自分の仮説はどうやら真実だった。朦朧としている意識の中で、ヴァイオレットはそれを知ることになった。ずっとどうするべきか悩んでいた。仮説は間違い。こう思いたかった。ずっと真実は闇の中であれば良いと願った。だがそれは、恐らく、無理だ。真実はいずれ明らかになる。それを望んでいるのは、帝国の頂点に立つ皇帝なのだから。
フェンに正直に話そうと決めた。それでもう彼との時は失われるだろう。そうであっても彼には誠実でありたかった。これ以上、隠し事を増やしたくなかった。いつの間にかそんな風に考えるようになっていた。自分の望みよりもフェンを優先しなければと思えるようになっていた。辛い決断ではあるが、自分の彼への想いは偽りではないと思えたことは嬉しかった。
「全てを持ち出すな。何もかもなくなっていれば疑われる」
男の声が聞こえている。何者か分からない。いきなり部屋に乗り込んできた男たち。誰何する間も与えられず、頭に強い衝撃を感じ、床に倒れることになった。どれだけ時間が経ったか分からないが、目覚めた時も男たちはいた。部屋の中で資料を探していた。ずっと集めてきたメルガ伯爵屋敷襲撃事件、今はイアールンヴィズ騎士団襲撃事件の資料とも言える。
「団長。どうやら気が付いたみたいです」
男の一人に目覚めていることを気付かれてしまった。また頭を殴られるのかと身構えたが、すぐにはそうされなかった。
「……特に聞くこともなさそうだ。先に始末するか」
だからといって助かったわけではない。最悪の結果がすぐ先に待っている。どうやら自分は殺される。ヴァイオレットはそれが分かった。彼女は真実にたどり着いたのだ。その結果がこれだ。
「醜い女だって聞いていましたけど……こうして見ると良い女ですね?」
「顔はな。裸にすれば、そんな気もなくなる。それに我々がいた痕跡を残すような真似は許せない」
「そうですね。残念」
涙が零れるのを堪えられない。こんな男たちのせいで泣くことなどしたくない。だが悔しくて、恐ろしくて、悲しくて、もうフェンに会えないと思うと辛くて、涙が止まらない。
「団長。こんなものがありました」
「何だ? 日記か? 日記など必要ない」
「少し読んでください。面白いことが書いてありますから」
屈辱で胸が苦しくなる。絶対に知られたくない想いが記された日記。どうしてそれをこの男たちに見られなければならないのか。、どうしてこんなことになってしまったのか。
「……や、止めろ」
「なんだ? 日記を読まれるのが恥ずかしいのか? お前みたいな女でも恥ずかしいと思うことがあるのだな?」
何も知らない男が侮辱してくる。初めてのことではない。数えきれないほどあったことだ。達観出来るようになったはずだった。だが、今は冷静でいられない。屈辱で狂いそうになる。
「なるほど……良い内容だ。叶わぬ恋を悲観して自殺。我らが疑われることはなさそうだ」
「へえ、お前、恋なんてしていたのか……でも叶わぬ恋……顔は良いのに、やはり醜い体のせいか? 残念だったな」
「もう良い。早くやれ」
無駄だと分かっていても足掻こうと床を這う。目覚めたとはいえ、意識はまだはっきりとしていない。体も思うように動かせない。それでも逃げようと思った。こんな奴らの思い通りにされるのが我慢ならなかった。
「抵抗するな。面倒くさい」
だが側にいた男に簡単に押さえ込まれてしまう。そのまま抱きかかえられ、窓際に運ばれる。自分の身がどうなるのか、それで分かった。開け放たれた窓。青空が目に眩しかった。
「……フェン……愛して……」
届かない声。伝わらない言葉。最後まで言い切ることさえ、許されなかった。どこで意識が途絶えたか分からないまま、ヴァイオレットはこの世を去った。
◆◆◆
メルガ準伯爵家の、ヴァイオレットの使用人に呼び出されてリルとローレルは屋敷を訪れた。用件は知らされていない。使いにきた使用人も分からないということだ。とにかく重要な話がある。二人に聞いてもらいたいので屋敷に来て欲しいということなのだ。
リルとローレルの二人は、それぞれ思うことがあって、複雑な表情を見せている。自分たちに向かって話す重要な内容。ヴァイオレットと自分、リルとの関係についてである可能性を二人は考えてしまうのだ。
「どうぞ、お入りください」
使用人の案内で屋敷の中に入る。リルにとっては、すでに見慣れた建物。ヴァイオレットの部屋に行くのも迷うことはない。当然、先導はしない。向かう部屋が逢瀬を重ねた寝室である可能性も低い。
廊下を進み、階段を上る。目的の部屋は三階。寝室の手前の部屋であることをリルは知っている。
「ご当主様。お客様をお連れしました」
扉を叩き、リルたちの来訪を告げる。
「……ご当主様? 失礼いたします」
中からの応えがない。使用人は所在を確かめようと部屋の中に入っていった。
「ご当主様!? 大丈夫ですか、ヴァイオレット様!?」
この叫び声が耳に届いた瞬間、リルは動いた。部屋の中に入って、窓際に立っている使用人に近づく。ヴァイオレットの姿は見えないので、どういうことか分からなかったのだ。
「何があったのですか?」
「ヴァイオレット様が……下に……」
「下……まさかっ!?」
開け放たれた窓。そこで下と言われれば、それはそういうことだ。身を乗り出した下を覗き込むリル。
「……そ、そんな……そんな馬鹿な……」
地面に倒れる女性がいた。ヴァイオレットであることは間違いない。何がどうなって、このような事態になったのか。リルにはまったく分からない。動揺が激しすぎて、思考が停止してしまっている。
「リル、何が……う、嘘だ」
遅れてきたローレルも下を覗き込んで事態を理解した。ローレルは反応した。本当に倒れているのはヴァイオレットなのか確かめようと動き出した。部屋を飛び出し、廊下を走る。階段を駆け下り、一階まで来ると目の前の部屋に飛び込んで、そのまま窓から外に出た。玄関まで行く時間が我慢出来なかったのだ。
何かの間違い。もしかしたら寝ているだけかもしれない。無理な期待を無理やり、頭に浮かべてヴァイオレットが倒れている場所に向かう。
「…………」
だがその淡い期待は一目見た瞬間に吹き飛んだ。曲がるはずのない方向に曲がっている足。飛び広がった血の跡。生気のまったく感じられない濁った瞳。その場に跪き、髪をかき分けて顔を確認したローレルは、すぐに後悔することになった、美しかったヴァイオレットの顔は地面にぶつかった衝撃で崩れていた。
「……ヴァイオレットさん!」
「リル、来るな! 見るな!」
リルも後を追いかけてきていた。だがローレルはそのリルをヴァイオレットから遠ざけようとする。彼女の今の姿を見せたくなかった。ヴァイオレットは見られたくないだろうと思った。
「……俺のせいだ……俺が彼女を……彼女の人生を……」
崩れ落ちるように地面に跪くリル。自責の言葉が漏れ出ている。ヴァイオレットの死は自分のせい。自分が彼女を苦しめたせいで死ぬことになったのだとリルは思っている。
「違う。そうじゃない。リルのせいじゃない」
ローレルはリルの考えを否定する。彼は知っている。ヴァイオレットにとってリルがどういう存在だったかを。リルは彼女の生きる理由だった。リルとどういう形であれ愛し合えている今、ヴァイオレットが死を選ぶはずがないと思っている。
「俺のせいだ! 俺が……うわぁあああああっ!! わあああああっ!!」
「リル! 違う! 落ち着け!」
正気を失ってしまったかのように叫び続けるリル。その彼を宥めようとするローレルだが、どんな言葉もリルの慰めにはならない。今は何を言ってもリルの耳に、心に届かない。
何故こんなことになってしまったのか。こんな決着はまったく想像していなかった。望んでいなかった。リルを慰めるローレルの心にも冷たい風が吹いている。いっそ凍ってしまえば悲しみも感じなくなるのか。こんな思いが浮かんだ。
◆◆◆
ここまで来てもプリムローズは、まだ事態が呑み込めていない。ヴァイオレットが亡くなった。今夜はヴァイオレットの屋敷に泊まることになるので、着替えを持ってきてほしい。リルが酷く動揺しているか、そのつもりで。ローレルからのこんな伝言を受け取って、プリムローズはヴァイオレットの屋敷にやってきたのだ。
半信半疑のまま屋敷に到着。迎え入れてくれた使用人に話を聞くと、ヴァイオレットの死は事実だった。それでもまだ気持ちがふわふわしている。何が何だか分からない。そんな状態だ。
「……ローレル兄」
三階に上がったところで、部屋から出てきたローレルにばったり会った。少し驚いた様子のローレルが気になったが、特に何も言わず部屋に入ろうとする。
「ああ、部屋は一番奥。そこにヴァイオレット殿の遺体と……リルがいる」
「分かった」
「プリム。リルは少しあれだけど……あれだから」
今のリルを見て、プリムローズはどう感じるか。ローレルはそれが不安だった。リルを落ち着かせるにはプリムローズが必要。そう考えて呼んだのだが、リルの様子を見れば、二人の間に何かあったのは明らか。事実を知っているローレルはそう思ってしまうのだ。
「……良く分からない」
「そうだな。とにかく、リルを頼む」
ローレルは一緒に部屋に行くつもりはない。この言葉でプリムローズにはそれが分かった。何かおかしい。そう思うとローレルが持っている書物も気になる。こんな時に彼は何を読もうとしているのか。不思議だった。
「……分かった」
今はそれを追及している場合ではない。とにかくリルの様子を確かめなければならない。ローレルの言葉では何がどうなっているのか、まったく分からないが、普通の状態ではないことは分かる。
奥の部屋に向かうプリムローズ。途中で気になって後ろを振り返ると、また別の部屋に入っていくローレルが見えた。首をかしげながらも、奥の部屋に向かう。扉をノックしたが、中からの反応はない。
「……失礼します」
躊躇いを覚えながら扉をゆっくりと開ける。リルの姿はすぐに見つかった。ベッドの横に置かれた椅子に座るリル。生きているのか心配になるほど生気のない顔の彼がそこにいた。
「……リル」
「…………」
呼びかけにも反応がない。自分の存在に気付いてくれない。プリムローズは少し胸が痛くなった。こんなリルを見るのは初めて。自分の存在を無視されたのも初めてだ。
「リル……大丈夫?」
心が傷つく以上にリルへの想いが強く湧き上がってくる。彼の為に、彼を慰める為に何かしなければならない。何が出来るのか分からない。想いのままに動いたプリムローズは、リルの体を抱きしめていた。
「……大丈夫だから。私が側にいるから」
「……俺は……俺が……」
プリムローズの言葉に反応を見せたリル。自分を抱きしめる彼女の胸に頭を預け、自らの腕を背中に回す。それを感じて、さらに強くリルを抱きしめるプリムローズ。リルも抱きしめ返してくる。そう思っていたのだが。
「……すみません。俺は……」
リルはプリムローズの背中に回した腕を戻し、彼女の体を押し返した。ヴァイオレットの前で、プリムローズと抱き合うことは出来ない。してはいけない。そう思っているのだ。
「……ううん。そうだね?」
なにが「そうだね?」なのか。口にしたプリムローズは分かっていない。リルの反応が理解出来なくて、どんな言葉を返せば良いか分からなかったのだ。
「……彼女が死んだのは俺の責任です」
「リル……」
「彼女がこれほど苦しんでいることに、俺はまったく気付いていなくて……何も知らないで、平気で彼女の側にいた。彼女を苦しめていた」
涙を零しながら語り始めるリル。ヴァイオレットの死は自分の責任だとリルは考えている。復讐なのだという彼女の言葉を鵜呑みにして、自分は彼女の体を弄んだ。平気な顔をしていたがヴァイオレットはその裏で苦しんでいた。それに自分は気付けず、彼女に溺れた。それがこの結果だと思っているのだ。
「…………」
リルの言葉で、なんとなくプリムローズも二人の間に何があったのか分かった。加害者と被害者。決して相容れないはずの二人が、どういう経緯か分からないが、交わったのだ。だからリルはこのように自分を責め、傷ついているのだ。
これが分かると、プリムローズはかける言葉を失ってしまう。今のリルを慰める資格は自分にはないと思ってしまう。リルとヴァイオレットの関係に、自分が割り込む隙間はない。自分はリルの役には立てない。
ゆっくりと扉に向かって歩き出す。引き留める言葉はない。リルは、ヴァイオレットの亡骸に向かって、自責の言葉を呟いている。自分の存在はもう忘れている。プリムローズはそう感じた。