健太郎たちが出て行った食事の間。しばらく何かを考えていたグレンだったが、不意に顔をあげてメアリー王女に視線を向けた。
「……何か怒らせましたか?」
健太郎の態度が腑に落ちなくて、グレンはメアリー王女に尋ねてみる。何となくメアリー王女には分かっているような気がしたのだ。案の定、メアリー王女は答えを持っていたようで、少し苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「怒らせたとしたら、グレンじゃなくて私よ」
「王女殿下が? ……思いつきません」
メアリー王女が健太郎を怒らせた原因の心当たりもグレンにはない。
「多分だけど、自分が強くなったことを褒めて欲しかったのだと思うわ。でも、私は素直に褒めることをしないで、グレンに疑念を投げかけた」
「それに自分も同調して、駄目な所を言ってしまったという事ですか?」
「そういうことだと思うわ」
「子供ですね。少しは自分の立場を分かってもらえたと思っていたのですが」
「残ってもらって良かったわ。少し話をしたいことがあるの」
「……何ですか?」
メアリー王女の言葉にわずかにグレンに警戒心が生まれる。こう言って話される内容にろくなものはない。こんな思いがあるからだ。
「もしかして、ケンはこの世界で生きている実感がないのかしら? グレンはどう思う?」
メアリー王女の話はグレンの想像の外にあった。何を聞きたいのか、グレンには考え付かない。
「……ちょっと意味が分かりません」
「今の生活を現実として捉えていないのかなって意味よ」
「どうしてそう思うのですか?」
「初めて会った時から思っていたのよ。自分が勇者だと知って、ケンは何て言ったと思う?」
「全く分かりません」
「少しは考えて」
「……分かりません」
少し間を空けて、結局は同じ言葉をグレンは口にする。
「もう。間を置けば良いってものじゃないわ。まあ正解は絶対出ないでしょうけどね」
グレンの対応にメアリー王女は苦笑いだ。
「じゃあ、聞かないでください」
「もしかしたらと思ったのよ。他にも色々と聞いてきたのだけど、一番驚いたのはね、自分は死なないと思ったこと」
「……はい?」
メアリー王女が話す内容は普段とは違い突拍子もないものばかり。グレンはやや混乱している。
「勇者だから死なないのだろって、聞いてきたのよ」
「そうなのですか?」
勇者にはそういう性質があるのかとグレンは思った。これが事実であれば、健太郎の妙な自信も納得出来る。
「まさか。勇者だって怪我もするし、死ぬことだってあるわ」
「そうですよね……どうしてそんな質問が出るのでしょう?」
勇者が不死であることをメアリー王女ははっきりと否定した。こうなると健太郎の考えの根拠がどこにあるのかが気になる。
「物語の主人公か何かだと思っているのかなって私は思っているわ」
「……物語の主人公だって死にます」
物語を読むことが少ないグレンでは、不死の主人公の語など聞いたことがない。
「そうだけど。ケンはそう思っていないわ。自分は特別な存在だって思っているのよ」
「特別なのは事実ですが……でも、なんとなく腑に落ちました。だから、努力をしようとしない」
不死の存在であれば戦いを恐れることはない。だから鍛錬をしないでも不安にならないのだとグレンは考えた。
「それは性格じゃないかしら?」
またグレンの言葉をメアリー王女は否定した。
「……そうですね。じゃあ何でしょう?」
グレンも納得だ。ただ、やはり健太郎の考えは分からない。
「自分は勇者だからという根拠のない自信よ。不安を口にしながらも、心の奥底では自分は勇者だから大丈夫なんて思いがあるのを感じるわ」
「自分は勇者だから、は責任感から出ている言葉ではない?」
「そう」
グレンは、健太郎の言葉を、勇者らしくあらねばならないという意味だと思っていたが、違っていたようだ。
「……努力をしない理由にはなっています」
「まあ、そうね。どうすれば良いと思う?」
「速やかな抹殺」
「えっ!?」
メアリー王女は、こんな言葉がグレンの口から出てくるとは思っていなかった。
「そんな思い上がっていてはいつか必ず失敗します。それが、ここぞと言う時であれば、我が国にとって目も当てられません。頼るのは危険、かといって放り出せば他国に利用されるかもしれない。だから抹殺です」
メアリー王女の驚いた様子に構うことなく、グレンは理由を細かく説明する。
「……そうだけど」
頭では理解出来るが、心ではグレンの説明を納得出来ていない。メアリー王女は非情の人ではないのだ。
「一応言っておきますが、王族である王女殿下のご質問ですから、こう答えたのです。自分だけのことであれば、こんな非情な手段は取りませんから」
この国がどうなろうが関係ないがグレンの本音だが、メアリー王女に話せることではない。
「そうよね。もう、驚いたわ」
「でもそうなって欲しい気持ちは無ではありません」
「……どうして?」
安堵の表情を浮かべていたメアリー王女の顔がまた曇った。メアリー王女はグレンが持つ非情さに気付いていない。グレンの口から冷酷な言葉が出ることに違和感を覚えている。
「勇者様がいなくなれば自分は勇者付騎士である必要はなくなります」
「その理由ね。ねえ、その事なのだけど」
個人付き騎士からの解放が理由と聞いて、また少しメアリー王女の表情は緩んだ。ただ、グレンを見る目は真剣なものだ。
「……何でしょうか?」
その視線にグレンはわずかに緊張を覚える。あまり聞きたくない話のように感じたからだ。
「……私の近衛騎士にならないって言ったらどうする?」
一瞬の躊躇いの後、メアリー王女は一気にこれを口にした。グレンの予想の範囲内だ。
「王女殿下は戦場に出る事は?」
「ないわね」
「そうですか。それは悪くはないですね」
「あっ、じゃあ」
グレンが了承してくれると思ったメアリー王女の表情が、パッと明るくなった。グレンが一瞬、ドキッとするほどの華やかな笑顔だ。
「でも、王女殿下は自分の一生の面倒を見て頂けますか?」
だが笑顔にときめいたからといって、グレンに受け入れる気持ちはない。
「……それは」
「王女殿下も、もうどちらかに御輿入れになってもおかしく御年齢です。その時、自分はどうなりますか?」
「……私は女性だから」
少し考えてメアリー王女は、グレンに申し訳なさそうな表情を向けながら口を開いた。
「はい」
「何人もの伴侶を持つわけには」
「はい?」
まさかの台詞に、グレンは完全に意表をつかれた。
「えっ?」
そのグレンの戸惑いをみて、メアリー王女も戸惑った。
「あの……騎士としての仕事がどうなるかを?」
「……そ、そうよね」
「伴侶?」
「言わないで。ちょっと間違えたのよ」
これを言うメアリー王女の頬は赤く染まっている。女性のこういう恥じらった姿を見ると、グレンは余計な行動を起こしてしまう。後で決まって後悔するくせに。
「あの、自分のとんでもない勘違いなのだと思うのですが」
「勘違いよ」
グレンが何を聞こうとしているかメアリー王女は分かっている。
「じゃあ、良いです」
メアリー王女に否定されたことでグレンは話をするのを止めた、のだが。
「……話しなさい」
「ええっ?」
「聞くだけ聞いてあげるわ」
女性の心は複雑で、グレンには理解出来ない。ただ我儘な存在であることは感じている。そして、その我儘に逆らわないほうが面倒ではないことも。
「……では。王女殿下の火遊びの相手にされて大火傷するのは自分のほうです」
「分かっているわ」
「婚約でも決まったのですか?」
「……どうして?」
グレンの問いにメアリー王女はハッとした表情を見せている。
「何か焦っているのかと」
「焦ってなんかないわ。でも……」
否定をしながらも、メアリー王女は何かを続けようとした。だが、続く言葉がなかなか出てこない。
「でも?」
グレンは軽く先を促してみる。
「……恋愛に憧れがあるのは事実よ。ユイたちの世界はね、家名とか家柄なんて関係なしに自由に恋愛が出来るそうなの。本当に好きな人と結婚出来るのよ」
王族であるメアリー王女には決して叶えられないことだ。
「そうですか……自分のような者が何を言うのかと思わるかもしれませんが……」
今度はグレンが躊躇う番だ。メアリー王女の気持ちなど分かるはずのない自分が軽々しい言葉を口にして良いのかと思ったのだ。
「良いわ。話してみて」
「政略結婚だとしても、相手が良い人であれば、それは幸せな結婚と言えるのではないでしょうか?」
「……そうね」
グレンの言葉はメアリー王女の心には響かなかった。グレンに言われるまでもなく、同じことを考えて自分を納得させてきていたのだ。
「無理して、好きでもない相手を好きな振りする必要はないと思います」
「好きな振り?」
ただ続く言葉はメアリー王女には意外だった。グレンに惹かれる気持ちはあるとメアリー王女は思っていたのだ。
「振りではないですか? 本当に好きであればもっと自分の感じ方は違うと思います」
「どう違うの?」
「もっと温度を感じます。熱と言ったほうが分かりやすいですか?」
「熱意みたいなものかしら?」
「まあ、そんな感じです」
口にしたもののグレンにも上手く説明出来ない。もともと言葉で説明出来るような感覚ではないのだ。
「そう。意外ね? グレンってこういう話に疎いほうだと思っていたわ」
「……本に書いてありました」
咄嗟につかなくてよい嘘をグレンは口にしてしまう。
「そんなわけないでしょう?」
「本当です」
「……まあ良いわ。そう、私には熱意がないのね?」
恋をしたいという思いだけでは恋は出来ない。これが少しだけメアリー王女にも分かった。
「真似事は所詮真似事であって、本物の恋愛とは言えません。王女殿下はそれでも満足出来ますか?」
「……そうね。どうせなら結ばれる可能性のある人を好きになったほうが良いわね」
「あれ? もしかして本当に決まった相手が?」
自分の口にした婚約話が事実であったと分かって、グレンは少し驚いた。
「決まってはいないわ。でも候補はいるの」
「それはそうでしょう。大貴族のどなたか、もしくは他国の王子ですね」
婚約者候補であれば、生まれたばかりの時からいてもおかしくない。王女とはそういうものだとグレンも少しは知っている。
「ケンよ」
「……はい?」
だが候補者は予想外の人物だった。
「勇者が候補の一人なのよ。国に縛り付けておくには良い手でしょ?」
笑みを浮かべて、冗談めかしてメアリー王女はこれを告げてきた。
「まあ。でも、あれで案外、良い夫になるかもしれませんね」
メアリー王女の態度に自嘲的なものを感じて、フォローに入ったつもりのグレンだが。
「案外ってどういう意味よ?」
まったくフォローになっていない。
「……さて、そろそろ帰りましょうか」
「ちょっと! 帰さないわよ! ちゃんと説明しなさい!」
結局、説明ではなく、メアリー王女に一方的に愚痴を聞かされる羽目になったグレン。
◆◆◆
すっかり疲れ切って宿に戻った時はいつもよりも遅いくらいの時間になっていた。いつものように軽く汗をぬぐってからローズの部屋に向かおうと部屋の扉を開けたのだが。
「きゃっ!」
そこには下着姿で立っているフローラが居た。
「なっ、何?」
実際のところ、フローラの下着姿を見るのは初めてではない。ただ、軽く悲鳴をあげたフローラの反応にグレンは動揺している。
「何じゃないよ。着替えていたの」
「そ、そうか。ごめん」
「もう。ノックくらいしてよね」
「いや、食堂に居るものだと思って……」
「仕方ないな。でも丁度良かった。少し悩んでいたの。どっちの服が良いと思う?」
露わになっている肌を隠す事もなく、二つの服を持って近づいてくるフローラ。思わずグレンは数歩下がって、扉に張り付いた。
「何よ?」
「何って。フローラ、そんな恰好でうろうろするなよ」
「部屋の中だよ。見ているのはお兄ちゃんしかいないじゃない」
「そうだけど……いや、そうじゃないだろ? いくら兄妹だからって、年頃の女の子がそんな恰好で」
「……そっか。もう兄妹じゃなかったね」
グレンは兄妹である前提で話しているのに、フローラは兄妹ではなくなったことをここで持ち出してきた。
「そうだけど」
「恥ずかしい。お兄ちゃんに下着姿見られちゃった」
「……だったら、隠せ」
「でも今更だよ。そうやって恥ずかしがるほうが、変な感じじゃない?」
「そうだけど……いや、そうじゃないから」
「どっち? もう、変なの」
狼狽えているグレンに構うことなく、フローラはグレンのすぐ近くで堂々と振る舞っている。
「……あっ、俺が出て行けば良かったのか」
「ちぇっ」
「えっ?」
「何でもない。そうだよ。お兄ちゃんが出て行けば良いの」
「そうだな。じゃあ、後で」
「うん」
急いで部屋を出て、扉を閉めるグレン。
「……ふふん。かなり意識していたね。よし、もう一押しだね」
こんなフローラの呟きは廊下に出たグレンには聞こえなかった――
自分の部屋を出たグレンは、仕方なくそのままローズの部屋に向かった。もんもんとした気持ちを抱えながら。
だからと言ってローズに何をするでもなく、グレンはベッドに腰掛けて、じっと動かないでいた。当然、そんなグレンをローズは不思議に思う。
「……どうしたの?」
「えっ?」
「何もしないの?」
「あっ、えっと、たまには話すだけでも良いかなと思って」
これまで、そういう日がないわけではないが、こんな動揺した様子で話しても白々しいだけだ。
「……怪しい」
「えっ?」
「さては、又、他の女を抱いてきたな?」
「ち、違う。今日はそんなことしていないから」
「今日は?」
「……えっと、ごめんなさい」
帰ってきてからずっと動揺が治まらないグレンだった。
「冗談。別にそのことを責める気はないわよ。もう知っているから。何があったの? 正直に話しなさい」
「……実は部屋に入ったらフローラが着替えをしていて」
正直に話せと言われて、正直に話してしまう馬鹿正直なグレンだった。
「ん? それで?」
「いや、下着姿でうろうろしていて」
「……分かった。フローラちゃんの下着姿に欲情したのね。でも、それを私で発散するのは悪いと思って何もしないで我慢している。こんなところね?」
「……図星です」
ローズに気持ちを見抜かれて、情けなさでグレンは小さくなっている。今の状況に罪悪感は感じているのだ。
「全く、君は優しいのか、酷いのか分からないね」
「酷い?」
「他の女に欲情したから部屋に来るって酷くない?」
「……確かに」
それでいて欲望に流されないように我慢しているのだから、何をしたいのかという話になる。
「しかし、あの子ったら」
フローラの行動がグレンへの挑発であることは明らか。ローズの忠告をフローラは全く無視している。
「何?」
「何でもない。でも欲情したのね?」
「欲情って言い方はあれじゃないか?」
「じゃあ、女を感じたのね?」
「……まあ」
つまり、欲情を覚えたのだ。
「その気持ちに素直になろうとは思わないの?」
「はあ?」
心底、訳が分からないという表情を見せるグレン。ローズにはグレンのこの反応が理解出来ない。
「ねえ、私が聞くのもおかしな話だけど、どうして、我慢するの?」
「我慢って」
「だって、フローラちゃんとはもう兄妹じゃないのよ? それに、それがなくても、とっくの昔に異性として見ているじゃない」
「……そうだけど」
「じゃあ、どうして異性として扱わないの? 別に体の関係云々を言っているわけじゃないわよ。そういうのは自然の流れで良いもの。でも、それ以前に君は気持ちを押し殺している」
グレンは自分の気持ちを押し殺して、自然の流れに逆らおうとしている。グレンへの想いに正直にいるローズにはこの理由が分からない。
「まあ、そうかもしれない」
「どうして?」
「……うまく説明出来ないけど、ずっとフローラを守ろうと思ってきた。両親のことがあって、その思いは益々強くなって」
「それも好きだからでしょ?」
「でも守ろうと思っているのに、自分が傷つけるのはおかしくないか?」
「はい?」
どうして傷つけることになるのか。説明を聞いても、やはりローズにはグレンの考えが理解出来ない。
「いや、その男として、フローラをって、やっぱりおかしいかなって」
「もしかして、フローラちゃんの純潔を永遠に守りたいなんて考えてる?」
「そこまでは……でも、近いかな。おかしいかな?」
「おかしいわよ。何を言っているの? それって本当に異性として見ている事になるの?」
純愛といえるものかもしれないが、それでも何か違う気がローズはしている。
フローラは驚くほどの美人だが、穢れの無い美しさが魅力なのではなく、もっと人間的な部分に愛おしさがあるとローズは考えている。それをグレンが分かっていないはずがない。
「……でも、女は感じた」
「そうね……でも汚したくないのね?」
「そう」
「つまり、こういうこと? 君は自分をフローラちゃんに相応しくない男だと思っている」
ローズが出した結論はこれ。グレンはフローラの清らかさを愛おしいと思っているのではなく、自分の穢れを嫌っているのだ。
「……ああ」
「自分は穢れていると思っている」
「何人も殺している。罪もない人も。それに好きでもない女性とも関係を持ってる」
「……馬鹿」
「ごめん」
「違うわよ。私のことを責めているつもりはないの。それは、そのほとんどはフローラちゃんの為でしょ?」
グレンはフローラを守る為に生きてきた。兵士という人殺しの職を選んだのもフローラを養うためだ。それ嫌ってしまっては、グレンのこれまでの頑張りは何なのかということになる。
「全てがそうだというわけじゃない。それに、そうであったとしても、それで許されることじゃない」
「……やっぱり馬鹿ね。じゃあ、諦めるの?」
「俺の望みはフローラが幸せになることだ。それを諦めることはない」
「自分がそうしてあげれば良いじゃない」
フローラも望んでいることだ。そうであるのに、躊躇うグレンがローズはじれったい。
「俺には出来ない」
「やってもいないのに」
「それで失敗したら? 俺とフローラはどうなる?」
グレンがフローラに手を出さないもう一つの理由。こちらの方が本音なのかもしれない。
「……どんな形でも繋がっていたい?」
「まあ」
フローラが以前、口にしていた不安と同じ。兄妹であれば、何があってもずっと兄妹でいられる。だが、恋愛には別れという結果も存在する。
「……やっぱり酷い男。フローラちゃんは宝物。それに比べて私は……」
ローズはその別れがいつ来るか分からないという不安をいつも抱えていた。
「ごめん」
「あっ、違った。私に君を責める資格はないわね。私と君は同じ」
「同じ?」
「どんな形でも繋がっていたいの。私は君と」
ただ体だけの関係であったとしても。
「……傷つけているよな?」
「そんな事ないわよ。正直、辛い時もあるけど、こうしていられる幸せに比べたら」
「……なあ、こんなことを聞くのも変だけど俺の何が良いのかな?」
グレンは自分のフローラへの気持ちを正直に話している。それだけではない。他の女性との関係もだ。それでも自分の傍にいようとするローズが不思議だった。
「何だろ? よく分からない。とにかく私は君に夢中なの」
「ずるいな。その台詞」
ローズのこの言葉を聞くと、グレンの心がほんわりと温かくなる。これも愛おしいと思う気持ちだとグレンも分かっている。
「あれ?」
部屋に入ってから一度も触れなかったローズの体にグレンの手が伸びている。
「フローラへの欲情は消えているから」
「そっ。良いわよ。さあ、私を穢して」
「あのさ」
ローズの自虐的とも思える冗談にグレンの顔に苦笑が浮かぶ。
「私は君と同じになりたいの。君が堕ちる所に私は堕ちていく。それが私の幸せ」
「……その台詞も」
「何?」
「何でもない。もう黙って」
「ん」
――事が終わると、いつものように今日会った出来事をグレンは話し始める。ローズとの時間はグレンにとって気持ちのリセットの時間。無くてはならない大切な時間になっている。
「なんだか、どんどん嵌っている感じね」
健太郎との話を聞いて、ローズが感想を述べる。
「やっぱり、そう思う? 正直、正攻法では逃れられる気がしない。諦めるつもりはないけどな」
「強引にいくしかないのかしら?」
正攻法が無理であれば、非常の手段を選ぶしかない。その手段の為に、ローズは色々と行動もしている。
「……それ今は考えなくて良い」
だが、グレンが否定してきた。
「どうして?」
「自分の為にローズを犠牲にしたくない」
非常手段はローズの伝手に頼るしかない。そして、それを使えば、ローズはグレンの下を去ることになる。
「嬉しい事を言って来るわね。でも……」
「良いから。それに悪いことばかりじゃない」
「どういうこと?」
「勇者付の騎士なんて身分だから、ろくに手当も出ないものだと思っていた。ところがびっくりする程の手当を貰える」
百人もの兵を指揮する国軍の中隊長とは何なのかと思ってしまうほどの金額だ。グレンにとって数少ない、勇者付き騎士になって良かった点の一つだ。
「へえ、勇者って気前良いのね?」
「勇者が金払う訳ないから。勇者は金なんて持ってない。手当は国から出ている」
「それでも国が太っ腹なんて意外ね」
「元々は国王付の騎士の制度だから。しかも役目が役目だから。金で納得させようというところもあったのじゃないかな? 二度と使われるはずがない制度だったから見直しが行われていないみたいだ」
「……それってさ」
グレンの仕事は当時の個人付き騎士の仕事とは異なっている。いつ手当が見直されてもおかしくない。
「そう。いつ減らされるか分からない。でもすぐには改まらないと思う。国王が作った制度だからな」
グレンにとって幸いなことに国の制度を変えるには、それなりの手続きが必要になる。その手間をグレン一人の為に行うかは微妙なところだ。文官には他にやることが山ほどあり、グレンの手当など多いとはいっても、国家予算のなかでは塵程度のものだ。
「そうね。でも、お金ばかり貯まってもね」
「少しでも多い方が良いのは確かだ。金があれば、それだけ旅に余裕が出来る。物を仕入れるのに法外な値を要求されても、払えれば言い訳だからな」
「まあ」
逃走資金も課題の一つだった。それが少しでも改善するのは良いことではある。
「とにかく変に焦らない事にした。焦った結果が今だからな」
「……そうね」
「必ず機会はあるはずだ。この国って結構、ごたごたしているから、巻き込まると面倒だけど、それによって脱け出す機会も生まれそうな気がする」
「グレンがそう思うなら良いわ。私は、今の生活に不満はないしね」
グレンの国外逃亡が先に伸びれば、それだけローズは長く一緒にいられる。口にはしないが、内心では喜んでいる。
「……一つ聞いて良いか? 答えたくないなら答えなくても良い」
話に一区切りついたところで、グレンは話を変えてきた。
「何?」
「この国には叛乱を起こそうとする勢力があること知っているか?」
「それを答えたくないならって言うってことは?」
ローズが答えにくい質問だとグレンが思っているということだ。
「ローズもそうなのかなって」
「……そうよ」
割りとあっさりとローズは肯定を口にした。否定しても無駄だと分かっている。それにグレンに無理に隠す気はない。
「やっぱり」
「もっとも仲間の多くは完全に盗賊だけどね。反乱というよりは、ただ盗賊として暴れているだけ。成れの果てって奴ね」
バレル千人将が話してくれた叛乱勢力の状況と同じ。そうなるとグレンには気になることがある。
「もしかして仲間を討伐したかな?」
「この間の? それは無いわね。八百なんて人数いないもの。ほんとうにけちな盗賊程度の勢力しかないから」
「それは……良かった、なのかな?」
「どっちでも。私も正直、仲間意識なんてほとんどないから。反乱なんて言っている者たちが女性を攫って乱暴する?」
討伐した相手が苦しめていたのは罪のない一般国民だ。反乱の為の活動には全く結びつくものではない。
「……確かに。でも、どうして反乱を目指した組織がそこまで変わるのかな?」
「盗賊だから」
「それじゃあ分からない」
「元々の仲間なんてほとんど残っていないのよ。騒乱を起こす為に、盗賊を利用しようとした。でも利用しているつもりが、いつの間にか乗っ取られた。そんな感じね」
実現できるか分からない反乱などよりも、目先の欲望に囚われてしまう。多くの者がそうして志は失われ、ただの盗賊になり果ててしまう。
「なるほどな。でも、そんな中にどうしてローズは」
「……亡国の遺臣って奴よ。もう何代も前に滅びた国なのに、未だに家柄なんてものに縛られているの」
「結構、良い家だったのか?」
ローズと親父さんとの会話をグレンは思い出す。ローズは本来グレンとこんな関係になるような身分ではなかったはずだ。
「滅びる前の話よ。そんなこと、私には関係ないのに」
「そっか……」
「私も一つ聞きたい事があるの」
「……何?」
なんとなくローズに話しを変えられたような気がしたグレンだったが、それであれば尚更、話を続けない方が良いと思ってローズの質問に乗ることにした。
「私達の最初の日。あれって結局何だったの?」
「……ああ、あれ」
グレンにとって、あまり思い出したくない記憶だ。
「もうはっきり言って今の君とは別人よ。獣に襲われた気持ちになったと言ったのは冗談じゃないから」
「ごめん。今も良く分からない。何かとにかく体の内から力が湧いてくる感じがして。それがどうにも押さえきれなくて、気持ちまであんな風になった」
沸き上がる欲望のままに、まだ乙女だったローズを蹂躙した。この表現がぴったりの夜だった。思い出すと今もローズに申し訳ないという気持ちが浮かんでくる。
「あんな風になったのは、あれっきり?」
「そう。力は前よりも随分と強くなった気はしているけど、気持ちがあんな風になることはないな」
「もし、あの日、私がいなかったらどうなっていたかしら?」
「えっ?」
「私がいなくて、部屋に戻ってフローラちゃんが居たら?」
「……それ聞くか?」
ローズの問いの可能性をグレンは考えたことがなかった。今、気付かされてもあまり考えたくない可能性だ。
「自信はないのね?」
「ないな。そもそもローズとだって、ほとんど知らない仲だったわけだし」
「そうね。そうか、私にとっては運が良かったのね」
「どうだろうな」
酷いことをした。そして、今も酷いことをしている。ローズにとって良かったとはグレンは思えない。
「そうよ……ねえ」
「何? まだ聞きたいことが?」
「聞きたいというか。両親が何をしていたか調べようとは思わないの?」
「今度はそれ? 何だか、前に戻ったみたいだ」
出会ったばかりの頃の、何かとグレンを探ってきていたローズ。今日のローズは、その時のように質問ばかりだ。
「別に前ほど知りたいわけじゃないわ。でも何で放っておくのかなと思って」
「調べようとしても簡単な事じゃない。それに今は知らない方が良いと思っている」
「そうなの?」
「なんだか周りが思わせぶりに言うから、とんでもない人物な気がして。それを知ったことで何かが変わったら嫌だろ? これまで両親の事は忘れて生きて来たつもりだから、今更、影響されたくない」
「ああ、それはそうよね。君の人生は君の物だからね」
「そういうこと」
ローズの顔が何となく明るくなった気がして、自分の答えは間違っていなかったとグレンは思った。
ローズは間違いなく隠し事をしている。ローズには誠実であろうと思っているグレンだが、隠し事をすることで二人の関係が上手くいくなら、それも良いと思えた。