フローラが頻繁に訪れるようになったグレンの執務室は更に活気が溢れるようになった。グレンが望まない方向に。
今、グレンはそれを無視して、仕事を行っているところだ。
「資料の検証が一通り終わったところで気になるのは、やはり騎士団だな。行軍からして問題がある」
探り探りながらも行軍計画の見直しは少しずつ進んできている。
「そうですね。騎馬を用いていながら、国軍歩兵と変わらない行軍速度となっております」
手元にある資料を見ながら、ジャスティンも同意する。
「その理由は明らか」
「自分たちのような従卒の存在ですか……」
騎馬を用いるといっても全員が騎乗できるわけではない。従卒などは徒歩で行軍するのだ。これでは速度が変わるはずがない。
「それは仕方ない。重装備の騎士にそういう存在が不要だとは言い切れないからな。解決策も簡単。従卒も馬に乗せれば良いだけだ」
「単純計算でも倍の馬が必要になります」
馬が増えれば、その馬の為の糧食なども必要になる。費用は膨大だ。だから従卒は徒歩という決まりになっている。
「個々の費用の増加は気にするな。費用を増やすことで行軍期間が短縮すれば、全体としては費用は下がるかもしれない。ますは試算してみること」
試しもしないで、否定してしまっては、新しい方策など生まれない。とにかく、何でもやってみるべきだと、グレンは考えている。
「分かりました」
「問題は従卒ではなく、それ以外の存在。そもそも小姓って何だ? 従卒と何が違う?」
従軍者の中に小姓という存在がいることが分かったが、グレンは小姓と従卒の違いが分からなかった。
「軍に属する者が従卒で、属さない者が小姓です」
ジャスティンがグレンの問いに即答してきた。
「……役割を聞いているのだけど?」
「軍務のお世話が従卒、私用が小姓です」
「軍務中の私用って何だ?」
それらしい説明だが、グレンの考えでは、従軍中に私用などがあるはずがない。
「あの……体を洗ったり、色々……」
ジャスティンの答えは一気に歯切れが悪くなる。その理由はグレンにもすぐに分かった。
「……もう良い。詳しく聞きたくなくなった。騎士団ってそんななのか? それでよく俺のことを馬鹿に出来たな?」
もともと個人付き騎士は男色家の国王が、気に入った男を侍らすために作った制度。それを理由にグレンは侮辱を受けることもあった。
「あっ、いえ、昔の風習を受け継いでいるだけで、今は女性に小姓の振りをさせていることがほとんどだと聞いてます」
「もっと悪い。そこまでして連れて行きたいか? バレたらどうするつもりだ?」
バレたらどうする以前に、戦場に女性を連れて行こうという精神がグレンには理解出来ない。敗戦となった時、その女性たちがどうなるかをグレンは考えてしまう。
「長い戦場生活では必要だと黙認されているようです」
「夜の野営地って乱れているな……」
実際にはグレンが思うほどにはならない。昔からそういう慣習があるというだけで、全ての騎士が女性を連れていくわけではないのだ。
「止めた。想像すると空しくなる。とにかく、それがいないだけで、一気に行軍速度はあがる」
ただ、一部であっても小姓、女性がいるのが前提での計画、行動となっていれば、行軍速度に影響するのは間違いない。
「しかし、野営時に必要な物資の運搬などがあります。ただ歩くだけの小姓よりも重い荷車を押して歩く輜重部隊のほうが足は遅いのではないですか?」
シャスティンが小姓以外の問題を持ち出してきた。輜重部隊の足の遅さは見習い騎士であるジャスティンでも知っている常識だ。
「先行させれば良い。先行させて必要な物資を置いておく。後は見張りを残して、残りは又、先へ進めば騎馬の早さを邪魔しない」
ジャスティンの指摘にグレンはあっさりと答えを返してきた。
「……盗賊などに襲われる危険があります」
「軍の物資を襲う盗賊が? ああ、いない事はないか」
普通の盗賊であれば目を付けられることを恐れてしない。だが、この国には普通の盗賊ではない盗賊がいることをグレンは思い出した。
「十分な護衛を残す必要があります」
「それは地方軍に任せれば良い。それなら天幕なども余計に運ぶ必要はなくなる」
「では輜重なども含めて地方軍にお願いすれば良いのではないですか?」
「余剰物資をそんな持っていないだろ? 日常的に抱えておけば、その方が無駄になる」
「必要な時にだけ調達しておくでは駄目なのですか?」
「……早い段階で、行軍進路が広まることになる」
少し考えてからグレンはジャスティンの案の問題を口にした。地方軍が物資の購入に動けば、その地方軍の管轄の方向に進軍することが分かってしまう。
「確かに」
「あまり良いとは言えないな。天幕なら余計に持っていても腐るものじゃない。無駄としてはそれほどでもないから、いけそうな気はする」
「そうですね」
「じゃあ、小姓の従軍は禁止、従卒にも馬を割り当てる。輜重隊は別行動でという前提で、行軍速度を決める。野営地の物資については、輜重隊が運ぶのと、地方軍に任せるの二案だな。それを考えてみよう」
方針は決まった。あとは決められた方針に基づいて、実際に行軍計画を策定し、費用を算出して効果を検証することになる。
「では次は野営地候補の洗い出し。ボール、状況は?」
「はい。一通りは終えております。三千以上の人数が野営出来る空間がある場所を洗い出しました。結果は地図に記しております」
「そうか……多すぎないか?」
ポールが差し出した地図にはそこら中に印が付けられていた。一目それを見て、すぐにグレンは顔を上げてポールに問い掛ける。
「しかし、空間だけであれば、草原地帯などは全域になります」
「水は?」
「……あっ」
グレンの指摘でポールは自分が大事な要素を考慮していなかったことに気が付いた。
「近くに水場があった方が良いだろ?」
「そうでした……」
「しかも三千の人数が、飲むだけならまだしも体洗ったりするとなると、かなり限られると思うけどな」
「はい」
「まあ、さすがに体を洗えるの条件は厳しいか? とにかく近くに水場があることだけを条件に。それに水浴びが出来るかどうかの情報も足しておいてくれ」
「分かりました」
「野営地候補は洗い直しか。そうなるとちょっと先に進めないな」
野営地候補が決まらなければ、行軍進路は決まらない。行程が決まらなければ、費用の算出も進まない。
「申し訳ありません」
「別に良い。初めての経験だ。失敗があって当然。ただ、言われるがままではなく、自分で考えることを忘れない様に」
「はい」
「さて、どうするか。手を付けないでおこうと思っていた所に手を出すか」
仕事が進められないから休むという発想はグレンにはない。
「それは何ですか?」
「算出の標準計算式」
行軍計画はこの標準計算式を利用している。騎士団が千人であれば必要な糧食はどれだけということなどを、計算式に当てはめるだけで求められるもので、全ての基礎と言っても良いものだ。
「問題があるのですか?」
「まあ……」
ここでグレンはちらりとフランクに視線を向ける。作業が始まってからは、フランクは聞かれた事以外は話をしないようにしている。従卒たちに考えさせることも、この仕事の大切な点だと分かっているからだ。
「……何かありましたか?」
「危険係数ってどういう考えですか?」
標準計算式では、不測の事態などに備えて、算出結果に一定の数値が掛け算される形になっている。
「係数に問題が?」
「絶対に失敗しない。そういう気持ちで決められているように思えます。例えば行軍日数。算出された日数に二割は増している」
「はい。天候の問題などで遅れることは多々ありますから」
急な天候の悪化などは確かに不測の事態かもしれない。
「でも、それから割り出した糧食の量にも更に二割増ししている」
「物資の不備なども考慮に入れております」
物資の中には不良品もあるかもしれない。こういったことも不測の事態とされている。
「人員数には、これはもう倍以上を掛けている」
「随行者があいまいな事と、急な増加などに対応する為です」
これも不測の事態……というより、勝手に随行員を増やすことを許しているのがおかしい。
「その結果として、順調にいった場合、用意された物資は大量に余ることになる」
「当然、そうなります……」
「わざとかと思っているけど違うのですか?」
「そんな事はありません」
フランクのこの言葉は信用出来ない。観察部所属のフランクが不正の存在を認めるはずがない。
「余った物資が兵への恩賞替わりという事ではない?」
「もちろんです。恩賞はきっちりと査定された上で出されるものです」
「一般兵には届かないですけどね」
一般兵一人一人を査定などしない。部隊単位では戦功を認められることはあるが、それで恩賞を受けるのは指揮官である騎士だ、
「……まあ」
「やっぱり知っているのですね?」
フランクの反応がこれを示している。
「支給した物を返せとは言えません。言っても節約したからだと文句を言われるだけですし」
かなり遠まわしにフランクは支給品の着服を認めてきた。グレンの予想通りだ。
「そうなると手を付けるのは、ちょっとか」
「しかし、そこに無駄があるのであれば」
これまで手を付けたくて付けられなかった部分。観察であるフランクには望むところだ。
「その分、兵はこれまで受け取っていたものを受け取れなくなります」
「戦争時には兵にまで回りません。何千の兵に配る事など出来ませんから」
「でも周辺任務の分は?」
「それは……」
「ほら……」
ほとんど報われる機会のない一般兵のそれを削るとなると、グレンも二の足を踏んでしまう。どうするか、そのまま考え込んでしまった。
進行をしているグレンが黙れば、全員が黙ることになる。打ち合わせの場は沈黙に包まれた。あくまでも打ち合わせをしている場は。
「ねっ!? 面白いよねっ! そう思わない!?」
「う、うん」
「あれ? 反応鈍いな。異世界ジョークは分からないかな?」
「ジョークって?」
「冗談」
「今のが冗談……」
「……残念。渾身のギャグのつもりだったのに」
グレンが折角、頭から排除していた存在を思い出させる声が執務室に響く。
健太郎の声だ。グレンの執務室を訪れた健太郎。それに付いてきた結衣はフローラに、そしてローズに会っている。それでフローラがグレンの義妹だとバレてしまったのだ。
そうでなくても、健太郎が取る行動は同じだっただろうが。
「……勇者様。打ち合わせの最中です。少し静かにして頂けませんか」
「あっ、ごめん。でも、ずっと仕事ばかりじゃあ、グレンもつまらないだろ? こっちに来て一緒に話をしようよ」
「仕事中です」
「でも仕事と言ったって何も役立ててもらえないだろ? 結果の出ない仕事なんて、無駄だよ、無駄」
「どんな仕事であろうと命じられた任務を全力でこなすのが、自分たちの役目です」
「相変わらず真面目だな。じゃあ、良いよ。こっちは勝手にやるから。それでさ、フローラ」
「フローラ?」
静かに、それでいて怒気が漂うグレンの声が執務室に流れる。その瞬間に執務室には一気に緊張が走った。
「あっ、つい。でも、もう良いよね? 呼び捨てで」
「それは誰に許可を求めているのですか? 自分にであるなら答えは否です」
「いや……あの、フローラに」
「否です」
誰に許可を求めようとグレンは否なのだ。
「……それでフローラさん」
「グレンの妹さんでお願いします」
「名前くらい呼ばせろよ!」
「否です」
フローラの件に関しては、相手が怒鳴ろうが泣こうが、グレンが譲ることは一切ない。まして、相手は健太郎なのだ。
「……僕、何か恨み買うようなことしたか?」
自覚がないところが、グレンを更に怒らせることも分かっていない。
「はい。かなり」
「……えっと」
「ちょっとグレン。そんな事を言うからフローラちゃんが、戸惑っているじゃない」
健太郎が言葉に詰まると今度は結衣が話に入ってくる。この状況が常にグレンを苛立たせているとは、これもまた考えもせずに。
「戸惑わせているのは貴方たち二人ではありませんか?」
「そんな言い方ないじゃない。私たちは、仕事ばっかりで放っておかれているフローラちゃんが可哀そうだと思って」
「フローラは別に自分が可哀そうだと思っていません」
「それはグレンの意見でしょ。フローラちゃんはどうなの? 迷惑じゃないよね?」
「……えっと」
迷惑この上ないのだが、それを口にしない気遣いがフローラにはある。
「フローラ。その二人には思っている事ははっきりと言ったほうが良い。そうしないと、自分の都合の良いように物事を解釈するからな」
グレンが遠慮しないように告げてきた。これまでの経験に基づく忠告だ。
「私がいつそんな事をしたって言うの?」
「心当たりがないのですか?」
「ない」
「これは驚きです。一度、ご自分の言動というものを振り返ってみたらいかがですか? それとも全てを覚えていないので、振り返ることも出来ませんか?」
グレンの苛立ちは高まるばかり。それは普段はあまり見せない冷たい態度に現れている。
「何ですって!? 私の何がいけないって言うのよ!?」
「グレン」
激高する結衣の隣でローズがグレンの名を呼んだ。
「何?」
「きっかけは何でも、今は君の態度のせいで、皆怯えているわよ?」
「……あっ、ごめん」
グレンの健太郎たちに対する態度は厳しいというより、冷淡なものだ。初めて見るグレンの様子に、従卒たちも固まってしまっている。
「もう、フローラちゃんの事となると君はいつもこれだからな」
「でもさ」
「今は仕事中。冷静になりなさい」
「……分かった」
体から溢れんばかりだったグレンの怒気が一気に治まっていく。それを感じた周りの従者たちは、それにほっとすると共に、ローズを感嘆の目で見ていた。ローズがグレンの怒りを言葉だけで治めることが出来る存在だと分かったからだ。
「さてと。そろそろ戻ろうか?」
グレンが冷静になったのを見て取って、ローズはフローラに帰宅を促した。
「ええっ? まだお兄ちゃんと何も話してないよ」
「今日は仕方ないわよ。また今度話せば良いわよね」
「……もう、せっかく来たのに」
こう言いながらフローラは健太郎と結衣を軽く睨んでいる。さすがにフローラにまでこういう態度を向けられて、健太郎たちも自分たちの失敗に気が付いた。
「あっ、えっと、今日はごめん。また明日ね」
「明日? また邪魔するの?」
フローラも遠慮は止めることにした。
「……また今度」
「知らない!」
フローラはプイッと横を向いて、もう二人には視線も向けようとしなくなった。
「じゃあ、グレン帰るわね」
「ああ。えっと今日は」
心配症のグレンがフローラとローズだけで家まで帰らせることはない。
「あっ! 今日は自分です!」
「それと自分も!」
グレンが名を呼ぶまでもなく二人の従卒が手を挙げてきた。
「じゃあ、カイルとセイン。宿まで二人を送ってやってくれ。悪いな」
「いえいえ。ではフローラ姫、ローズさん、お送りいたします」
「フローラ姫?」
カイルのフローラの呼び方にグレンは反応を示す。
「だっ、駄目ですか?」
「いや、凄く良いと思う」
気に入ったようだ。
「あっ、じゃあ、これからはそれで」
グレンの反応を見て、カイルはホッとした様子を見せる。
「私が嫌。姫なんておかしいよ。フローラで良いよ」
「でも……」
呼び捨てにしろと言われても、先ほどのグレンの反応を見ては喜べない。
「私が良いと言っているの。お兄ちゃんのお手伝いをしている人たちだけね」
さりげなく健太郎に釘をさしておく事は忘れないフローラだった。
「えっと……」
「フローラが良いと言うのだ。自分がどうこう言う事じゃない」
「おい!?」
見事に差別したグレンに健太郎が声を上げた。
「何か?」
「いえ……」
健太郎の突っ込みを冷たい視線で押さえつけると、グレンはフローラに向き直った。
「じゃあ、フローラ。気を付けて」
「うん」
「ローズも気を付けて。それとフローラを頼む」
「ええ、分かったわ」
「では、御二人。行きましょう」
カイルとセインに連れられて、二人は執務室を出て行った。そして、こうなると。
「さてと、じゃあ、僕も戻るかな」
「…………」
「僕も戻るから」
「…………」
「なあ」
「城はすぐ隣です。何に気を付けるつもりですか?」
「まあ……でもさ、不安なんだよ。いざ、戦争となると」
帰ると言っておきながら、健太郎は泣き言を話してくる。本来はこれが、健太郎が執務室を訪れた目的なのだ。だが、この状況で泣き言を聞かされても、グレンも同情する気になれない。
「不安を感じているのは、貴方だけではありません。ここにいる全員が心に不安を抱えながら、その時を待っているのです」
「そうだけど、皆と僕では」
「背負っているものが違いますか?」
「そう」
「それでも不安である事に変わりありません。生か死か。戦場に出る以上、どのような立場であろうと、いずれかの結果が出るのです。そして死を望む人などいません」
「そうか……分かった、じゃあ、又」
グレンの同情を引き出せないと分かって、健太郎も諦めて帰ることにした。
「ええ。戦場でお会いしましょう」
「おい!?」
「割と本気なのですけど?」
「また来るから。意地でも来てやるから。覚えていろよ」
「…………」
最後は捨て台詞のような形になって、健太郎は執務室を出て行った。結衣もすぐにその後を追っていく。
「あれが勇者ですか……」
ぼそりと呟いたのはフランクだった。フランクは本業があって、さすがに毎日来られるわけではない。健太郎の様子をまともに見たのは今日が初めてだった。
「子供なのです。あの年でまだ」
「異世界ならではですか?」
「その様です。異世界の成人は二十才と聞いています」
「まだ?」
「いえ、二十才は超えたと思うのですが」
「では年齢を理由には出来ませんね」
「はい」
年齢は関係ない。勇者という大任を背負っていながら、健太郎からは責任感が感じられない。考え方も行動もとにかく軽く、気持ちの成長など望めない。
「グレン殿はあまり良い感情を持っていないのですね?」
「最初は少し同情していたのですが、それも今は」
「同情ですか?」
勇者に対して同情を抱く理由がフランクには思いつかない。
「いきなり見も知らぬ世界に連れて来られて、勇者だから戦え、ですから。同情もします」
「……そうですね」
言われてみれば、すぐに分かることだが、勇者だからという目で見ていれば、なかなか気付けないことでもある。
「でも、勇者も聖女も同情には値しないと分かりました」
「何故ですか?」
「これはあまり公言しない方が良いと思います」
「……しかし、私はともかくとして彼等は勇者と同行するのです。知っておいた方が良いのではありませんか?」
グレンの話を聞いて、従卒たちは不安そうな顔を見せている。こうなっては、話さないでいることの方が不安を広げるだけだ。
「……確かに。では、お話しします。勇者と聖女は自分たちを特別な存在だと思っています」
「特別ですよね?」
「はい。でも少し理解出来ない考えです。彼等は自分たちは決して死なないと信じています」
「……それは?」
「彼等の中では自分たちは物語の主人公なのです。主人公は物語が終わるまで死なない。そう思っているようです。これはただの推測でなく、聖女の口から出た内容です」
「……愚かと思うのは私だけでしょうか?」
フランクにもやはり、健太郎たちの考えは理解出来ない。
「いえ。生きている人であれば、誰もがそう考えると思います。勇者が口にした不安は、死への不安ではありません。勇者である自分が何か失敗してしまわないか、それを心配しているだけです。死を恐れる自分たちとは違います」
どのような立場でも生か死のいずれかの結果になる。これは健太郎に向けた忠告なのだ。だがそれを健太郎は自分に向けたものだと受け取らなかった。求めていたはずのグレンの言葉に、気づかなかった。
「グレン殿も恐れているのですか?」
フランクの目で見ると、グレンもまた特別な存在だ。
「もちろんです。自分も結構な数の人を自分の手に掛けて殺しています。それ以外にも、多くの無残な死を目にしています。それが明日の自分の姿になるのではという思いは、常にあります」
「そうですね」
「だから、自分は戦場での勇者は信用出来ません。彼はどんな苦境にあっても、自分は死なないと考えて行動するかもしれない。実際に勇者は死なないのかも知れません。でも、同じ行動をして、自分は死なないとはとても思えません」
「意外だな。君からそんな言葉が聞けるなんて」
突然、割り込んできた声。全員がその声がした方向へ顔を向けると意外な人物が、そこに立っていた。
「ハーリー千人将。一応は自分の執務室なわけですから」
「勝手に入ったことは謝る。なんだが興味深い話をしていたから、邪魔をしては悪いと思って」
「立ち聞きの方がどうかと思いますが?」
「それは言いっこなしだ」
「……それで何の御用ですか? 勇者様であれば、ご覧の通り、もう帰られました」
ハーリー千人将に用があるとすれば、健太郎たちしかない。こう思っていたグレンだったが。
「君の妹も?」
「はっ?」
ハーリー千人将の口からは驚きの答えが返ってきた。
「いや、驚くほどの美少女が君の所に来ていると聞いてね。閣下の縁者という話だが、あの方が公私を混同するはずがない。そうなると噂の君の妹ではないかと思ってね」
「貴方まで、こんな真似をするとは……」
あまりにも意外な行動にただただ驚くしかない。
「ちょっとした気休めだ。美女を見て、心の清涼でも得ようかと思ってね。ましてそれなりに美形を見慣れている騎士が騒ぐくらいだ。一見の価値はあるだろ?」
「暇なのですか?」
「いや、死ぬほど忙しいな。なんと言っても六千の軍だ。把握するだけでも必死だよ」
ハーリー千人将は実際の行軍準備の指揮を執っている。グレンたちと同様に忙しい。
「それであれば尚更」
「実戦を前に不安を感じているのは私も同じ。私の場合は自分の死も、失敗も恐れている」
あとの言葉は健太郎に対する嫌味、そして、自分は健太郎とは違うというアピールだ。
「……そうですか」
「美女を見て、少しは不安を忘れたいと思っても良いだろ?」
「それが自分の妹でなければ」
「それもそうか。君に問うのは間違いだな。会えなかったのは残念だが仕方がない。それに面白い話も聞けたから来た意味はあった」
「……聞いてどうされるつもりですか?」
ハーリー千人将はグレンから見て信用ならない人物だ。ちょっとした言葉に警戒心が湧いてしまう。
「参考にさせてもらう。勇者は私の軍に入るからな」
「参考にはなりません」
「そうだが、自分たちの考えが間違いではないとは思えたよ」
「なるほど。確かに今なら、自分も貴方たちの行動を理解出来ます。自分さえ巻き込まないでいてくれたらですけど」
「そうか。良かったよ。君と共感出来ることが一つはあったわけだ」
理由はともかく、勇者に頼るべきではないという考えは、グレンとハーリー千人将で共通している。
「自分もまだ軍人ですから軍務については他にもありそうです。ただ政治では相容れる事はないでしょう」
だが政争については別。政争が軍にもたらす利は何もないというのがグレンの考えだ。
「そうだな」
「ただ自分にとってはどうでも良いことです。出来れば、そちらの力で戦争に行く前に、自分を客将などから外して頂きたいのですが?」
「それは出来ない。私は軍を掌握するだけで精一杯だ。勇者の事なんて考えていられない。勇者は君に任せる。これは譲れない」
勇者は不要。だから不要物の面倒はグレンに押し付けようというのが、ハーリー千人将の考えだ。
「一つ聞いて良いですか?」
「何だい?」
「そちらも閣下も勇者を不要と考えています。では、誰が必要としているのですか?」
「……それよりも上。それしかいないだろ?」
結局、勇者召喚は、その力を利用するはずの軍部が望んでいないという皮肉な状態になっていた。
「それでも理由が分かりません」
「実は誰にも分からないのさ。理由が分かれば手の打ちようもある。それが見つからないから困っているのさ」
「なるほど」
必要かどうかも分からずに、召喚出来るから召喚しただけのこと。これを考えると、また少しだけ健太郎に同情する気持ちになった。
「……今回の戦いは負けられないからな。勇者に邪魔はさせないで欲しい」
「それも強く共感出来る一つですが、自分の力だけでは無理です」
「何故?」
「勇者が邪魔するとすれば、それはもう暴走です。暴走する勇者を止められる人がいますか?」
「……話としては分かるが、それじゃあ、困るな」
口にはしないがハーリー千人将には止める自信はない。だから、軍部は止められる可能性を見せたグレンに健太郎を押し付けたのだ。
「暴走を前提に戦術を考えてください。それくらいしか自分には思いつきません」
「……また一つ、悩み事が増えたよ」
「一軍の大将ですから」
「まあね。さて、じゃあ、私は戻る。次は出陣式かな?」
「……それって自分には関係ないのでは?」
「……そうか。でも参列くらいはするだろう。話す事はなくても、顔を合わすくらいはあるはずだな」
「そうですか。では、その時に」
「ああ。また会おう」
性格に対する好き嫌いはともかくとして、ハーリー千人将も自分と同じこの世界に生きる人である事が分かった。それは当たり前なのだが、それに安心する自分にグレンは驚いている。
生まれ育った世界を異にするという事が、どれだけ感情や考えのすれ違いを生むのか。グレンは心の中で考えていた。