空に伸びる木々はその高さを増し、密度もこれまでとは明らかに違っている。人が踏み入った気配のまったくない森の奥。そこを一人、ジグルスは歩いている。
心に浮かぶのはわずかな後悔。もっと偵察を重ねてからのほうが良かったかという思いだ。だがその考えはすぐに頭から振り払った。何度も偵察を繰り返せば、必ず相手に気付かれる。何の為の偵察なのかと考えれば、すぐに目的は分かる。計画が失敗に終わるだけだ。
だが今も成功は見えていない。目的の場所に辿り着けないのだ。
(……方向は合っているはず)
あるはずのない気配。わずかに感じられるそれを辿ってここまで来た。向かう先は間違っていない。そう思いたい。
(孤独を感じるのは久しぶりだな)
不安な気持ちを、別のことを考えることで紛らわす。孤独を感じている事実は、ジグルスにとって不安にはならない。久しぶりとはいえ、慣れた感覚なのだ。
遊び相手はいなかった。唯一の友人とも会えなくなった。学院に入学してからもしばらくは存在を消し、誰とも親しく接することなどなかった。一人でいることが当たり前だった。
(……大丈夫かな?)
おそらくは同じように孤独を感じていたであろう人のことを思い出してみる。敵対視していた相手だが、今はその思いは薄れている。少しだが彼女の苦しみを垣間見てしまったから。
自分も同じ転生者であることを伝えた。はっきりとは言わなかったが、彼女には分かったはずだ。
告白は悩んだが、今は話して良かったと思っている。同じ思いを抱く存在がいる。こう思えるようになったことはジグルスの気持ちも軽くしているのだ。
家族がいても、愛おしい人が出来ても、多くの仲間が周りにいても消えない孤独感。自分は、自分だけが違う存在だという孤独感が少し薄れた。彼女もそうであって欲しいと思う。
(王女殿下、上手く出来るかな? あの人も実は人間嫌いなところがあるからな)
カロリーネ王女には、自分は少し勘違いをしていたかもしれないと伝えた。彼女の行為の全てを擁護するつもりはないが、彼女なりの責任感があり、その重さに負けて極端な行動を取ることがあるようだと話した。
真実の全ては話せないのでわかりにくい内容になったが、カロリーネ王女は「分かった」と言ってくれた。親しく、は無理かもしれないが、全てを否定することはなくなるだろうとジグルスは思っている。
カロリーネ王女はそういう人だと知っているのだ。カロリーネ王女は人の嫌なところを良く見ている。だが人の弱さも理解している、とジグルスは思う。彼女の弱さを理解してくれるはずだと。
(……いくら考えてもどうにもならないか)
実際にどうなるかはいくら考えても分からない。手助けすることはジグルスには出来ないのだ。
(ブルーメンリッターか。物語は順調に進んでいると考えて良いのかな?)
解決しない問題を考えるのは止めて、今度は他愛もないことを考える。花の騎士、ブルーメンリッターはゲームの題名にも使われていた騎士団の名称だ。
それを遂に主人公たちは名乗ることになった。かなり強引な流れだとジグルスは思っているが、ゲームシナリオが強制されるのはおかしなことではないと勝手に納得している。
(あれ? そういえば一軍を率いるなんて話だったか?)
ブルーメンリッターは一軍六千。だがジグルスが知るその騎士団は主人公とその仲間だけ、せいぜい十名くらいだったはず。設定が違っている。
(……まあ、十名じゃあ、戦争には勝てないからな)
ゲームではマップ上に配置された一人一人のキャラを動かす。六千人の騎士や兵士など画面上に出てこない。だが実際の戦争において、たった十名の騎士団の力で勝利を得られるのか。そんなはずはない。
(……倒す魔人って何人だったかな? 三十戦くらいしているか。いや、もっとかな?)
エンディングを迎えるまでにどれだけの戦いがあったかを思い出してみる。正確なところは分からないが、十や二十ではないことだけは間違いない。
(五十回だとしてもこの世界の魔人は五十人……いや一回の戦いに出てくる魔人は一人だけじゃないから……それでもないな)
この世界はゲーム世界。それは間違いないと思っているが、色々考えていくとゲームの設定と違っている部分がかなりある。そのまま現実に反映出来るような設定にはなっていなかったのだ。
(ああ、魔人軍百万って言っていたか……本当に勝てるのか?)
百万の大軍がいれば。今現実に進んでいるようにローゼンガルテン王国軍を各地に分散させ、その上で各個撃破を図る。ジグルスが考えてもそうする。では逆にそれをどう防ぐか考えてみる。
(……全てで勝つのは無理だな……それを王国は選んだのか)
数が違い過ぎる。全ての戦場で勝とうと考えれば、全てで負けてしまう可能性が高くなる。ではどうするか、となれば選択と集中。絶対に勝たなければならない戦場、敵を絞り込み、それへ戦力を集中させるしかない。犠牲を許容するということだ。
(勝ってももめるな。ラヴェンデル公国はすでに不満を……あれ?)
とても大事なことを忘れている。それに気付いたジグルスだが、思考に集中することは許されなかった。これまで感じなかった強い気配。それがすぐ近くで感じられたのだ。
その気配が何者のものかを確認する前に、ジグルスはその場から大きく跳んで木の陰に体を寄せる。改めて辺りを探ると、やはり確かな気配が感じられた。
「……行き過ぎている」
「…………」
気配が言葉を発してきた。それに対してジグルスは沈黙を守ったまま。相手の意図が分からないのだ。
「……目的地はもっと手前で南。この先は何もない」
「……その言葉を信じろと?」
味方がこんな場所にいるはずがない。言葉を発しているのは敵、魔人であるはずだ。
「そうは言わない。ただ事実を述べているだけ」
「……何故、俺にそれを教える?」
「……か、語る……ひ、必要、は……ない」
相手の様子がいきなりおかしくなる。途切れ途切れの言葉。何故、そんな風になるのかジグルスには分からない。何かが起きている気配はないが、とにかく気持ちを集中させて、不意打ちに備えることにした。
だが、やはり周囲の気配に揺らぎはない。いや、争いの気配がないだけで気配は動いた。ジグルスが隠れている木から数歩離れた位置に立っている木。その上から黒い影が地面に落ちてきたのだ。
まったく受け身をとることなく地面に激突する影。しばらく様子を見ていたが、まったく動くことはなかった。周囲を警戒しながら木の陰を出て、地面に転がる何者かに近づくジグルス。
恐る恐るその体を探ってみた結果。
「……死んでる……どういうことだ?」
すでに死体となっていた。呼吸することなく、心臓が動かなくても生きられる魔人でなければ。
「……問題はこいつの言葉を信じるか……調べるしかないか」
罠かもしれない。だがここで話を無視して前に進んでも、存在を気付かれているのであればきっと待ち伏せされる。同じことだと考えて、ジグルスは引き返してみることにした。
「……どうせなら何メートルとかまで教えて欲しかったな。甘えすぎか」
どこまで引き返して南に向かえば良いのか分からない。だがそれに文句を言うのもおかしな話だ。敵がそこまで親切である必要などない。目的地を教えてくれた敵が、本当に敵なのかという疑問は横に置いて考えれば。
◆◆◆
ローゼンガルテン王国軍、今はラヴェンデル公国軍のほうが多くを占めているが、の陣営にある会議用の天幕では指揮官たちがじっと息を詰めて、報告を待っていた。最初からこんな状態ではなかった。リーゼロッテがやってきて敵の物資集積所を襲うと聞かされた時には、それがもう実行に移されていて、しかもジグルス一人で向かったと聞かされ時には大騒ぎになった。
だがそれも時間の経過と共に落ち着き、さらに時が過ぎると語る話がなくなってしまった。報告が遅いのを凶兆と捉えて緊張している人が増えたのも会話がなくなった理由だ。
その彼等が待ちに待った瞬間がやってきた。
「報告! 森の奥に火の手があがりました!」
天幕に飛び込んできた騎士が、待機していた人々が望んでいた報告を告げてきた。
「……飛竜を飛ばせ! 急げ!」
報告を聞いたラードルフ総指揮官が命令を発する。それを聞いて、報告を告げにきた騎士が天幕を飛び出して行く。
「成功した……」
タバートの呟きはごく小数を除いて、この場にいる全員が心に思っていること。今回の作戦には大きな期待を寄せていた。だが一方で上手く行かないだろうとも思っていた。
それはそうだ。作戦はジグルスがたった一人で森の奥深く入り込み、敵の物資集積場所を探し出すというもの。探し出すだけでなく、そこに火をつけて燃やしてしまおうという作戦なのだ。
「まだ成功ではないわ。全てを焼き尽くして、初めて成功と言えるの」
リーゼロッテは冷静だ。これまでもっとも冷静でいられなかったのだが、作戦の第一弾が成功したことが分かって、気持ちが落ち着いたのだ。
「……飛竜が無事に辿り着けるかだな」
魔人軍の物資を全て燃やし尽くす。さすがにジグルス一人ではそれは出来ない。最初に火をつけたところで、敵に所在を知られてしまう。命を惜しむならすばやくその場を去る必要がある。
当然、ジグルスは命を惜しむので、残りの攻撃は飛竜に委ねられている。ジグルスがつけた火を目印に現地まで飛び、空から火のついた松明をばらまく。それで物資を焼き尽くすことが出来て、初めて作戦は成功となるのだ。
「大きく迂回してもそれほど時間は変わらない。物資を別の場所に移すことなど不可能なはずだ」
ラードルフ総指揮官が成功の可能性が高いことを口にする。そうであって欲しいという願望も込めての言葉だ。
「成功したとして、それが魔人軍の物資の内、どれだけの量なのか」
飛竜部隊が成功するかどうかを考えても意味はない。結果はそう待つことなく分かるはずなのだ。タバートは作戦の成果がどれほどのものになるかについてを考え始めた。これも意味はないのだが、作戦に動きが出ると今度は黙っていることが苦痛なのだ。
「この作戦は一度限り。あとは運を信じるしかないわ。ジークが目的地に辿り着けたことで運があることは証明出来たようなものだけど……」
何度も使える作戦ではない。森の奥深くまでローゼンガルテン王国軍が、実際に動いたのはジグルス一人だが、踏み込んでくるはずがない。魔人軍がそう油断しているという前提で立てられた作戦なのだ。
リスクの高い作戦だ。だがそのリスクを取らなければ、この場での戦いを終息させることは困難。膠着状態が長引くことは魔人軍に利をもたらすことになるのだ。
「……考えれば当たり前のことだが、魔人軍にも兵糧は必要なのだな」
報告を待たなければ考えは何も進まない。タバートはさらに意味のない、時間つぶしだけの話を始めた。
「何も食べないで生きられる生物はいないものね」
まったくいないわけではない。リーゼロッテたちが考える食べ物とは異なるものを食すことは必要ではあるが。
「そうなると彼が言った、魔人はどうやってそれを入手しているのかが気になるな」
「木の実かもしれないわよ?」
これは冗談。木の実だけで良いのであれば、この森にだって沢山ある。ただ調達が必要ないかとなるとそうではない。
「十万を養うだけの木の実か。どれだけの数なのだろうな?」
十万の魔人軍を養えるだけの木の実など手に入れられるはずがない。もちろん目の前の森の全ての木の実を採り尽くせば足りるかもしれない。だがそれにどれだけの人手と期間が必要とされるのか。
「……タバートはどう思っているのかしら?」
冗談は終わりにして疑問の答えについて真面目に考えることにした。
「俺に言わせるのか?」
「つまり答えを持っているということね?」
「……どのような物資が集められていたか次第だが、何らかの組織が手を貸している」
タバートはかなり答えを濁している。本当に魔人軍が百万で、その全てに行き渡る物資を集められる組織など並の組織ではない。百万の軍勢を持つということなのだ。国家クラスでなければ、そうであってもかなり無理をしなければ不可能だ。
「大森林地帯には想像出来ないくらいに広大な農地が広がっているのかもしれない」
「そうだとしても一年のうち、かなりの期間が雪の中だ」
「……そもそも百万も住める土地ではない?」
「……怖いことを言う。では魔人の本拠地はどこなのだ?」
ローゼンガルテン王国は魔人の本拠地は大森林地帯だという前提で作戦計画を立てている。それが間違いであるとすればどうなってしまうのか。想像したくない内容だ。
「さらに奥かもしれないわ」
「大山脈?」
「その奥よ」
「……エリオントゥ王国が魔人のものになっていると?」
エリオントゥ王国はローゼンガルテン王国の東、大森林地帯に続く大山脈のさらに向こう側にある国だ。隣国ではあるが、人が足を踏み入れられない大山脈に隔てられているので、ローゼンガルテン王国との交流はほとんどない。
「一つの可能性としてよ。決めつけているわけではないわ」
「それは彼の意見か?」
「なんでもジークに頼っていると思わないで。私が考えたことよ。ジークには別の考えがあるみたい」
「それはどんな考えなのだ?」
「……教えてもらっていないわ。状況証拠もない段階で話をしても、それはただの妄想だって」
これは説明しない為の口実。そうであることをリーゼロッテも知らない。ジグルスの仮説の根拠は元の世界でのゲーム知識。推測として語るにしても、誰もが納得する状況証拠がなければ迂闊に話せないと考えて、リーゼロッテにも嘘をついているのだ。
「妄想か……」
その妄想もタバートには思い付かない。考えることさえしていなかった。自分が見えないものを見ているジグルスに、タバートは複雑な思いを抱かざるを得ない。もちろん、それはリーゼロッテの存在があるからこそだ。ただの指揮官、参謀であればタバートは手放しで喜べたはずだ。
「あっ、そうだわ。この作戦が成功に終わったら、こちらの守りを固めるべきだと言っていたわ」
「それはどういうことだ?」
「これまで魔人軍がこちらの物資を狙わなかったのは、勝利ではなく私たちをここにとどめておくことが目的だから。継戦が難しくなれば、攻撃を控える理由はなくなるって」
「……それを何故、今?」
そう思っているのであればもっと早く伝えてきても良かったはず。それだけ備えに時間がとれるとタバートは考えた。
「これまでと違う動きを見せれば、何かしてくると疑われるかもしれないわ。しかもそれが物資を守ることだと、こちらの狙いに気付かれてしまうかもしれない」
味方の情報はかなり詳しいところまで敵に知られている。ジグルスはそう考えている。部隊を動かすことなく自分一人で作戦を実行に移したのは、これが一番の理由だ。
「なるほどな。その慎重さは大事だな」
「自分の命に関わることだから」
失敗すれば命を落とすかもしれない。そうなってしまう可能性を少しでも低くしようと考えるのは当然だ。
「……来たようだ」
途中からまったく会話に加わっていなかったラードルフ総指揮官。彼はじっと黙って報告が来るのを待つことを選んでいた。その彼の耳に天幕の外で叫ぶ騎士の声が聞こえた。
「成功しました! 飛竜の犠牲もありません!」
作戦は成功。この結果を受けて、魔人軍がどう動くか今は分からないが、とりあえず膠着している戦況を打開するきっかけになることは間違いない。
これはこの場にいる全員の思いだ。