
エルギン王国は、一言でいうと、平凡な国。他国と比べて特別軍事力に優れているわけではない。商業が盛んなわけでも、特別な産業があるわけでもない。領土はどちらかといえば小国。土地が肥沃で農業生産力が高いということもない。森林資源、鉱物資源も他国にない特別な何かがあるわけではない。先の人魔大戦がなければ、とっくに他国に滅ぼされていただろうと陰口を叩かれるような国だ。
陰口というのは違うかもしれない。自他ともに認めるそういう国、というのがより正確にエルギン王国を表している。
「……えっと……それを聞いて、私はどうすれば?」
「いえ、別に何かしてくださいというわけではありません。我が国のことを知ってもらおうと思っただけです」
「そうですか……言い方を変えるとどうなるのですか?」
「言い方……ですか?」
アークの言葉の意味がカノープス王子は分からなかった。自国の状況は今、説明した通り。どういう言い方をしてもエルギン王国は平凡な国だ。
「たとえば……貧しくて苦しんでいるわけではない。国内に争いがあるわけでもない」
「えっ……?」
「何事もなく穏やかに暮らせる国、とか?」
「……ありがとうございます」
エルギン王国をこんな風に評価する言葉を聞いたことがなかった。自分も含め、自国に人たちも卑下するばかりだった。アークの口からこのような言葉が出てくることなど、まったく考えていなかった。
「御礼を言われることではありません」
「ですが……自分の国を褒められるのは嬉しいことなのですね?」
記憶にある中で、こんな感情が心に沸いたのは初めてのこと。国政に関わる権限のない第二王子という立場の自分でも、このような感情が生まれることにカノープス王子は少し驚いている。
「それは王子殿下が自分の国を好きだからではないですか?」
「……考えたことがありません」
国を愛する。それは国王である父、そして国王になる兄に必要なこと。自分事として考えたことはなかった。
「好き嫌いは考えて決まることではないと思います。いや、そういうこともあるのかもしれませんけど、それを抜きにした好き嫌いのほうが自然だと……私は何を言っているのでしょう?」
どうしてこういう話になるのか。アークは鍛錬するために今この場にいるのだ。そもそも自分には国は関係ない。そういう立場はもう捨てたとアークは考えている。
「いえ、私が言い出したことです。アーク殿はどうなのですか? ハイランド王国をどう思っていますか?」
「私ですか……嫌いでした」
「えっ?」
「でも、もう嫌いという感情はほぼ消えています。好きでも嫌いでもないという感じでしょうか?」
ハイランド王国がどうこうではなく、ウィザム将爵家が、周囲にいる人たちが嫌いだった。親愛の情を抱いていた、今もその気持ちが残っている人たちはいる。だがそれは個人への感情。ハイランド王国がどうという意識は、ほぼ消えている。
最初はウィザム将爵家を出るということはハイランド王国も捨てること。こう考えていた。でも今は、そうでなければらないという思いはない。国への帰属意識が、自然と薄れている。
「……ミラ殿は?」
「私は……自分がどの国の民という意識は初めからありませんでした」
これはミラの個人的な考え、ではなく、魔族としての意識だ。自分たちの国と思える国が魔族にはない。国とされるものはすべて人族のもの、自分たちはたまたまその場所にいるだけ、いさせられているだけ。全ての魔族ではないが、大多数はこういう考えなのだ。
「そうですか……」
「王子殿下とは立場が違いますから」
平民に国への愛情はない。ないというか、真剣にそういうことを考えたことがある人など滅多にいるものではない。良い暮らしが出来ていれば国、というより国王に感謝することはあるかもしれない。だが生活が困窮しているからといって別の国を選ぶことが出来るわけではない。好きであろうと嫌いであろうと、そこで暮らすしかない。考えても意味がないのだ。
「私は……第二王子ですから」
「第二王子にもやることはあって、王子殿下はそれを行っているのではないですか?」
「私は何も……」
何もしていない。誰にも期待されていない。自分も自分に期待していない。カノープス王子は自国を卑下するのは、自分自身の劣等感も少し影響しているのだ。
「自分と周囲の人たちを鍛えようとしています。それも私などに頭を下げて。これも国の為なのではないですか?」
「そうですけど……これくらいしか思いつかなくて」
自分が出来ることは何もない。せめて一騎士として自分を鍛え、近い将来訪れるかもしれない脅威に抗う力を得たい。そう思った。それも、自分程度ではたいした力にはならないと思いながら。
「……その気持ちは少し分かります」
「えっ?」
「王子殿下のお気持ちが分かるなんて言うのは思い上がりかもしれませんけど、私もこれしかないと思い詰めていた時がありました」
魔法が使えない自分には剣しかない。剣の技を磨くしか強くなる方法がない。そう思ってきた。そんなことをしても無駄だという気持ちを、心の片隅に抱きながら。
「アーク殿が……?」
「私は魔法が使えません。強くなるには剣の技に頼るしかありませんでした。どれだけ技を磨いても、魔法を使える相手に勝てるはずがないと分かっていても、それしかなかったので」
「でも、アーク殿は、あっ、ミラ殿が?」
アークは強い。そう断言できるだけの実績を残している。魔法を使えないという、致命的ともいえる弱点を盛るアークに何故それが出来たのか。考えられることは一つだ。ブレイブハートはアークとミラ二人のパーティーなのだ。
「はい。ミラが私の足りないところを補ってくれています。彼女のおかげで私は戦えます」
「そうでしたか……ミラ殿、失礼いたしました」
「えっ、いえ、謝ってもらうようなことは何も」
突然の謝罪。ミラにはカノープス王子が何に対して謝っているのか分からない。
「私はアーク殿ばかりに目を向けて、ミラ殿を蔑ろにしていました。アーク殿とミラ殿の二人がいてのブレイブハート。ミラ殿にも教えを乞うべきでした」
「……アークがいないと私はただの役立たずですから。でも、そう言ってもらえるのは、とても嬉しいです」
アークと自分がいてのブレイブハート。この言葉は嬉しい。アークは自分がいるから戦えると言ってくれる。自分もアークがいなければ何も出来ないと思っている。お互いに相手を必要としている。カノープス王子の言葉はこの気持ちそのままだ。
「そろそろ鍛錬を始めませんか?」
「あっ、そうですね。では、お願いします」
「はい。では……ミラも相手をしてもらえば?」
相手はカノープス王子だけではない。エルギン王国の若手の騎士たちもいる。会話に加われないまま、ただ待っているだけの彼らに気付いて、アークは鍛錬の開始をカノープス王子に促したのだ。
「ミラ殿も剣を?」
「まだ鍛錬を始めたばかりですから、私のほうが教えていただくことになります」
「なんて言っていますけど、油断しないように。ミラは私の戦い方を熟知していますので、ほぼ同じ動きが出来ます、は言い過ぎですか。でも近い動きが出来ます」
「アーク殿と……そうですか……」
ミラは千刃乱舞の通り名を持つアークに近い動きが出来る。もし本当にそうであれば、聞いていた話と違う。ミラはアークの支援のみ。カノープス王子はこう聞いていたのだ。
「ミラが思いあがると困るので、言っておきますけど、まだまだです。実戦で使うには、まだ危なっかしくて」
「思いあがってないから。そう遠くないうちにアークに追いついて見せるから待っていなさい」
「天才だから?」
「ええ、そうよ」
ミラの剣はまだ実戦で使えるほどではない。二人の会話でそれは分かった。だが本当にそうなのか。千刃乱舞の異名を持ち、真の勇者候補として評価されるアークの基準が高すぎるだけなのではないか。こんな風にカノープス王子は思った。
「では、アーク殿、ミラ殿。始めましょう」
実際に戦ってみれば分かることだ。そしてすでに分かっていることもある。ブレイブハートは更に強くなる。これは間違いないとカノープス王子は思った。
◆◆◆
大戦の始まりを予感させるもの。一般庶民にとっては、そんな出来事は何もない。そもそも先の大戦からすでに二百年超の時が過ぎている。事件を起こす魔族がいても、実際に被害にあった人以外にとっては、すべて解決されたこと。脅威という感覚はない。まして魔王復活なんて脅威は、現実のものとして受け取っていない人が多数なのだ。
だが世の中は確実に動いている。これまでなかった動きが、今はまだ闇の中だが、出てきている。動乱の時代が始まろうとしている。
「……間違いない情報なのか?」
「確かな筋からの情報です。また行方不明者がこれまでとは比較にならない数になっているのは確かな事実です」
「魔族が誘拐……目的は何なのだ?」
魔族が人族を殺した、という話であれば、珍しくもない事件だ。魔族の犯罪のほとんどは殺人と傷害。たまに盗みなどもあるが、その手段は荒っぽく、結果、強盗殺人事件となる。
だが今回もたらされた情報は、魔族が人族を誘拐しているという内容。攫った上で殺している可能性はある。だが、わざわざ連れ去る理由がない。
「人身売買とのことです」
「それは……もしかして、買い手は人族ということか?」
「恐らくは」
攫われた人たちは奴隷として売られる。その場合、買い手は人族である可能性が高い。魔族は奴隷を必要としない。正しくは奴隷を養っても採算が合わない。使用人を必要とするような大きな屋敷、領地を持つ魔族など、今の時代はいないのだ。あくまでも人族が知る限りでは。
「……数は?」
「把握出来ておりません。行方不明を届け出る者は、多くはありませんから」
届け出たからといって、探してもらえるわけではない。事件なのか、自らの意思でどこかに行ったか分からない、という理由で無視される。せいぜい近くで身元不明の死体が見つかった時に連絡が来るくらいだ。
今回、その行方不明が事件化されたのは、これまで届け出られることがあまりなかった行方不明の届け出が多くあったから。それを異常と捉えたところで、情報提供があったからだ。
「そうではない。誘拐事件の犯人の数だ。分かっているのか?」
重要なのは犯人の数。魔族の犯罪組織なんてことになれば、討伐にはそれなりの戦力を揃えなければならない。数次第では軍の出動なんて事態になってしまう。
「失礼しました。まだ分かっておりません。ようやくアジトと思われる怪しい場所を絞り込めたところで、ここから監視を始めることになります」
「……出来るのか?」
魔族相手だ。アジトを監視するだけでも簡単ではないはず。すぐに監視していることが知られ、逃げられる、もしくは監視者は皆殺しにされる可能性は高い。
「今の体制では難しいと思いますので、増援が必要です」
「勇者ギルドか……」
可能であるとすれば、勇者ギルドの勇者候補。監視を行うに必要な技、魔法などを持った勇者候補に任せることだ。犯罪者の数がそれほど多くないということであれば、討伐も勇者ギルドに依頼することになる。そのほうが確実で、彼らにとっては安全だ。
「経費の申請が必要だな。ただ、どれだけの報酬を用意すれば良いのか……?」
勇者ギルドに依頼するとなれば、成功報酬を用意しなければならない。動員数によっては、軍を出動させるよりはマシだとしても、結構な費用が必要になる。そういう予算など、確保はされていても、現場が自由に使えるものではない。この点では出動要請をすれば後はお任せの軍のほうが手間は少なかったりするのだ。
「まずは上に報告か……報告書としてまとめてくれ」
「承知しました」