

「いえ。何でもございません」

「フローレンス、見ていてくれ。僕は必ずこの国をもっと強い国にしてみせるから」

「……はい」

「それで……これを受け取って欲しい」

 恥ずかしそうにしながら、健太郎が取り出したのは、赤い宝石のついたネックレスだった。

「あの?」

「これは直接手渡したくて。僕からの贈り物として」

「……はい」

 フローレンスが素直に頷いたのを見て健太郎は大胆になる。鎖を外して、自らの手でフローレンスの首にネックレスを付けようと動いた。首に回す両手、顔も息がかかる程の距離に近づいた。

「よし。出来た」

「…………」

「良く似合うよ。これを選んで良かった」

 これだけ接近出来たのだ。ネックレスを選んで正解だっただろう。

「……はい」

「次は指輪を贈りたいな。指のサイズ教えてくれるかな?」

「サイズ……」

「これも分からないか。じゃあ、仕方がないな。ちょっと左手を出して」

「…………」

 又、手を握られるのかと、少し躊躇いながらも言われた通りに左手を差し出す。予想通り、健太郎はその左手を掴んで、指を触ってきた。

「細いね。でも大きさは覚えた。ぴったりの指輪を用意するよ」

「……手を」

「あっ、ごめん。あまりに素敵な手だったから」

 そんなはずはない。貴族の娘の手とは思えない労働を知っている手であるはずだ。これに健太郎は気が付かなかった。

「あの、そろそろ宜しいでしょうか? 仕事がまだ残っておりますので」

「……そうだね。じゃあ、また明日」

「はい」

「今日は良かった。なんだかフローレンスとの距離が縮まった気がするよ。フローレンス、君にはもっと僕のことを知ってもらいたい。だから……また話をしよう」

「……はい。では失礼いたします」

 フローレンスとの接近を確信した健太郎は満面の笑顔でフローレンスを見送った。
 一方で、部屋を出たフローレンスの顔は正反対。青ざめて肩を震わせていた。

「フローラ。あんたのことなんて羨むんじゃなかった。あたいはあんたと同じになるよ。でも、あたいは死なないから。死ぬわけにはいかないから……」

 

◆◆◆

 マークたちの策に嵌って、すっかりフローレンスの虜になっている健太郎。
 だが、マークたちの思惑は見事に外れてしまった。健太郎はフローレンスに良いところを見せようと、ますます張り切り始めたのだ。
 それでも少しはマークたちにとって良かったこともある。

「これが調練のメニュー」

「はい」

「メニューは分かるんだ?」

「分かりますが?」

「そう。説明しなくて済むのは助かる」

「いえ、説明して頂かないと」

「中身は説明する。調練だけどまずは基礎体力ね。ストレッチから始めて、初めに軽くアップ。そこからは本格的な走り込みを三十分。次がダッシュね。五十メートルを十本って所かな。それからインターバルトレーニングね。これは十五分。それが終わったら筋トレにしようと思ったけど、やっぱりサーキットトレーニングにした。中身は腹筋、腕立て、スクワット、背筋、その場飛び、これを各十回の五セット。これから様子を見て、徐々にきつくしていくから」

「「「…………」」」

 一気に説明を終えた健太郎だったが、聞いていた騎士たちはポカンとした顔をしている。

「最初からきつ過ぎた? でも、これくらいは普通に」

「いえ、そうではなく」

「えっ? 軽すぎ?」

「……何を言われているのか全く分かりません」

 メニューが分かったからといって、ストレッチだなんだの言葉まで分かるわけではない。聞いていた騎士たちには、健太郎の説明はチンプンカンプンだった。

「……そうか。えっと何からかな……これ読んでおいて。やり方もきちんと書いたから」

 あまりにも説明しなければいけない単語が多いので、健太郎は調練内容を書いた紙をマークに押し出した。

「…………」

「何?」

「いえ、多分、大丈夫です」

「何それ?」

「いえ、少し読みづらいだけで、多分、大丈夫です」

「…………」

「読めます。大丈夫です」

 つまりは読めないということだ。これだけしつこく言われれば、健太郎にも分かる。

「……この世界のペンって書きづらいよね。シャーペンがあれば良いのに」

 言い訳を口にする健太郎。

「あるわよ。健太郎はないの? 召喚された時にカバン持っていたから入っているでしょ?」

 お望みのシャーペンはあった。だが健太郎は本当にシャーペンを求めていたわけではない。

「……書いておいて。清書ってやつ」

「どうして私が?」

「結衣のほうが字は綺麗だ。読みやすいほうが良いと思う」

「あっ、なるほどね。ペンじゃなくて、字が汚いだけね」

「うるさいな」

「まあ、良いわよ。清書と言っても紙一枚でしょ? すぐに終わるわよ」

「ではユイ様。お願いいたします」

 マークがトレーニングメニューが書かれた紙を差し出してきた。

「ええ……これ字?」

 健太郎の文字の汚さは知っていたつもりの結衣だったが、目の前に紙に書かれている文字はそれを超えていた。

「だからペンが悪いんだって。普通のペンなら、もう少し読めるように書ける」

「……まあ良いわ。さっきの説明で大体分かるから。それに私の方がトレーニングは詳しいしね」

 付き返そうと思った結衣だが、少しは自分が役に立つところをマークたちに見せようと、そのまま引き受けることにした。

「よろしく」

「では軍の編成状況です。トキオへの部隊の移動は既に始まっております。一月以内には移動は完了するでしょう。一方で新兵の補充は地方からの移動ですので、もう少し時間が掛かります。ですがトキオはまだ工事の最中ですので、それで丁度良いのではないかと思います」

「そう。それで軍の編成の件だけど」

「編成について何か?」

 マークの眉がしかめられる。この期に及んで何を、という思いがマークの頭には浮かんでいる。

「工兵隊を作りたい」

「……専任部隊をですか」

「もしかして、既にあるの?」

 マークの言い方は少なくとも工兵が存在していることを示している。

「歩兵の一部が兼ねております。手先の器用な者や、元々職人だった者もいますので」

「そう。それを専任部隊にしたい」

「無駄ではないですか?」

 マークには専任部隊にする必要性が理解出来ない。

「兵器開発とかもしてもらう。そうなると普通の兵と同じようには戦えないと思う」

 健太郎のいう工兵部隊は戦場の仕事だけでなく、平常時には兵器開発なども担うものだ。当然、調練が出来なくなるので他の兵と同じには出来ない。

「開発ですか……それは技術局がありますが」

「あるの?」

 ただ、その開発は別の部署の仕事だった。

「はい。新しい兵器の開発や改良は技術局の仕事となっております」

「……あのさ、この世界の攻城兵器ってどういうものがあるのかな?」

 どうやら自分が考えたアイディアは既にこの世界に存在するようだと気付いた健太郎。これ以上話す前にそれを確かめることにした。

「……破城槌。後は投射器、攻城塔。私はこれくらいしか知りません」

「じゃあ、投石機はない?」

「投射器ですね」

「えっ?」

「投射器で石を投げるのが投石器、太い矢を撃つのを弩砲と言います」

 健太郎にとって残念なことに、単に呼び方の違いだけだった。

「……そう。開発は良いや」

「では工兵隊は不要ですね」

「防御陣地を作るのには必要だな」

「……陣地とは、どのような物を考えられておりますか?」

「石で周りを囲ってその中から攻撃したり、深い溝を掘って敵の足止めとか、その中から攻撃したり」

「そういう作業であれば一般の兵で可能かと」

 健太郎の言っているのは土木作業、もっと簡単に言えば力仕事だ。専任である必要はない。もちろん専任部隊があったほうは良いのだ。だが、それを納得させる材料を健太郎は持っていなかった。

「……工兵はいいや」

「はい」

 工兵部隊は諦めることになった。ただ、ここで挫けないのが健太郎の強さ?だ。

「じゃあ」

「まだ?」

「あるよ。忍者部隊を作りたい」

「間者ですか」

「……忍者も分かるの?」

「間者と同じ意味ですね。諜者とも言いますが」

「それが欲しい」

「それは無理です」

 忍者部隊についてもマークは否定してきた。ただこれについては、これまでとは違い、はっきりと無理だと言っている。

「どうして?」

「いわゆる諜報部門は国王陛下の直轄です。それを他の者が直接使うことは出来ません」

「それも、どうして?」

「諜報部門は様々な情報を入手する力があります。それを誰もが使うことを許したらどうなりますか?」

「……そうか」

 私利私欲の為に利用する者も必ず出てくる。マークの話を聞いて、健太郎にも分かった。

「入手した情報の中にはとても公に出来ないものもあるはずです。それが公にされたら、我が国は大混乱に陥らないとも限りません」

 私利私欲の為でなくても、知ってはいけない情報を入手してしまうかもしれない。ゴシップ程度の情報でもそれが王族や大貴族に関わるものであれば、国が揺らぐことはあるのだ。

「もう分かっているから」

「いえ、ケン様は分かっていないと思います」

「どうして?」

「自分の諜報部隊を持ちたいなどと間違っても口にしてはなりません。周りにそれで何を調べるつもりかと勘繰られることになります。言っておきますが勘ぐられるは、かなり控えめな表現です」

「……分かった。もう言わない」

 かつてグレンはハーリー千人将にどうやったら健太郎に言うことを聞かせられるかと問われて、こう答えた。煽てか脅し。
 マークは今、その脅しで健太郎を黙らせた。だがマークたちにとって残念なのは、それに気が付くのは、ずっと後になるということだ。しばらくは煽てだけが続くことになる。
 身分がかなり上であればまだしも、最強である勇者、健太郎に脅しをかけられる人など、キレたグレンくらいだ。
 そして、今のグレンは健太郎にキレ続けている。脅すどころか、殺そうとしているのだ。