リーゼロッテたちが使っている部室。かつては目的があってそこに集まっているわけではなく、ただ雑談をする、それもリーゼロッテをひたすら持ち上げるだけの話を取り巻きたちがしているか、リーゼロッテが誰かの文句を言っているかだけの時間だったのだが、今はかなり様相が変わってきている。
そんな意味のないことに時間を費やすのをジグルスが受け入れるはずがなく、リーゼロッテも同様にもっと実のある時間にしたいという思いがあるからだ。
では何をしているかというと。
「収入から支出を引く。残ったのが利益です」
「……それは当たり前だわ」
アルウィンの説明を聞いたリーゼロッテは不満そうだ。そんなことはわざわざ教わらなくても分かる、という思いがある。
「はい。当たり前のことです。しかしながら多くの貴族家はそれが出来ていません」
「そうなのですか?」
「リーゼロッテ様のご実家は公爵家。広大な領地を治めており、領政も優れたものです。ですからお分かりにならないのです」
テーリング家の領地はリリエンベルグ公国と呼ばれ、かなりの独立性を保証されている。争いではなく交渉でローゼンガルテン王国が領土を広げた結果だ。もともと別の国であったテーリング公爵家は領地安堵と自治権の保証と引き換えに、王国に臣従を誓ったのだ。
王国にとってそれが正解であったかは、評価が分かれるところだ。
「……他家はそうではないとアルウィンは言うのですね?」
「はい。多くの貴族家は支出のほうが多く、赤字を借金で補っております」
「借金ですか?」
リーゼロッテには想像出来ない状況。まだ彼女は世の中を知らない。だからこそ、こういった勉強会が行われているのだ。
「はい。俺の実家のような商家から、それにリーゼロッテ様のご実家も貸し付けを行っていると思います」
「我が家も?」
「それがあるから従属貴族というものが生まれたのです。これだけではないでしょうけど、理由の一つであることは間違いないと思います」
軍事支援だけでなく、財政支援も従属貴族家は受けている。財政支援のほうが従属する理由としては大きいくらいだ。それはそうだろう。財政が破綻しては生きていけなくなるのだ。
「……どうしてそのようなことに?」
借金があるから従っている。この事実はリーゼロッテに複雑な感情をもたらした。お金のための忠誠を信じて良いのかという思い。この事実が結果として自家を大きくしている状況をどう受け入れれば良いのかという思い。
「支出が大きすぎるのです。貴族としての体裁を整える為の支出が。平民の私では理解出来ない部分もあるとは思いますが、単純に考えればそういうことです」
「……貴族としての体裁ですか。それは……いえ、難しい問題ですね」
アルウィンの説明をリーゼロッテはそのまま素直に受け入れられない。貴族としての在り方。それを守るのは当然のこと。リーゼロッテはこの思いが強いのだ。
「わざとそうさせているって話もあるけどね?」
「マリアンネ様……」
割って入ってきたのはマリアンネ。その言葉を聞いて、アルウィンは渋い顔だ。
「……どういうこと?」
リーゼロッテは不安そうな顔で問いを発した。アルウィンの反応で、どうやら自分には知らせたくない内容だと気付いたのだ。
「さっきの話の逆よ。借金がなくなれば従属貴族は自立してしまうかもしれない。それが嫌であれば、借金が減らないようにすれば良い。たとえば社交の場を頻繁に設けて、それでお金を消費させるとか」
「……それをテーリング公爵家が行っていると言うの?」
「リーゼロッテのところがどうかは知らない。でも他の公爵家と同じようなものじゃない?」
マリアンネの実家は、テーリング公爵家ではなくエカードの実家であるマルク公爵家の従属貴族だ。だがマルク公爵家が行っていることをテーリング公爵家が行っていないはずがない。
「…………」
マリアンネの話に言葉を失うリーゼロッテ。これが事実であるとすれば、今この場にいるほとんどの生徒の実家がそういう目に遭わされていることになる。リーゼロッテの実家であるテーリング公爵家によって。
「リーゼロッテ様が責任を感じることではありません。もともと無理があるのです」
落ち込むリーゼロッテに声を掛けたのはジグルスだった。
「……無理って?」
「貴族の数が多すぎるのです。小さな領地を任されて、それで何から何まで全部やれなんて無理です」
「でも、それが領主の責任だわ」
「はい。でも出来ることと出来ないことがあります。たとえば水害で農作物が全滅したとします。税収はなし。そうであるのに被害の復旧や、同じことが起きないように防ぐ為のお金が必要になります」
「……そうね」
「天候不順だって同じです。小さな領地では領地全体で不作になります。それでも領民の為に何かをしようと思えば」
ある地域の不作を他の地域の収穫で補うことが出来ない。数年、天候不順が続けばその地域一帯の貴族家は借金しなければ領地を守れない。そこに住む領民が飢えて死んでしまう。
「……借金も領民の為」
「そういう場合もあります」
「……ジークの実家もそうなの?」
恐る恐るジグルスの実家について尋ねるリーゼロッテ。
「ああ、絶対とは言えませんけど、借金はないと思います。家族三人が食べていければ良いだけなので」
「それって……」
「はい。貴族の暮らしではありません。ほとんど自給自足なので農家に近いですね。でもうちのような小貴族なんてそんなものです。余計なことがないだけマシかなと今は思ってます」
男爵家となると社交の場に呼ばれることはまずない。領地が小さいので使用人もいらない。領内の整備も父親が自ら体を動かすことで済んでいる。実際は足りない面もあるが。
意外と悪くないとジグルスは話を聞きながら思っていた。
「子爵となると違うわね?」
この問いは実家が子爵家であるマリアンネに向けたものだ。
「そうね。ジグルスのところとは違うわね」
社交の場に呼ばれることは、マリアンネの母親も美人であるという理由もあるが、多い。使用人も雇っている。男爵家に比べれば支出はかなり多い。
「どうにかならないのかしら?」
「あらかじめ何かあった時の為に備えておくくらいしか思い付きません」
「そういうことはされていないの? いえ、それを行う余裕もないのね?」
万が一の備えをまったく考えていないはずがない。備えようにも出来ないか、備えていても足りなくなるのだとリーゼロッテは考えた。
「はい。だから協力してそれを行うしかないと思います」
「協力?」
「そうです。皆でお金を出し合って、何かあった時にはそのお金で支援を行う。単独では無理でも多くの貴族家で支え合えばなんとかなることは多いと思います」
「でもそれだと……」
「問題のある貴族家ばかりがお金を使うことになる? でも不正を行っているのでなければ、その領地に問題があるということです。それを何とかするには根本的な問題を解決しなければならなくて、それには多くのお金が必要になります」
領地に問題があるのであれば、そこを治める領主の責任ではない。そうであれば支援の手を差し伸べても良いのではないかとジグルスは考えている。
「どれだけの人が納得するかしら?」
「それはお金が減る一方だからです。逆に商家に貸して金利で稼ぐとか、もしくは商売の資本にしてもらって稼いでもらうとか、お金を増やすことも考えれば良いのではないですか?」
「……問題はそれだけではないわね?」
「そうですね。リーゼロッテ様のご実家は怒るでしょうね?」
「私の実家だけではないわ。きっと王国が怒る。だってそれが成功すれば新しい国が出来るもの」
「えっ?」
そこまでの考えはジグルスにはなかった。実際に、これはリーゼロッテが少し大袈裟に表現しているだけだ。
「困窮している貴族への支援は本来、王国が行うべきものだわ。でもその力が、いえ、そもそも貴族を支援しようという意思が王国にはない」
「リーゼロッテ様?」
ジグルスにはリーゼロッテの言葉はかなり過激なものに思える。王国批判と捉えられてもおかしくないと。
「そこに手を差し伸べてくれる組織があったら。その貴族家の忠誠はどこに向くかしら?」
「……ああ、公国がそうだったと」
公国の勢力拡大を許したのは王国。公爵家令嬢であるリーゼロッテからの見方ではあるが、事実の一面を述べているのは間違いない。
「そうよ。公国に従う人たちが生まれたのは、王国がその隙を見せたからだわ。そして今度は公国が隙を見せようとしている」
「……ですが、国を造るには軍事力も必要です。力のない貴族家の寄せ集めでは王国や公国に対抗出来る力はありません」
「そうね。でもそれは――」
リーゼロッテが口を閉ざした原因。それは部室の入り口の扉が開く音だった。
「……そういう過激な発言は場所を選ぶべきだと思うが?」
「……タバート」
入り口に立っていたのはタバートだった。何故、彼がここに。この場にいる全員の思いはこれだ。タバートが部外者。部室に用があるはずはない。
「盗み聞きなんて趣味が悪いわね?」
皆が黙り込む中で口を開いたのはマリアンネだった。
「盗み聞きをするつもりはなかった。ただ聞こえてきた話の内容が微妙なものだったので、扉を開けるタイミングを失っただけだ」
「きっかけはそうでも盗み聞きをしたことに変わりはないわ。それで? 部外者の貴方がここに何の用?」
「部外者は君も同じだろ?」
マリアンネの実家はマルク公爵家の従属貴族。この部室はテーリング公爵家のリーゼロッテの派閥が集う場所、という点では確かに部外者だ。
「私はリーゼロッテの親友だもの。貴方とは違うわ」
「……そうだとしても客人として迎えてくれても良いのでは?」
「それは私が答えることではないわね? リーゼロッテ?」
タバートを迎え入れるかどうかはリーゼロッテが決めること。マリアンネは判断を任せた。
「良いわよ。入って」
本来、部外者を排除しなければならないような場所ではない。たまたま話が過激になっただけなのだ。
リーゼロッテの許しを得たタバートは部屋の中に入ってきた。ジグルスが空けたリーゼロッテのほぼ正面に置かれている椅子に腰掛ける。
「それで何の用かしら?」
「……彼と話したくてきた」
タバートがこの部屋に来たのはジグルスと話す為。そうであるのにジグルスが席を空けるのをそのままにしたのは、主人であるリーゼロッテの許可を得るのが先だと考えたからだ。
「そう……それは私が許可することではないわね。ジーク」
こう言いながらリーゼロッテは隣に座っているマリアンネに目配せをする。その意味を正しくとらえて、マリアンネは軽く肩をすくめて席を立った。ジグルスの為に席を空けたのだ。
その席に座るジグルス。これではもう話をすることに決まっているようなもの。リーゼロッテはタバートがジグルスと何を話すのか、という興味を押さえられなかったのだ。
「どのようなお話でしょうか?」
こうなってはジグルスも話を聞くしかない。
「君の父親について調べさせてもらった」
「……それで?」
「有名人だったのだな。いや、有名人という表現は正しくないか。知る人は知っているという人なのだな」
「えっと……それって、どういうことですか?」
知る人は知っている。それは確かに有名人ではない。それでもタバートが気にする何かがあるのは分かるのだが、ジグルスにはそれが何かまったく見当がつかないのだ。
「ローゼンガルテン王国騎士団においてトップクラスの実力者だったそうではないか」
「えっ?」「ええっ?」「そうなの?」
驚きの声。その中の一つはジグルスのものだ。
「知らなかったのか?」
「はい。父親は過去についてまったく語らない人だったので。本当に強かったのですね?」
自画自賛ばかりの父親の実力をジグルスは疑っていた。比べる相手がいないので分からなかったのだ。学院に入ってからようやく認めるようになったが、それでも王国騎士の中でどれくらいの位置づけなのかなどは考えたことがなかった。
「息子である君にそんな風に言われると自信がなくなるな」
「えっ?」
「その騎士は公には行方不明ということになっている。それでも知っている人は君の父であるクロニクス男爵がその人だと知っているということだ」
公爵家であるタバートだから知ることが出来た事実。
「……もしかして母が原因ですか?」
「そのようだ。君の母と共に身を隠したかったのだと聞いた」
「でも隠しきれていない」
「……あっ! すまない。これはこの場で話すことではなかったか」
父親の剣の実力についてだけ話すつもりが、所在を隠していることまで明かしてしまった。それに気付いてタバートは謝罪を口にした。
「かまいません。そういうのって公然の秘密ですよね? 知っているのに知らない振りをしている人は多い。それにこの場にいる人は余計なことは話しません」
「そういってもらえると助かる。とにかく君の父親の実力はかなりのものだ。そして君はその父親に剣を習ったのだろ?」
「はい。そうです。残念ながら俺には父親のような才能はありませんが」
ジグルスの剣の実力は学院でも中の上。飛び抜けたものではない。
「それについては異論があるが、その前に聞きたいことがある。君の父親と俺はどこが似ているのだ?」
「ああ、その話ですか。真っ直ぐな剣であること、それと一番は……気配、でしょうか?」
「気配?」
「なんというか、体や剣から発せられる何か、です。それが似ています」
「……君はそれを感じられるのだな? だから俺の剣の動きを見きれる」
ジグルスの言う気配が何かタバートには分からない。だがジグルスはその何かを感じ、それに従って自分の剣を避けたのだ。
「そうですね。ほとんど条件反射みたいなものです」
「そうであるのに俺以外との対戦では避けられずに受けてしまう。何故だ?」
「えっ……あれ?」
確かにジグルスは、タバートに比べてしまうと格下になる仲間たちの剣は避けられない。
「それは相手からその何かを感じ取れないからか?」
「ああ、そうかもしれません」
「他に俺と同じように感じ取れる相手はいるか?」
「……いえ、ありません」
タバート以外にそれを感じた相手はいない。タバートとの立ち合いで、ジグルスは懐かしい感覚を思い出したのだ。
「……エカードならどうだ?」
「分かりません。対戦したことがないので」
「そうか……」
ジグルスの答えを受けて、少し考え込む様子を見せるタバート。ジグルスもそうだが、周囲で聞いている人たちもタバートが何を知りたいのか分からない。
「ねえ、貴方はジークの何が気になっているのかしら?」
代表してタバートに尋ねたのはリーゼロッテだ。
「ああ……彼は強いのか、弱いのか分からなくて」
「どうして?」
「俺は剣には自信がある。その剣を避けられる彼が、こう言っては失礼だが、俺より実力が下のここにいる生徒たちの剣は受けてしまう」
「そうね。それは不思議ね」
タバートの言う通りだとはリーゼロッテも思う。
「彼は強い相手にはそれに見合った実力を見せるのではないか? つまり相手によって強さが変わる」
「そんなこと……いえ、何かを感じさせるだけの強さを持った相手であればね」
「そうだ」
ジグルスは剣を見て動いているのではない。発せられる何かを感じ取って動いている。そうであれば何も発しない相手とは、目をつむって戦っているようなものだ。実際には目は見えているので、それなりの動きはするとしても。
「……ジークのお父様はわざとそういう教え方をしたのかしら?」
「そんなことされた記憶はありません。とにかく父親の剣を避けること。それだけをさせられていたので、さっきも言った通り、条件反射のようなものです」
「そう……」
何かがあるのだとは思う。だがその何かは父親に聞かなければ分からないようだ。
「そのあたりは追々分かることもあるだろう。俺の一番の用件はこれではない」
「他に何が?」
「攻めを鍛えるという点で、君が最高の相手だというのは確実だ。だから、これからは常に俺の相手をして欲しい」
「はい?」
まさかのお願い。前回の対戦で嫌な予感がしていたが、それが現実のものとなった。
「君にとっても悪いことではないはずだ。父親と同じ、は思い上がりか。君が言う似たような相手と鍛え合うことが出来れば、もしかすると鈍っているかもしれない感覚が蘇るかもしれない。そうでなくても今よりも強くなれる」
「条件があるわ」
「えっ?」
ジグルスが何か言う前にリーゼロッテが、条件があると言ってきた。それはつまり、条件が満たされればタバートの申し出を受けるということだ。リーゼロッテが。
「聞こう」
「ジグルスだけでなく、他の生徒たちの相手もしてもらえないかしら? もちろんジグルスとの対戦がメイン。たまにでも構わないわ」
リーゼロッテが出した条件は他の取り巻きたちとも立ち合いをして欲しいというもの。実力者であるタバートと対戦する機会が出来れば、彼等ももっと強くなれる。そう考えてのことだ。
「……良いだろう」
タバートとしては受け入れる以外にない。彼と互角に戦える生徒は限られている。他の取り巻きと立ち会うのは、これまでと同じことだ。そこにジグルスとの対戦が加わるのだから、それで満足するべきだと考えた。
「では、契約は成立ね」
「ああ」
ジグルスの目の前でがっちりと握手をかわすリーゼロッテとタバート。そこに本来の契約当事者であるはずのジグルスの意思が割り込む隙はない。