臨時合宿での事件から一ヶ月が過ぎ、学院は完全に落ち着きを取り戻している。授業も、合宿に備えた鍛錬は当然なくなり平常通り。戦闘系の授業においては、一部の生徒たちにおいて真剣味が増し、以前よりも激しいものになっているが、それは悪いことではない。彼等の多くはまだ知らないが、ローゼンガルテン王国はまもなく戦時体制に移行する。まだ学生である彼等も、卒業後は戦争に赴くことになるかもしれない。強くなることは生き残る為の役に立つだろう。
そして極一部の戦時体制への移行を知っている生徒たちは、個人の武を高めるだけでなく、もっと高いレベルで戦争に備えようとしている。
リリエンベルク公爵家のリーゼロッテと、その従属貴族家の生徒たちもそうだ。部室に集まっている彼等。話し合われている内容は、いかにして部隊を強くするか。リリエンベルク公国軍を強くするかだ。
「基本的には合宿に向けて行っていた鍛錬で良いと思います」
「そうね。長時間戦い続けられる体力は必要だわ」
「ち、ちょっと待ってください」
やや焦った様子で口を挟んできたのは合宿に参加していない生徒。リーゼロッテの部室は以前のような賑わいに戻っているのだ。
「何か問題があるかしら?」
「鍛錬の内容は素晴らしいと思います。ですがあれは万人が耐えられる内容でしょうか?」
合宿に参加した生徒たちが行っていたのは、かなり厳しい鍛錬だ。意見を述べた彼は、自分には無理だと思っている。
「……それを耐えるから強くなるのではなくって?」
「それは確かに理想です。ですが落伍者はどうなさるおつもりですか? 鍛錬についていけない者は戦いに参加させない。それで魔人と戦うに十分な数が揃うでしょうか?」
「小数精鋭というやつね。とても良いと私は思うわ」
「いや、しかし……」
「何? まさか貴方、私が間違っているとでも言うつもり?」
鋭い視線を向けるリーゼロッテ。これもかつての彼女の雰囲気に少し戻ってきている。
「い、いえ、そんなことはありません」
「では良いわね。基礎鍛錬は決まりだわ。次は戦術ね。フェリクス、続けて」
かなり強引に結論を出すリーゼロッテ。続けて戦術について説明するようにフェリクスに求めた。
「はっ。戦術も基本的には合宿のものの延長で行けないかと考えております」
「延長というのはどういう意味形かしら?」
「合宿において我々は二十名ほどで戦術を作りあげました。単純に人数を増やすのではなくそれを一部隊と考え、複数の部隊が集まって統一行動を取る。そんな形が出来ないかと考えているのですが……」
構想は出来ている。だが具体的にどのようにすれば良いのかは纏まっていないのだ。
「……悪くないわ。そうしましょう」
「いや、ただ部隊を並べれば良いというわけではありませんので」
「……それもそうね。上手く連携をとれるようにしなければならないわ。その点はどう解決するのかしら?」
「連携訓練を徹底的に行う……と考えたのですが、それでは動きが固まってしまうという意見もありまして。確かに何十通りもの動きを身につけるのは大変で、かつそれで全てに対応出来るという保証もありません」
連携訓練は必要だ。だがこういう場合にはこの動きと決めつけては、応用が効かなくなる。戦場の状況は千差万別だと考えれば、全てを網羅するのは不可能となる。
「……何か良い案はないのかしら? 合宿での戦術を考えた……その、あれよ……その人に考えさせれば良いのではなくって?」
「それは……全員で考えたものですので、今回も全員で考えるしかないかと」
「……そうね。そうするしかないのね」
そうするしかない。これを思った途端に、何故かリーゼロッテの心に寂しさが広がっていく。こんな思いはこれが初めてではない。だが、こんな風に感じる理由がリーゼロッテには分からない。
「検討はまだ始まったばかりです。皆で必死に考えれば、きっと良い案が浮かぶと思います」
「ええ。そうであることを期待しているわ」
「お任せ下さい」
これで全体での打ち合わせは終わり。普段はもっと色々と話し合うのだが、今日は別件があるのだ。別件といっても他の生徒たちが引き続き議論しているテーブルを離れて別の、もっと小さなテーブルに移るだけだ。
「お待たせ致しました」
その小さなテーブルで一人座って待っていたのはカロリーネ王女。
「話し合いを聞きたいと言ったのは妾だ。待たされたとは思っていない」
「そうですわね。でも退屈ではありませんでしたか?」
「そうよな……何故、戦術について悩んでいるのかは疑問だ。なんなら王国騎士団の戦術書でも貸してやろうか?」
そんなことが出来るはずがない。四公国は臣従国ではあっても、反逆の恐れがないわけではない。ローゼンガルテン王国にとっては仮想敵国なのだ。その仮想敵国に戦術情報を与えるなど本来は許されない。
国王の思惑により特例となったジグルス。その彼に便宜を図ることに慣れてしまったカロリーネ王女は、感覚がズレてしまっているのだ。
「お気持ちは有難いですが、それは結構ですわ。ああして自分たちで考えることで学ぶことは多い。悩むことが彼等にとっての鍛錬なのですわ」
「なるほど……それで、それを言ったのは誰なのだ?」
「それは……誰だったかしら?」
「……忘れてしまったのか」
今回もリーゼロッテから答えは得られなかった。答えを知っている問いを、こうして何度もカロリーネ王女は彼女に投げているのだ。
「申し訳ありません。王女殿下が気になるのでしたら、皆に聞いてみますわ」
「いや、良い。そこまでして知りたいものではない」
「そうですか……では本題に入りましょう。今日のご用件は何ですか?」
カロリーネ王女は用があると言って、この場にいる。その用件がどのようなものであるかとリーゼロッテは尋ねた。
「……お主が心配でな」
具体的な用件を聞かれてもカロリーネ王女は困ってしまう。父である国王に言われて様子を探っている。それが始まりであるのだが、ジグルスのことを覚えていないのが事実だと知ってからは言葉にした通り、心配で顔を見に来ているのだ。
「王女殿下に心配をお掛けした覚えはありませんわ」
「覚えがないことが心配なのだ」
「えっ?」
「お主……何か大切なものを失っていないか? 今のままで良いのか?」
忘れてしまったことはリーゼロッテにとって良いことかもしれないと考えたこともある。二人はもう二度と会えないかもしれない。会えたとしても仲良くしていられるのは卒業までの間。リーゼロッテは別れの辛さを味わうことはなくなった。そう考えたことも。
だがカロリーネ王女から見て、今のリーゼロッテには何かが足りない。そう思えてしまうのだ。
「……ご質問の意味が分かりませんわ。私は現状に不満を感じていません」
「そうか……そうであれば良いのだ。すまなかった」
席を立って部屋を出て行くカロリーネ王女。彼女はジグルスのことを忘れていない。ジグルスがいなくなった寂しさを感じている。そしてその思いを共有出来る相手がいないことが、彼女の寂しさをさらに強めてしまう。
覚えていることが良いのか。忘れてしまったほうが良いのか。どちらでもない。自分だけが違うことがカロリーネ王女は辛いのだ。
◆◆◆
部室が活気づいているのはリーゼロッテのところだけではない。エカードの部室も以前に比べて、遙かに活況だ。その理由はリーゼロッテたちのように鍛錬方法や戦術についての議論が活発に行われているから、ではなく単純に訪れる人が増えたからだ。
従属貴族家が増えたわけではない。それ以外の、平民の生徒たちが部室に顔を出すようになっていた。
「そう畏まらなくても良い。ウッドストックだったな。君の実力は良く知っている」
「……あ、ありがとうございます。エカード様に名前を覚えて頂けているなんて光栄です」
「だからそんな風に緊張しないでくれ。俺まで調子が狂ってしまいそうだ」
「す、すみません。平民の僕には、やはり貴族の方々はどうしても……同じ貴族でも……あれ?」
ウッドストックは言葉を続けられなかった。自分が何を言おうとしたのか分からないのだ。
「……同じ貴族でも?」
「……いえ、貴族の方が相手だと、どうしても緊張してしまって」
「そうか……最初は仕方がないが、慣れてくれ。そんな調子では思うように話せない」
「すみません……」
「だから……いや、まあ良い」
何かを言えば、それだけウッドストックは謝罪する羽目になる。そう考えたエカードは会話を打ち切ることにした。ウッドストックにとってもそのほうがありがたい。ユリアーナに強引に誘われて、渋々ここに来たが、やはり貴族の生徒たちの中にいるのは落ち着かない。
「君は確か……」
続けて前に出てきた女子生徒。エカードにも見覚えのある女子生徒なのだが、彼女の名前が出てこない。
「クラーラと申します。今日はウッドストックくんの付き添いで来ました」
「付き添い?」
「彼はああいう性格ですので、知り合いがいないと辛いだろうなと思いまして……駄目でした?」
「い、いや、問題ない。理由は何であれ、訪れてくれた人は歓迎する」
ウッドストックとは正反対の物怖じしない性格。エカードとしては彼女のようなタイプは気が楽だ。
「ではお邪魔させて頂きます」
これを告げるとクラーラは、すぐにエカードの前を離れて、ウッドストックの側に移動した。公爵家の自分に媚びる様子は全くない。ウッドストックの付き添いという彼女の言葉は本当なのだとエカードは理解した。
そういった彼女の態度もエカードには好ましい。ウッドストック以外にも心から仲間にしたいと思える生徒が現れたことを内心で喜んでいる。
部室を訪れた平民の生徒は二人だけではない。他にも何人もの、優秀だとされる生徒たちが来ている。誰もがユリアーナの推薦だ。中にはエカードにとって好ましくない人物もいる。
だがユリアーナには仲間を選抜するという考えはない。ゲームのように人数制限があるわけではないのだ。増やせるだけ増やしたいと思うのは当然のこと。彼女は自分にとっての最善を考えて行動しているのだ。
「かなり優秀な人材が集まったと思わない?」
エカードに向かって問い掛けるユリアーナ。自分の成果をアピールしたいのだ。
「そうだな……これだけの人材を集め、さらに鍛え上げればきっと魔人に勝てるようになるな」
「ええ。でも、もっともっと増やすわよ。私たちは負けるわけにはいかないの」
ユリアーナは今でも勝てると考えている。だがここはエカードの考えを否定するべきではない。候補者を見つけ、誘い込んでいるのはユリアーナだが、それが上手く行くのも公爵家のエカードという存在があるから。
色仕掛けだけで思うように仲間が集められるわけではない。女子生徒相手となると成功したこともない。エカードに仲間を集める意欲を失わせるわけにはいかないのだ。
この先もユリアーナは仲間集めに奔走することになる。
ゲームストーリーを崩したのはジグルスかもしれない。それに危機感を覚えていたユリアーナだが、自分がゲーム設定を崩していることには気が付いていない。結果それがストーリーにも影響を与えることなど、頭の片隅にもないのだ。
◆◆◆
部室を出て、迎えが待つ校門に向かっているリーゼロッテ。階段を降りるその足取りはおぼつかない。考え事に気を取られているのだ。
カロリーネ王女は「何か大切なものを失っていないか」と聞いた。その問いに対して嘘をついたつもりはない。リーゼロッテに何かを失った覚えはない。カロリーネ王女が何故、そんなことを聞いてきたのかが分からなかった。
だが失った覚えはなくても、リーゼロッテは自分の心の中に満ち足りない何かがあることは感じている。それが何なのか。どれだけ考えても答えは出ない。
自分の能力をもっと高めようと、講義も実技の授業も以前よりも真剣に取り組んでいる。放課後は仲間たちと様々な議論を行う毎日。充実していると言える、良い学院生活だ。
それでも満ち足りない思いをするのは何故か。以前は満ち足りていたのか。何かを失ったということはそういうことだ。ではその何かは何なのか。
カロリーネ王女に素直に聞くべきだった。そんな後悔が浮かぶ。
教えてくれるだろうかとリーゼロッテは不安になる。部屋を出て行くカロリーネ王女は寂しそうな、それでいて怒っているような複雑な表情を見せていた。何故、あんな表情を彼女は見せたのか。
感情の揺れと思考の波。リーゼロッテはそれに囚われすぎた。
「あっ……」
階段に降ろしたはずの足が空を掴む。バランスを崩したリーゼロッテは、そのまま階段を転がり落ちると思って体を固くしたのだが、その体は落ちるどころか宙に浮かんだ。
階下に落ちる衝撃音。だがリーゼロッテの足は床についていない。足だけではなく体が、何者かに抱え上げられて宙に浮いていた。
「……あ、あの」
戸惑いの声をあげた途端に抱えていた腕が緩み、リーゼロッテは床に転がることになった。
「痛いところはありませんか?」
頭上から聞こえてきた声。リーゼロッテを助けてくれた男子生徒が立ち上がって、聞いてきていた。
「……大丈夫ですわ」
リーゼロッテも立ち上がり、男子生徒の問いに答えを返す。痛いところなどあるはずがない。体のどこもぶつけていないのだ。
「それは良かった。では、これからは気をつけて下さい」
「あ、ありがとう」
「いえ。少し支えただけですから」
こう言ってリーゼロッテを助けた男子生徒は、背中を向けて去って行こうとする。大きいといえる背中ではない。男子生徒はどちらかといえば小柄だ。
ただその背中は、リーゼロッテに強い安心感を与えてくれる。この背中の後ろにいれば大丈夫。何故かそう思う。
「……ま、待って」
その背中が遠ざかっていくのが嫌で、リーゼロッテは震える声で男子生徒を呼び止めた。その声に応えて男子生徒は立ち止まり、振り返った。
だがその姿はリーゼロッテにはぼんやりとしか見えない。溢れ出る涙が、リーゼロッテの視界を塞いでいた。
「……やっぱり、痛いところが?」
心配そうに尋ねる声。それにリーゼロッテは首を振るだけで応えた。
「では……何故、泣いているのですか?」
「……分からない」
何故、こんなに涙が出るのかリーゼロッテには分からない。悲しいという思いはない、はずなのだ。人前で泣くなんて恥ずかしい。そう思っても涙は止まらない。
「あっ……」
リーゼロッテの視界がまた塞がれた。涙のせいではない。男子生徒の肩が眼前に迫っていた。頭に置かれた手。背中に回された腕に力が入り、リーゼロッテの体はまた男子生徒に包まれることになった。
それを拒むことがリーゼロッテには出来ない。わずかに感じる男子生徒の体温が心地よい。とくん、と胸が鳴ると同時に、空いていた隙間が温かいもので満たされていくのを感じた――
「あっ! 俺は馬鹿か!?」
そんなリーゼロッテの気分を台無しにしたのは男子生徒の焦った声と、彼との間に出来た隙間だった。
「申し訳ありません! いきなり抱きつくなんて、ほんとすみません!」
リーゼロッテに向かって謝罪する男子生徒。その謝罪に対して、何と答えて良いのかリーゼロッテには分からない。気持ちが良かった、なんて恥ずかしくて絶対に言えない。
「じ、じゃあ、今度こそ、これで……あ、ああ、良ければこれを」
男子生徒がリーゼロッテの手に押しつけてきたのは白いハンカチ。涙を拭けという意味だとリーゼロッテは理解した。
さきほどとは違い、焦った様子で離れていく男子生徒。やはり少し寂しい気持ちになったが、そんな彼の様子がおかしくもあった。渡されたハンカチを思わず胸に抱く。そんな無意識の自分の行為に気が付いて、リーゼロッテは一人で顔を赤くしている。
「いたぁあああーー!!」
突然、廊下に響き渡った叫び声。それに驚いてリーゼロッテが視線を向けると、声の主はまさかのカロリーネ王女だった。
「お主! 今まで何をしておった!」
カロリーネ王女が叫んでいる相手は、さきほどの男子生徒。
「何って……決まっているでしょ? 治療ですよ、治療」
「だったらそう言え!」
「いや、言えって言われても。俺、ずっと寝たきりだったのですよ?」
「そんなの関係ない。お主には妾にきちんと報告する義務がある」
リーゼロッテに見せるのとは違うカロリーネ王女の態度。二人は仲が良いのだと思ったリーゼロッテは、少し胸が痛くなった。
「何故?」
「何故じゃない! 妾とお主は……その、友達ではないか……」
「友達……あ、ああ、そうですね。心配をかけてごめんなさい。こうして元気になりました」
「そうか……良かったな」
二人は友達。カロリーネ王女にも自ら友達と呼べる人がいた。それが自分を助けてくれた男子生徒だと思うと、リーゼロッテの思いは少し複雑だ。
ただ嬉しさのほうが少し強い。カロリーネ王女は彼を知っている。もし今度、部室に来たら彼も連れてきてもらえるように頼んでみようと考えた。少し、いやかなり恥ずかしいが、きちんと御礼をしたいという口実はある。
その時を楽しみに、リーゼロッテはこの場は去ることにした。彼と、恐らくは久しぶりに出会えてとても嬉しそうなカロリーネ王女。その邪魔をしてはいけないと考えたのだ。
それとは真逆の邪魔をしてやりたいという本能的な気持ちは押し殺して。