ジグルス・クロニクスとは何者なのか――
リリエンベルク公爵家従属貴族クロニクス男爵の一人息子。母親はエルフだと噂されている。貴族家の嫡子としては滅多にいるものではない。少なくとも過去、ローゼンバッツ王立学院にそういった生徒が入学したことはない。
父親も只者ではない。本人、そしてリリエンベルク公爵も否定しているようだが、前回の魔人との戦いにおいて編成された精鋭部隊の一員として大活躍し、英雄と称えられた人物だ。ローゼンガルテン王国騎士団はクロニクス男爵に対して、何度も召喚命令を発しているが全て無視。とうとう国王の直々の命令として召喚命令が発せられたが、それにも応えていない。本人、そしてリリエンベルク公爵が主張する通り、人違いであるならば召喚に応じ、そうであることを証明すれば良いこと。応じないことは王国の考えが正しいことを証明していると考えられている。なお、何故クロニクス男爵が頑なに命令を拒むのかについては、妻がエルフであることが関係しているのではないかと推測されているが、詳細は明らかになっていない。
机の奥にしまわれていた報告書をエカードは改めて読んでいる。この報告書の存在については思い出したが、中身の記憶はない。何故、実家にこのような調査報告を頼んだのかも分からない。
ただこの報告書の存在はエカードがジグルス・クロニクスのことを、かなり強く意識していたことを示している。学院内で調べるのではなく、わざわざ実家に問い合わせをしているのだ。
(……リーゼロッテのことだけで、俺がここまでのことをするはずがない)
リーゼロッテとユリアーナ、もしくはエカード自身との間に揉め事が起こるたびに邪魔していた、リーゼロッテから見れば守っていた人物は、クラーラの考えによるとジグルス・クロニクスだ。そしてエカードもその考え方は間違いではないと思っている。
リーゼロッテとのことだけで自分が調査報告など求めるはずがない。では自分とジグルスとの間で、他に何があったのか。タバートの件がある。タバートはジグルスを認め、自分には競争相手ではないと告げた。非は自分にある。それはエカードにも分かった。改めようと考えた。そのきっかけを作ったのはジグルス、であるはずだ。
(……結局、あの男に関する記憶が戻らなければ、何も分からない。事実だけで、何故その人物が気になったのかなど分かるはずがない)
ジグルスと自分は何を話したのか。それがエカードにはまったく分からない。恐らくは記憶から飛んでいる、そういった会話の中での何かが自分の心をとらえたのだと思う。今回がそうであったように。
ジグルスはエカードたちよりももっと大きな視点で魔人との戦いを考えている、男爵家の息子に何故、それが必要なのか。今考えても、彼の背景に何があるのかが気になる。
その結果が報告書なのだが、エカードには物足りないものだ。父親は英雄と呼ばれた人物で母親はエルフ。確かに特別な存在だと思う。だが、それでも公爵家の人間である自分を超える大局観が必要かと疑問に思う。
(……結局、彼自身を知らなければ、何も分からないということだ)
ジグルス本人ついては何も知らないに等しい。それではいくら考えても何も分からない。おそらくは以前も自分はこう考え、彼を知ろうとしたはずだとエカードは考えるが、その記憶がないのだ。
もう一度、最初から。その為にはまずやらなければならないことがある。
「……入ってくれ」
エカードの思考の区切りに合わせたかのように現れた人物。リーゼロッテに部屋に入るように告げた。それを受けて、リーゼロッテが部屋に入ってくる。
「呼び出してすまない。どうしても君と話したいことがあった」
リーゼロッテに、自分が座るテーブルの席に座るように促しながら、呼び出しことを謝罪するエカード。
「いえ。少し驚いたけど、謝罪されるようなことではないわ。それで話というのは何かしら?」
謝罪は無用と言うリーゼロッテだが、長話をするつもりはない。部屋には二人きり。邪魔するものはいないが、エカード自身に対する警戒心が彼女の心に残っている。
「まずはこれを読んでくれ」
自分が読んでいた報告書をエカードが、リーゼロッテに差し出す。それを手に取って眺めるリーゼロッテは、少し驚いた表情を見せたが、それ以上の反応はない。
「知っている情報だったか?」
「……そうね。実家の従属貴族家のことだから」
「そうか……無駄な話は必要ないな。単刀直入に聞く。君はジグルス・クロニクスの記憶を残しているのか?」
このエカードの言葉には、リーゼロッテは大きな反応を見せた。大きく目を見張って、エカードを見つめている。
「残しているのだな?」
その反応がエカードにとっては答えだ。リーゼロッテはジグルスに関する記憶を失っていない。さらに多くの生徒の記憶が失われているという状況についても理解している。ただエカードには少しだけ勘違いがある。
「……貴方も思い出したの?」
「思い出した?」
リーゼロッテは最初から記憶を失っていなかったわけではない。途切れていた記憶を取り戻したのだ。
「……最初から失っていなかったってこと?」
「ちょっと待ってくれ。分からなくなった。君も記憶を失っていたのか?」
「ええ、そうよ。取り戻したのは最近。貴方のところの彼女とジークが立ち合いを行った時だわ」
「……俺は取り戻せていない」
「えっ?」
リーゼロッテも勘違いをしていた。エカードはジグルスの記憶を最初から失っていないのか、取り戻したのか分からないが、持っている。だから自分にこんな話をしてきたのだと考えていた。
「俺の事情から話そう。クラーラは君も知っているな」
「ええ、知っているわ」
「彼女が色々と調べてくれた。その結果、分かったのはジグルス・クロニクスという生徒について何も知らないのは異常であるという事実だ」
「何故、そう考えたのかしら?」
調べて分かるようなことなのかとリーゼロッテは思った。ジグルスの記憶がまったくなければ、その状態を疑うことも出来ないはずだと。
「いくつかあるが決定的なのは彼が去年のミスター王立学院であったこと。誰も知らない生徒がなれるはずがない」
「……ああ、それがあったわね。確かにそれを知ればおかしいと考えるわ」
ふとリーゼロッテは今年のイベントはどうなるのだろうと思った。前年の優勝者の名前は分かっていても、その人物を誰も知らない。それが明らかになった時、多くの人がエカードと同じような疑問を抱くのではないかと。
「さらにクラーラはその事実から、自分たちの記憶にある出来事の中に、誰だか分からない人物が存在することを確かめた。共通の記憶を持つ生徒たちが同じようにその人物が誰か分からない。それは俺も同じだった」
「……彼女、頭が良いのね? いえ、頭が良いのは分かっていたけど、そういう面で優れているとは思っていなかったわ」
リーゼロッテのクラーラの印象も、美人で周囲に気配りが出来る好人物というもの。ジグルスについての調査における印象は少し違うように感じた。
「俺も少し意外だった。尾行したり、盗み聞きしたりと」
「えっ……?」
「と、とにかく調査能力に優れている。彼女の仮説通りに、記憶から消えている生徒がジグルス・クロニクスであると考えると、一番彼を良く知る人物は君だ。だから君の話を聞きたかった」
「……そう」
良くここまで辿り着いたものだとリーゼロッテは感心した。
「話を聞かせてもらえないか?」
「……これから話すことは絶対に誰にも話さないと約束出来るかしら?」
睨むような目つきでリーゼロッテは、エカードに口外しないことを求めてきた。
「……分かった。約束する」
エカードの表情も引き締まる。多くの生徒が記憶を失うなどかなりの異常事態だが、それでも、こんな風に強く口止めを求められるものとは考えていなかったのだ。
「……全ての人がジークの記憶を失っているわけではないと思うわ。少なくとも王女殿下は最初から記憶を失っていない」
カロリーネ王女が自分に告げた「大切なものを失った」はジグルスの記憶のことだと今は分かる。カロリーネ王女は自分が記憶を失っていることを知っていて、それを心配してくれていたのだ。
「ああ、それはクラーラも言っていた。それと……アルウィンという生徒だ」
「彼もなのね。どこまでの範囲かはまだ私も分かっていないわ。ああ、貴方にも確かめて欲しいわ」
「俺に? 俺は何を確かめれば良い?」
「実家はどうか。私の実家の者たちはジークを忘れていなかった。口止めをされている様子だから、きっとお爺様は事情も知っているわ」
ジグルスのことを使用人に尋ねると、なんとも言えない反応が返ってくる。それはリーゼロッテにジグルスのことを隠そうとしている証。そしてそれを指示する人は祖父であるリリエンベルク公爵しか考えられない。
「なるほど……君の実家は分かる。これで俺の実家も同じだとすれば、学院内だと考えても間違いはないな」
リリエンベルク公爵家はクロニクス男爵家との繋がりがある。例外となっていてもおかしくない。だがエカードの実家であるキルシュバオム公爵家は違う。それでリリエンベルク公爵家と同じとなれば、ジグルスの周辺だけの出来事だと考えられる。
「なので記憶を失っている事実については知っている人は知っているはずだわ。だから本当の秘密は、この事態はジグルスのお母様がもたらしたという事実」
「……なんだって?」
「これも知っている人はいると思う。でもわざわざ広めることではないわ」
「い、いや、ちょっと待て。彼の母親が俺たちの記憶を奪ったというのは本当なのか?」
記憶を失ったことに原因があるのは当たり前。だがそれがジグルスの母親の仕業というのは想定外だった。
「こんな嘘をつくことに何の意味があるかしら? ジークのお母様にご迷惑をかけることになってしまうわ」
「それはそうだが……エルフの魔法ということか?」
「具体的な方法までは分からないわ。でも私は記憶を失う直前にお母様に会っている。お母様に『忘れないさい』と言われ、それ以後、記憶を失っていたわ」
「彼の母親に会った……それも驚きだ。都に来ていたのか?」
母親はエルフ。都でエルフを見ることなどない。存在はしていても表に出てくることはない。
「私が記憶を失った直後に、騎士たちが慌てた様子で探しに来たわ。その時にはジークも消えていた」
「……そういえば学院にも来ていたな。あの日か」
捜索の手は当然、学院にも伸びていた。学院にカロリーネ王女の護衛以外の騎士が姿を現すことなどないので、エカードも記憶に残っている。
「ジークは普通に学院に戻ってきたから、捕まったということはないと思うわ」
「王国から逃げる必要がある……いや、母親も王国にとっては重要人物ということか」
王国騎士団が探し回るような存在。エルフというだけでそうはならないとエカードは思う。父親の絡みか母親自身がそういう存在であるのか。
「こんな魔法が使えればそうなるわ」
リーゼロッテは母親自身が特別な存在なのだと考えている。
「確かに……しかし、何故、こんなことをしたのだ?」
「それは……ジークの大怪我が理由ではないかしら?」
「大怪我……」
怪我を負ったことはなんとなく知っている。だがエカードにはどこか遠い出来事にしか感じられない。
「臨時合宿で魔人と戦った……これも思い出せないのね。ジークは私たちを逃がす為に、魔人を足止めしようと一人残ったの。それで大怪我を負い、私が知っている範囲でも一週間以上、寝たきりだったわ」
「自ら戦いを挑んだのか……」
「お母様はそれに対して、かなりご立腹だったわ。ジークには……とにかく戦いとは無縁の世界で、長生きして欲しいと言っていた。だから私たちの記憶を奪ったの」
「……すまない。こういう言い方はあれだが、そんなことで多くの人の記憶を?」
子供には危険な目に遭うことなく長生きして欲しいと思うのは、母親として当然の気持ち。誰もが持つその気持ちを理由に、大勢の記憶を奪うというのはエカードにはまったく理解出来ない。
「そこまでするのかという思いは私にもあるわ。でも……きっとお母様には私たちには分からない事情があるのよ」
「……状況と、それがもたらされた理由に凄くギャップを感じる。それは良いとして、君はこの先どうするつもりだ?」
リーゼロッテは自分とは違い記憶を取り戻した。考えることがあるはずだとエカードは考えた。
「……何も」
「何も?」
「何もしないつもりだわ」
「……どうして?」
「お母様だけでなく、ジークにとってもきっと今のままが良いの。もう彼を巻き込んではいけないと思うの」
リーゼロッテはジグルスが祖父であるリリエンベルク公爵家の依頼を受け入れて、すでに動き出していることを知らない。このまま何事もなく実家に戻り、母親が望む、戦争とは無縁の世界で生きていくのだと考えているのだ。
「彼は何者なのだ? こういう聞き方では分からないか……なんというか……」
「彼は一から戦術を考えられる人。仲間を精鋭に鍛えられる人。戦場で的確な判断が出来て、魔人に立ち向かう勇気を持っている人。貴方の知りたい答えはこれかしら?」
リーゼロッテにとってはジグルスの一面に過ぎない。重要なことでもない。だが周囲が求めるのはこのジグルスなのだと思っている。
「……つまり、戦いとは無縁の世界では生きられない者、ということか?」
「いえ、周囲がそれを許さない人だわ」
「そうか……君もまた、彼の母親と同じように穏やかな人生を送って欲しいのだな?」
だからリーゼロッテは何もしないのだ。周囲がジグルスを忘れたままでいて欲しいのだとエカードは考えた。
「今日、ここで話したことは決して口外しないと貴方は約束したわ。その約束を破るような真似はしないわよね?」
「……君もクラーラに負けないくらいに頭が良い。意外な部分で」
リーゼロッテにはエカードにも何もさせないようにしている。ただ話の内容を漏らさせないというだけではなく、行動にも制約をかけようと考えて、約束させたのだ。
「私は彼に何も返せない。彼は沢山のものを私に与えてくれたのに……」
リーゼロッテの瞳からこぼれ落ちる涙。記憶など戻らなくても、彼女のジグルスに対する想いは分かる。公爵家令嬢であるリーゼロッテには許されないはずの想いが。
「リーゼロッテ……君との約束は守る。ただもし可能であれば教えてくれ」
「……何を聞きたいのかしら?」
「俺は、俺たちは何を間違っている? 彼に言われた。俺たちは自分たちの目の前にある戦いに勝つことだけを考えていると。他の戦場で戦う人のことを何も考えていないと。確かにそうだと思う。だが、では俺たちはどうすれば良い?」
「…………」
「それを知り、俺たちが正しい方向に進むことは君の望みを叶えることにもなる。そうは思わないか?」
自分たちが正しく戦いを終わらせる。それは結果として、ジグルスの出番をなくすことになる。そうエカードは言っている。
「……私には正解が分からないわ。でも、一つだけ言えることがある」
「それは何だ?」
「貴方たちには無理」
「なんだと?」
「貴方たちは強いわ。だから弱者の気持ちが分からない。弱者がどれだけ戦いに怯えているか、死にたくないと思っているか分からない。以前の私もそうだった。上からしか人を見ることが出来なかったわ」
だが今は違う。虐められる側の気持ちを知った。多くの人々と身分に関係なく触れあい、彼等の想いを少しだが感じることが出来た。何も見えていなかった自分を思い知った。
「……それも彼のおかげか?」
「そうね。そして貴方たちのおかげでもあるわ」
「俺たちが何をした?」
「上からしか人を見られない者の愚かさを、醜さを教えてくれたわ。その姿に少し前の自分が重なった。おかげで自分の愚かさを心から恥じることが出来たわ」
「…………」
リーゼロッテの辛辣な言葉にエカードは言葉を失った。リーゼロッテが愚か、醜いと言っている人にはエカードも含まれているのだ。
「……私の今の言葉を理解出来ない貴方には無理。だから考えてみて。貴方が考えるべきなのはジークのことではなく、自分たちのことだわ。自分たちが正しいと思っていたことを疑うことよ」
ユリアーナがどういう女か、自分たちにとってどういう存在なのかを考えろ。本当はこう言いたいのだが、そういう言い方をすれば、エカードはまともに受け取らない。リーゼロッテとユリアーナの間にある確執を、リーゼロッテにとっては一方的に悪意を向けられているだけだが、エカードは知っているのだ。
「……正しいと思っていたことを疑う」
「簡単ではないでしょうね? でも出来るだけ早く答えを得られることを願っているわ。じゃあ、私はこれで失礼するわ」
席を立って部屋を出て行くリーゼロッテ。その背中を見つめながらエカードは、彼女が何を求めているのかを考えている。リーゼロッテの言う通り、すぐに答えは見つけられないだろう。だがその時が遅れれば遅れるほど、エカードたちは後戻りが出来なくなる。
ユリアーナは決して他人の為には戦わない。その在り方はジグルスとは対極にあり、エカードが求める方向とは異なるものなのだ。