舞踏会での騒動は、リオンを大いに動揺させていた。
リオンは、確実に物事は好転していると思っていた。ヴィンセントは身分の低い生徒たち限定とはいえ、多くの人たちに慕われるようになっている。エアリエルとアーノルド王太子の距離は、リオンが驚くほどの勢いで縮まっていた。
バッドエンドが回避出来るかもしれないという手応え。リオンは確かにそれを感じていたはずだった。だが今回の一件で一気にその手応えは霧散した。それどころか、確実に悪い方向に進んでいる。
舞踏会の日に、アーノルド王太子がエアリエルに向けた視線は、憎しみとまで感じてしまうほどの厳しいもの。ヴィンセントに対するそれも似たようなものだ。
どうしてあんなことになったのか、リオンには原因が分からない。
舞踏会の件は、ヴィンセントの口から聞いていた。アーノルド王太子がマリアをパートナーにして、最初のダンスを踊った。それに対して、リオンは強い憤りを覚えたのだが、現れたアーノルド王太子はリオン以上に怒りに震えているように見えた。
あの怒りは確かに自分に向けられたもの。さすがにそれは剣を向けられたことで分かっている。だが、その理由がリオンには分からない。
エアリエルに尋ねても、気にすることではないと言われて終わり。ヴィンセントに聞いてみても、何かを言いたげにしながらも、何も語ろうとしてくれなかった。余程言いづらい理由があることだけがリオンには分かった。
そうなるともう聞く相手がいなくなる、と諦めることは流石に今回は出来なかった。なんとか手掛かりだけでも知ろうとリオンが選んだ相手は、事もあろうにシャルロットだった。
シャルロットであれば、アーノルド王太子の気持ちが分かるだろうという考えからだが、それを聞かれるシャルロットの方は堪らない。
「……アーノルド様がどうして怒っていたのかね?」
シャルロットの表情は、すでに不機嫌さを思いっきり表している。
「はい。この様なことをシャルロット様にお聞きするのはどうかと思ったのですが、他に事情が分かりそうな方が居なくて」
実際には他にも大勢いる。現場を見ていた生徒たちの誰かに聞けば答えをもらえるだろう。そこに考えが向かないのは、リオンが全く見当外れなことしか原因として考えていないからだ。
「ねえ、本当に自分では思いつかないの?」
「はい」
「それが怒っている原因よ」
「はい?」
「私も今、少し怒っているもの」
リオンが求める答えは、アーノルド王太子のエアリエルに対する気持ち、となる。それをアーノルド王太子に想いを寄せているシャルロットの口から言わせようというのだ。怒るのも当然だ。
「……私、何かしましたか?」
このリオンの言葉が、更にシャルロットの気持ちを逆なでする。
「一言にすると無神経、鈍感、図々しい、非常識、あとは……」
「それは一言とは……」
「それだけ怒っているってことよ」
「……すみません」
シャルロットは、まさかリオンが自分のアーノルド王太子への想いを知っていて、それだからこそ事情が分かるだろうと考えて聞きに来たとは思っていない。
そういう意味で確かにリオンは無神経だ。リオンが本当に気を遣う相手は、ヴィンセントとエアリエル以外にはいない。これが失敗を生んでいることをリオンは分かっていない。
「怒っているから教えてあげるわ」
「えっ?」
「だってこれを聞けば、きっと貴方は困ることになるもの。それでも聞きたい?」
怒っていると言いながらも、最後に確認するところが、シャルロットが持つ優しさというものだ。
「はい。私は知らなければなりません」
「そう。じゃあ、教えてあげるわ」
「お願いします」
「嫉妬よ」
「……はい?」
シャルロットの言葉の意味が理解出来ずにリオンは、ポカンとした顔をしている。そんなリオンを見て、シャルロットは苦笑いだ。惚けているのではなく本当に鈍感なのだと分かって、怒りを通り越して心底呆れてしまっている。
「だから嫉妬。アーノルド様は貴方に嫉妬しているの」
「……どうして?」
「ごめん。それを聞く貴方が私には理解出来ない。貴方と彼女の様子を見て、嫉妬しないほうがおかしいと思うわ」
「ですが、私とエアリエル様は主従であって、王太子殿下に嫉妬されるような関係ではありません」
「それはそうでしょう。正直に言えば、私にはヴィンセントと貴方の関係も同じように思えるわ。どちらも深い信頼で結ばれている特別な関係」
自分にも同じ関係、シャルロットの場合は友情だが、を持つ者が居るとシャルロットは思っていた。だが、それは勘違いと分かってしまった。
「そうありたいとは思っています」
「でもヴィンセントと貴方は同性で、彼女は異性」
「ですから、私とエアリエル様はそのような関係ではありません」
「それはどうでも良いの。愛情であろうとなかろうと、自分の婚約者に特別に思う異性が居る。貴方がアーノルド様の立場であっても何とも思わないかしら?」
「……自分だけが特別な相手で居たいと王太子殿下が思っていると?」
シャルロットの質問に答えることなく、リオンは質問で返した。答えを返すことに抵抗を感じたからだ。
「そこまでは私には分からないわ」
そしてシャルロットも又、リオンの問いに答えなかった。言葉にして認めたくないという思い。つまり、それが答えだ。
「そうですか……」
アーノルド王太子はエアリエルに好意を抱いている。これこそがリオンが望んでいた状況だ。だが、それを邪魔しているのが、自分自身であったと分かって、リオンは酷くショックを受けている。
自分は甘かった。エアリエルの為と自分に言い訳をして、自分の感情の赴くままに行動していたのだと分かった。アーノルド王太子はそんな自分の想いを見抜いたのだと。
全てを捨てて守ると誓いながらも、自分の感情を捨てることが出来ていなかった。エアリエルと共に楽しい時を過ごすという誘惑に負けていたのだ。
この事実を知って自分はどうすれば良いのか。シャルロットが言った通りだ。リオンは思い悩むことになった。
アーノルド王太子とエアリエルの仲がうまく行くには、自分が居てはいけない。そうである以上、結論は決っている。考えていたよりも、ずっと早くエアリエルとの別れの時が近づいていることをリオンは知った。
では、それが何時か。それを決めなくてはならないのは自分自身なのだ。それが自分にとって、どれほど辛い決断であったとしても。
「……ありがとうございました」
「御礼を言われることかしら?」
リオンの表情は、感謝を表しているというには程遠い、暗く沈んだものだ。
「自分が目を逸らしていたことを気づかせて頂けました」
「そう……」
このリオンの言葉で、シャルロットははっきりと分かってしまった。リオンは主人としてではなく、女性としてエアリエルを大切に思っているということが。そして、リオンが辛い選択をすることが。
「どうするの?」
「何をすれば良いかは分かっています。ですが……どう、それをすれば良いかが分かりません」
「……急ぐ必要はないと思うわ。ゆっくりと考えて一番良い方法を選べば良いのよ」
「私に気を遣ってのお言葉だと分かっていますが、ゆっくりと考える時間はありません。早めに決めようと思います」
「そう……それが貴方の決めたことなら」
「はい」
だが、世界はリオンが覚悟を決める時間さえ与えてくれない。世界も又、時間が無いのだ。学院パートの終わりの時期は近づいていた。
◆◆◆
エルウィン・ウッドヴィルの幼い頃の記憶の中には父親の姿はない。
物心がつく頃には、エルウィンは自分の父親は亡くなっているのだと自然に思うようになっていた。母と、母以上に自分の面倒を見てくれる女性。それがエルウィンの家族の全てだった。
それを不幸だと思ったことは一度もない――真実を知るまでは。
エルウィンの父親は生きていた。生きて、すぐ近くに住んでいた。自分には兄妹が居て、その兄妹を生んだもう一人の母親が居ることも分かった。だが、エルウィンに対して新たな家族は冷たかった。
初めは何故、自分がもう一人の母親や兄妹に嫌われるのかエルウィンには分からなかった。自分の母親が側室だと教わっても、側室とはどういうものか、子供であるエルウィンに教えてくれる者などいなかった。
エルウィンの母親の存在が、侯爵と正妻の間で、どれほどの確執を生み、それに挟まれたヴェンセントとエアリエルが、どれほど辛い思いをしたかもエルウィンは知らなかった。ヴィンセントとエアリエルにとって、エルウィンとその母親は、自分たちの家族を滅茶苦茶にした元凶なのだ。
もっとも、それを知ったからと言って、エルウィンは納得しなかっただろう。エルウィンは自分では苦労したつもりで居るが、実際のところは、かなりの温室育ちなのだ。
母親はエルウィンを溺愛している。周りの使用人たちも、側室の息子とはいえ、侯爵の血筋であることに変わりはないエルウィンに、侯家のお坊ちゃまとして何不自由のない生活を与えていた。
そんな環境で、エルウィンの自意識はどんどん高まっていった。
そして、更にエルウィンがその傲慢さを強める機会が生まれた。『試しの儀』だ。
エルウィンの好成績とぞの前年のヴィンセントの大失敗によって、周囲のエルウィンに対する評価は一気に高まった。身近な使用人たちはエルウィンこそが次期侯爵と持ち上げ、それは内部にとどまらず、従属貴族の有力者にまで広がっていった。
こうなるともう、エルウィンは自分が次期侯爵になるのは決定事項だと思い込むようになる。
その邪魔をするのは現侯爵と自分を敵視する三人のみ。それさえもエルウィンは解決の糸口を掴んだ。
マリアとの出会い、それによって得られたアクスミア侯家のランスロット、ファティラース侯家のシャルロットとの繋がり、そして何よりも次期国王であるアーノルド王太子との関係は、自身の地位を盤石なものにする。
と思っていたのだが、ある日、順調だった学院生活がおかしな方向に進み始める。
ずっとエアリエルを遠ざけていたはずのアーノルド王太子が急にその関係を縮め始めたのだ。その影響はすぐにエルウィンに及んだ。
エアリエルの内々でのお披露目となる王太子主催の城内でのパーティー。それに呼ばれたのはエルウィンではなく、ヴィンセントだった。
それをしたアーノルド王太子の意図は、リオンにエアリエルの立場がどういうものか見せつけ、分不相応な思いを捨てさせようという試みだったのだが、そんなことがエルウィンに分かるはずがない。
エアリエルの差金で、自分が遠ざけられたのだと思い込んでいた。
何とかしなくてはならない。何とかエアリエルをアーノルド王太子から引き離し、それを頼りに嫡子の座に居座っているヴィンセントを追い落とさなければならない。
エルウィンのこんな思いが、遂に時を得た。
「リオンを姉から引き離す方法ですか?」
「ええ。彼はエアリエルさんの側に居てはいけないと思うの」
「どうしてでしょう?」
エルウィンからすれば、リオンはエアリエルとアーノルド王太子の間に楔を打ち込む、居なくては困る存在だ。マリアの言葉に簡単に乗るわけにはいかない。
「彼が居るとアーノルド様にとって良くないわ」
「それはそうですけど。だからといって……」
良くないことが自分の望みとはエルウィンは口に出来ない。言葉を濁しながら、何となく否定してみる。
「アーノルド王太子はムキになっているだけだと思うの」
「ムキにって?」
「私が思うに、自分に振り向かない相手を振り向かせたくて、無理しているだけだと思うの」
「……リオンが居なくなれば、王太子殿下は妹に興味を失くすと?」
「そんなことは言っていないわ。エルウィンくんの妹さんに悪いもの。でも、私はアーノルド様も大切だから、アーノルド様には本当の気持ちに気付いて欲しいの」
何とも良くわからない話だが、エルウィンにはこれで充分に通じた。マリアは、アーノルド王太子の気持ちは本当は自分にあると言っているのだ。その根拠がエルウィンには分からない。確かに舞踏会以降、アーノルド王太子はエアリエルを又、遠ざけた気配がある。何かあったのは確実だが、それが決定的なものかエルウィンには判断がついていない。
「アーノルド王太子も望んでいるわ」
エルウィンが煮え切らない態度を続けるので、とうとうマリアは踏み込んだ発言をした。アーノルド王太子がエアリエルとの関係を終わらし、マリアとの新たな関係を望んでいる。それに協力しろということだ。
「王太子殿下が……」
それでもエルウィンはすぐには踏み出せなかった。エルウィンは学年が違うこともあって、アーノルド王太子との間には一定の距離が空いている。直接、話を聞くことが中々出来ないのだ。マリアの言っていることが本当なのか、自分に都合の良いように作られた話なのかが分からない。
「エルウィンくんにとっても悪いことじゃないわよ。彼はあれで何というか、人を乗せるのが上手いというか」
また解りづらい言い方をするマリア。これもエルウィンは何を言っているか分かった。マリアに言われるまでもない。ヴィンセントを支えているのは間違いなくリオンだ。そうなるとエアリエルの件とは別に、ヴィンセントからリオンを引き離すことには利がある。
「よくわかりませんけど、確かにリオンが侯家の従者に相応しくないのは確かですね」
とりあえず、エルウィンはマリアの話に乗ってみることにした。少なくとも事態を動かすきっかけにはなりそうだと、判断しての事だ。
「そうなの?」
ようやく食いついた。マリアの顔に笑みが浮かんだ。見る者が見れば、欲深さを感じさせる醜悪な笑みなのだが、それを感じられる者は、この世界にはそうはいない。
「彼は貧民街の出身で、人を殺した事さえあるようです」
「そんな人が?」
大げさに驚いてみせるマリアだが、実際に驚いても居る。人殺しなど、マリアにとっては極悪人だ。実際にリオンは悪人ではあるので間違った認識ではない。
「それでも兄にとっては大切な存在のようなので、黙っていたのですが」
「気持ちは分かるけど、それは駄目よ。アーノルド様の婚約者の近くにそんな人が居るなんて大問題だわ」
「そうですね」
その婚約者である事を止めさせようとしているのに、それを理由にする。エルウィンはマリアの本性が分かった気がした。エルウィンはマリアにとって攻略対象だが、実際にエルウィンはマリアに夢中になっている訳ではない。他の侯爵家とアーノルド王太子に近づけるという利を感じて仲良くしているだけだった。
ただ攻略の数をこなす為に、主要イベントだけに目を向けて、個々との繋がりを強める事を怠ってきた弊害。マリアはそれに気が付いていない。
気が付かなくても、世界は望む方向に進んでいる。すでに主人公であるマリアの意思さえ無視して。
「じゃあ、アーノルド様に教えてあげてもらえるかしら?」
「僕がですか?」
「だって、事情を知っている本人からの方が良いわ」
「そうですけど……」
マリアの考えは明らか。アーノルド王太子に告げ口と受け取られたくないのだ。では、自分がそれをしたらどうなるのか。
妹を心配する体を装えば大丈夫。そうエルウィンは判断した。
リオンの話は、その日のうちにアーノルド王太子の耳に入ることになった。
世界は動き出す。世界にとって唯一の邪魔者であるリオンの排除に向かって。