
その時は突然訪れた。まったく望んでいない事態だ。学校の食堂で自分はいつものように友達のコルテスと雑談をしていた。入学してひと月以上が経っても、未だに話し相手はコルテスだけ。これは自分の不徳の致すところだろう。きっと人との接し方が、どこかおかしいのだ。
だが、こんな事態を迎えるのであれば、知り合いはコルテスだけで良かったと思う。知り合いという表現は微妙か。相手は自分が何者かなど考えていない。名も知らない。素性も、恐らくは知らない。
「君か? エミリーの悪口を広めているのは?」
「……はい?」
そんなことはしていない。まったく身に覚えがない。そんな真似をする理由がない。
「とぼけないでもらおうか。証拠はあがっているのだから」
「……あの……失礼ですけど、どちら様ですか?」
自分よりも、自分が騙っている実家の爵位よりも上であることは明らか。男爵の下は貴族ではないので当たり前なのだが、制服なのに色々と飾られている、それが学校に許されていることで、かなり上位の貴族家なのだと推測した。
「……アントンだ」
「アントン様、ですか……どこかでお会いしましたか?」
そんなはずはない。記憶力はそれほど悪くない。会ったことのある人の、名前はともかく、顔は覚えている。仕事でも必要なことだ。
「……話すのは初めてだ」
初めて話す人にいきなり言いがかりをつけられた。爵位が上の、そもそも自分は貴族ではないので爵位どころか身分が上なのだが、人だからといって、納得出来ない。
「そうでしたか……えっと、それで俺、いえ、私がなんとかさんの悪い噂を流したということですが」
「エミリーだ!」
「あっ、はい。そのエミリーさん。エミリーさんとも話したことはないと思うのですけど。どうして私がそんな真似をしたことになっているのですか?」
知らない人の悪口など言うはずがない。証拠はあがっていると言っていたが、それは嘘だ。
「……証言者がいる。君が噂の出所だと聞いた」
「噂……噂と悪口は違うのではないですか?」
証拠があがっているという嘘を相手は押し通すつもりのようだ。そうであれば、こちらは嘘を暴いていくしかない。話の矛盾を突いて、嘘をついたことを認めさせるのだ。
「君はウィリアムとエミリーの結婚は不幸を招くと言ったそうではないか? いつまでも惚けるつもりだ?」
「今度はウィリアムさんですか……そのウィリアム……ん?」
ウィリアムの名には聞き覚えがあった。それに気づくとエミリーという名もどこかで聞いた気がする。
「……カイト……勇者と聖女のことだ」
小声でコルテスが答えをくれた。ウィリアムは第二王子のこと。エミリーは聖女と呼ばれる、呼ばれる予定の女性のことだ。
「えっと……少し心当たりがありました」
「ほら見ろ!」
「ですが。悪口を言ったつもりはありません。先ほど教えられたような言葉は、神に誓いますが、口にしておりません」
信じる神などいないが、否定するにはこれくらい言ったほうが良いだろう。通用するかは分からないが。
「嘘をつくな!」
「嘘をついていないと、今誓ったばかりですけど?」
「貴様……ウォーリック侯爵家を侮辱するのか?」
目の前の男も誰だか分かった。ウォーリック侯爵家のアントン。注目の新入生の一人。自分が絶対に関わるべきではない危険な人物の一人だ。
その一人に関わることになってしまった。最悪の事態だ。
「アントン。もう良いわ。私は気にしていないから」
「エミリーは優しすぎる。だからこういう奴がつけあがるのさ」
さらにエミリーも現れた。彼女だけではない。ウィリアム第二王子らしき人物も後ろにいる。恐らくは宰相の息子も。一気に四人。これはどこかで何かのフラグを立ててしまったに違いない。まったく心当たりはないが。
それはまた後で考えるとして、今をどう乗り切るか。
王子様に嫌われたので任務は終わり。そうしてもらうのが一番だが、それを判断してくれる人はこの場にいない。
「えっと、失礼ですが貴方は?」
現れたエミリーが自分に話しかけてきた。なるほど、美形だ。だが、瞳に侮蔑の感情が見える。身分の低い自分を蔑んでいるのだ。元の世界であらゆる悪感情の視線を向けられ続けた自分は、いつの間にかこういうのが分かるようになっていた。
「この学校の学生です」
「そ、そうですね。それで……」
「あっ、ああ。恐らくは貴女と同じ新入生です」
わざわざ蔑まれることを自分で話す必要はない。地方の名も知られていない男爵家の息子。これさえも嘘なのだ。
「……私は謝罪を受け入れる用意があります」
「何に対する謝罪でしょうか?」
この女は生理的に無理だ。理由は分からないが、本能が訴えている。事をこれ以上、荒立てるのは得策ではない。謝って終わるのであればそうするべき。それが分かっていても反発心が抑えられない。
「……私を侮辱したと聞いています」
「何の話でしょう? 私は貴女のことを知りません。知らない人を侮辱することは出来ません」
「先ほど、貴方は心当たりがあると言いました」
「少し、あるです。勇者と聖女の話であればした覚えがあります。もしかしてこれが侮辱なのですか? 貴女は自分が聖女だと言っているのですか?」
この世界において聖女というのがどういう存在かは分からない。だが自称して、それで認められるものではないはず。彼女はまだ聖女として認められていないはず。コルテス君が「いずれ」と言ったことは覚えている。話題にした人たちの名前はきれいさっぱり忘れていたのに、何故か。
「それは……」
彼女は口ごもった。これは自分が優勢だ。こう思ったのだが。
「エミリーが聖女として認められるのは間違いない! 今、聖女と言えば、それはエミリーのことだ!」
黙らない奴がいた。アストンだ。なんだろう。自分が恋愛ゲームのど真ん中に放り込まれた気分。詰められている自分が男なのは、ちょっと違うと思うが。まさかと思うが踏み台キャラなのか。だったらもっと爵位の高い人間を選んで欲しい。そもそも俺は平民だ。
「……誤解を生む発言をしてしまったのでしたら、それについては謝罪します」
納得いかないが、ここは折れることにした。この手の奴ら相手には反抗するだけ無駄であることを自分は経験から知っている。自分が間違っていると認めることが出来ないのだ。実際に間違っていて。それに気付いても。
「貴方が謝罪する必要はありませんわ。悪いのはアントンたちではありませんか?」
謝罪して終わらせるはずだった。だがそれさえも邪魔をする人が現れた。
「えっと……」
彼女が何者かは一目見て分かった。黒い髪に翠色の瞳。話をしたことはないが、会うのはこれで三度目。アッシュビー公爵家のクリスティーナだ。
彼女がいるのであれば、あの悪魔もいるはず。だが姿が見えない。
(……影の中か。不意打ちを許していたな)
悪魔は彼女の影の中に潜んでいるようだ。気づくのに時間が掛かってしまった。相手に攻撃する気があれば、不意打ちを食らっていた。自分の未熟さをまた思い知ることになった。
「クリスティーナ、邪魔をするな」
「邪魔をしているつもりはありませんわ。私は間違いを正そうとしているだけです」
正義感の強そうな女の子だ。こういう女子も最初はいた、だが圧倒的な力には敵わない。自分が虐められる恐怖に口をつぐみ、見て見ぬふりをするようになる。
嫌な過去を思い出してしまった。
「我々は間違ってなどいない。その証に彼は謝ったではないか。我々が間違っているというのであれば。どうして彼は謝る?」
良く恥ずかしくならないものだと感心する。この主張もまた間違い。屁理屈と言えるようなものだ。もし、そうであることに気付かないで主張しているのだとすれば、代々ウォーリック侯爵家は優秀な当主を生み出したというのも、この男の代で終わりだろう。
「それは貴方たちが強制したからではないですか?」
「我々はそんなことをしていない。ああ、分かったぞ。さては君が裏で糸を引いているのか?」
「どういう意味かしら?」
「君がこの彼に言わせたのだろ? ウィリアムとエミリーの仲を邪魔する為に」
「私は、そんな……」
矛先がクリスティーナに向かった。どうしてこうなるのか自分には分からない。彼女が自分に指示したなんて事実はない。あるはずがない。
分かるのは、どうやらこの展開は彼らの望むものであるようだ。「してやったり」という風な感情がアントン、エミリー、そして宰相の息子の顔に浮かんで見える。
心の中がどす黒く染まっていく。どうして人はこんな風になれるのか。人を虐めることに喜びを感じるのか
「恐れながら、誤解という言葉の意味をご存じでしょうか?」
感情を押し殺すことが出来ず、言うべきでないことを言葉にしてしまった。
「なんだって?」
「私が謝罪したのは、誤解されたことに対して。そうはっきりと申し上げました」
「……だから謝罪したのだろ?」
「ですから、誤解の意味です。間違って解釈されたことを謝罪したのです。貴方がたが間違ってしまったことを」
「…………」
その間違ったことをクリスティーナは正そうとした。その彼女を批判するのはおかしい。言外の意味は理解出来たようだ。完全な馬鹿ではない。
「もう良い。ここまでの騒ぎにするようなことではない」
「でも、ウィリアム…………いや、分かった」
ウィリアム第二王子がこの状況を終わらせにきた。彼の感情は良く分からない。付いては来たが、口を開いたのは今だけ。ずっと黙って、不毛なやりとりを見ているだけだった。それは宰相の息子も同じだが、彼に関しては、感情が表情に出ていた。王子様とは違う。
厄介者たちは食堂を出ていった。クリスティーナも、何か言いたそうにしていたが、自分が話しかける隙を見せないようにしていたので、そのまま去っていった。
「カイト……お前、やばいぞ?」
分かっている。コルテス君の言う通りだ。ああいう人たちと関わる、それも反感を持たれて、良いことなどない。それは分かるが。
「お前がそれを言うか? どう考えてもお前の言葉も全部、俺が言ったことになっているじゃないか?」
「……うん、気にするな。すぐに忘れるさ」
「お前は忘れるな!」