近頃、ローレルの頭の中を占めているのはヴァイオレットのこと。いくら考えても答えは出ない。ヴァイオレットとリルの関係は不適切なもの。すぐに解消させなければならない。理性でも感情でもそれは分かっている。だがその理性と感情が別の考えも生み出してしまう。ヴィオレットの想いは深い。その想いを邪魔する資格が自分にはあるのか。婚約者なのだから当然ある、という考えを別の理性と感情が否定してしまうのだ。
リルは自分とプリムローズを守るためにヴァイオレットの要求に応えているのだと、ローレルは信じている。「もうその必要はない」と伝えれば、リルは関係を解消する。そう考えている。だがそうなった場合、ヴァイオレットはどう思うか。リルを「自分の人生の全て」と言い切る彼女は、そうなった時にどうするのか。いくら考えても分かることではない。
そもそもローレルは自分の気持ちも分かっていない。分かっていても、それを認めようとしていない。今となっては認めることは出来ない。
「喧嘩でもした?」
「はっ?」
「だから、リルと喧嘩でもしたのかしら?」
「……そんなことはない」
自分の何を見てトゥインクルはこんな風に思ったのか。ローレルは不思議に思った。
「本当? 何だかよそよそしいけど? 今はローレルのほうが」
トゥインクルが二人の間に距離を感じるようになったのは以前からだ。ただその時はリルのほうが一方的に避けているようにトゥインクルには見えていた。
「よそよそしいなんて……いつも通りだ」
心に生まれたリルに対する小さなわだかまり。その存在はローレルも完全には否定できない。だがそれが態度に出ているとは思っていなかった。逆に表に出さないように気を付けていたつもりだった。
「いつも通りね……それなら良いけど」
明らかに嘘。トゥインクルにはそれが分かっているが、追及は止めておいた。これについては、自分が出しゃばる問題ではない。出しゃばっても何の解決にもならない。こう思うのだ。
「わざわざ、それを言いに来たのか?」
「そこまで暇じゃないわ。私も公安部に進むことにした。これを伝えに来たの」
「……はい? 今、何て?」
聞こえてはいる。だが、言葉の意味をローレルは理解出来ないでいる。理解したくないのかもしれない。
「だから、私も帝国騎士団公安部に進むことにした」
「どうして!?」
「そんなに驚くこと? 私は自家の騎士団には入れてもらえない。結婚もしたくない。どこかで働くしかないでしょ?」
卒業して家に戻ればトゥインクルには、どこかの誰かとの婚姻が待っている。トゥインクルはそれを受け入れたくない。いつかは誰かと結婚する。それが避けられないことは分かっている。だがそれは今ではない。特別な事情があるわけではない。ただ嫌なだけ。実家に、父親に反抗しているだけだ。
「……そうだとしても、どうして公安部なのだ?」
「帝国騎士養成学校の騎士候補生が帝国騎士団に進むのは当たり前のことでしょ? 公安部希望なのは、受け入れられやすいと思ったから」
帝国騎士団は人手不足だが、女性の身で本隊に入団するとなると、やや狭き門になる。一方で公安部は副部長のマグノリアを始めとして女性が比較的多い。ネッカル侯爵家も危険を理由に反対しづらいだろうというトゥインクルの思惑もあるのだ。
「そうだけど……ネッカル侯爵家はそれを認めるのか?」
ローレルとトゥインクルでは同じアネモイ四家の人間であっても立場が違う。ローレルは三男に生まれた時から家を出ることが、ほぼ決まっていた。家臣として実家に残ることは出来なくはないが、それよりも、官僚になるか騎士になるか、どちらかを選んで分家するのが一般的だ。
だが女性であるトゥインクルにはそういった選択肢はないはず。自家の勢力拡大の為に、どこかに嫁ぐことを求められているはずなのだ。
「だから既成事実を作る。私も今から公安部で働けるようにしてくれる?」
「はあ?」
「あと、陛下かルイミラ妃のお墨付きが欲しいわね。これも頼むわ」
ローレルと同じように騎士候補生のうちから公安部で働くことで配属を決定的なものにする。さらに皇帝がそれを認めてしまえば、実家のネッカル侯爵家も一旦は認めざるを得なくなる。少なくとも卒業してすぐに結婚という事態は避けられるはずだとトゥインクルは考えている。
「お……お前……なんてことを……」
ローレルの皇帝とルイミラ妃との繋がりを利用しようとしてきたのはトゥインクルが初めて。ローレルの知らないところで考えた人たちはいても、正面から本人に要求してくる相手はいなかったのだ。
トゥインクルはそのタブー、という表現が適切かは分からないが、を軽く超えてきた。
「頼んだわよ?」
「だから、そんなこと出来るはずないだろ?」
「何よ? じゃあ、ローレルは私が顔を見たこともない相手と結婚する羽目になっても良いと言うの? 相手がよぼよぼのお爺さんだったら、どう責任とってくれるのよ?」
「お爺さんって……そういう人は相手に選ばれないだろ?」
政略結婚も、帝国貴族最上位のネッカル侯爵家のほうが、爵位同様に上の立場だ。嫁ぐトゥインクルにとって極端に条件が悪い相手が選ばれるはずはないとローレルは思っている。
「可能性は無ではないわ。実際にそういう相手だったらどうしてくれるのよ?」
「どうしてって……」
ローレルにはどうしようもない。だがそれを言ってもトゥインクルは納得しない。何を言っても無断なのだ。こういう我が儘状態の時のトゥインクルには。幼い頃からそうだった。
「じゃあ、決まりね? 頼りにしているわ」
「あ、ああ……」
そして最後は魅力的な笑みを浮かべながら、これを言う。「頼りにしているわ」。今となっては、「これに何度騙されたことか」とローレルも思うようになっている。それでも、生返事ではあるが、了承を口にしてしまうローレルがいた。条件反射のようなものだ。
◆◆◆
騎士養成学校の今年度の行事は、三年生の卒業演習を残すのみ。 帝国騎士団との演習だ。施設騎士団が台頭し、卒業生の多くがそこに流れるようになってからは演習の目的は変わっている。卒業する三年生に及第点を与える為ではなく、帝国騎士団の正規騎士、従士との実力差を見せつける場に。圧倒的な実力差を見せつける為に演習に向けて帝国騎士団も厳しい訓練を続けている。帝国騎士団にとっては絶対に負けられない戦いなのだ。
「さすがにこれは、やり過ぎではないかしら?」
ワイズマン帝国騎士団長の執務室を訪れたマグノリア公安部副部長は、そこにあった帝国騎士団側の編成表を見て、呆れている。ワイズマンと側近のヴォイドで編成について話していたところにやって来て。目にしたのだ。
「それだけ今年の三年生を高く評価しているということです」
マグノリアの問いに答えたのはヴォイド。彼は今回、演習に臨む帝国騎士団の編成に関わっている身だ。否定的な問いには同調出来ない。
「だからといって、見習い従士にもなっていない騎士候補生に帝国騎士団の精鋭をぶつける?」
「精鋭は言い過ぎです。確かに総指揮官はイーグレット殿ですが、騎士、従士は例年より少しだけ実力をあげているくらいです」
今回、総指揮官を務めるのはイーグレット上級騎士。帝国騎士団の三軍団長の一人だ。ワイズマン帝国騎士団長に次ぐ実力者なのだから、マグノリアが精鋭だと思うのは当然だ。
「少しね……」
「演習では基本、小隊指揮官の能力で勝敗が決まります。イーグレット殿が直接命令を出すことなどないでしょう」
演習は両陣営共に二中隊にも足りない規模。万を率いる将であるイーグレットの出番はない。小隊単位の戦いで決着は決まるはず。そもそも命令らしい命令も、ほぼ必要ない。帝国騎士団側は目の前の騎士候補生の小隊を叩きのめせば、それで勝ちなのだ。
「だったら騎士団長に次ぐ将を総指揮官にする必要ないわね? 見ている人たちは、私と同じように総指揮官の名で精鋭だと判断してしまうわよ?」
「イーグレット殿の希望ですから。間近で見たいと申されて……イーグレット殿、他のお二人の軍団長も今年の三年生を高く評価されているようです」
「だから我が儘を認めたと……ヴォイドに拒否は出来ないでしょうけど、大丈夫なの? 少し、実力をあげているくらいで」
「それは……まさか……そんな心配は無用です。万一などあり得ませんから」
マグノリアが心配しているのは、まさかの大番狂わせ。さすがにそれはないとヴォイドは考えている。絶対にあり得ないことだと。
「私だって、さすがに帝国騎士団が負けるとは思っていないわよ。心配なのは、またリルが期待を超える活躍をしてしまうことよ」
「それは、ある程度は他者との違いを見せてくれるものと期待していますが……何か問題がありますか?」
ワイズマン帝国騎士団長も期待しているはずだ。例年よりも帝国騎士団のレベルを上げたことを、簡単に容認したことでもそれは明らか。ヴォイドもそれで良いと思っている。リルは帝国騎士団に入団する。活躍してもそれは帝国騎士団の、将来の、強さを見せつけることになる。演習の目的から外れていない。
「私が心配しているのは、さらにリルが危険視されることよ。殺害未遂の犯人は捕まっていない。仮に実行犯が捕まっても、それがすべてではないはず」
リルの殺害未遂事件は未だ解決していない。リルたちがキースの存在を隠したせいで、実行犯も逃げていることになっている。またいつ狙われるか分からない状況であるのに、。帝国騎士団との演習でまた活躍するようなことになれば、反帝国勢力から絶対に消さなければならない対象とみなされるかもしれない。マグノリアはこれが不安なのだ。
「……失礼ですが、犯人を捕まえるのは公安部の仕事です」
犯人を捕まえられていないのは公安部の問題だ。公安部の副部長であるマグノリアは文句を言える立場ではないとヴォイドは思った。
「分かっているわ。ただ本来、公安部の人間は注目を集めるべきではない。でもリルは必要以上に目立ってしまっている。命まで狙われるなんて、あってはならないことだわ」
「それは……しかし、それは彼自身の、いえ、これは違いますね……やはり、本隊に入団させるべきではありませんか?」
最後の問いはワイズマンに向けたものだ。帝国騎士団本隊であれば、公安部のように外を動き回る必要はない。出動がない限り、騎士団施設にずっと籠っていることも可能だ。公安部に配属されるよりも日常生活は安全なのだ。
「……護衛はつけていないのか?」
「公安部では」
「他にいると?」
あえて「公安部では」という答えをマグノリアが返した意味。それは深く考えるまでもなく、明らかだ。
「調べたところ護衛らしき存在が確認出来ております。恐らくは、イアールンヴィズ騎士団ではないかと。護衛対象を変えて、また戻ったのだと考えています」
「なるほど……マグノリアの懸念は分かるが、彼の身を守る為に帝国の守りを疎かにするわけにはいかない」
今、リルに公安部の仕事を止めさせるわけにはいかない。予想以上の成果を挙げた。そうなるとさらなる成果を求めてしまう。反帝国勢力を帝都から完全に駆逐する。リルであれば、それさえ出来てしまうのではないか。ワイズマンはそれを期待してしまうのだ。
「……承知しました。あと、本題の話が遅れました」
マグノリアがワイズマンの執務室を訪れたのは、演習の話をするためでも、リルについて話す為でもない。別の用件があったのだ。
「ああ、そうだったな。何かあったのか?」
「ヴァイオレットから方面軍の活動資料を調べたいという申し出がありました。異例の申請なので、団長に直接相談すべきと思いまして」
「方面軍……彼女は何故、それを必要とする?」
ヴァイオレットが方面軍の活動内容を調べたい理由。ワイズマンにはまったく心当たりがなかった。
「彼女が求めるのは父親の殺害事件の真相。それ絡みだと思います」
「そうか……」
「ちょっと待ってください。マグノリア殿に詳細な説明はないのですか? それで本来、見る権限のない資料を公開しろというのはあり得ないと思うのですが?」
ヴォイドには今の話の内容が理解出来ない。上司であるマグノリアが何故、その資料を調べたいのか分からない。それでワイズマンに許可を求めるのはおかしいのと思う。当然の考えだ。
「ヴォイドは知らなかった? 事件の調査に関しては、彼女には特別な権限があるの。陛下に与えられた権限よ」
「皇帝陛下が……」
「それでも彼女は権限を振りかざすような真似はしない。きちんと私に許可を求めてくる。今回は何か分かったらということで理由は隠されたけど、こういうことは滅多にないわ」
「そうですか……」
皇帝に権限を与えられている。そうなるとヴォイドは何も言えなくなる。皇帝が認めたことを否定することなど許されることではないのだ。
「団長、いかがですか?」
「陛下がお与えになった権限は私も邪魔は出来ない。ただ……繋がっていると思うか?」
「それは内通者とメルガ伯爵襲撃事件のことですか? それとも……ヴァイオレットとリルのことですか?」
以前話をしていた帝国騎士団内の内通者の件。方面軍がそれではないかというのはヴォイドが可能性として話したことだ。ヴァイオレットの調査はそれに繋がるものなのか。もし、そうであれば、ヴァイオレットとリルは繋がっているのではいかという考えが浮かぶ。二人はお互いに相手が何者か分かった上で協力関係にある。この可能性だ。
「……両方だとすれば……真実はどこに向かうのだろうな?」
「今はまだ想像も出来ません」
メルガ伯爵襲撃事件には、隠れている何かがある。そんな可能性はワイズマンもマグノリアも考えていなかった。考える必要がなかった。だが反帝国勢力の内通者と事件が結びつくようなことになれば、考えないわけにはいかなくなる。
今はまだ、二人が持っている情報は少なすぎて、思いつくことは何もない。だが、自分たちが想像できないほどの何かがある。それは分かった。