ジグルスが合宿所を訪れるのはこれで二度目。その様相は以前とはまったく変わっていた。保養所として利用されていた合宿所は、それに相応しい快適さを持った場所だった。豊かな緑に囲まれたのどかな雰囲気。宿泊施設も下手な宿屋よりは遙かに贅沢な造りで、部屋も定員である二名で休むには広すぎるくらいの大きさが用意されていた。
だが今は違う。施設を囲む壁は二倍以上の高さとなり、その頑強さも増している。四隅には見張り台が建てられ、常に騎士がそこに昇り、接近するものがいないかを監視している。
空には偵察、そして物資運搬用の飛竜が飛び回り、地では騎士たちが慌ただしい様子で動き回っている。合宿所は砦へと様変わりしていた。
ただ騎士や飛竜が動き回っているのは、学院の生徒たちの受け入れがあるから。最初の頃とは異なり、ある程度、魔物の状況を把握した今現在は、常日頃からこのように雑然とはしていない。ただそれは到着したばかりのジグルスたちには分からないことだ。
「……ジーク。どうだった?」
「訓練は出来そうにありません」
「そうなの?」
「少なくとも、合宿所の中では無理なようです」
「……それもそうね」
空き地と呼べる場所はあるが、そこでは多くの騎士が働いている。合宿に参加する生徒たちの為に運ばれてきた物資を整理しているのだ。
そのような状況の中、訓練をしたいので場所を使わせて下さいとはお願いしづらい。許されるとも思えない。
「かといって外に出るわけにもいきません。訓練は諦めましょう」
「今日は仕方がないとして、明日以降はどうなのかしら?」
「それも無理そうです。中央の広場は飛竜の発着場として使用されているそうで、明日以降も近づけません。それに時間もありませんから」
「明日から始まるのね?」
学生たちは保養に来たわけではない。のんびりしている時間など与えられないのだ。
「はい。作業が落ち着いたら、今日の内に全体説明会が開かれるそうですが、その前に概要は聞いてきました」
「では、それを聞かせてもらえるかしら?」
「もちろんです。この合宿所からおよそ十キロ先の山中に駐留所が造られています。目的地はそこ、そこと合宿所の往復です」
「二十キロ……遠いのかしら?」
ただ歩くだけであれば、決して近くはないが、大変といえる距離ではない。だが合宿である以上、楽であるはずはない。
「道はあるとはいえ、山の中を二十キロ歩くわけですから。それも魔物と戦いながら」
「……厳しそうね」
山中を二十キロ歩く体力はある。そう言い切れるだけの訓練をこれまで行ってきた。だが、それに実戦が伴うとどうなるのか。楽観すべきではないとリーゼロッテは考えた。
「それでも我々のチームは楽な方です」
「どういうことかしら?」
「駐留所に至る道は三つあります。我々はその中の中央ルート。もっとも距離の短いルートを進むことになります」
「それって……」
リーゼロッテの表情に険しいものが浮かんだ。楽を喜ぶリーゼロッテではない。それどころか、他チームよりも短いルートを割り当てられたことに屈辱を感じている。
「人数が少ないことを考慮されているようです。それに……これまでの対戦成績はダントツの最下位ですから」
「……それはそうね」
ジグルスの説明を聞いて、リーゼロッテの表情が緩んだ。授業中の対戦成績は全敗。もっとも弱いチームだと判断されて当たり前。実際にそうである自覚もリーゼロッテにはある。
「同行する騎士は二十名。これはどのチームも同じ。戦闘への介入については騎士が勝手に判断します」
「そう……仕方がないわね」
二十名の騎士の同行は、万一があってはならないと考えている王国の配慮だ。それに文句を言っても仕方がない。
「さらに飛竜騎士が上空から監視任務につきます。魔物の接近があれば、知らせてもらえるみたいです」
「まあ……なんだか、思っていたよりも手厚いわね?」
まだ学生である自分たちを魔物との実戦に送り込む。王国はかなり思い切ったことを考えた。もしかすると公爵家の有力者を亡き者にしようという策謀ではないか、と疑うことまでしていたが、それはなさそうだとリーゼロッテは思った。
「そのようです。色々と考えすぎたかもしれません」
「合宿は将来の為の訓練の一つよ。仮に今回は役立たなくても、やってきたことは決して無駄にはならないわ」
今回の合宿に向けて、移動中に奇襲を受けた場合など、あらゆることを想定し、それへの対処を考え、訓練を行ってきた。今回の合宿では意味をなさなかったとしても、先の戦いには絶対に役立つ。リーゼロッテはそう信じている。
「ありがとうございます。続けます。騎士団のこれまでの経験から、魔物に遭遇するのは片道一回から二回。小規模、これは五十体以下の規模をいうのですが、それで二回。百くらいの群れに遭遇した場合は、それ一回きりだろうという話です。ただこれは無駄な情報。何回遭遇しようと油断は禁物です」
「当然ね」
「これまで確認された魔物はゴブリンとオーク。ゴブリンは前回の合宿で遭遇した魔物で、小柄で武器を持ちます。単体での強さは我々個人よりも劣りますので、数次第ですが、油断がなければ問題ないでしょう」
ゴブリン百体であれば前回と同じ。その時に比べれば、味方の数は減っているが、遙かに効率よく戦える自信がジグルスたちにはある。
「オークというのは?」
「オークは大柄です。我々よりも一回りくらいは大きいでしょう。ゴブリンと同じように武器を持って戦いますが、その力は比べものにならないくらいに強いです。しっかり守りを固めて、戦う必要があります」
「そう……それは強敵ね?」
「ただ数はゴブリンよりも少ないはず。いえ、これは無用な情報ですか。忘れてください」
オークの数は少ないなどと考えていて、ゴブリンと同じくらい、百体もの群れが現れては味方が動揺してしまうかもしれない。余計なことを言ってしまったとジグルスは反省した。
「……魔法はあるのかしら?」
「これまで使ったという報告はないようです。おそらくはありません」
オークは魔法を使えない。ジグルスの知識では間違いなくそうなのだが、さきほどの反省もあって、曖昧な言い方を選んだ。
「接近前にダメージを与えることね……魔力の加減が難しいわ」
オークは接近戦での戦いを避けるべき。魔法中心での戦いだ。それは良いが、魔力を使い切るような戦い方はすべきではない。その辺りの加減が難しそうだとリーゼロッテは考えた。
「駐留所で休憩が取れます。合宿当日は二十名の騎士が詰めているそうです。同行する騎士と合わせれば四十人。熟睡していても守ってくれると思います」
「それは心強いわね」
「やれるだけのことはやってきました。自信を持って臨みましょう」
「そうね。皆も良いわね?」
「「「おう!」」」
◆◆◆
予定通り、明日以降の合宿内容についての全体説明会が行われた。リーゼロッテたちのチームにとっては目新しい情報はなし。他チームの、すでに答えの分かっている質疑応答を聞いているだけで終わった。それによってジグルスが仕入れてきた情報は、他チームに与えられていなかった特別なものなのだと分かったが、それを指摘する仲間は誰もいない。ジグルスがそういった情報源を持っていることは、なんとなく分かっていたのだ。
その情報源が明らかにしても良い相手であれば、ジグルスはそれを伝えてくるはず。手柄を独占しようなんて考えが、ジグルスにないことは皆、分かっているのだ。
――夕食を終え、あとは風呂に入って寝るだけの時間。ジグルスは建物の外に出て、ぼんやりと夜空を眺めている。
「月が綺麗ね」
そんなジグルスに声を掛けてきたのはリーゼロッテだ。
「……体を冷やしますよ」
リーゼロッテは風呂上がり。火照った様子のほんのり赤い顔と、まだ湿っている髪がそれを示していた。
「涼みに来たのよ」
「それでも……いえ、暖まった体には気持ちの良い風ですからね」
涼みに来た、なんていうのは口実だ。自分が一人で外にいることを知って、気になって見に来たのだろうとジグルスは考えた。そうであれば、追い返すような真似は出来ないと。
「そうね……昼間とは違って、魔物との戦いの最前線なんて思えないわね?」
合宿所は昼間とは異なり、静寂に包まれている。完全に寝静まっているわけではない。まだ起きている生徒が大多数であり、見張り番の騎士は今も仕事を行っている。
ただ明日の本番を前にして大騒ぎしている生徒などおらず、仕事中である騎士も無駄口を叩くことはない。さらに合宿所の外からの物音もほぼ無い状況の今は、昼間とは別世界だった。
「こんな時間でもざわついていますので、やっぱり普通ではないのだと思います」
「ざわついている? それは何が?」
ジグルスは自分とは異なるものを感じている。それを知ってリーゼロッテは戸惑っている。
「何と聞かれると困るのですけど……多分、精霊?」
「……そうね。ジークはその存在を感じられるのね?」
ジグルスの母親はエルフ。ジグルスにはエルフの血が流れている。リーゼロッテには感じられない精霊の存在が感じられるのも当然だ。
「そうでもありません。昔はもっと、はっきりと感じられたのですけど……今は『多分』なんて言葉を使わなければなりません」
「そうなの? どうしてなのかしら?」
「エルフの血が薄いのではないかと言われました。そのせいで、成長と共に感覚が鈍ってしまったのだろうと、母が言っていました」
事実ではない。だが嘘をつかれている当事者であるジグルスが知るはずがない。
「それは……残念なことなのよね?」
「そうですね。やっぱり寂しく感じます」
「元には戻らないのかしら? あっ、あまり話したいことではないわね?」
寂しいと言うジグルスは、元に戻って欲しいに決まっている。どうすれば元のようになるかも考えているに決まっている。それでも変わっていないのだ。
精霊の話はジグルスにとって楽しいものではないとリーゼロッテは考えた。
「いえ、今はもう気にしていません。悩んでもどうにもならないことですから」
かつては気にしていて、だがどうにもならなくて諦めてしまった、ということ。やはり話すべき内容ではなかったとリーゼロッテは思った。
「……ジークのお父様はどういう方なの?」
「えっ?」
「あっ、あれの話ではないの。ただの父親としてどういう人かなと思って……」
エルフである母親の話は避けて、と思って父親のことを聞こうと考えたのだが、その父親も訳ありだ。
「いえ、それは分かっていますけど……ああ、気を使わせてしまいましたね?」
リーゼロッテが父親について探りを入れてくるはずがない。ジグルスが驚いたのは、単純に何故、親のことを知りたいと考えたのだろうということだ。ただ、すぐに母親の話題を避けただけだと分かった。
「ごめんなさい」
「謝るのは俺のほうです。面倒な両親ですみません。ただの親としても面倒ですけど。母親については以前、少しお話ししましたね? 考え方が普通ではなくて、自分が良く常識を持って育ったなと感心しています」
普通に育ったのには理由がある。幼い頃に転生者として覚醒、というべき状態となったジグルス。その時点で過去の人生に基づく自我が出来上がっている。幼い頃から、母親の言っていることはおかしいと分かっていたから影響は最小限に抑えられていたのだ。あくまでもジグルスの考えでは。
「……普通かしら?」
リーゼロッテから見て、ジグルスは普通ではない。それは両親の影響を受けているからだと考えている。
「俺っておかしいですか?」
「……公爵家に正面から刃向かう男爵家は普通ではないわ」
たとえ実家が仕えている公爵家の為であったとしても。四公家はそれを躊躇わないでいられるほど、明確な敵対関係にはない。ローゼンガルテン王国として考えれば、同じ王家に仕える身であり、自家より遙かに上位に位置する相手なのだ。
「それは……それが必要だと思ったからです」
リーゼロッテの為に、という言葉は口にしない。実際に、最初から強い想いを抱いて行動を起こしたわけではない。最初は、この世界という漠然とした対象への怒りが動機だったのだ。
「……ジーク。私は貴方に何も返せない」
「何も必要としていません」
「分かっているわ。貴方は見返りなんて求めていない。でも……私が貴方に何かをしてあげたいの」
与えられるものがあれば与えたい。ジグルスが求めるのであれば、求めてくれるのであれば。
「……リーゼロッテ様。お気持ちは本当に嬉しいのですが、俺のことは気にしないで下さい。俺は今のままで、もう十分に満足していますから」
リーゼロッテとの関係を深めることは許されない。たとえ、それをお互いが求めていたとしても、結果、悲しみを深めるだけだと分かっている。
リリエンベルク公爵は、公爵としてではなく愛する孫娘を思う祖父として、今以上に近づくなと言った。その想いは無視出来ない。リリエンベルク公爵が言っていることは正しい。これをジグルスは否定出来ないのだ。
「ジーク……」
だがリーゼロッテは求められないことが悲しい。公爵家の女性として、個人の感情だけで嫁ぎ先を決められないのは分かっている。ジグルスとの未来がないことは分かっている。だがリーゼロッテは近い将来、辛い思いをすることは覚悟の上で、ジグルスとの時を過ごしたいと思っているのだ。
「……リーゼロッテ様。先ほど俺は、精霊を感じられなくなって寂しいと言いましたが、それを超える楽しさを今、感じています。彼のことを思うと寂しいと感じますが、その寂しさを紛らわせてくれる以上の楽しい仲間たちが周りにいますから」
これはリーゼロッテを誤魔化す為の言葉ではない。ジグルスの本心だ。自分が転生者であると知ったジグルスは、ずっと孤独を感じていた。両親がいても、それはこの世界で生を受けたジグルスの親。転生前の記憶を持つジグルスにしてみれば、親という意識がどうしても薄くなってしまう。
この世界においてジグルスは天涯孤独。その寂しさを紛らわせてくれた友とは会えなくなったが、今は孤独を感じること事態がない。それはジグルスには幸せなことなのだ。
「……そうね。私にはお返しをしなければならない人が沢山いるわ」
リーゼロッテは気持ちを切り替えて、話をすることにした。せっかくの二人の時間を、重苦しい雰囲気で終わらせたくないのだ。
「それも無用だと思います。皆、リーゼロッテ様が好きなのです。好きな人のためであれば、何でも良いから、何かをしてあげたくなるものです」
「だから、それを私は……」
せっかく気持ちを切り替えたのに、ジグルスが話を戻してしまう。リーゼロッテも、何でも良いからジグルスに何かをしてあげたいと思っているのだ。
「……じゃあ、笑ってください。俺はリーゼロッテ様の笑顔の為であれば、何でもします。だから、俺が求める笑顔を褒美として与えてください」
「ジーク……」
そんなことで、とはリーゼロッテは思わない。笑顔の為であれば何でもします、という言葉がとても嬉しく、そして恥ずかしかった。遠回しに告白されたかのように感じたのだ。
笑顔を向けるどころか、頬を染めて俯いてしまったリーゼロッテ。そんなリーゼロッテの肩に向かって、思わず伸びそうになる手。そんな無意識の動きが、ジグルスの想いを新たにする。
「……あまり長く夜風にあたっているのは体に良くありません」
「……そうね」
「部屋に戻りましょう。明日は大切な日ですから」
「ええ。分かったわ」
もっと二人の時間を過ごしていたいという気持ちはある。だが明日の合宿は自分たちだけのものではない。一緒にこれまで頑張ってきた仲間がいるのだ。
部屋に向かって歩き出す二人。男子と女子の建物は別だ。途中で分かれてそれぞれの部屋に向かう。
(……何事もない、なんてわけにはいかないだろうな。それでも……)
明日は何事かが必ず起こる。精霊のざわめきがそれを示している。精霊の存在はジグルスに安心感を与えるはずのものであるのに、今はそうではない。どうにも落ち着かない気分になって、外に出て気配を探っていたのだ。
それが何であれジグルスは、それを乗り越えるしかない。世界が用意する理不尽なイベントからリーゼロッテを守ると決めたのだ。