すぐ隣の椅子に座り自分を見つめている黒目黒髪の美人。好みのタイプの女性であったはずが、今はその容姿にまったく心が動くことはない。動くとしてもそれは嫌悪感、そして警戒感。悪感情を生むだけだ。
何故、主人公が自分に接触してきたのか。まったく可能性を考えていなかったわけではないが、このタイミングで何を行うつもりかがジグルスには分からない。
自分に向けられている晴れやかな笑み。この笑顔に皆、騙されているのだろうか。そんな思いが心に浮かぶ。
「ごめんね。勉強の邪魔をしてしまって」
ジグルスが図書室で調べものをしている時に主人公は現れた。偶然ではないことは、入り口から真っ直ぐにジグルスが座る机に向かってきたことで分かっている。
「そうですね。用件があるのであれば、早めに終わらせて下さい」
「……そうね。そうするわ」
わずかに歪んだ笑顔。それも一瞬のことだ。すぐに元のにこやかな表情に戻る。それがかえってジグルスの心に嫌悪感を抱かせることが、ユリアーナは分かっていないのだ。
「……誤解を解いておきたくて」
「誤解ですか?」
予想していた言葉の一つだ。だがこれを和解の為の言葉だとはジグルスは受け取らない。
「私はリーゼロッテ様に意地悪をした覚えはないわ」
「そうですか」
「意地悪をされた覚えはあるけど」
「そうですね」
「……それでも私が悪いのかしら?」
自己弁護。だが何の為の自己弁護なのか、この時点では分からない。踏み込むべきか、止めておくべきか。
「私は貴女が悪いと言った覚えはありません」
選んだのは中間。ジグルスはもう少し様子を見ることにした。
「でも貴方は私を目の敵にしている」
「そのつもりもありません」
実際にそのつもりはない。強い警戒心は抱いている。だがジグルスから仕掛けたことは、リーゼロッテに命じられて行った嫌がらせ以外はないはずだ。
「周りはそんな風には見ていないわ。貴方に味方する人たちからは私は悪者扱い。嫌がらせを受けているの」
「それは知りませんでした。俺の味方という方がどなたか分かりませんので、教えて頂けますか? 本人に確認して事実であれば注意しておきます」
「……認めないわ」
「それは聞いてみなければ分かりません。どなたか教えて下さい」
実際にそういう事実はあるのかもしれない。だがそれはジグルスの身近にいる人ではない。リーゼロッテの周りにいる人たちとは、主人公とその取り巻きたちには関わらないようにしようと話をしているのだ。
「……数が多くて」
「ああ、つまり第三者が面白半分で行っていることですね? 申し訳ありません。さすがにそれは止められません」
「そう……リーゼロッテ様が命じているのではなくて?」
「それはあり得ません」
リーゼロッテもまた主人公に自ら関わることはない。他人に意地悪をしてきたことを、主人公に対するものも含めて、強く反省している。エカードへの想いも、心の奥底まではジグルスにも窺えないが、振り払ったはず。絡む必要生はないのだ。
「……どうして、そう言い切れるの?」
「約束しましたから」
「騙されているとは考えないの?」
「考えません」
リーゼロッテが自分を騙す可能性はないとジグルスは考えている。自分以外でも同じ。リーゼロッテは嘘をつくことが苦手。正直過ぎるのだ。
「……信頼しているのね?」
「当然だと思いますが?」
「私は何度も人に裏切られてきたから……そんな風に人を信じられない」
愁いを帯びた表情で、これを告げる主人公。この表情にはジグルスは心を動かされた。心が動いたというより、めまいに似た感覚に襲われた。
(……なんだ?)
それはわすかな間。すぐにその感覚は消え去った。
「……お願い。私の支えになってもらえないかしら? 私……貴方のことが……」
ジグルスにしなだれかかってくる主人公。鼻孔をくすぐる香りにむせかえりそうになる。頭の中にモヤが広がる感覚。さきほどの軽いめまいのような感覚よりも遙かに強烈だった、のだが。
「……申し訳ございません。リーゼロッテ様」
「えっ?」
ジグルスの声に主人公は驚いて顔をあげた。
「悲しんでいる女性を一人置いて行くことは礼儀に反すると思ったのですが……間違っていますか?」
「……いえ、正しいわ。ただ相手が彼女という点は複雑ね」
図書室にいつの間にかリーゼロッテが現れていた。
「それは失礼しました。リーゼロッテ様が不快に思われるのでしたら、止めておきましょう。よろしいですね?」
最後の言葉は主人公に向けたもの。
「……え、ええ。ごめんなさい。私、取り乱してしまって……慰めてくれてありがとう」
最後の言葉はジグルスに向けたものではなく、リーゼロッテに聞かせる為のもの。せめてもの嫌がらせというやつだ。
「いえ、女性に対する礼儀として行ったことですから。では俺はこれで失礼します」
席を立ってリーゼロッテのもとに向かうジグルス。そのまま二人で図書室の出口に向かって歩き出す。
「……どうしてリーゼロッテ様は図書室に?」
「ジークが呼んでいると伝えてきた生徒がいたの。おかしいとは思ったのだけど……」
ジグルスが自分を呼びつけるはずがない。あるとすればよっぽどの問題が起きた時だ。ただ、はたしてそのような事態にジグルスが自分を巻き込むかとなると、リーゼロッテは寂しさを感じるが、可能性は少ない。
「なるほど。そういう計画でしたか」
「ジークにまで……信じられない女だわ」
ジグルスまで誑かそうとしてきた。これを考えるとリーゼロッテの心に怒りがわき上がってしまう。
「俺は大丈夫ですから気になさらずに。それにもう二度とこんな真似はしてこないでしょう」
これはリーゼロッテを宥める為の言葉だ。主人公がこれで諦めるとは言い切れない。おそらく彼女は男性を絶対に落とせる自信があるのだ。
(……あれ……なんなのだろう?)
自分を襲った感覚。あれは主人公の仕業だろうとジグルスは考えている。それ以外に考えられないのだ。あのまま頭が麻痺したようになっていたら、はたしてどのような結果になっていたのか。このようにリーゼロッテと並んで歩くことは出来ていないだろう。
(……助けられたのかな?)
自分を守ってくれた存在。心当たりのあるその存在がいないかとジグルスは周囲に視線を巡らす。
「……どうしたの?」
「あ、ああ。虫が」
その様子をリーゼロッテに問われて、とっさにジグルスは虫がいることにしてしまった。「ごめん」と頭の中で幼馴染みに向かって謝罪する。会えなくなってしまった親友に。
ジグルスの謝罪はきちんとその相手に届いている。ジグルスは知らないがその相手は常に身近にいる。ジグルスの指にはめられた指環の中にいるのだ。
◆◆◆
主人公の攻勢、という表現が正しいかは別にして、は続いている。状況が見え始めたジグルスには、形振り構わぬ行動と受け取れるもの。
何故、このような行動に出るのか。出ることが出来るのか。ジグルスにはまったく理解出来ない。恐らく主人公は自分が知らないゲームの裏技、もしくは裏設定を知っている。そう考えるくらいだ。
「えっと……おめでとう! ウッドストックくんは大人になったね?」
「……そういうことじゃありません」
ウッドストックから相談があると言われて、話を聞いてみれば、主人公はウッドストックまで誘っていた。しかも成功していた。
真面目で気弱な性格のウッドストックを色事で攻略する。なんとも違和感を覚える攻略方法だ。
「でも、そういうことだから。それで? ウッドストックくんは何を悩んでいるの?」
「それは……」
「相談なのだから恥ずかしがらないで。人には話せないことを話すから相談なんだ」
なんだか良く分からない理屈をウッドストックに話すジグルス。中身などどうでも良いのだ。相手が納得してくれれば。
「……そうですね」
そしてウッドストックは納得した。
「じゃあ、悩みごとを聞こう」
「……好きでもない女性と、その、してしまって」
「それは割り切るしかない。それに……これはウッドストックくんを傷つけるかもしれないけど、相手も同じだよね?」
主人公はウッドストックを好きで誘ったのではない。これは間違いのない事実だ。
「……分かっています。だから余計に落ち込んで。僕は、その、欲望だけで、女性と……」
「それ普通だから。人は誰もが欲望を持っている。その欲望を抑えられるかどうかが人と獣を分ける……あっ、これは違う」
話題が話題なだけに、あまり深く考えることなくジグルスは勢いで口走ってしまった。
「……僕は獣」
それに落ち込むウッドストック。
「いや、違うから。ちょっと間違えた。年頃の男子が勝てる欲望じゃないってこと。それにウッドストックくんが行ったことは特別なことじゃないから」
「どういうことですか?」
「貴族の男子は皆、ある年齢になるとそういうことを教わる。当然、恋愛感情なんてものはない」
「えっ?」
平民のウッドストックでは知ることの出来ない情報。であるのは確かだが、それほど一般的な話でもない。ウッドストックを慰める為に、少し誇張しているのだ。
「新婚初夜で失敗出来ないから。それと貴族家にとって好ましくない女性と変な関係を持たれても困るからね。実家に欲望をコントロールされるってこと」
「それって……なんだか……」
「情けないよね? でも問題が起きるよりはマシだと考えられている。だからウッドストックくんも気にする必要はない」
「そうですか……それで良いのか……」
自分だけではない。そう思えるとウッドストックも少し気が楽になってきた。
「そう。気にする必要がないというより、気にしてはいけない。自分はすごく悪いことをしてしまった、なんて考えて自暴自棄になるのが一番良くない。幸運だ、くらいの気持ちでいるべきだ」
「……幸運だ、は無理です」
そんな風に考えられる性格ではない。だから、こんなに思い悩んでいるのだ。
「ウッドストックくんは真面目だからね。でも……その真面目なウッドストックくんが、良く出来たね?」
「それは……その……彼女が、上手くリードしてくれて」
顔を赤らめながらジグルスの問いに答えるウッドストック。
「……そうじゃないから。その前段階で自制出来なかったのが不思議ってこと」
「あっ……」
さらにウッドストックの顔は赤くなる。
「……ちょっと気になる。良ければ教えて貰える?」
これは真面目に聞いている。何故、ウッドストックが主人公の誘いにのってしまったのか。考えられる理由がジグルスにはあり、それが事実か確かめたいのだ。
「ああ……自分でも良く分からなくて。頭がぼうっとして気が付いたら、って感じです」
ウッドストックの答えはジグルスが予想していたもの。
「彼女と接近したら急に?」
「どうだったでしょう? その前から少しずつ……そうです。少しずつ頭がぼんやりしてきて、彼女の声が遠く聞こえるようになって……そのあとは、その……」
「そうなっていたと……ありがとう」
ウッドストックも同じ。ジグルスは避けられたが、ウッドストックは完全に主人公の何かに捉えられたのだ。主人公にはそういう得体の知れない能力がある。共に戦う仲間を増やす為のものにしては、過激な能力が。
「僕のほうこそ、ありがとうございます。話を聞いて、気持ちが楽になりました」
「それは良かった。でも、どうして俺に?」
ウッドストックとは知らない仲ではないが、人に話せない相談事を持ち込まれるような深い関係ではない。何故、自分を相談相手に選んだのか、ジグルスは不思議に思った。
「それは、その……ジグルス様は、こういう経験が、その、多いかなと」
ウッドストックがジグルスを選んだのは、経験者だと考えたから。なんといっても学院のミス・ミスターコンテストで一番となったジグルスだ。こう考えたのだ。
「経験……ないけど?」
だがジグルスに女性経験はない。
「えっ……? あっ、そうでしたか。そうか、なかったのですね」
「……今、勝ち誇った顔しなかった?」
「い、いや、してない。そんな……ジグルスに向かって、勝ち誇った顔なんて」
「……今、呼び捨てにしなかった? 完全に上から目線だろ?」
「してませんって。ほんと、ありがとうございます。また何かあったら相談にのってください」
笑顔を向けながら、逃げるように部屋を出て行くウッドストック。結局、なんのおかげで気持ちが晴れたのか。その笑顔を見たジグルスの気持ちは複雑だ。
そして複雑な思いを抱いているのはウッドストックのことだけではない。
(……なんなんだ、この主人公は)
男子生徒を色仕掛けで、しかも何らかの能力を使って落とす。ジグルスの知る主人公はそんな女性ではない。何かが違う。これまで考えていなかった違和感が胸に広がっていく。
(ここは俺の知るゲームの世界ではないのか……でも登場人物は間違いなく……)
人々の名は間違いなくジグルスが知るゲームの登場人物の名前。ここまでの偶然の一致などあり得るはずがない。では何が違うのか。それを理解出来るだけの情報をジグルスは持っていない。
自分のゲーム知識はもしかするとまったく役に立たないのかもしれない。この可能性はジグルスに、言い知れぬ恐怖を与えるものだった。
(……あの能力を使われたら……こっちはどうにも出来ない。いや、でも……やるのか?)
主人公が能力を使って、男子生徒をことごとく落としていったら。その敵意をリーゼロッテに向けられたら。絶望的な状況になってしまう。だが、それを行うということは多くの男子生徒と関係を持つことになる。そんな真似をするのか。さすがにそれはないだろうという思いもある。
(……身近な人だけでも守らないと……近づけないこと……他に方法はないのか……)
リーゼロッテの身近な人たちを主人公から守らなければならない。だがその方法が見つからない。
苦悩するジグルスは気が付かなかった。小さな小さな光がいくつも周囲を飛び回り、やがて部屋を出て散っていく様子を。ジグルスの力になろうとする、小さな小さな存在を。