アーノルド王太子にとって、エアリエルからリオンを引き離せるという情報は大歓迎だ。エルウィンの話はアーノルド王太子を大いに喜ばせた。
それはまだアーノルド王太子には、エアリエルへの未練があるということなのだが、それについて誰も気にする者はいなかった。アーノルド王太子の本当の気持ちなど誰もどうでも良いのだ。それぞれが望む形、その中で共通しているのがエアリエルとの婚約破棄で、その方向に進めば良いと考えているだけだ。
本当にアーノルド王太子のことを思う気持ちがあるなら、それを行えばエアリエルが悲しみ、関係の修復が出来なくなってしまうと忠告をしただろう。
だが、そういう者は居らず、アーノルド王太子は周囲が望む方向に動いてしまった。リオンの解雇を、王族の結婚も含めた生活全般を管轄する宮内局を通じて、ウィンヒール侯爵家に求めたのだ。理由はマリアが考えた通り。王太子の婚約者であるエアリエルの側に相応しからぬ者が居る。その者を速やかに罷免すべし、というほぼ命令といえる通達だ。
宮内局には特に悪意があるわけではない。後の王妃になろうという人物の側に、貧民街育ちなどという卑しい人物が居れば、それの排除に動くのは当然だ。
そして、王族の意思の代弁者である宮内局の命令に、ウィンヒール侯爵は逆らうことが出来なかった。ウィンヒール侯爵にとっても、リオンはエアリエルの側に置くのに望ましい人物ではなかったという事情もある。ウィンヒール侯爵は宮内局の通達をこれ幸いと受け入れ、リオンの解雇に動いた。悪いのは宮内局、自分が可愛いエアリエルに恨まれることはないという算段だ。
――そして、その日は突然訪れた。
「解雇、ですか?」
「ああ、そういうことだ。まったく、お前は何をしてくれてんだ?」
リオンに解雇を伝えに来たのはウォルだった。不満そうなのは、リオンに同情してではない。又、自分がヴィンセント付きに戻されると思ってのことだ。
「理由を聞いても良いですか?」
「よくは分からない。宮内局からの申し入れらしいから、まあ、想像つくだろ?」
宮内局からというだけで、後ろに王太子が居ることに気付いている。持っている情報から、それを割り出すくらいにはウォルも優秀だ。ただ、出世欲が強いのと忠義の向け先が間違っているだけだ。
「心当たりはありますけど、解雇まで要求してくるとは」
アーノルド王太子に嫌われている自覚は、リオンにはあり過ぎるほどある。だが嫉妬という感情で、たかが従者の自分にここまでの事をしてくる気持ちは理解出来ないでいた。
「まあ、気の小さい……って変なこと言わせるな」
「いや、自分が勝手に」
「とにかく、お前は首。今後一切、ウィンヒール侯家には関わらないこと。関わると、お前が連れられてきたばかりの時の話が蒸し返される事になる」
「命はないと」
「まあ、そういうことだ。お前には功労金が用意される。たかが四、五年仕えただけで貰えるものじゃない。特別な配慮ってやつだ。それを有りがたく受け取って消えろ」
「……もしかして、このまま?」
ウォルの言い方は、そういう風にしか聞こえない。
「これをエアリエル様が知ればどうなる? 全力で阻止に動くのは分かっているだろ?」
「まあ」
これを肯定するくらいの自信はリオンにもある。エアリエルだけでなくヴィンセントも、リオンの解雇など認めないはずだ。
「だが、この件については我儘を許すわけにはいかない。宮内局の通達というのは王家が伝えてきたのと同じ意味を持つ。侯家として逆らうわけにはいかない。分かるだろ?」
ウォルはリオンの弱みをうまく掴んでいる。リオンの望みは、エアリエルがアーノルド王太子と無事に結婚までたどり着くこと。それがエアリエルにおけるバッドエンドの回避だと思っている。
王家を怒らせれば、婚約は間違いなく無いものになる。それが分かるリオンに解雇を拒むことは出来ない。
それにエアリエルから離れることは決めていた。自ら決断するまでもなく、その日がやってきたというだけだ。
「……分かりました。このまま、去ることにします」
「ああ。そうしてくれ。これがさっき言った功労金。要らないなんて格好付けるなよ? これを受け取らなければ、他に企みがあるのか心配になった公爵様に怒られるハメになる」
こんなことを言いながら、袋に入った金をウォルはリオンに押し付けてきた。
「……どうやらウォルさんを少し誤解していたようです」
ウォルの言葉が、リオンに金を受け取らせる為の方便であることなど明らかだ。
「誤解って、じゃあ、俺のことをどう思っていたと言うんだ?」
「自分の利ばかり考える、忠誠心に乏しい人」
「……それは誤解じゃないな。ただ、俺だって血も涙もないってわけじゃない。それだけのことだ」
少なくとも血は流れている。その血の繋がりが、ウォルを動かしているのだから。
「そうですか。では、一応はお世話になりましたと言っておきます」
「別にどうでも良い」
「では、これで」
「ああ」
去っていくリオンの背中を見つめながらウォルは大きく息を吐く。内心ではかなりヒヤヒヤだった。軽い調子で言ったが、実際にリオンがゴネて、エアリエルを呼ばれたらどうなってしまったか。うまく治める自信はウォルにはこれっぽちもなかった。
何とかうまく役目を果たした。その思いがウィルに心の隙を作った。
「あっ、そうだ! 一つ聞いておくことがありました!」
急に振り向いて、リオンが叫んできた。
「何だ!?」
「エルウィン様って、本当に侯爵様の息子ですか!?」
「……ば、馬鹿、そんな冗談、大声で言うな!」
わずかに空いてしまった間。その僅かな間にウォルが晒してしまった反応はリオンが求めていたものだった。そしてリオンが向けてきた笑みに、ウォルは自分の失敗を悟った。
だが、リオンの追求はこれで終わりではない。
「やっぱり私の誤解でした」
「何がだ?」
「貴方には忠誠心がある。利の方は微妙ですけど、少なくとも自分の利だけを求めているわけじゃない」
「お前、何を?」
「そうですよね? ウォル・ウスタインさん」
「……どうして?」
ウォルはもう取り繕うことも出来なくなっている。その顔色は真っ青。リオンの言葉を認めているも同じだ。
「ウォルさんは、ウスタイン子爵の三男だったのですね? 最近知りました。それでですか、ウスタイン子爵が、エルウィン様の後見人のような顔をしているのは?」
ウスタイン子爵家の当主であるラング・ウスタイン子爵は真っ先にエルウィンへの支持を、それも正面から堂々と行ってきたウィンヒール侯家の有力従属貴族だ。ウォルが元々、その子爵家の三男坊であったことをリオンは掴んでいる。
そう難しい調査ではない。二人がかなり近い関係であることは、すでに掴んでいた。あとは推測に基いて裏を取るだけ。特に隠すことをしていなかった血縁関係など、リオンでも簡単に調べることが出来た。
「……いや、俺はもう養子に出た身で、ウスタイン子爵家とは関係ない」
建前で誤魔化そうとするウォルだったが。
「そうですか。そうなるとウォルさんは関係なく、エルウィン様とラング・ウスタイン子爵の間での特別な関係ということですね?」
「…………」
絶句。ウォルはこの反応しか出来なかった。何故、どうやって知ったのか分からない。だがリオンは知っている。それは間違いないことだ。
「念の為に、はっきりと忠告を。今回は大人しく引いてやるが、これ以上、余計な真似はしないことだ。それを守らなければ、もっとはっきりと、それも大勢に事実を伝えることになる」
今回の件を差し向けたのエルウィンしかいない。アーノルド王太子が動いたにしても、そうさせたきっかけはエルウィンだ。
リオンを解雇にするだけの理由。リオンには心当たりは山程ある。だが、それをヴィンセントとエアリエルが他言するはずがない。そしてウィンヒール侯家にとっても、貧民街出の素性もはっきりしない従者を雇っているなど、あえて公言するような内容ではないのだ。
それを外部に知らせるとすればエルウィンの関係者、そしてアーノルド王太子にとなると、エルウィン本人しかいない。
今まで表に現れなかったエルウィンが行動を起こした。それに釘を指すためにリオンは、用意しておいた武器の一つを使うことにした。エアリエルを守るために用意していた武器の一つだ。
だが、ウォルがリオンの言葉をエルウィンに伝える事はなかった。
エルウィンは自分の素性を知らされていない。知らせてしまうと、どこでボロを出すか分からないからだ。
結果として、エルウィンの行動を抑制することがリオンは出来なかった。後にこの事実を知って、リオンは大いに後悔することになるのだが、それは仕方がない。
世界が望む形を作る為にリオンの排除に動いたのだ。止められるものではない。
この日から、リオンの姿を学院で見ることは出来なくなった。それどころか、ヴィンセントやエアリエルが必死で探しても、行方も掴めない状況。
だからといって、リオンがエアリエルたちへの思いを断ち切ったわけではない。どちらかと言えば逆。侯家の従者という制約を失くしたリオンは、あらゆる手段を取るために闇に潜ったのだ。
だが、リオンは知らなかった。自分の存在がどれだけ、エアリエルたちにとって大きいか。側に居るだけでわずかではあっても、世界の意思を曲げる力になっていたことを。
世界は最大の邪魔者を排除した。あとはただ望む形に人々を動かすだけだ。
◆◆◆
学食は何となく重苦しい雰囲気に包まれている。ここ最近はいつものことだ。その理由はこの場に居る全員が分かっている。
盛り上がりの中心となる人物、エアリエルが、ずっと酷く落ち込んでいるからだ。何とかしようにもエアリエルの悲しみを癒せる者は居ない。居るとすれば、それは悲しませている張本人、リオンだけであると皆が分かっていた。
「エアル。気持ちは分かるが、毎日それでは」
それでもヴィンセントは、エアリエルを慰め続けている。落ち込んでいるのはヴィンセントも同じなのだが、エアリエルのそれがあまりに酷すぎて、自分まで悲しんでいる場合ではないと思ってしまったのだ。
だが、いくらヴィンセントが慰めてもアリエルは黙ったまま、きつい目つきで、どこともなく睨んでいるだけ。エアリエルに近い生徒たちには、その様子が泣いているように見えてしまい、心が痛くなってしまう。
彼らも彼らなりにエアリエルを心配して、街に出ることがあればリオンが居ないか探したりしているのだが、全く手掛かりを掴むことは出来ていない。学生の彼らに探せるはずがない。リオンの居場所は、普通の人では恐ろしくて踏み込むことが出来ない、王都の影、貧民街なのだ。
「……貧民街を探してみるか?」
ずっと避けていた言葉を遂にヴィンセントは口にした。
案の定、これまで一切反応を見せなかったエアリエルが、大きく目を見開いてヴィンセントを見詰めている。
「でも簡単ではない。実家の人間は動かせない。やるとしたら自分たちでやるしかない」
「……やるわ」
「簡単に言うな。貧民街は危険な場所だ。始めてリオンに会った時、リオンは 殺されかけていた。僕だってそうだ。リオンが居なかったら、どんな目に遭っていたか」
その時の恐怖はヴィンセントにとって、一種のトラウマになっている。この恐怖が、自分を助けてくれたリオンへの信頼に繋がってもいた。
「平気だわ。お兄様はその時のお兄様とは違うわ」
「そうだけどさ……」
エアリエルに信頼を向けられて、恐いものは恐いと正直に口に出来なくなったヴィンセントだった。
「あの……」
ヴィンセントとエアリエルが、こんな話をしているところへ、恐る恐る割り込んできた声。近くのテーブルに座っていた男子生徒だ。
「どうした?」
「貧民街はやめたほうが」
「ああ、聞こえてしまったか。危険な場所であることは僕たちも分かっている。子供の時に迷い込んで酷い目に遭ったこともあるくらいだ」
「そうであるなら、どうして貧民街に行こうなんて危険なことを考えるのですか?」
「……実は、リオンは貧民街の出身なんだ」
少し悩んだが、ヴィンセントは事実を話すことにした。リオンの行方は全く分からない。そうであるなら隠すことは止めて、貧民街のことを少しでも何か知っている者が出て来る可能性に賭けようと思った。
「彼が?」
「ああ。僕が貧民街に迷い込んで、大変なことになった時に助けてくれたのがリオンだった」
「そうだったのですか」
リオンを知っていること事もあって、この話を聞いた生徒たちは、リオンを貧民街出身と蔑むことはなく、ヴィンセントとリオンの奇跡の出会いという美談として受け取った。これを知って尚更、どうしてリオンがヴィンセントとエアリエルから離れなければならないのかと、悔しく思うことにもなる。
こんな気持が学食に広がったこの時に、最悪な人物が現れてしまった。
「エアリエル、どうしてサロンに来ない?」
アーノルド王太子だ。王太子の突然の登場に、周囲は一斉に視線を逸し、沈黙で応えた。舞踏会での悪印象を未だに引きずっているのだ。
「エアリエル! 答えろ!」
問い掛けに一向に答えようとしないエアリエルに、アーノルド王太子は焦れて声を荒げてしまう。こういった態度が、周囲の生徒たちの印象を一層悪くしてしまうことなど気にしていないようだ。
ただアーノルド王太子にも同情すべき点はある。エアリエルにサロンに来るように伝えたのは今日だけではない。リオンが居なくなってからずっと続いていることなのだ。それをエアリエルはことごとく無視し続けていた。
「……どうして私がサロンに行かねばならないのですか?」
「俺が呼んでいるのだ。来るのが当然だろう?」
「サロンは好きではありません。あの場所は人を不快にさせますわ」
「何だと?」
「アーノルド王太子殿下、私がサロンに行くことを望んでいる方は誰も居ません。いくら王太子殿下のお召しとはいえ、そのような場所に赴くことはご遠慮させて頂きます」
常であれば、同じことを言うにしても、もう少しうまい言い回しを使っただろう。だが、今のエアリエルは平静ではなかった。
「サロンは嫌で、この場所は良いのか?」
「比較するようなことではありませんわ」
「もう、あの男は戻ってこない! こんな場所に居る必要はないではないか!?」
これを失言というのは酷というものだろう。ただ単に相手が悪かっただけのことだ。
「……どうして王太子殿下にそれがお分かりになるのかしら?」
「な、何?」
エアリエルのカマかけに見事にアーノルド王太子は引っかかった。
「やはり、王太子殿下の差金でしたわね? この時点で宮内局が動くなどおかしいと思いましたわ」
「エアル、もう止めろ」
エアリエルの雰囲気に不穏な色を感じたヴィンセントが止めようと声を掛ける。
「どうして、こんな真似を? 私とリオンの時間は限られていたのに。どうして、その少ない時間まで奪ってしまうの?」
「エアル、止せ! これ以上何も言うな!」
言葉だけでは止まらないと思って、ヴィンセントは立ち上がって、エアリエルの口を塞ごうとまでしている。だがエアリエルは、それを躱して、言うべきではない、致命的な言葉を吐いてしまう。
「ただ婚約者だというだけで、相手の幸せを奪う権利が与えられるのかしら?」
「な、なん、だと?」
「医者だ! 医者を呼んでくれ! エアリエルは正気ではない!」
ヴィンセントはこの程度の誤魔化ししかとっさに思い付けなかった。それでも、この誤魔化しに乗っかる者たちが周囲に居た。
さすがにエアリエルの最後の一言は不味い。それが分かっている生徒たちが、一斉に立ち上がって、ある者は本当に医者を呼びに、ある者はエアリエルの側に駆け寄っていく。
実際にエアリエルは普通の状態ではなかった。女子生徒がその体に手を添えると、糸が切れた人形のようにそのまま女子生徒に体を預けて、気を失ってしまった。
こうなるともう演技の必要などない。学食はエアリエルを心配する生徒たちの声で、騒然とし始める。
そんな中でアーノルド王太子は一人取り残されている。周囲はエアリエルのことで大騒ぎ。アーノルド王太子に目を向ける者はいない。たまに向ける者が居たとしても、それは決して好意的なものではない。
学食に居た生徒たちは知ってしまった。エアリエルを悲しませる原因を作ったのはアーノルド王太子だという事実を。
エアリエルの想いの向き先はアーノルド王太子ではなく、やはりリオンであったことを。
そして、アーノルド王太子も又、それを思い知ってしまった。
本来の流れとは違っていても、たどり着く場所は同じ。世界は至るべきゴールに向かって、着々と物事を進めて行っていた。