主人公が進めている攻略ルート。カロリーネ王女を取り込む為の工作を行ったからといって、自分が考える最強ルートだと決めつけることは出来ないとジグルスは思い始めた。主人公はゲームシナリオにとらわれることなく、ゲームの仕組みを熟知した上で自ら考え、行動している。こう考えるべきではないかと。
そうなるとジグルスにとっては辛い。相手の行動を予測出来なくなるからだ。ジグルスのこの推測は正しい。主人公の行動がそうであることを示している。
「リーゼロッテさん、どうですか? 立ち合いを受けてもらえます?」
「……私に断る理由はありませんわ」
主人公は合同実技授業の最中、リーゼロッテに対戦を申し込んできた。ジグルスの知っているシナリオでは、リーゼロッテから喧嘩を売る形で戦いになるはずだった。だがこの主人公は自らそれを求めてきたのだ。
「良かった。リーゼロッテさんとは色々とすれ違いばかりだから、この機会に分かり合いたいと思っているの」
「分かり合う必要はないわ。やりたくはなかったけど、こうなってしまっては力で貴女の根性を叩き直すまでですわ」
(今まで力を使ってなかったのか?)
リーゼロッテにとって、これまでの行動はなんだったのかとジグルスは思う。周りからみれば、公爵家の息女という権力を振るっていたとしか思えない。
(リーゼロッテ様はやっぱり少し変わっている。まあ、最近はそんなところも可愛いと思えるようになったのだから、俺も……あれ、可愛い?)
「そんなことを言わないでください。でもそうですね。口で分かり合えなければ拳で。そういう考え方もありますよね?」
主人公の言っていることも少しおかしい。どこの世界に拳で殴り合って仲良くなる女子生徒がいるのか。ただこれについては、主人公の側に友好的な態度を崩せないという制約があるせいだと、すぐに分かった。
「もう無駄口は結構ですわ。いざ、勝負ですわ!」
「え、ええ」
片手を腰に据えて、もう一方の手を真っ直ぐに伸ばして主人公を挑発するリーゼロッテ。その決めポーズに主人公も戸惑っている。
(……たまにリーゼロッテ様はお馬鹿キャラになってしまうな)
苦笑を漏らすジグルスに気付くことなく、二人は中央に向かって歩き始める。
リーゼロッテはこの対戦で負けてしまい、一気に周りからの評価が下がる。それが分かっていてもジグルスにはそれを止めることは出来なかった。それを行えば主人公は、タバートという優秀な仲間を手に入れるきっかけを失ってしまうかもしれないのだ。
ジグルスが考えているのは、出来るだけリーゼロッテの傷口を小さくすること。
中央で向き合う二人。二人が対戦する為に出てきたことを知った周りの生徒たちは、それぞれの訓練の手を止めて、見学にまわっていった。
(学年中の生徒が見守る中での敗北か……リーゼロッテ様には辛いな)
その様子を見て、ため息を漏らすジグルス。
二人の対戦方法は魔法での戦い。大怪我を防ぐための守護宝石を身につけて、いよいよ二人の戦いが始まる。守護宝石は魔法防御の効果だけでなく、決定的な魔法の命中を判定する効果も持っている。それによって勝敗が決定されるのだ。
先手を取ったのはリーゼロッテ。詠唱時間の短縮を図る為の簡易詠唱を唱えて、主人公に向かって攻撃魔法を放つ。火属性魔法のファイア・アローだ。
(中級魔法を簡易詠唱で……やっぱり、リーゼロッテ様には魔法の才能がある)
その様子を見て感心するジグルス。彼が簡易詠唱で発動できるのは初級魔法までなのだ。
リーゼロッテの攻撃に対して主人公は、対抗属性の水属性魔法を放って相殺してきた。
「「「おおっ!」」」
周囲から軽いどよめきが起こった。主人公が簡易詠唱どころか、ほぼ一言で魔法を放ったからだ。さすがは主人公。こんな感想を持ったのはジグルスだけだ。
主人公はさらに別属性の魔法でリーゼロッテを攻撃していく。
(あの野郎……)
リーゼロッテの属性魔法は火。であれば最初の水属性魔法だけで戦ったほうが有利なはずだ。主人公が魔法の属性を変えたのは、それとは関係なしに、ただ複数属性魔法が使えることを見せつける為。ジグルスはこう考えた。
さらに主人公の嫌がらせは続く。リーゼロッテと同じ火属性ばかりを使い始めたのだ。その魂胆もジグルスには分かる。威力の違いを見せつける為だ。事実、互角に見えていた魔法の撃ち合いは、徐々にリーゼロッテが押されてきている。
リーゼロッテの顔に焦りの色が浮かんでいる。
それでもジグルスはリーゼロッテに感心していた。個々の魔法の威力も発動速度も明らかに主人公が上。そうであるのに致命弾を受けずにいるのは、リーゼロッテが魔力の集約と正確なコントロールに関して優れた技量を持っているから。
魔法を初級に落とすことで詠唱時間を主人公と並べ、威力が一段も二段も劣る点は魔力を集約することで補っている。とても凡人に出来ることではない。
ジグルスが主人公に視線を向けると、一見表情は変わらないが思わぬ抵抗に焦っているようにも見える。
だが、ここにきて主人公が動いた。突然、二人の間に立ち上る水の壁。ウォーターウォールかそれに類する魔法だと分かる。
防御魔法であるそれをここで使った理由は明らか。詠唱の為の時間稼ぎだ。主人公は小さな声で何かを呟いている。それを見たリーゼロッテも詠唱に入った。
これまでほとんど詠唱を唱えていなかった主人公が、長く時間を掛けているのだ。それに相応しい魔法が放たれるに違いない。
「ファイア・ショットガン!」
主人公の手元から無数の炎の玉が放たれた。言葉の意味は分かるが、ジグルスが聞いたことのない魔法。
(もしかしてオリジナル魔法まで主人公は編み出しているのか? そんなの有りか?)
主人公のチート能力に ジグルスは驚くよりも理不尽さを感じた。
「ファイア・ウォール!」
それに対してリーゼロッテは防御魔法を放つが、対抗属性ならまだしも同一属性では完全には防ぎきれない。
決着の時が近づいてきた。そう思ったジグルスが立ち上がった瞬間、ざわりと首筋に鳥肌が立った。
何に対する予感なのか。主人公に目を向けると、嫌な感じのする笑みを浮かべながら何かを呟いている。
(さらに魔法? 何のために?)
その間も主人公が放った火の玉は次々と炎の壁をぶち破って、リーゼロッテに向かって行く。何発かがリーゼロッテを包む壁、守護宝石の魔法壁だ、に当たったところで、ガラスが割れるような音がして魔法壁がはじけ飛んだ。
リーゼロッテの負けだ。
「止め!」
「マッチ・ウィンドエッジ!」
対戦を止めようとする教師の声と主人公が魔法を放つ声が重なる。ジグルスはそれが聞こえる前に、リーゼロッテに向かって駆け出していた。
襲いかかる無数の風の刃に茫然と立ち尽くしているリーゼロッテ。先行するいくつかが、リーゼロッテの髪を、服を切り裂いていく。
「ふざけるな!」
続けて飛来する風の刃を無視して、ジグルスはリーゼロッテの前に躍り出ると、彼女を包み込むようにして抱きしめる。
「ぐっ!」
ジグルスの体を切り裂くいくつもの風の刃。無理に耐えることなくジグルスは、リーゼロッテを抱きしめたまま地面に倒れ込んだ。そのほうが魔法を躱せると考えたのだ。
「ジーク! ジーク! 大丈夫なのですか!?」
ジグルスの体の下でリーゼロッテが叫んでいる。気が遠くなりかけていたジグルスの意識が、おかげで引き戻された。
「……大丈夫ですよ。リーゼロッテ様は? どこか痛いところはありますか?」
「私は平気」
「そうですか。それは良かった。でも念のため医務室で見てもらいましょう?」
「見てもらうのは私ではなくてジークですわ。さあ、早く立って」
「はい」
背中の痛みを堪えてジグルスは立ち上がる。リーゼロッテを動揺させないように、顔に笑みを浮かべたまま。
「はい、お手を」
さらにリーゼロッテに手を差し伸べて、立ち上がるのをサポートする。気障な真似をしているつもりはない。ただの強がりだ。
引き起こそうと力を入れた瞬間に背中に激痛が走ったが、それに何とか耐えてみせる。
「ありがとう。でも大丈夫なの?」
「少し痛みはありますけど、かすり傷程度でしょう。さて、医務室に行きますか?」
「え、ええ」
「おい! 君、大丈夫か!?」
ここにきて、教師がジグルスのところに駆け寄ってきた。
「ああ、先生。医務室に行っても良いですか?」
「勿論だ! いや、すぐに行け! いや、俺が背負おう!」
教師は思いがけない事態に動揺してしまっている。彼にとって幸いなのはリーゼロッテに怪我がないことなのだが、それはまだ分かっていない。
「……大丈夫です。歩いて行けますよ」
ここで教師に頼るわけにはいかない。それでも強がっている意味がない。
「しかしな……」
「あの!? 大丈夫ですか?」
また別の人が声を掛けてきた。それが主人公だと分かって、ジグルスの顔がしかめられる。
(怪我をさせた張本人に大丈夫かと聞かれて、どう答えれば良い? それに謝るのが先だろ?)
今回の件でジグルスの主人公に対するイメージは完全に塗り替わっている。ゲームを行っていた頃のイメージはない。とびっきりの性悪女だ。
「医務室に急ぎたいのですけど?」
「あっ、そうですね。ごめんなさい」
「いえ」
「でも、わざとじゃないの。リーゼロッテさんとの対戦に熱中してしまって」
主人公はジグルスを心配して近づいて来たのではなく周りに言い訳を聞かせたかったのだ。それに気が付いたジグルスの心の中で、さらに主人公への苛立ちが高まっていく。
「……熱中ですか?」
「そうなの。先生の『止め』の声を聞いて慌てて止めようとしたのですけど、そのせいで上手くいかなくて」
「それにしては見事な魔法の制御でしたね」
「えっ?」
予想していなかった答え。それに主人公は戸惑っている。彼女はジグルスの中に生まれた自分に対する悪意にまだ気が付いていないのだ。
「あの魔法。リーゼロッテ様には直接当たらないように放っていましたよね? あの軌道だと、せいぜい切り裂くのは……」
「い、いやだ。何を言っているのですか? もし、そうだとしたら、とっさにうまく当たらない様に制御出来たのですね?」
主人公はジグルスの言葉を遮ってきた。それとなく周りの反応を伺っているのがジグルスには分かる。その様子を見て、推測が確信に変わった。
「とっさに……詠唱が終わった後で、ですか?」
「どういう意味?」
「先生の『止め』の声がかかる前に詠唱は終わっていましたよね? あとは発動を待つだけだった」
「……そんなことないです。私は先生の声の後に詠唱を終えたの」
ジグルスの話を否定する主人公。さすがに彼に対する警戒心が湧いてきているが、まだ認識が甘い。
「じゃあ、俺の勘違いですね?」
「そうですよ」
主人公がジグルスの罠に引っかかった。罠というのは大袈裟でちょっとした嫌がらせ程度だが、それでも。少しでも周りに主人公への疑念を持たせようというジグルスの考えを実現するには十分だ。
「つまり、『止め』の声が聞こえていたのに貴女は詠唱を続けたのですね?」
「えっ……?」
「これも勘違いですか? あれ? どっちが勘違いか分からなくなりました」
「…………」
ようやく主人公にもジグルスの意図が分かった。分かったが、どう対処すれば良いかすぐには思い付かない。
「医務室に行っても? 一応、怪我人なんで」
ジグルスにはこれで十分。真相を究明するまでもない。おかしいという思いを一人でも多くの人に待たせられれば、それで良いのだ。
「どうぞ……お大事に」
「お大事に? お大事にというのは?」
「えっ?」
また、思いもよらないジグルスの質問を受けて、主人公の顔が強ばった。
「いや、どういう意味かと思いまして」
「……お体に気を付けてという意味です」
「方言ですか?」
「そうです。私の出身地で使われる言葉なの」
これもジグルスの罠。だがその結果で何が得られたのかはジグルス以外の人には分からない。
この世界でも「お大事に」は頻繁に、とは言わないが普通に使われている。方言などではない。そうであるのに誤魔化そうとした主人公はこの世界で生まれ育ったのではない。主人公は自分とは違うとジグルスは判断した。
(しかし……深いゲーム知識を持った主人公か。今更だけど。厄介なのが敵だな)
それが分かったからといってジグルスは喜べない。逆に気持ちが重くなってしまう。敵がどれだけ強力か、それが分かっただけなのだ。
◇◇◇
意地でなんとか保健室まで辿り着いたジグルスだが、そこが限界だった。傷の痛みもそうだが、血を流し過ぎたことが大きい。目の前のベッドに倒れ込んでいくのが、ジグルスが気を失う前の最後の記憶だった。
気が付いた時には、目に入ったのは白い天井。それと枕元で心配そうな顔……ではなく呆れ顔。
「あれ? リーゼロッテ様じゃない」
「それが自国の王女に向かって放つ台詞か?」
ベッドの横にいたのはカロリーネ王女。リーゼロッテではないことにジグルスは戸惑っている。
「失礼いたしました。リーゼロッテ様は?」
「着替えに行かせた」
「一人で、ですか?」
主人公に負けてリーゼロッテはひどく落ち込んでいるはず。一人にして大丈夫かとジグルスは心配になった。
「妾の伴の者も一緒だ。かなり動揺しておったからな」
「そうですか。お気遣いありがとうございます」
「まったく……妾はお主のお抱え医師ではないのだ」
呆れ顔のまま、カロリーネ王女はジグルスに文句を言ってきた。
「王女殿下が治療を?」
「傷そのものは深くないが血が流れ過ぎていた。急いで塞ぐ必要があったのだ。それには妾の回復魔法が一番だからな」
「ありがとうございます……でも、どうして? リーゼロッテ様が呼ばれたのですか?」
何故、カロリーネ王女が自分の怪我を知り、治療の為に駆けつけてくれたのかをジグルスは疑問に思った。
「いや、見ておった」
「授業をですか?」
「そうだ。二学年には優秀な生徒が多い。見学しているだけでも勉強になるのだ」
「そうでしたか」
カロリーネ王女は基本的に授業への出席は自由だ。勉強の為ではなく、他の生徒との触れあいが目当て、という口実なのだから。どんな理由であっても、面と向かって文句を言える教師はいない。
「馬鹿な真似をしたものよ。妾が見たところ、お主が庇わなくても最後の魔法はリーゼロッテを傷つけることはなかったと思う」
「いえ、傷つけることになっていました」
「ん? 妾の見切りが間違っていると言うのか?」
カロリーネ王女は不満そうだ。魔法に関して、カロリーネ王女はそれなりに自信を持っているのだ。
「いえ。傷つくのは体ではなく心です。最後の魔法は、そういう目的で放たれたのです」
「……意味が分からん」
「あの魔法の目標はリーゼロッテ様の髪と衣服です。あれだけの数の魔法で衣服を切り裂かれれば、リーゼロッテ様はどうなっていたでしょう?」
「なっ、なんだと……?」
残念ながら髪の毛を守ることは出来なかったが、衣服で切り裂かれた部分はわずかで済んだ。自分が行ったことを愚かとはジグルスは思わない。
「多くの男子生徒が見ている前で、貴族の女性が素肌を晒す。それで心が傷つかないと王女様は思われますか?」
「お主は……お主は、ユリアーナがわざとそれをやったと言うつもりか?」
「証明は出来ません。でもあの女は最後の魔法を唱えるときに笑みを浮かべていました。普段は決して見せないであろう残忍そうな笑みでした」
主人公の悪意が表に出た瞬間をジグルスは見逃さなかった。この事実だけでジグルスには十分なのだ。
「……妾にそれを信じろと?」
「言葉だけで信じていただけるとは思っていません。でもリーゼロッテ様に向けられている悪意の存在を、その存在の可能性を、心に留めて頂ければと思います」
見方が変われば真実が見えてくる。ジグルス自身がそうなのだ。主人公を敵と認識した途端、彼女の普段隠している悪意が透けて見えるようになった。
「妾に何をさせようと言うのだ?」
「真実を見極めてください。悪意に騙されることなく真実を」
「……お主は何を知っている?」
カロリーネ王女はジグルスが思っている以上に聡い。ジグルスは、ここで一歩先の質問をされるとは思っていなかった。だがこの質問には答えられない。答えても信じてはもらえない
この世界がゲームの世界だなんてことは、この世界に生きる人には信じたくない話だ。
「それは王女殿下、いえ、国王陛下であろうともお話することは出来ません。そもそも話しても信じて頂けないでしょう」
「そう言われると、なお気になるの」
「それが目的ですから。王女殿下が興味を持たれて物事を見れば、今の学院がどこかおかしいことに気付かれるはずです。別にそれを正して欲しいとは申しません。善悪も必要だからこそ存在するのです。ただ……」
「ただ、何だ?」
「不必要に人が傷つけられることは、俺には許せません」
主人公が行っているのがこれだ。今回の件だけではない。ゲームを深く知っているのであれば尚更、リーゼロッテを傷つけなくても済む方法を知っている、見つけられるはずだ。だが主人公はそれを探そうとしていない。それどころか必要以上にリーゼロッテを傷つけようとしている。それがジグルスには許せない。
「その対象がリーゼロッテか」
「リーゼロッテ様が完全に善とは言いません。いけないこともしてきましたから。それにも本人なりの正統な理由があるのですが、それは勝手な価値観です。許される理由にはなりません。でもそれに対する償いが、必要以上に大きくなるのはおかしなこととは思われませんか?」
「罪には罪に相応しい罰を。逆に言えば、過度な罰を与えてはならんということになるな」
「そうです」
処罰が罪を超えるものであってはならないとジグルスは思う。
「……ひとつ教えてもらって良いか?」
「お答え出来る内容であれば」
「こら。妾が王女であることを忘れておるのか? 条件を付けるなど不敬だ」
「申し訳ございません。でも答えられないものは答えられません」
カロリーネ王女を侮っているわけではない。正直にあらねばならないと気をつけているのだ。
「頑固だな。まあ良い。お主……何故、ここまでリーゼロッテに尽くす? リーゼロッテの為に自ら体を傷つけたのはこれで二度目。妾が知る以外にも色々としておるのだろ?」
「……何故でしょう?」
改めて理由を問われてもジグルスは答えに困ってしまう。
「恋か?」
「それは違うと思います。素敵な女性だとは思い始めていますが、そこまでの感情ではないですね」
「では公爵家の力を恐れてか?」
「それもないですね。俺が自らやっていることであって、命令されたわけではありませんから」
リーゼロッテに命令されたからではない。自ら望んで行っていることだ。
「では何故だ?」
「……命令されていないから?」
少し考えた結果、ジグルスの頭に浮かんだのはこの理由だった。
「何じゃ、それは?」
「自分の意思で動いている。それが嬉しいのかもしれません」
「……分からん」
カロリーネ王女には分からない。彼女はこの世界にストーリーがあることなど知らない。それぞれの役割が定められていることも分かっていないのだ。
「決められた物語を決められた役柄で、決められた方向に流されるように生きていく。そんな人生は幸せでしょうか? たとえその先に不幸が待っているとしても自分の意思で動いていれば……ちょっと違いますね。結局、俺にも分かりません」
「決められた人生……お主、きついことを言うの?」
「はい?」
「それは妾の人生ではないか。王族として妾の人生は大きな制約を受けておる。結婚相手も国の都合で決められる。嫁ぎ先でも、ローゼンガルデン王国の元王女としての呪縛は解けないのだろうな」
カロリーネ王女は王家に生まれた女性としての責任を背負っている。自由でいられる時間はそう長くはない。だからこそ無理を言って学院に通っているのだ。
「そうですか……でも人の人生なんて、そんなものではないですか? 何もかも自由なんて人は、この世の中にはいません。誰もが何らかの制約を受けている。俺はそう思います」
「……自分だけが不幸などと思うな、か?」
「貧乏でも幸せだと思っている人はいます。お金持ちでも不幸だと思っている人はいます。それは価値観が違うからとか、そんな難しい話ではなくて、ただの気の持ちようかもしれません」
「……ふむ。お主、良いことを言うな。そうか、気の持ちようか」
こう言ってジグルスから視線を外し、遠くを見つめるカロリーネ王女。彼女には彼女なりの苦悩がある。その立場にならなければ、決して分からないだろう苦悩が。
ジグルスのほうが自分の口から出た言葉に驚いている。世の中を分かっていない自分が偉そうにと恥ずかしく思う気持ちもありながらも、そういう気持ちが今の自分を支えていたのかという気付きも得られた。
今考えると、少し前までの自分は前世での自分と同じだと思った。何かに逆らうことなく、何かを本気で求めることもなく、ただ流されるままに生きていた。いつか何かが、自分に特別な何かを与えてくれることを夢見て。そんなことはあるはずないのに。
異世界に転生した。だが変わらず、特別な何かは与えられなかった。この物語が終わるとき、リーゼロッテと共に、自分にもバッドエンドが訪れるに違いないとジグルスは思っている。
それだけ深くリーゼロッテと関わっているという実感があるのだ。残りの人生は恐らくそんなに長くない。そうであれば生きることに手を抜きたくない。そうジグルスは思った。