月の文庫ブログ

月野文人です。異世界物のファンタジー小説を書いています。このブログは自分がこれまで書き散らかしたまま眠らせていた作品、まったく一から始める作品など、とにかくあまり考えずに気の向くままに投稿するブログです。気に入った作品を見つけてもらえると嬉しいです。 掲載小説の一覧(第一話)はリンクの「掲載小説一覧」をクリックして下さい。よろしくお願いします。 

勇者の影で生まれた英雄 #16 勇者との立ち合い

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「僕と勝負しろ!」

「……はあっ!?」

 突然、勇者に勝負を申し込まれたグレンは、惚けた声を出した後、その場に固まってしまった。
 グレンもこの展開は予想していなかった。出来るわけがない。勇者の存在など眼中になかったのだ。

「僕と勝負しろ。僕に勝ったら、君を認めてやる」

「……認めていただく必要はありません。自分は退役する身ですから」

 更に続いた自分勝手な言い分に、気を失いそうになったグレンだが、何とか気を取り直して反論する。

「逃げるのか!?」

「はい。逃げます。では」

 グレンには勇者と戦う理由が全くない。理由があっても、それを受け入れるつもりもない。

「ち、ちょっと待て!? 卑怯だぞ!」

 全く相手にする様子がないグレンに、勇者は慌てた様子を見せている。

「何とでも。何度も繰り返しますが、自分は退役する身です。それに卑怯だ、どうだというのは騎士の方々にあるもので、自分はただの兵士ですから」

「……どうすれば僕と勝負する?」

 どうすれば放っておいてもらえるのか知りたいのはグレンのほうだ。

「どうなっても勝負は致しません。それをする理由がありませんから」

「理由はある!」

 高らかに宣言する勇者だが、そんなものがあるはずがない。

「一応聞きますが、どんな理由ですか?」

「僕が勝負したいからだ」

「はい。予想通りです。自分には関係ありませんね。それでは失礼します」

 相手にしていることも馬鹿馬鹿しい。とっととこの場を去るのが懸命だと思ったグレンだが。

「ちょっと待て!」

 そこで又、別の声がグレンを遮ってくる。ハーリー千人将だ。グレンにしてみれば、悪い予感しかしない。

「……何でしょうか?」

 恐る恐る振り返って尋ねてみれば。

「ケンと戦え。これは命令だ」

 案の定、訳の分からないことを言われるだけ。

「どのような権限で? 失礼ですが、ハーリー千人将は、自分の部隊の上位にいらっしゃいません」

 居たとしても適当な理由をつけて断るだけだ。

「上司であることは間違いない」

「一つ聞いてよろしいですか?」

「何だ?」

「自分は勇者様と戦って勝てますか?」

「はっ、勝てる訳が無い」

 薄ら笑いでこう答えるハーリー千人将。笑いたいのはグレンの方だ。

「結果が分かっている勝負をする必要はありませんね?」

「それは……君の未熟を鍛える為だ」

 又、苦しい理由をハーリー千人将はあげてくる。

「鍛錬は自部隊で致しますので、結構です」

「つべこべ言わずにやれ。命令違反で罰を与えるぞ」

 今度は脅し、のつもりだが。

「どうぞ。出来れば罰は退役でお願いします」

「……貴様」

 全く脅しになっていない。剣の腕は一流かもしれないが、言い合いではグレンに全く歯が立たないようだ。

「やはり、やる理由はないようですね。失礼します」

「中隊丸ごとを罪に落とすという手もある」

「それ……本気で言っていますか?」

 ハーリー千人将の言葉に、一気にグレンの雰囲気が変わる。ここまでやらかしたのだ。今更、遠慮するつもりはない。明確な殺気をハーリー千人将に向けている。

「ほ、本気だ」

「これだけの方々が聞いている中で、それを口にする。それが許されるとでも?」

 更にグレンの殺気が強くなる。グレンも半分やけくそになっている。いい加減に苛立ちを抑え切れないのだ。

「……いや、ちょっと言い過ぎた。だが、とにかくケンとの勝負はしてもらおう」

 グレンに言われて、ハーリー千人将は周囲の目を思い出したようだ。

「理由がありませんと何度も言っております。それを受けて自分に何があるのですか?」

「……お前の退役を認めてさせてやる」

 ようやくハーリー千人将の口から検討に値する条件が出てきた。

「それが出来る保証は?」

「メアリー王女に口を効いてやる。いや、自分ではない。ケンからだがな」

「それだけの影響力が王女殿下にあおりになると?」

 一王女にそんな力があるとは、グレンには思えない。

「あると思うが」

「……閣下が邪魔されない保証は?」

 ここでトルーマン元帥が口を出してくるとグレンは思ったが、元帥はじっと黙って話を聞いている。その意図がどうにもグレンには掴めなかった。
 王女の口利きでは邪魔できないのか、それとも、後でどうとでもなると思っているのか。それを見極めようとしたグレンだったが、トルーマン元帥の無表情からはそれは出来なかった。

「王女殿下の口利きだ。閣下も邪魔は出来ない」

「よくそれを広言出来ますね。それは、つまり……まあここで聞くことではないか」

 元帥を前に公然とこんな台詞を口に出来る千人将。それは軍部も一枚岩ではない証拠。こんな考えがグレンの頭によぎったが、それを口にすることは止めておいた。

「さあ、立ち会え。立会人は私がしよう」

「……まあ、立ち会うだけであれば。すぐに終わるでしょうからね」

「よし! じゃあ、勝負だ!」

 そして、勇者と国軍兵士の立ち会いが始まる。

「よろしいのですか?」

 何も言わないトルーマン元帥にアステン将軍が小声で尋ねてきた。

「小僧の剣を見てみたいという欲求に勝てんかった」

「しかし、相手は勇者です。さすがに勝てません」

「それは分かっておる。だが、どこまでやれるかは見てみたい」

「そうですか……大丈夫でしょうか?」

 アステン将軍には一つ心配事がある。

「何がだ?」

「勇者はあれ以来、少し気持ちが殺気だっています」

「……まだ立ち直っておらんのか?」

 何からとは言わない。広く知られて良いことではないのだ。

「自分はそう見ております」

「……貧弱な。それで勇者が務まるのか」

「それでも強いです」

「強ければ良いというものではない。心のない強さは……まあ良い。それを見極める機会でもある」

「……始まります。さて、どれだけ耐えられるか」

 騎士が周りを囲む中、グレンと健太郎の立ち会いが始まろうとしていた。気合い十分な健太郎と、明らかにやる気のないグレン。

「マズイな。そうか、あれは勇者の剣を見たことがないか」

「ええ。一撃で終わるかもしれません」

 そして、その一撃がグレンに振るわれた。空を切るその剣の勢いに、慌てて大きく後ろに跳ぶグレン。その顔に驚愕が浮かんでいる。
 更に健太郎の剣がグレンに襲いかかる。それを剣で受けるグレン。だだ、その勢いの強さで、更に後ろに吹きとばされてしまう。

「それ真剣じゃないのか!?」

 グレンの叫び声が響いた。

「真剣でやってこその鍛錬だ!」

「お前、馬鹿か!?」

「問答無用!」

 グレンの文句をこれだけで切り捨てて、また健太郎はグレンに襲いかかっていく。
 一方で、二人の会話に驚いているのはトルーマン元帥と将軍たちだ。

「……本当か?」

「まさか? 剣の勢いが凄すぎて、そう思っているのではないでしょうか?」

「しかし、勇者本人が……おい! 誰か近くに行って確かめてこい!」

「はっ!」

 元帥の指示を受けて、騎士の一人が前に進み出ていく。
 その間も健太郎の猛攻は止まらない。息も切らさず剣を振り続けて、グレンを追い詰めていく。それを必死の形相で躱すグレン。完全に防戦一方だ。防戦一方なのだが。

「なぜ、耐えられる?」

「分かりません。少なくとも守りは強いようです」

「そういう問題か?」

 相手が勇者となれば、防戦一方でも周りの見る目は異なる。防戦出来ることが驚きなのだ。最初こそ、グレンを冷めた目で見ていた騎士たちも、その目の色が今はすっかり変わっていた。
 この場に居る多くの騎士たちが、勇者相手ではその防戦さえ出来ない者たちなのだ。
 そして、その気持は立ち会いをしている健太郎も同じだ。自分の剣を防ぎきるグレンに苛立って叫び声を上げた。

「逃げまわってばかりいないで、勝負しろ!」

「逃げまわって悪いという規則はない!」

 勝負出来るならとっくにしている。あっさりと負けるつもりが、それが出来ない剣を、健太郎が振るうから終われないのだ。

「相手を倒せないだろ!」

「兵は死ななければ良いのだ!」

「じゃあ、殺してやる!」

「はあ? だったら勇者止めて、殺人鬼を名乗れ!」

「何だと!?」

 今の健太郎にこれは禁句だった。人殺しに慣れるために密かに行われた盗賊討伐任務。そこで実際に生まれて初めて人を殺した健太郎だったが、まだ、その時の衝撃から、完全に立ち直れないでいた。
 グレンの言葉に反応した健太郎の体から、殺気が漲る。

「まずいな」

 トルーマン元帥が健太郎のその変化に気が付いて小さく呟く。グレンのほうも、それなりに感じているのか構えを取り直して健太郎に対峙している。
 ゆらりと揺れた健太郎の体。それが次の瞬間にはグレンの目の前に迫っていた。
 これで決まり。誰もがそう思ったのだが、グレンは大きく反対側に転がっただけで、何事もなかったかのように、すっくと立ち上がった。
 健太郎はそのグレンに直ぐに襲いかかることはしない。防がれたことが信じられないのか、自分の剣を眺めて、呆然としていた。

「おい! エリック! そろそろ止めろ!」

 だが、そのトルーマン元帥の言葉に、ハーリー千人将はすぐに反応しなかった。
 その間に又、健太郎が剣を構えて、グレンとの間合いを詰めていく。

「止めろと言っておるのだ! これは元帥命令だ! 二人共止めろ!」

 いつまでも立ち会いを止めないハーリー千人将に業を煮やして、トルーマン元帥は自ら止めを宣言したのだが、これが間違いだった。
 トルーマン元帥の声を聞いて剣を降ろしたグレン。だが、健太郎の剣は止まっていなかった。
 容赦なく振り下ろされる、その剣に気が付いて、慌てて横に逃げたグレンだったが、健太郎の剣はそのグレンを追いかけるように軌道を変えていく。
 そして地面に倒れるグレンと、一本の腕。

「ぐっ、ぐわぁあああああああ!!」

 グレンの叫び声が調練場に響き渡る。肩口から吹き出す血を押さえながら、グレンは地面を転がりまわっていた。

「……何ということだ!! 誰か! 早く治療をせんか!」

「わっ、私がやります!」

 その声に答えたのは結衣だった。真っ青な顔をしながらも立ちあがってグレンに駆け寄る結衣。
 トルーマン元帥も慌てて、後を追った。

「……あの痴れ者が」

 そして目に入る健太郎とハーリー千人将。トルーマン元帥の目には、呆然と立ち尽くしている健太郎の手から、荒々しく剣を奪うハーリー千人将の姿がはっきりと映っていた。

「 慈愛の力、癒しの力、その力を顕現し、この者の傷を癒やし給え。我は願う、奇跡の力がこの者の身に降り注ぐことを。ハイ・ヒーリング!」

 結衣の詠唱が静かに響くと共に、宙に魔導術式が浮かび上がった。その術式からの光がグレンの体に降り注いでいく。

「上級回復魔法。そこまでを会得しておったのか。とりあえず命は、か」

 回復魔法も万能ではない。傷を塞ぐ事は出来ても、体の奥まで届くそれは直せない。そして、斬り落とされた腕をつなぐ事も。トルーマン元帥の言葉はこういう意味だった、だが。

「うっ、うわあっ、うわぁああああああ!」

 傷を癒やされたはずのグレンの叫び声が又、聞こえてきた。

「どうした!? 駄目だったのか!?」

「あっ、いえ。そ、それが」

「な、何と」

 左手で反対の腕を掴んで、苦しそうに転がりまわっているグレン。左手が掴んでいるのは、切り落とされたはずの腕だった。

「……繋がったのか?」

「いえ、生えてきました。元の腕はそこに」

「生えてきただと!?」

 そんな回復魔法は長く軍籍にいるトルーマン元帥も聞いたことがない。

「奇跡だ」

 やがて、こんな呟きが誰かの口から漏れた。

「凄い、奇跡だ。こんな回復魔法を使えるなんて」

「結衣! 凄いじゃないか! こんなの誰も見たことがないって!」

「えっ? そうなのですか?」

「そうだよ。凄いよ。やっぱり、結衣も勇者だ。僕と同じ勇者だよ!」

 「凄い」「奇跡だ」、こんな言葉があちこちから聞こえてくる。その中心にいるのは、少し恥ずかしそうにしながらも、誇らしげな様子の結衣。その隣では自分のしでかしたことも忘れて、健太郎が、まるで自分のことのように喜んでいた。

「……大丈夫か?」

 そんな喧騒を横目に見ながら、トルーマン元帥はグレンに問いかけた。

「取り敢えず、指は動きます。肘も曲がりますね。これ以上は色々と試してみないと」

「そうか。すまなかった。儂が余計な声を掛けたせいで」

「いえ。敵が戦いを止める前に剣を降ろした自分のミスです」

 敵を倒すか、戦意を喪失させるかしない限り、戦いは終わりではないのだ。これを忘れていたグレンのミスではあるが、ここは戦場ではなく、ただの立ち合いだ。

「あれは真剣だったのだな?」

「模擬剣でも腕が切れる程、勇者の剣は鋭いのですか?」

「それは知らん」

「そうですか……まあ、どちらでも良いことです。立ち会いは終わって、自分は無事」

「そうか」

「……奇跡ですか」

 今もまだ勇者の二人を中心にした盛り上がりはおさまっていない。

「そうだな。切られた部分が再生する回復魔法など初めて聞いた」

「そうですか。再生、この腕は自分の腕なのですか?」

「お前の肩に付いているのだ。お前の腕であろう?」

 何を当たり前のことを聞くのだという態度でトルーマン元帥は答えたのだが、続くグレンの台詞で言葉を失うことになる。

「では、そこに落ちている腕は誰のですか?」

「それは……」

 地面に転がっている腕。それはグレンの肩に付いていた腕だ。

「それも自分の腕だとすると自分は腕が三本ある化け物になりますね?」

「化け物などと」

 冗談を言う余裕がグレンにあると思って、トルーマン元帥は少しほっとした様子だ。

「奇跡……足を切り落とされたとしても生えてくるのでしょうか?」

「まあ、腕が生えたのだからな」

「では、首が切り落とされても生えてくるのでしょうか?」

「それは……」

 冗談にしては笑えない。笑わせるつもりなど、グレンにはないのだ。

「胴を真っ二つにされたら、両方から生えてくるのでしょうか? では、その場合はどっちが元の人なのですかね?」

「…………」

「何が奇跡ですか。自分は死んだと思いました。いや、腕一本くらいでは死なないのかもしれませんが、それでも死んだと思いました」

「そうか……」

「でも、こうして腕は元通り。そして元帥閣下は、腕は無事なのだから退役は許さないと言うのでしょうね?」

 グレンの口元には笑みが浮かんでいる。トルーマン元帥がこれまで見たことのない、もう一つの顔のグレンが持つ皮肉な笑みだ。

「……何が言いたい?」

「死んだはずが生き返らされて、また戦わされる。そんな兵士は、まるでお伽話に出てくるアンデッドのモンスターですね?」

「…………」

 口元に浮かんだ笑みと同じ、皮肉な言葉がグレンの口から吐き出される。

「それを奇跡と褒め称えている、この軍はやはりおかしい……まあ、どうでも良いことです。さて、戻って仕事します」

「おい?」

「そうでもしていないと自分が何か分からなくなりそうです。自分は人? それとも道具? それとも、やはりモンスターでしょうか?」

「…………」

 グレンの雰囲気は常のそれではない。今、グレンが纏う雰囲気にトルーマン元帥は先程から、何ともいえない圧力を感じていた。

「申し訳ございません。言葉が過ぎました。もし、閣下が少しでも悪いと思う気持ちがあるのであれば、退役をお認め下さい。それで自分は救われるのです」

「……考えておく」

「これでも即答しない。しぶといですね、閣下は?」

「それが儂の取り柄だ。どんな敗色濃厚な戦場でも最後まで諦めない。それで元帥にまでなったのだ」

「違います」

「ん?」

「閣下が元帥になられたのは最後まで生き延びられたからです。違いますか?」

「……それもあったな」

 ウェヌス王国でただ一人の元帥。それは確かに、元帥の地位に登るまで死ななかったからだ。能力だけであれば、もっと相応しい者はいた。

「いえ、それが全てです。さて……腕も持っていきますか。ちょっと不気味ですけど」

「……それは?」

 地面に落ちていた腕。それを拾ったグレンが二の腕をめくると、そこに腕輪が付いているのが見えた。

「小さい時から付けていたものなので、捨てておけなくて。これ取れるのですかね?」

 あえて斬られた腕を持ち帰る理由の一つがこれだ。両親が付けたものであるはずなので、この場に置いていく気になれないのだ。

「無理やり取れば良いだろう。もうその腕は痛くないのだからな」

「簡単に言わないで下さい。自分の腕に傷をつけるのはやはり抵抗があります」

「それもそうか」

「まあ、あとで考えます。では自分はこれで失礼します」

「ああ。あっ、小僧」

 今度こそ、この場を去ろうとしたグレンを、少し躊躇いがちにトルーマン元帥は引き止めた。

「……何ですか?」

「儂は軍を変えようとしている」

「知っています。でも、間に合いますか? 戦争はすぐ先。それに敵は何年も掛けて、その為に準備をしてきているのです。一年、二年でそれを超えられるでしょうか?」

「そこまで気が付いておったか」

 グレンは「生きるために、この軍隊を辞める」と言った。その意味はトルーマン元帥の思った通りだった。

「少し調べれば分かります。そして、それさえもこの軍はしていない」

「そうだな」

「……また余計な事をしゃべりました。では今度こそ。これで」

 結衣を褒め称える声が未だに響く調練場を一人離れていくグレン。孤独であるはずのその背中が、トルーマン元帥には何故かとてつもなく大きく見えた。

 

◆◆◆

「遅い!」

 グレンが宿屋に入るとすぐにローズが声を掛けてきた。食堂には他に誰も居ない。閉店時間どころか、人々の多くはとっくに寝静まっている時間なのだ。

「起きてたのですか? フローラは?」

「我慢出来なくて寝ちゃったわ。怒ってたわよ。いつまで経っても帰ってこないから」

「そうですか。ローズさんはどうして?」

「夜遊びして帰ってくる兄の顔を見てやろうと思って」

 これは嘘だ。ローズも心配して待っていたのだ。

「寝ていれば良かったのに」

「残念でした」

「そうじゃなくて、その方が良かったと思いますよ」

「……君、何かあったの?」

 ローズはここで初めてグレンの雰囲気がいつもと違うことに気が付いた。時折見せる、非情な顔とも又、違う。どこか恐ろしささえ感じる雰囲気を。

「腕を一本斬り落とされました」

「えっ!? ……ちょっとふざけないでよ。ちゃんと二本あるじゃない」

 グレンの両肩からはちゃんと腕が伸びている。それを見たローズは、グレンに文句を言ってきた。

「いや、この右腕は三本目です。本来の右腕はこれ」

 こう言うと、グレンは手に持っていた腕を無造作にローズに見せた。

「……ち、ちょっと、冗談よね? 作り物でしょ?」

「本物」

「……じゃあ、今付いているのが偽物?」

「これは生えてきた」

「……やっぱりフザケてる」

 グレンの話は意味不明で、からかわれているようにしかローズには思えない。

「違う。勇者の女、あの女の回復魔法で生えてきた。なんだか奇跡らしい」

「……痛くないの?」

 勇者の魔法と聞いて、少し信じる気にローズもなったようだ。

「とてつもなく痛かった。でも、今は平気」

「そう。それで何だかおかしいのね?」

「やっぱりおかしい?」

 自分の雰囲気が普段と違うことは、グレンも良く分かっている。

「何か、君じゃないみたい。一言で言えば、恐い」

「だから寝ていれば良かったんだ。困ったな。落ち着かせたつもりだったけど、まだ駄目だ」

 笑みを浮かべているグレン。だが、やはりローズは恐れを感じてしまう。

「……何を言っているの?」

「腕を斬り落とされて直ぐ、いや、正確にはいつからか分からないけど、何だかおかしくて。体の奥から何かが湧き出てきている感じ?」

「何かって何?」

「力のような、欲望のような。とにかく押さえ切れない何か」

「……それって」

 言葉にしたせいか、グレンの雰囲気が更に剣呑なものに変わっていることをローズは感じた。何よりも、自分を見るグレンの瞳の光は、これまで決してグレンが見せなかったものだ。

「押さえる自信がなくて、人目につかない所で、じっと待っていた。それでこの時間」

「そう……」

「それなのに、ローズさん起きているから」

 ゆっくりと近づいてくるグレンに、ローズははっきりと恐怖を感じていた。逃げ出したい気持ちはある。だが、何かに魅入られたように、その場から動けなかった。

「……ねえ」

「何?」

「何をするつもり?」

「何だろう? このままじゃあ部屋に戻れないのは確かかな?」

「……ねえ。あっ、ちょっと、んっ」

 グレンに首筋を掴まれて、強引に引き寄せられるローズ。その唇にグレンのそれが押し付けられた。

「や、止めて」

 なんとかグレンの胸を押して、そこから逃れるローズ。だが、グレンの手はローズの肩を掴んで話さなかった。

「押さえ切れない。駄目なんだ。もう自分が自分じゃないみたいで」

「私は……フローラちゃんの代わり?」

「……フローラにはこんなことしない」

「嘘。兄のままで居ることが出来ないのでしょ? だから部屋に戻れない」

「…………」

 ローズの言葉に、グレンの瞳に正気の光が戻ってきている。

「私は何? 押さえ切れない欲望のはけ口? それじゃあ私って」

「……ごめん。でも、まだ奥底から何か訴えている。だから俺の目の前から消えてくれ」

「それを言う理性はあるのか。君って子は」

「早く……自分が自分じゃないみたいなんだ」

 グレンは懸命に何かに堪えている。それが余りに苦しそうで、ローズの心から恐怖が薄れていった。

「苦しそう」

「良いから早く」

「お姉さんを馬鹿にしないで。苦しんでいる君を放ってはおけない」

「馬鹿なことを……」

「……でも、お願い。ここじゃあ嫌」

「ここって」

「腕、もう下に伸びてるよ」

 口では抵抗していても、グレンの体は本能に忠実に動いていた。それに気づいたことで、グレンは又、欲望を押さえ切れなくなっている。

「だ、駄目、ねえ、こんな所じゃ」

「……部屋に行く?」

「うん。それとお願い。優しくして……私初めてなの」

「……じゃあ」

「あっ」

 下半身に伸びていた腕をローズの膝に回すと、グレンはそのままローズを抱え上げた。

「お姫様抱っこって……」

「うるさい。俺だって恥ずかしいんだ。でも優しくって言うから」

「そうね。じゃあ、少年。姫を寝室に送りなさい」

「……全く、この人は」

 湧き上がる欲望。それがローズの挑発のような言葉で逆に落ち着くことになる。これを知ったグレンは苦笑いを浮かべて、ローズに顔を近づけていく。

「んっ、ね、ねえ。だからここじゃあ」

「今は大丈夫。ちょっと可愛いと思って。この先はちゃんと部屋に行ってからにするから」

「……それなら良い」

 ローズを抱えたまま、ゆっくりと階段を登っていくグレン。その首にローズはしっかりとしがみついていた。