ブラオリーリエにこもるリリエンベルク公国軍との交渉は決裂に終わった。交渉の使者とされたフレイには初めから分かっていたことだ。リリエンベルク公国の中心都市シュバルツリーリエに残った人たちは皆、死を覚悟していた。それをブラオリーリエにいる人々も知っており、彼等もまた残った人々の死を覚悟していたはずなのだ。すでに捨てている命と引き換えに降伏など行うはずがない。
「交渉が失敗しただと? お前はどんな下手な交渉を行ったのだ!?」
それは総指揮官であるテゥールも薄々分かっていたはず。そうであるのにこんなことを言ってくるのは、たんにフレイを貶めたいだけだ。
「ブラオリーリエにこもるリリエンベルク公国軍には交渉の意思もない。徹底抗戦を決めているのだ」
「そうであれば押しつぶすだけだが労働力の確保に失敗したのは問題だ。この件については後々、処分があるかもしれない。覚悟しておけ」
失敗の責任は総指揮官であるテゥールが負うべきもの。それを彼はフレイに全て負わせようとしている。失敗を予想して、あらかじめ考えていたことだ。
「……分かった。それで、人質はどうするつもりだ?」
「そろそろ、上官への口の利き方というものを覚えたらどうだ?」
「育ちが悪いからな。言葉使いについてなど一度も考えたことはない」
直すつもりはない。そういう意思表示だ。
「……まあ、良い。それも含めて沙汰があるだろう。人質は殺す。降伏を受け入れないのであれば当然そうする」
「本当に?」
「甘い顔を見せるつもりはない。こちらの好意を受け入れない者たちには自分の愚かさを思い知ってもらう。思い知る頃には皆、死んでいるだろうがな」
「……そうか」
人質を殺すことについて強く反対する気はフレイにはない。死を覚悟している者へは望み通りに死を与えてやれば良い。そういう考えだ。ただその結果どうなるかについては気になっている。今考えても仕方がないので、成り行きを見守るだけだが。
「人質を前に出せ! 愚か者たちにも良く見えるように、殺してやるのだ!」
テゥールの命令を受けて、人質を縛り付けた三本の大きな丸太が軍勢の前に出て行く。
それでもブラオリーリエとはかなり距離があるので良く見えているとは思えないが、城壁の上の人々が皆、まっすぐにこちらを見ているだろうことは分かる。
「……ふん。魔王様が甘い顔を見せたせいで、どれだけの味方が命を失ったか。尻拭いをする私が大変だった。だが終わりだ。裏切り者は死ぬ。私が殺すのだ」
その様子を眺めながらテゥールは呟いている。
多くの味方を失った。その失敗は、その原因を作った裏切り者ヘルを殺すことで相殺、うまくすれば手柄のほうが多くなるかもしれない。こんなことを考えているのだ。
「……ば、ばぁか。お、お前が、こ、殺す、んじゃない。わ、私が、死んで、やるのよ」
そのテゥールの耳に届いた苦しげな、そうでありながら侮辱する言葉はヘルのものだ。
「き、貴様……」
「し、しかし、ま、魔王、軍も、終わってるわね。あ、あんたみたいな、くずが、大将軍なんて……」
「こ、殺せ! この女の口をさっさと閉じろ!」
激高するテゥール。その命令に従った部下たちが持つ槍が一斉にヘルの体を貫いた。
「……お、終わり……と、当主、の座は、せ、正当な、血脈者に……ジ、ジーク……ごめんね……」
これがヘルの最後の言葉。誰にも聞こえないような小さな声で呟かれた、遺言だ。声が相手の耳に届く必要などないのだ。彼女の意思はそれを伝える存在によって広まっていく。
そしてもっとも伝えたい相手に対しては――
◆◆◆
その瞬間。ジグルスの体を真っ黒な光、影というべきかもしれない何かが包んでいた。漆黒の何か、それはやはり光と表現するのが適切だ。周囲の人々はその漆黒の闇に何故か眩しさを感じて、目を開けられなくなっているのだから。
異変はそれだけではない。ジグルスの周囲で起きているよりも遙かに大規模な異変が魔人軍の近くで起きていた。
ジグルスの体を包むものと同じ漆黒の闇が空に立ち上っている。雲のようにも見えるそれはジグルスの母であるセルの体から噴き出しているのだ。空に広がる闇。昼間であるのにまるで空の一部だけ夜を迎えてしまったかのようだ。
それを見て多くの魔人が恐れおののいている。かつて雲の上の存在であったヘルを、このような形で殺してしまったことがこの異変を呼んでいると考えているのだ。
その様子はジグルスには見えていない。まったく見えていないわけではないが、思考がそれに向かわない。今のジグルスは何も考えられる状態ではないのだ。
頭の中に湧き出てくる記憶。それがジグルスの思考を支配していた。
「ジーク。可愛いジーク。貴方が生まれてくれて私は幸せ。貴方は私の全てよ」
優しい顔をして自分に語りかけてくる母。その母の言葉が嬉しくて、ジグルスは楽しそうに笑っている。
「ジーク! 大丈夫! ああ、怪我して。平気? 痛くない? 泣かないで、ジークは男の子なのだから泣いちゃ駄目よ」
転んでしまった自分を慌てて抱き上げる母。すりむいてしまった手を見て、心配そうな顔をしている。
「痛いのだから泣くのは当然だ」
「もう、貴方。そんな過保護にしては駄目だから。ジークは男の子なのだから強くならなくてはいけないのよ」
「君にそんなこと言われたくない。甘やかしているのは君のほうじゃないか」
「だって……可愛いもの」
「そう言って、いつも君はジークを独占する。ジークは僕の息子でもあるんだ。二人で遊ばせてくれても良いだろ?」
両親の会話。自分への強い愛情が感じられる言葉が二人の口から流れ出てくる。
次々と頭に浮かぶ両親との場面。こんな記憶はなかったはずだ。両親はいつも自分に厳しかった。深い愛情を感じたことなど一度もなかった。そのせいで、転生の記憶が戻った影響も大きいが、二人に対する子供としての思いは薄かった。ずっと他人のように感じていた。
そうであるはずなのに。
(……どうして……これは何だ?)
溢れ出来る記憶はどれも心からの愛情を捧げられたと思えるもの。それを喜んでいる自分もいる。何故こんな記憶が浮かんでくるのか。この記憶は何なのか。
「……ジーク……ごめんなさい……ごめんなさい、ジーク」
両眼から涙を流し、自分に謝罪する母。母の涙を見たのはこれが二回目。実際はこれが最初で、学院時代の一番新しい記憶が二回目だ。
「貴方の存在を知られるわけにはいかないの……私は貴方を失いたくないの……だから……ごめんなさい」
はめられた指環。それ以来ずっと、今もつけたままの指環だ。ジグルスの体を包んでいると同じ漆黒の指環だ。
そしてこの場面が湧き上がる記憶の最後だった。
(……母さん、父さん)
ジグルスの目からも涙が溢れている。湧き上がる記憶によって揺り起こされた感情は、愛されていたという喜びか、その両親を失った悲しみか。
(……俺の記憶……俺の記憶も遮断されていたのか?)
思い出された記憶は真実。それをこれまで失っていたのは母の魔法のせい。学院の生徒たちからジグルスの記憶を奪ったのと同じように、母親はジグルスから両親に愛されていた思い出を奪い去っていた。
(……どうして?)
何故そんなことをされたのか理由が分からない。両親に愛されていた。そんな両親を自分も愛していた。何故この想いを消さなければならなかったのだ。
(それはおまけ)
(えっ?」
(彼女がジークから奪いたかったのは他のものだよ。そのついでに自分たちへの愛情も消したのさ。君が自分たちとの別れを躊躇わないように)
(君は……ルー。ルーだ)
突然聞こえた声は幼い頃のジグルスにとって唯一の友。会えなくなって久しい友が突然現れた、といってもその姿は見えない。ルーはそういう存在なのだ。
(久しぶりだね、ジーク。再会出来て嬉しいよ。でもそれは悲劇があったからこそ。素直に喜べないね)
(……もしかして君も母さんが)
(も、ではなく僕を隠したかったかな? 僕だけじゃないか。君は僕がいなくてもその才能を隠しきれなかった)
(……どういうこと?)
自分の才能。そんなものはないはずだった。仮にあったとして、どうしてそれを隠す必要があるのか。
(その答えは戦いを終えてからにしよう。それに、戦うことで分かることもあるからね?)
(戦う……ああ、あいつらか)
魔人軍が前進してきている。交渉は決裂した。人質を殺し、攻めてくるのは相手にとって当然の行動だ。そうでなくてはジグルスも困る。
(……とりあえずは敵討ちかな? それをしても二人は生き返らないけどね?)
(生き返らなくても、悲しみが消えなくても戦う。俺はやつらを許すつもりはない)
(じゃあ、戦おう。友よ。彼等に君が何者かを知らしめてやるが良い)
ジグルスが何者であるかをルーは知っている。それはそうだ。彼はずっと側でジグルスの人生を見てきた。そしてなにより彼の存在こそがジグルスが何者かの証となるのだから。
◆◆◆
ヘルを殺害したあとに起きた異変に大いに動揺していた魔人軍だが、テゥールの命令を受けてブラオリーリエへの攻撃を開始した。動揺する魔人たちを鎮める為に、テゥールは目標を明確にしたのだ。
それが功を奏して魔人たちはかなり落ち着きを取り戻し、侵攻を開始している。空に広がった闇がまるで雲がちぎれるかのように四方八方に分かれ、消え去ったというのも魔人たちを落ち着かせた理由だ。そのほうが大きい。結果、何事もなかったのだ。
動揺していた気持ちを振り払うかのように勢い良く前進する魔人たち。
「飛竜だ! 叩き落とせ!」
その魔人軍の上空を飛ぶ飛竜。それに気付いたテゥールは攻撃を行うように命令を発した。
空を飛ぶ飛竜に襲い掛かるいくつもの魔法。それを上手く避けていた飛竜だが、接近するにしたがって密度を増す魔法を避け続けることはさすがに出来ず。直撃を受けて地に落ちていく。
地面に激突、その直前に飛竜から分かれた影。
「……何だ、貴様は?」
目の前に飛び出してきたその影、ジグルスにテゥールはやや戸惑っている。たった一人で攻めてきた意図が掴めないのだ。
「お前か? この軍で一番偉い奴は?」
「……そうだとしたら?」
「死ね」
「……笑わせるな! たった一人で何を粋がっているのだ!」
こんな声をあげながら、テゥールはジグルスに攻撃を仕掛けていた。一瞬で間合いを詰めると鋭い爪が伸びた腕を振るう。
「馬鹿が……なっ?」
「誰が馬鹿だって?」
吹き飛んでいたはず、それどころが一撃で死んでいたはずのジグルスが、距離を取ったところで何事もなかったように立っている。
「貴様……調子にのるな!」
その舐めた態度がテゥールを刺激した。
怒気を露わにして、それでありながら実際は冷静にジグルスの動きを見極め、それを超える動きで攻撃を仕掛けるテゥール。だがジグルスはその、避けられないはずの動きをことごとく外していく。
「……少しは出来るようだな。だが、まだまだこれからだ!」
テゥールはさらに一段ギアをあげた。目にも止まらぬ動きでジグルスとの間合いを詰めると、これもまたもの凄い速さで蹴りを放つ。それもまたジグルスに避けられるが、それだけで攻撃は止まらない。
右腕が、左腕が、そうかと思うと両の足の蹴りがジグルスに襲い掛かる。
「なるほど! 逃げ足だけは褒めてやる! だが逃げるだけでは勝てないぞ!」
「攻撃していても当たらなければ勝てない!」
「なめるな! まだまだこれからだ!」
ジグルスの挑発にテゥールはさらに一段ギアをあげることで応えた。もう周囲の魔人たちの中からも、その動きを追いきれない者が出ている。そこまでの速さになったのだ。
だがそれさえも、さすがにかなり苦しそうだがジグルスは避け続けている。
「……貴様……何者だ?」
最初と同じような問い。だがその意味合いは大きく違う。ここまで自分の攻撃を避けられるのは只者ではない。若いが名のある騎士だとテゥールは考えたのだ。
「お前が殺した人質の息子だ」
「……なんだと? 貴様、あの女の息子なのか!?」
「どいつもこいつも。だからそう言っている」
母の話になるとどの魔人も同じような反応を見せる。もう自分の母も、ただのエルフではなく魔人に属する立場であったのだろうことは分かっている。そうだとしても、この反応は鬱陶しい。
「……ふっ、飛んで火に入るなんとやらだな。貴様も殺して、俺の手柄にしてやろう!」
「虫と一緒にするな」
「同じだ!」
気合いの入った蹴り、その勢いはこれまで以上のものだった。ジグルスは完全に避けることが出来ずに、腕を交差させて受け止めることを選んだ。
大きく後ろに吹き飛ばされるジグルス。
「……あれ? 意外と平気」
以前、魔人の攻撃を受けた時は一撃で動きを止められた。その時に比べれば、今の衝撃はかなり軽いものだ。
「……これも耐えるか。だが、完全に避けることは出来なかったようだな!?」
ようやくジグルスを捉えた。テゥールは一気に勝負をつけようと猛攻を仕掛けていく。それを躱し、場合によっては腕で受け止めて直撃を避けるジグルス。
だがテゥールの猛攻は止まらない。息つく暇もつかせない勢いで攻撃を仕掛けてくる。それを必死の形相で躱し続けるジグルス。
そのジグルスにようやくチャンスが巡ってきた。自らの蹴りの勢いでバランスを崩すテゥール。その隙を見逃すことなく、ジグルスは剣を抜く。
だがそれはテゥールの誘いだった。攻撃に転じたジグルスに、カウンター気味に放たれたテゥールの蹴りを避けることは出来なかった。腹部に蹴りの直撃を受けて、吹き飛ばされるジグルス。
「ぐっ……」
背中からまともに地面に叩きつけられたジグルス。その痛みで息がつまる。
さらに出来たその隙をテゥールは見逃さなかった。一足跳びでジグルスの足下まで移動すると地面に転がったままのジグルスを蹴りつける。
その勢いは凄まじく蹴られたジグルスは地面から浮き上がって、さらに遠くに飛ばされた。
「とどめだ!」
とどめの一撃を放とうとするテゥール。大きく振りかぶった右腕を地面に倒れているジグルスに向かって、思いっきり振り下ろした、のだが。
「……お前、強いかもしれないけど馬鹿だろ?」
「なっ、なんだ、これは!?」
ジグルスに向かって振り下ろしたはずの右腕がない。それにテゥールは驚いているのだが、まだ事態を分かっていない。
「やっぱり馬鹿だ。自分が死んでいることにも気が付いていない」
「……な……な、なに……が……」
ゆっくりとずり落ちていくテゥールの上半身。斜めにずれたそれは、そのまま地面に転がり落ちていく。それに少し遅れて、残った体も地面に仰向けに倒れていった。
テゥールが倒れたその場には漆黒の大鎌を持つ、これもまた漆黒の羽根を生やした精霊がいた。姿形は精霊だが、その大きさは普通とは異なりジグルスよりも少し小柄なくらい。そんな精霊が普通であるはずがない。
「……く、黒き、精霊」
その存在が何者かは魔人軍側が知っていた。
『黒き精霊だぁああああっ!!』
『死神だ! 死神が生きていた!!』
『ま、まさか!? バルドル様が!?』
広がる声。その声と同時に動揺が魔人軍に広がっていく。一万の魔人が、いくら総指揮官を討たれたとはいえ、たった一人に怯えているのだ。
「……やっぱり、あの方の息子か……これは……今はとにかく引くべきだな」
一人怯えることなく、納得した様子のフレイ。
「引け! 一旦後退だ! 撤退しろ!」
彼は誰の許可を得ることもなく撤退を決め、それを命令として発した。フレイに命令する権限があろうとなかろうと怯えている魔人たちには関係ない。それをありがたく受け取って、撤退を始めた。
ブラオリーリエの戦いはこれで、あくまでも初戦はだが、終わることになる。