この場所に閉じ込められて既に何日が経過したのか。もうエアリエルには分からなくなっている。そもそも初めの数日間の記憶が全くないのだ。
全く身に覚えのないことで糾弾を受け、それでも監察部の目的が親しい平民の生徒たちにあるのだと分かり、彼らを庇う為に罪を認めた。兄であるヴィンセントも同じように考えたようで、一緒に監察部に連行されることになった。
ヴィンセントと会ったのは、それが最後となった。
連行されたあとは、ほとんど放置状態。厳しい取り調べを受けることはなかったが、逆に反論する機会も与えられなかった。
この先、どう進んでいくのかと疑問に思っていたところに、いきなり判決が伝えられた。
処罰は貴族身分の剥奪どころか、公民権の剥奪。つまり奴隷に落とされるという内容だった。それを聞いただけで目の前が真っ暗になって倒れそうになったというのに、更に兄であるヴィンセントへの処罰の内容を聞かされた。
国家反逆罪による公開処刑。そこから先の意識がエアリエルにはない。
ぼんやりとした意識の中で覚えているのは、自分に向けられた何とも不快ないくつもの視線の記憶。馬車に乗せられたのも覚えている。それだけだ。
意識がはっきりした時には、この場所に居た。ベッド一つと狭い水場があるだけの部屋。実家の使用人たちの部屋でも、ここに比べれば随分と立派だと思えるような質素な部屋だ。
食事も粗末なものではあるが、毎食きちんと出される。
着替えも用意された。ただ、生地は良い物のようだが、使いこまれている上に、なんとも卑猥なデザインのものばかりで、着ることにかなり抵抗を感じるものだった。
それでもずっと同じ服を着ているわけにはいかないので、我慢して着替えようと思ったのだが、エアリエルは生まれてこの方、一人で着替えなどしたことがなかった。
それを見兼ねられて世話をしてくれる者を付けてもらえた。だが、侍女のように全ての面倒を見てくれるわけではなく、自分一人で何でも出来るように指導する立場の者だった。
それは仕方ない。自分は奴隷なのだから。そう思って納得させて、新たな生活に慣れる様に頑張っていたエアリエルだったが。
エアリエルはある日、ここがどういう場所なのか気が付いてしまった。
時折、壁の向こうから聞こえてきていた声。うめき声のようなそれを、病人でも居るのかと思っていたのだが、そうではなく、男女が睦み合う時の声だと教えられて、エアリエルは真っ青になった。
お嬢様育ちのエアリエルでも分かった。自分は奴隷、つまり、男性の相手をさせる為にここに売られてきたのだと。
その時からエアリエルは、いつ扉を開けて男が入ってくるのかと怯えて生活する様になった。壁の向こうから物音が聞こえれば、両手で耳を塞いで聞こえないようにした。
それでもその日はいつかやってくる。生活の面倒を見る女性の指導は、徐々に男性への接し方へと変わっていった。
これを覚えたら男性の相手をさせられる。そう思って、わざと失敗を繰り返した。ただ自分が失敗しても、それはそれで相手は喜ぶと女性は褒めてくる。
こうなればここを逃げ出すしかない。そう思ったが、ここを出てどうやって生きていくのかと考えると簡単には決断出来ない。エアリエルには明日の食事の蓄えさえない。一般民のように働く自信もない。
どうしようもない絶望感に襲われて、一人になる度に涙するエアリエルだった。
そして、その日がついにやってくる。
廊下から聞こえてきた誰かを案内する声。その足音は自分の部屋にどんどんと近づいてくる。どこかに隠れるにも、この部屋に隠れられる場所などない。
辱めを受けるなら、死んでしまおうかとも思ったが、この部屋には自殺に使える道具もない。そうこうしているうちに、足音は部屋の扉の前で止まった。
間違いなく自分の所に来たのだ。
ゆっくりと外から開けられた扉から入ってきた男の姿を見て、エアリエルは思わず――その頬を引っ叩いた。
「ええっ!?」
いきなり頬を張られたリオンは驚いて目を剥いている。
「リオン! 貴方、こんなお店に来ているの!?」
そんなリオンにエアリエルの怒声が飛ぶ。これ以上ないほどに精神的に追い詰められたエアリエルの頭の中は、見事に混乱しているようだ。
「……来ているって、一応、ここは私の店ですから」
「えっ……?」
「あっ、お待たせして申し訳ありません。色々あって、すぐに来られなくて」
「……リオンのお店?」
気持ちが落ち着いても、やはりエアリエルの混乱は収まらない。それは当然だろう。いきなり娼館の主だと言われただけで、事情など分かるはずがない。
「言っておきますけど、変な事を考えてこういうお店をやっているわけじゃありませんから。話すと長くなりますので、詳細は後ほど」
「じゃあ、私は」
「一応、保護させて頂いたつもりです。部屋に閉じ込めておいたことはお詫びします。ただ変な横やりが入ると困りますので」
リオンは奴隷市場にアーノルド王太子が現れたことを知っている。元々、貴族の裏の顔が見られる奴隷市場には情報収集の手を伸ばしていたのだ。そうでなくても、リオンの配下である奴隷商から、普通に情報は入ってくる。
「そう……つまり、私はリオンの奴隷なのね?」
「えっ?」
「……ご主人様、まずは何からかしら?」
体を寄せて、耳元でささやくエアリエル。世話をしてくれた女性から教わったことだ。まさかのことに茫然とするリオンだったが。
「だ、誰だ!? エアリエル様にこんなことを教えたのは!?」
すぐに事情が分かった。照れ隠しもあって、大声で外に向かって怒鳴り始める。そのリオンを見て、エアリエルは嬉しそうに笑っている。久しぶりの心からの笑顔だ。
「冗談だわ。リオンが驚かせたから、仕返しよ」
「……悪い冗談です」
「でもリオンの奴隷であることは事実だわ」
「いや、それは、仕方なく」
「……仕方なく? 仕方なく、私を助けたの?」
「違います! それしか助ける方法がなかったという意味です!」
「冗談よ」
エアリエルの心はとにかく弾んでいる。自分の置かれている状況に怯えながらも、必ず助けてくれると信じていたリオンが、こうして目の前に来てくれたのだ。
「まずはお話ししなければならないことがあります」
そのエアリエルの浮かれている気持ちに水を差すのは、リオンだった。
「……何かしら?」
真剣な表情で自分を見詰めているリオンに、エアリエルも表情を改める。心の中では薄々何の話かは分かっていた。
「ヴィンセント様を助けることが出来ませんでした」
「……それは無理だわ」
一度決まった処罰が簡単に引っくり返せるはずがない。ましてリオンには、それを働きかける力がないことは分かっている。という意味でエアリエルは言ったのだが。
「お側には行けたのですが、逆に私を庇って死なせてしまうことに」
「ちょっと待って!?」
続くリオンの言葉で驚くことになった。
「何でしょうか?」
「側まで行った? リオンを庇って?」
「助けに行ったのですが、ヴィンセント様の説得に手間取って、いえ、これは言い訳です」
これを言った瞬間に、さきほど以上の痛みがリオンの頬に走った。引っ叩いた姿勢のままで、エアリエルはリオンを睨みつけている。
「……申し訳ございません」
エアリエルの気持ちを思って、リオンは深々と頭を下げて、謝罪の言葉を口にした。
「それは何に対して、謝っているのかしら?」
その頭上からエアリエルの声が聞こえてくる。
「ヴィンセント様をお救い出来なかったことに」
「違うわ! 私が怒っているのは、リオンが無茶をするからよ!」
「……えっ? ええっ?」
とっさに頭をあげたリオンの首に両腕を回して、エアリエルが思いっきり抱きついてきた。
「お兄様のことは諦めていたわ。それは凄く辛いけど、死を受け入れることがお兄様の誇りだと分かっていたわ」
「……そ、そのようです」
真剣に聞いているつもりなのだが、エアリエルが耳元でささやくように話すので、リオンはヴィンセントの死を悲しむどころではなくなってしまう、
「私の大切なお兄様は亡くなったの。その上、リオン、貴方まで失ったら、私は生きていけないわ」
そしてこれがトドメ。ヴィンセントの死への悲しみより、エアリエルを愛しく思う気持ちの方が勝ってしまった。
少し躊躇いながらも、リオンは自分の腕をエアリエルの背中に回し、そして、しっかりと抱きしめた。
「……私は貴族ではなくなって、奴隷になったわ」
「いや、それは形だけのことで」
「じゃあ、奴隷から昇格させてくれるかしら?」
「もちろんです」
「リオンのお嫁さんに」
身分差という制約が消えたエアリエルは、どこまでも積極的だった。
「……本当に私で?」
「もう敬語は不要だわ」
「……えっと、本当に俺で良いの?」
「違うわ。リオン、私は貴方が良いの」
リオンの大切な人は、とても可愛らしくて、リオンの心の中には愛しさが募るばかり。その想いをもう押し隠す必要はない。
「俺も、貴女だけをずっと想っています」
「知っていたわ」
「ズルイ……」
ようやく許されたイチャイチャ、といっても子供のじゃれ合いと変わらない、をしばらく続けた後に、リオンは国王からの提案をエアリエルに相談した。
相談という形を取ったのは、もしかしたらエアリエルにとって、貴族の末端に連なることは平民であるよりも辛いのではないかと思ったからだ。
それに対するエアリエルの答えは「リオンの側に居られるのなら何でも良いわ」だった。
この答えを聞けたことで、リオンは辺境に赴くことを決めた。リオン・フレイ男爵の誕生だ。そしてエアリエルはその妻になる。
糾弾イベントの後、エアリエルは侯爵家から除名され、地方領主に嫁ぐことになる。これがゲームにおけるイベント終了後の結末。
この世界の意志は定められた形に物事を収めることにある。この世界の意志には、正義も悪も、主人公も敵役も関係なかったのだ。
◆◆◆
辺境に行くと決めたといっても、ではすぐに、というわけにはいかなかった。新たな男爵家を作る、リオンへその男爵位を与える、更に領地を与えると、王国には色々と踏まなければならない手続きがある。
それはリオンも同じ。王都を離れるにあたって整理することは山ほどあった。
「ということで、俺の後任はアインに」
「お断りします」
リオンが言い切る前にアインはきっぱりと拒絶してきた。
「えっ?」
「俺はそんな器じゃありません」
「……そうなるとゴードン」
「断る」
ゴードンも同じ。
「ええっ?」
「俺もそんな器じゃない」
「いやいや、ゴードンも元は一組織の親分だろ?」
それもリオンが組織の頭になった頃は、頂点を競う程の相手だった。
「それと大将の組織では規模が違う。それにやっていることも。俺なんかじゃあとても回せない」
「じゃあ、誰が適任だと思う?」
「大将の代わりは誰もいない」
「いや、気持ちは嬉しいけど、俺は地方に行くから」
「別に地方に行っても大将のままで居ればいい」
「遠く離れた場所からでは、組織なんて見られない」
「それは俺とアインが代行としてやっていけば何とかなる」
「……なあ」
ゴードンの言い分には明らかに矛盾がある。それにリオンが気付かないはずがなかった。
「何か?」
「それおかしくないか? だったら、俺がいなくても問題ないじゃないか」
アインとゴードンが代行でやれるなら、わざわざリオンが頭である必要はない、というリオンの指摘だったのだが。
「組織には神輿としてでも、重しとしてでも、とにかく、てっぺんに立つ人間が必要だ。だが俺はアインに仕える気にはなれないし、アインも俺に仕える気はない。お互いに協力はし合えても、下には付けない」
こんなゴードンらしくもない、実に論理的な説明を返された。ここまで見事だともう、あらかじめ考えていたのが見え見えだ。
「名前だけになる」
「その名前が俺たちには必要だ」
リオンは貧民街に住む者にとって希望を与えてくれる光なのだ。それを失えば、貧民街は元のような、夢も希望もない修羅場に戻ってしまう。それがアインには、ゴードンにも分かっている。
「……分かった。そうなると情報伝達の方法を考えないとか」
「それについては一つ案があります」
すかさずアインが話をしてきた。これも用意しておいたことだ。リオンの下で働くには、この程度の先読みは出来て当然。そうでなければ、次々と降ってくる指示に対応出来ない。
「どんな?」
「商隊を行き来させようと思っています」
「それは良い。けど、結構な辺境らしいから、商売のネタあるかな?」
「それは大将に任せます。何か考えてください」
「そうだな。領地を富ますのも俺の仕事だ。考えておく。でも、商隊だと数か月に一回か」
「まだあります」
リオンを組織に留める為にと、アインたちは、かなり頑張って色々と考えていた。
「それは何だ?」
「これはまだ具体的なことは何もありませんけど、他の街に進出しようかと」
「……そうくるか。でも王都だってまだまだ開拓の余地はある」
「はい。ですが、これ以上は目立ち過ぎるような気がします。貧民街から表の繁華街に出れば、それだけの力を持ったと知られるでしょう。競争相手にバレるのは良いですけど、お上に知れるのはどうかと」
「それはそうだな……」
色々と整えたといっても、やっていることは、所詮は裏稼業だ。そんな裏稼業の勢力が力を持ったと知られれば、まず間違いなく叩かれる。それでは貧民街は終わりだ。どんなに頑張っても国に逆らえる力などないのだ。
右手の人差し指を立てて、眉間に当てて目を瞑る。これがリオンの考え事をする時の癖。そして、その指が唇まで降りてくると考えが纏まった証。
「どうでしょうか?」
それを知っているアインがリオンに感想を求める。
「良いと思う。ターゲットは俺の領地と王都の間にある街だな?」
「はい」
「早めに何カ所か押さえよう。小規模な街から落として、そこから大きな街を狙う、が良いと思うけど、それは領地に向かう途中で考える。実際に街の様子を見てみないと分からないからな」
分かってはいたことだが、リオンにかかると途端に話が大きくなる。つまり、ゴールは王都から辺境までの全ての街。それでは王国の裏社会の頂点を目指すようなものだ。
「それじゃあ、又、忙しくなりますね」
呆れた口調で言いながらも、アインは嬉しそうだ。リオンに付いて行くと次々と先が広がっていく。それがどんなに困難なことでも、前を向いていられるのが堪らなく嬉しいのだ。
「人選が必要だな。いや、優秀な奴の引き抜きもあるか、街を一つ任せる人材となると、今の面子じゃ足りない」
それはゴードンも同じ。常にリオンの下に付いたことを、自分にとっての最高の決断だったと喜んでいる。
「寝返り、吸収も考えろ。全ての街で潰し合いをしていたら、裏社会全体が弱ってしまう」
そしてリオンは、とにかくこういうことを考えるのが好きなのだ。それが他人を不幸のどん底に叩き落すような非情な内容であっても、元々人嫌いであるリオンは思考を妨げられることはない。
そんなリオンを始めて見たエアリエルは――とても楽しそうだ。
「ねえ、リオン。私は男爵夫人だけではなく、裏社会の偉い人の奥さんでもあるのね?」
「ま、まあ」
「そういう人は何夫人って言うのかしら?」
「ああ、姐さんが一般的ですね」
エアリエルの問いに、リオンの代わりにアインが答えてきた。こういった裏社会のしきたりまではリオンはよく知らないのだ。
「あら、年下なのにお姉様なの?」
「この世界では実際の年は関係ないんです。全てが義理の関係なので」
「義理……」
貴族令嬢であったエアリエルには中々理解出来る事ではない。それでもアインは諦めなかった。
「えっとですね。大将は大将って呼んでいますけど、義理の関係で言うと俺たちの親、親分になります。そして俺らは子で、子分です」
「そういうことなの?」
「ええ。ついでに言えば、俺とゴードンは兄弟分。ゴードンの方がずっと年上ですけど、俺のほうが早く子になったので、俺が兄貴分でゴードンが弟分」
「……やっぱり分からないわ。どうして私は姉なのかしら?」
「それは親分の奥さんなので、兄弟の中で一番上になります」
「……兄弟じゃなくて母親だわ」
「そうですね? どうしてだろ?」
「お前知らないのか? こういうことだ。裏の世界はやっぱり男の世界。親分の妻であっても、女は親には出来ない。だから兄弟関係の一番上、姐さんと呼ぶんだ」
この辺はゴードンの年の功というものだ。今時、ここまでの事を詳しく知っているものはそうはいない。
「女性の地位が低いのは同じなのね?」
「裏は表の写しですから」
「あら。良い言葉だわ」
「あっ、ありがとうございます」
こんな感じで、瞬く間に子分たちの心を掴んでいくエアリエルだった。
エアリエルの良さは離れていては分からない。家柄、容姿、佇まい、どれも他人には眩しすぎて、その奥にある本当のエアリエルが見えないのだ。