「「「「せい! やっ!」」」」
貧民区に子供たちの掛け声が響いている。
「最後!」
「「「「せい!」」」」
「よし、今日はここまで!」
「「「「はい!」」」」
ギゼンから終了の声がかかったところで子供たちは木剣を腰に差して、駆け足で彼の前に集まっていく。かつての悪がきどもが、今も本質は変わらないにしても、変われば変わるものだ。
「よし。今から呼ぶ者は明日からは次の段階に進むことになる」
「「「「おおぉぉぉー!」」」」
ギゼンの言葉に子供たちから歓声があがる。
「静かに! ジャン、オウガ、オクト、ノブ、ディッセ。以上、五名だ」
「「「はい!」」」「…………」
選ばれた子供は元気に返事を、そうでなかった子供たちは落ち込んだ様子を見せている。それだけ子供たちは鍛錬に真剣に取り組んでいるのだ。
「フユキ! 始めるぞ!」
「はっ!」
子供たちが終わると冬樹の番。一対一での鍛錬なのだ。
今日こそはせめて一太刀を。冬樹は気合いを入れているが果たしてそれは叶うのか。
手に持つのはやや細身の木剣。ギゼンが教える剣術には重い大剣は向いていないということで、冬樹は使う剣を変えた。その剣を両手で持って、上段に構える。ギゼンはいつもの通り無形。相手の攻撃を受けてから後の先を取る構えだ。
余計な溜めは必要ない。ただ急所に向かって素早く剣を振るだけ。冬樹は一気にギゼンとの間合いを詰める。
上段の構えから真っ直ぐに正面に伸ばした剣先をギゼンの首に向ける。届かない。軽くギゼンの剣で横にはじかれた。そのまま剣を下から回すようにして切り上げる。届いたのは髪の先ほど。届いたというよりも、そこまでギゼンに見切られたということだ。
がら空きになった胴をギゼンの剣に払われる。
「うげっ!」
まともにくらってうめき声をあげる冬樹。それでも、苦しさに思わず膝をつきそうになるのを懸命にこらえている。
「誰がそんな剣を教えた! 最初から払われるつもりの突きに何の意味がある!? 小手先の連携など考えている余裕があれば、一太刀で全てを決めるつもりで打ち込んでこい!」
「すみません!」
冬樹の思惑など御見通し。とにかく当てようという気持ちから振られた剣は、ギゼンに言わせると手先の技となる。
ギゼンの教えは単純だ。相手の急所を一手で討て。かわされたくなければ相手の剣より早く剣を振れ。反撃を受けるのが嫌ならば一手で仕留めろ。
最初の頃に冬樹はこれを頭に叩き込まれた。だが少し上達したことで、大事なそれを忘れていたことに気が付いた。初心に帰れ。そういうことだ。
「……いきます!」
小手先の技は不要。今の全力で打ち込むのみ。冬樹は気合いを入れ直して、再度、ギゼンに向かっていった――
◆◆◆
「お疲れぇー」
「…………」
「返事くらいしてよ」
「……そんな状態じゃないことは見てれば分かるだろ?」
初心に帰ってギゼンに向かってみたが、結局今日も一太刀も入れられなかった。まだまだ道は遠い。これをまた思い知らされた。
「今日もボッコボコだったね」
落ち込んでいる冬樹にも夏は容赦がない。これくらいのほうが冬樹の立ち直りは早いことを知っているのだ。
「うるせぇな! これでも少しずつ強くなってんだよ」
「あっ、まだそんな言葉づかいしてる。ギゼンさんに怒られるよ」
「……分かりました。ちゃんとすれば良いんですよね?」
「そうそう」
ギゼンは礼儀にも厳しい。へりくだる必要はないが、相手に対しての敬意は見せなくてはならない。そういう考えだ。それを言ったらヒューガはどうなるんだ。これは最初にこれを聞かされた刻の冬樹の感想。
「子供たちは?」
「魔法の鍛錬」
「付いてなくて良いのかよ?」
魔法は夏の担当。子供たちを放っておいて良いのかと冬樹は思った。自分を慰める為だなんてことを分かっていないのだ。
「大丈夫よ。男の子たちはまだ体内循環の段階。自習で十分」
「女の子は?」
「ディアちゃんに教わった例の鍛錬。三人で属性循環をやってるわ」
「あれか。もうそこまで行ったんだ。何? やっぱり全属性使える?」
各属性の魔法を順番に使って的に当てる鍛錬だ。ヒューガや夏には及ばないが、それでも随分と取得が早いと冬樹は思う。自分自身は苦手の分野なので尚更だ。
「均等にってわけにはいかないけどね。得手不得手はあるみたい。でも良いの。魔力量の制御が今の課程だから」
「そっか。女の子のほうが魔法の適正は高いってことなのか?」
「適正というよりは今のところはまだ好き嫌いの問題じゃないかな? 男の子たちは剣術のことで頭が一杯みたいだから」
「なるほどね。その気持ちは分かる」
楽しいと思うことに子供たちは全力を注ぐ。良くも悪くもそういうことなのだ。
「冬樹も魔法には熱心じゃないものね?」
「そうでもないぞ。体内循環は毎日欠かさずに続けてる。でもな、どうもヒューガみたいに行かないんだよな」
ヒューガの体内循環は、冬樹から見て、凄かった。言葉の通りに体内だけで魔力を回している。外に放出してしまうことが、ほとんどないのだ。
「ヒューガはコントロールが抜群にうまいからね。確かに冬樹もヒューガを目指すべきね。剣術を主とするにしても、身体強化は必須。長く続けられようになれば、それだけ長く戦えるってことだからね」
「そういうこと。それだけは何とかもっとうまくならないとな。夏は?」
ギゼンから技量を学ぶだけでなく、基礎体力、魔力も含めての、を高めることも冬樹の課題だ。
「もう少し時間がかかりそう。火と風の属性の融合はかなり上手くいくようになったのよ。炎を通り越して今は爆炎って感じだから。でもね……」
夏はずっと複数属性の融合に取り組んでいる。成果は少しずつだが、確実に出ている。だが、まだ満足出来るレベルではないのだ。
「何か問題があるのか?」
「別のが上手く出来ない」
「何をしようとしてんだ?」
「火と水の融合」
「……正反対の属性じゃないか。そんなの上手く出来て何になるんだ? 熱湯が湧いて終わりな気がする」
これが冬樹の発想力の限界。魔法が苦手な原因の一つだ。
「氷にならないかと思って」
「氷? 火属性で?」
「火を火と認識するから駄目なのよ。火を温度と認識出来れば、上げることも下げることも出来るでしょ?」
「火を温度……ダメだ。俺には全然イメージわかねえ」
「でしょうね? 冬樹にはその辺は期待してないわ」
「ヒューガなら出来るかな……?」
常に気になるのはヒューガであればどうか。冬樹にとってヒューガは憧れであり、目標なのだ。
「……出来るかもね。でも、ヒューガに頼ることは出来ない。頼ってもいけない。今はね」
「そうだな……あいつ今どこにいるんだろうな?」
「さぁ、さすがにそれは分からないわ」
「ディアちゃんは?」
「それは確定。イーストエンド侯爵領にいるのは間違いない。正式に布告が出たみたいよ。第一王女の地位を放棄してイーストエンド侯爵家預かりになったって」
クラウディアの処遇についてパルス王国は公にした。広く知れ渡らせることで、変な考えを起こす者を抑止しようと考えた結果だ。
「そうか……予定通りだな。ヒューガの消息がずっと分からない場合はそこにいくことになるんだよな?」
「そう。ヒューガは必ず現れるはずだからね」
「それが女の感か? 今聞けば俺だってそれくらい分かるぞ」
ヒューガはいつか必ずクラウディアの前に現れる。冬樹もこれを信じている。
「ふふ。まあね。それまでにはもう少し成長してないとね。あたしはともかく冬樹は。あたしはどこに行っても鍛錬は続けられる。ディアちゃんの所に行ったほうがうまくいくかもしれない。でも冬樹は……」
「師匠の下を離れちゃな。師匠に一太刀入れるのに、あと何年かかることやら。今の状態じゃあ、全く先が見えない」
「……それでも諦めないんでしょ?」
「当たり前だ。師匠の下にいれば必ず俺は強くなれる。それは確信してるよ」
ギゼンは強い。初めて立ち会った時の勇者をはるかに超えていると冬樹は感じた。今の勇者がどこまで強くなったかは知らないが、それでもギゼンなら互角以上に戦えると思うほどだ。
そのギゼンに少しでも迫ることが出来れば。冬樹は目指す高みに一歩も二歩も近づける。
「さてと、少し休んだら? 子供たちの鍛錬が終わったら稼ぎにいかないと。そろそろ次のランクに上がれるわよね? そうなれば生活は大分楽になるわ」
今、二人の生活を支えているのはギルドでの仕事。それも疎かには出来ない。
「それなんだけど、あんまり上がるとまずいみたいだぞ」
「何で? 上のランクの依頼を受けられるようになればそれだけ稼げるじゃない?」
「次がD、ここまではいい。でもそれ以上になると低ランク依頼を受けられなくなる」
傭兵ギルドのランクもCまで行くと、低いランクの依頼は受けられなくなる。ギルドランクが下の人たちの仕事を奪うことになるからだ。ギルドランクCはひとつの基準。そこまで行って初めて、本当の傭兵と認められるのだが、それだけギルドからの制約もきつくなる。
「……それ、忘れた。そっか。二、三日で終わるような依頼は受けられなくなるわね?」
「そうなれば鍛錬の時間が取れなくなる。それはちょっとだな」
「……子供たちに頑張ってもらう?」
「子供に養ってもらうのかよ? それはあまりに情けなくないか?」
「そこまで言わないわよ。依頼には付いて行くわよ。でも依頼を受けるのはあくまでも子供たち。達成したのもね」
「……それ違法にならないか?」
低ランクの子供たちであればこれまでと同じ依頼を受けられる。ただこれは不正行為ではないかと冬樹は思う。
「大丈夫じゃないかな? 念のためギルド長に聞いてみましょうか?」
夏も不正に手を染める気はない。それを行ってギルドに知られたら稼ぐ手段を失ってしまう。無理は得策ではないのだ。
「気安すぎるだろ? 相手は傭兵ギルドのトップだぞ」
「ヒューガの名前出せば大丈夫じゃない?」
「……なんか弱みを握った相手を脅してるみたいだぞ?」
「別に弱みを握ってないし。普通に聞いてみるだけよ」
それでも特別扱いされているのは事実だ。他の傭兵は、ギルド長と直接話すことさえ、まずないのだ。
「あまり調子に乗って怒らせるなよ。一応相手は俺達の社長みたいなものなんだからな」
「その辺は任せて。人から話を聞きだすのは得意だから」
「じゃあ、任せる」
ただこれも一時しのぎだ。いずれ子供たちのランクも上がっていく。そうなった時にどうするか。考える時期に来ていた。
◆◆◆
東方に今のところ問題はない。傭兵王が動き出すには、まだ時間が必要だということか。もしくは何かを待っている可能性もある。それは何か。東のマーセナリー王国はスコット侯爵にとって頭痛の種だ。
さすがに東方連盟の全てを平らげるのをパルス王国として黙って見過ごすわけにはいかない。それは自国の東に強国が生まれるのを許すことになる。
パルス王国がそう考えることは傭兵王も分かっているはず。待っているのはパルス王国が動けなくなるような状態。そう考えるのが普通だとスコット侯爵は思う。
そしてその状態が何かもおおよそ分かっている。可能性が高いのは魔族との本格的な戦争だ。北での戦いに軍を投入することになれば、東に干渉する余裕はなくなる。
新貴族派の動きはスコット侯爵にはマーセナリー王国を利する行為としか思えない。
その対策としてレンベルク帝国に繋ぎをつけることも考えている。だが、かの国を動かすのは容易ではない。
レンベルク帝国はどこの国とも敵対しないが友好関係も持とうとしない。経済面での交流を持つだけだ。あえて孤立を望むその姿勢はスコット侯爵には理解出来ない。
今はまだそれが許される。だが傭兵王が動き出せば、この大陸を大きな戦乱の波が襲うことになるかもしれない。それがただの杞憂とは思えない。
そうでなくても東の国境を守る身としては、全ての可能性を否定するわけにはいかないのだ。
「父上」
「チャールズか」
息子が自分を呼ぶ声で、スコット侯爵は深い思考から意識を引き上げた。
「お邪魔をしてしまいましたか?」
「いや、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ。解決策が見えない考え事をな」
長く考えればそれで答えが得られる問題ではない。すでにその過程は終え、未来の動きを考える段階に入っている。正解を得られない思考なのだ。
「東ですか?」
「ああ、そうだ」
「父上もご存じのようにまだマーセナリ王国に動きはありません。東で事が起こるのはまだまだ先だと思いますが?」
「まったく動きがないのもな。確かに傭兵王は何かをしようとしている。その動きは掴んだ。だが、その後の動きが全く見えない。それがかえって怪しいと思わないか?」
何も情報がないことが、何も動きはないことには繋がらない。無はかえって疑うべき状況だとスコット侯爵は考えている。
「陰で何かをしていると? ……間者の数を増やしてみましょうか?」
「そうしたいところだが……何か分かったのか? その報告に来たのだろう?」
情報収集の手はマーセナリー王国だけに伸ばしているわけではないのだ。
「申し訳ありません。何も分からないことの報告になってしまいました」
「というと?」
「ヒューガという人物、そう思われる風貌の人物はやはりレンベルク帝国には現れておりません。大森林に接している他国にもです」
「大森林に入ったままということか……」
ヒューガの行方は依然として知れない。外に手がかりがないのであれば、やはり内にいる可能性が高い。
「そうとしか思えません。そうなるとやはり……」
「死んだか、大森林で生きているのか……」
「生きていることなど出来るのでしょうか? あそこは不帰の森。一度入って出てきた者は数えるほどしかいないはずです」
ドゥンケルハイト大森林は人が住める場所ではないというのが常識だ。この認識は正しい。普通は生きてはいられない場所だ。
「だが全くいないわけではない」
「父上は生きているとお考えなのですね?」
「同行していたダークエルフが気になる。エルフにとって大森林は故郷だ。生きる術を持っていてもおかしくはないだろう」
「おとぎ話の世界ではないのですね?」
ドゥンケルハイト大森林にエルフの王国があった。これはチャールズにとってはおとぎ話に近い感覚だ。それだけの年月が流れているということだが、若さ故の甘さもある。
「おとぎ話などと……たかだか百年程前の話だぞ? あそこにエルフの国があったのはパルス王国では常識だ。その為にあの悲劇が起きたのだからな」
スコット侯爵はそうではない。どれだけ突飛な話であっても、事実は事実として捉える良識がある。
「でもエルフも逃げ出したのですよね?」
「だから手を付けられないのだ。そこで生きていたはずのエルフでさえも逃げ出す事態。何が起こったのかは未だに分かっていないのだからな」
それがはっきりしない限り、再侵攻はあり得ない。はっきりしても侵攻するとは限らない。
「……クラウディア様にお伝えしたほうが良いでしょうか?」
「どちらでも良い。この話を伝えたところで何も変わらんだろう。ただ、いつか来る時を待っているだけだ……そのクラウは?」
「ギルドに行かれています」
「またか? パルス王国の元王女が傭兵をしているなどと知られた、周りが驚くな」
「よろしいのでしょうか?」
「かまわん。クラウはもう王女ではない。好きなように人生を生きれば良いのだ。それが彼女の望みだ」
王女としての時別待遇は必要ない。スコット侯爵はもう割り切っている。それがクラウディア自身の、そして父である国王の望みだと分かっているのだ。
「でも何をされているのでしょうね? 別にそんな真似をしなくても生活に困るわけではありません。身を危険にさらす必要はないと思うのですが……」
「さあな。それはお前のほうが知っているのではないのか? あとを付させたのだろ?」
「ご存じでしたか?」
「勿論だ。それで結果は?」
「撒かれました」
「……うちの間者が?」
予想していなかった答え。それにスコット侯爵は驚いている。
「はい。途中までは付いて行ったのですが、突然姿をくらませたようです。その後はまったく足取りもつかめず、いつの間にか戻ってきていたと」
「……ソフィアの娘にしてはなんともお転婆だな。イーストエンド侯爵家の間者が後を追えないとは」
「お転婆とかいうレベルではありません。クラウディア様はどこでこんな術を身につけたのでしょう?」
「……魔族の所でだろ?」
スコット侯爵が考える限り、可能性があるのはこれだけだ。魔族に攫われる以前のクラウディアはまだ子供で、戻ってきてからはずっと城に閉じこもっていた。特別な技を身につける機会などない。
「そんなことがありえるのですか?」
「クラウが魔族の元から帰ってきてから、しばらくは魔族に優しくしてもらったと言っていたそうだ。私は直接聞いたわけではないがな。だが、それによりクラウの立場は益々悪くなった。それが分かったのだろう? ある時から一切、魔族について話さなくなったそうだが……あれは事実なのだろうな。そうでなければクラウが無事に帰ってきた理由が説明できん」
「……それが事実だとしたら、私たちは何の為に魔族と戦うのですか? 魔族とも友好関係を築ける。そういう事ではないですか?」
これまで知らされていなかった事実。それを知ってチャールズは大いに動揺している。
「チャールズ、お前も将来イーストエンド侯爵を継ぐつもりなら、人の欲をきちんと理解することだ。魔族を攻める理由は簡単。人の欲の為だ。それくらい言われなくても自分で気づくのだな」
「……しかし、私はクラウディア様に正しい道を歩めと」
「そう言われたのか?」
「いえ、正しい道を歩んでいればヒューガ殿に会えるだろうと。それはつまり、クラウディア様が望む道ということだと思います」
「ふむ……その考えは正しい。だが正しい道を歩むためには、間違った道も知らなければならんな。それを知っていて初めて、正しい道がどれかが分かるのだ」
公爵家の当主足る者、清濁併せ呑むくらいの気概がなくてはならない。それをスコット侯爵はこういう言い方で表現している。
「間違った道を知る……」
「そうだ。正しい道を歩むっというのは大変だ。一番誤解して欲しくないのは、正しい道を歩んでいれば、それで全てうまくいくわけではないということだ。正しさが間違ったことに負ける時もある。それをきちんと頭に入れておくのだな」
「それは……」
間違っている側が勝つこともある、という言葉はチャールズには受け入れがたいものだった。それだけ彼は若く、真っ直ぐなのだ。
「若いうちは難しいかもしれん。若さというのは純粋なものだからな。だが……そうだな、クラウはお前より若い。だがクラウは恐らくお前よりもはるかに大人だろう。それだけの経験をクラウはしている。正しさが人に認められないという思いを既に知っているのだ」
「クラウディア様が……」
「会ったことはないが、ヒューガという男もそうなのではないかな? そうでなければ、ここまでクラウがその男に惹かれる理由が分からん」
「……私は会ったこともない男に負けているのですね」
それ以前に会ったこともない男を意識している。だがこれはクラウディアのせいだ。クラウディアのヒューガに対する高い評価を聞かされれば、どれほどの男かと意識しないではいられない。
「良かったではないか。お前はパルスの有力貴族であるイーストエンド侯爵家の嫡男。恵まれた環境に生まれ育っているといって良いだろう。そんなお前が今の内に敗北を経験するのは良いことだと私は思うぞ。もっと負けて、一度挫折を味わうのも良いだろう。それによって、お前は本当の意味で強い男になれる。お前から出た言葉が敗北で良かった、これが嫉妬だったら、私はお前を怒鳴りつけるところだったからな」
「えっと? どういう意味でしょうか?」
「嫉妬が生み出すのは多くが悲劇だ。本人にとっても周りにとってもな。だが敗北や挫折は人を成長させる。そういうことだ。勿論、それを乗り越える強さを持っていなければならないのが前提だが」
「挫折を乗り越える強さですか、私はそれを持っているのでしょうか?」
「それは分からん。まあ、じっくりと考えろ。何かが支えになることはあったとしても、最後は自分で超えて行かなければならないものだ」
「……父上は、あるのですか? 挫折を味わった事が、そしてそれを乗り越えた事が」
尊敬する父はどうなのか。自分にこれを告げる父親には恐らく経験があるのだろうと思うが、チャールズには想像出来なかった。
「……あるな」
「どのようなことなのでしょうか?」
「初めて敗北感を味わったのは国王に出会った時だ。しばらく接していて気付いた。この男には勝てないとな。当時は若く、少し自惚れもあったからな。それを自覚した時は正直すぐに認められなかったが、私のそんな気持ちも国王は飲み込んでしまった。あれで私は助けられたのであろう。嫉妬の気持ちに陥らなくて済んだのだから。そのあとは勝てないのであれば、せめて追いつこうと思って頑張っていたが……」
懐かしい思い出。良き思い出であるのは間違いないが、同時に胸に痛みを感じさせるものでもある。
「追いつけましたか?」
「どうなのだろうな? 同じ道を進んでいたつもりが、いつの間にか道は大きく逸れてしまった。そうなるともう追いつくとかそういう問題ではなくなってしまったようだ」
「そうですか……」
父親の気持ちはチャールズにも伝わってきた。かつての友が今は敵となっている事実への思い。普段は決して感じさせないそれが、今の父親からは見える。
「……しかし、お前とこんな話をするとはな。それだけでも領地に戻ってきて良かったということか」
「いつまでこちらに?」
「……しばらくはいることになる」
「長く王都を離れてもよろしいのですか? 新貴族派は色々と動いているようです」
「動きが見える間は問題ない。それに今は東の情勢をきちんと掴むほうが重要だ。何の備えもなく事が起こってはどうしようもないからな。ヒューガの捜索に回していた間者は全て東に向けろ。これ以上は何も掴めんだろう」
「わかりました。指示を出します」
パルス王国は強国だ。だがそのおごりが国を滅ぼすこともある。スコット侯爵はこう考えている。そしてそれを理解しない新貴族派に苛立っている。
大陸が動き始めている。具体的にどうということはまだ分からない。今はまだ漠然とした、勘のようなものに過ぎないが、それを疎かにしてはいけないことをスコット侯爵は知っているのだ。