
甘い考えだった。愚かな行動をしたと、今更だけど、後悔している。王立騎士養成学校に久住はいる。それが分かっていても、会えるはずがないんだ。会えるはずがないのに、会いに来てしまった。どうしても衝動が抑えられなかった。
結果はこの通り。標的だった奴らに追われることになった。仲間がいれば、なんとかなったかもしれない。でもこれは俺が勝手にしていること。当たり前だ。俺は転生者で元の世界の同級生がいたから会いに行くなんて、誰にも言えない。転生者であることは、誰にも話していない。
身体能力は鬼人族である俺のほうが上。この考えは甘かった。追ってくる奴らを振り切れない。走る速さはほぼ変わらないか、相手のほうが速い。身体強化魔法。元の世界で生きている時から知っているこの情報を、今になって思い出した。本当に俺は愚かだ。
こんなところで殺されてしまうのか。切実な死の恐怖を味わうのは、これが二度目。一度目は黒炎に遭遇した時。黒炎がこの世界に転生した久住だと知らなかった時だ。
俺以外にも転生者がいた。可能性は考えていたけど、実際に存在することが分かると、やはり嬉しかった。自分は特別。この思いは慰めでもあった。周りに人とは違うということは、孤独感のほうが強かった。久住の存在を知って、それに気付いた。
もう駄目かもしれない。追いつかれる。俺はここで死ぬ。
「おい。こっちだ」
「なっ!?」
いきなりかけられた声。その声の主を見て、驚いた。求めていた姿がそこにあった。
「だから、こっち」
「……久住か?」
「……どうでも良いけど、急いでくれるか? 追いつかれる」
俺の問いに対する答えはない。でも否定もしない。こんなやりとりはをしている場合ではない。呆れ顔がそれを教えてくれている。
「分かった」
二人で路地を駆ける。
「屋根、跳べるか?」
「えっ……?」
不意の、それもまさかの問いに戸惑うことになった。
「嘘だろ? お前、これまで何をしていた? もう、良い!」
また相手を呆れさせることになった。当たり前に彼は出来るのだ。もしかすると自分も出来るのかもしれない。ただやってことがない。
なんてことを考えている間に体を抱えられて、跳びあがることになった。屋根にあがると今度は近くにあった煙突に飛び込む。まるで何かのアトラクションみたい、なんて言ったら怒られそうなので黙っている。
「……お前もやれよ」
「あ、ああ」
自分も足を使って、下に落ちないように体を支える。ここまででどれだけの時間が経ったのか。ほんの数秒という感覚だ。判断が速いのだろう。
魔法が展開された。何の魔法かは俺には分からない。
「しばらく黙っていろよ」
「ああ」
追っ手の声が聞こえてきた。「いない、いない」と騒いでいる。このままここにいて逃げ切れるのか。不安で汗が滲み出てくる。
だが追っ手は去って行った。少なくとも声は聞こえなくなった。
「念の為に聞くけど、二、三時間はこのままでも大丈夫だよな?」
「……正直、分からない。こういう経験は初めてだから」
二、三時間このまま。普通の人に出来ることじゃない。ただ俺も今は普通の人ではない。鬼人族だ。体力は元の世界の自分よりも遥かにあるのは分かっている。
「ああ……悪魔は殺る側だからな。殺されないように逃げる側じゃない」
「……お前だって同じだろ?」
悪魔と呼ばれる俺たちの側から恐れられる存在。それが黒炎だ。俺たち悪魔は彼に狩られる側だ。
「はあ? 俺は何度も逃げ回ったことがある。おかげで身につけたスキルもある。今のこれは違うけどな」
ただ、彼も最初からそういう存在ではなかったようだ。それはそうかもしれない。転生していきなり強い。良くありがちな設定だが、この世界の転生は違う。それは自分自身の経験で知っている。元の自分に比べれば遥かに強靭な肉体を得ているが、この世界の鬼人族では当たり前。凡人のレベルだ。
「……どうして俺を助けてくれた?」
こういう状況だが、聞きたかったことを尋ねてみた。どうして彼は俺を助けてくれるのか。しかも二度目だ。
「お前が捕まると困る。捕まるだけなら良いけど、嘘の証言をされると知り合いが罪に落とされるからな。俺も巻き込まれるかもしれない」
「……久住だよな?」
同じ転生者だから。予想していた答えとは違っていた。それが少し寂しかった。繋がりを否定されているように感じた。
「違う。俺はカイトだ」
「だから、久住海斗だろ?」
「そいつは死んだ。俺はこの世界で生まれたカイト。カタカナでカイトだ。そいつのことなんて思い出したくもない。この理由は分かるだろ? お前だって久住(ヒサズミ)なんて呼んでいなかった。クズの身と呼んでいた」
理由は分かる。ずっと酷い虐めを受けていた。俺だったら耐えられない。死を選らんでいたかもしれない酷い扱いを受けていた。元の世界のことなど忘れたいと思うのは当然だ。ただ彼の名はカイト。発音は元の世界のままだ。
「……すまない。でも、この世界のカイト……お前はそう言えるのか……」
それでも彼にとっては別の名。そういうことのようだ。彼は転生を、この世界で生きることを受け入れられている。
「お前は違うのか?」
「俺は……この世界では名前もない。何のために存在しているのか分からない」
名は与えられていない。この世界で名を持つのは貴族だけ。特別な力を持つ貴族の魔族だけだ。鬼人族では、今は、一人しかいない。
「……そうか……でも名前はあるだろ? 誰かに名付けてもらう必要なんてない。お前は名前を持っている。お前がそれを望むのであれば、だけどな」
「俺が望めば?」
この世界で魔族は親から名を与えられることはない。自分で名乗っても誰も認めない。転生してすぐに知った。名がないことを不思議に思って聞いた時だ。何を聞いているのかと、怪訝な顔をされた。
「お前がお前でありたいならな。俺はこの世界でカイトでいることを望んだ。誰にもらった名前でもない。自分で自分をそう決めた」
自分で決めたとカイトは言う。どういう意味なのか。「この世界でカイトでいることを望んだ」と彼は言う。それは。この世界での存在証明という意味か。
俺は何のために自分がこの世界に転生したか分からない。どうして存在しているのか分からない。でもきっとそういうことじゃない。そう言っているんだ。この世界で俺が何者であるかは俺が決める。カイトは決めた。彼がそうしたのなら、俺もそうしたい。
俺の名は、瀬名俊樹は捨てよう。では何にするか。カイトと同じ。新しく生を受けた俺はこの世界の俺。それでも俺は俺。だから、セナにしよう。俺はこの世界のセナだ。そう決めた。
≪条件を満たしました。空白(本名:瀬名俊樹)はセナ(本名:瀬名俊樹)になりました≫
≪加護<鬼神の怒り>を取得しました。各種能力値が上昇しました≫
≪スキル<鬼迫>を取得しました≫
≪スキル<鬼力>を取得しました≫
≪スキル<鬼功法>を取得しました≫
≪スキル<魔法攻撃耐性>がスキル<炎熱耐性>とスキル<寒冷耐性>に分割されました≫
≪スキル……≫
誰かの声が聞こえてくる。初めて聞く声。しかもこれは……この世界はこういうシステムがある世界なのか。
「……こ、声が?」
「はい?」
「声が聞こえる。お前は聞こえないのか?」
「……まさか……嘘だろ? お前、これまで神様の声を聞いたことがないのか?」
カイトはこの声を知っている。すでに何か特別なスキルを得ているということ。これがカイトの強さの秘密。そういうことなのかと思った。
「<鬼神の怒り>……これって……」
加護を得た。加護については知っている。自分も何かを持っているものだと思っていた。だが違った。今初めて加護を得た。俺は、きっと強くなった。
「……じゃあ、もう平気だな。あとは自力で何とかしろ」
「えっ。おい? 待ってくれ、久住!」
もっと話したいことがある。何を、というものはないが、とにかく話をしたかった。だがその機会は得られなかった。慌てて追いかけたが、煙突を出た時には、すでに姿が見えなくなっていた。
俺は救われた。二度、ではなく三度。加護を得られたのもカイトのおかげだ。その御礼を伝えることも俺は出来ていない。