
ミネラウヴァ王国北東部の辺境領。魔王を戴くカンバリア魔王国との国境近くにその洞窟はある。<悪魔の迷宮>などという物騒な呼ばれ方をしている洞窟だ。実際にこの洞窟はかなり危険な場所だ。洞窟内には狂暴な魔獣が多く住み着いている。これだけであれば各地にある迷宮とそう変わらない。悪魔の迷宮が他よりも危険な場所とされているのは洞窟内に人体、正確には人族の体に、有害とされる魔素が漂っているからだ。魔力の素である魔素は、濃淡は別にして、どこにでもあるとされている。だが、悪魔の迷宮の魔素は普通の魔素ではない。悪魔の魔力と同じ、汚染された魔素なのだ。
人族が長時間その魔素を浴びていると体が侵され、精神が侵され、やがて死ぬことになる。生き残れる人族は稀だ。だが、その生き残れた人族は常人とは異なる力を得ることもある。それを利用している存在がいる。
「もうここで良いだろ? さっさとその赤子を置いて出よう」
「ここはまだ平気だ。ていうか、お前だって分かっているだろ?」
「ここに来ただけで、あの頃の恐怖で震えるんだよ。お前は違うのか?」
彼らは生き残りだ。この悪魔の迷宮に放り込まれ、生き残れた幸運に守られた存在。だが、その幸運を喜ぶ気持ちはないようだ。恐怖だけが心に刻み付けられているのだ。
「俺だって嫌だけど、何日もこの赤子の泣き声を聞くのはもっと嫌だ」
「ああ……相変わらず外道だよな? 生き残れる可能性なんてあるはずがない」
「一応、今回のこれは違うらしいぞ」
彼らがこの洞窟に閉じ込められたのには訳がある。当事者である彼らには納得できないだろうが、きちんとした理由だ。「きちんとした」といっても非道であることは間違いないが、ミネラウヴァ王国はそれを黙認しているのだ。
「違うって、何が?」
「母親に頼まれたらしい」
「げっ……母親が外道か」
今回、赤子を迷宮に置き去りにするのは正当な理由があってのことではない。生き残る可能性は皆無であると分かっていてのこと。つまり、殺す為にこの迷宮に連れてきたのだ。
「団長の話では城の侍女らしい。産まれてはいけない子供を産んでしまったのだろうって言っていた。良くある話だって」
「産まれてはいけない子供?」
「城の侍女も女ってことだろ? お上品な振る舞いをしていても性欲は押さえられないってことだ。誰が相手かも分からない子供なんじゃねえか?」
「……良くそんな話が聞けたな?」
彼らが団長と呼ぶ男は絶対的な存在。親しみなどまったく感じることはない恐怖の存在なのだ。普段、団長は細かい事情など説明することはない。彼らは命じられたことをただ命じられた通りに行うしかないのだ。
「さすがに団長も罪悪感があるのではないか? 要は言い訳だ」
「なるほど。責任を負わされるのは大嫌いだからな。でも、そう考えると良く引き受けたな。赤子とはいえ、殺人だ」
団長と呼ばれる人物は、彼らから見て、ろくでもない人物だ。犯罪まがいのことも沢山しているが、自ら手を汚すことはしない。嫌なことは全て部下に押し付けている。
「だからわざわざ領地まで連れてきて、この迷宮に置き去りにするのだろ? ここで死んでも罪には問われない」
「いやいや……」
彼らとは違う。彼らも幼い頃にここに放り込まれたが、自らの足で動くことが出来て、渡された食料を食べることも出来た。だが赤子では自らの意思で動くことも、食べることも出来ない。生きられるはずがない。それが分かっていてこの迷宮に置き去りにしようというのだから、やはり殺人だ。
「いざとなれば俺たちに責任を押し付けるつもりだろうな」
「ええ……」
「そうであっても逆らえない。命じられた通りにするしかない」
命令に背くことは出来ない。彼らにそれは許されない。どれほど残酷な所業であっても、命じられれば、それを行うしかないのだ。
「……そろそろ行き止まりじゃないか?」
「分かっている」
先は崖になっている。下に降りる道がないわけではないが、そんな愚かな真似はしない。下層には恐ろしい魔獣がいる。この迷宮で生き残り、特殊能力を得た彼らでも、下層は生きて戻れる保証のない場所なのだ。
「さてと……」
「まさか……崖から落とすつもりか?」
仲間は赤子を崖から落とそうとしている。殺そうとしている。それに驚いた。
「長く苦しんで死ぬよりは、ひと思いに殺してやったほうが良いかと思って」
「ああ……それは、そうかも……」
魔素に侵されて死ぬにしても、飢えて死ぬにしても、数日はかかるはず。この赤子は数日、苦しみ続けることになる。同じ死ぬにしても、それは可哀そうだと思った。
「……もし生まれ変わることがあったら、今度は幸せな人生を送れよ」
彼らはどうなのか。幸せだと思ったことはない。生き残れた幸運よりも、その後の辛さが上回っている。赤子を殺すのは残酷な行為。だが彼らの手はとっくに汚れている。残酷な行いなど、これが初めてではない。そうしないと生きて来られなかったのだ。
ゆっくりと彼の腕から落ちていく赤子。剣で殺すことなく、崖から落とすことを選んだのは罪悪感から。たいして違いはないが、直接手を下すよりはわずかに気が楽。こういう理由だ。
崖下に落ちた赤子の様子を確かめることなく、そそくさと迷宮の出口に向かう二人。確かめようにも確かめようがない。覗き込んでも見えるものではないのだ。
(……赤子までこの迷宮に……人というのはどこまでも残酷になれるものなのだな)
崖下に何がいるのかなど。
仮にその存在に出会えたとすれば、彼らは迷宮を生きて出られることはないだろう。