卒業まで残された日も少なくなった。それでも三年生の毎日は変わらない。鍛錬に勤しむ日々が続いている。ほとんどの三年生が卒業後は貴族家の騎士団か私設騎士団に進む。実戦の場に出ることになる。怠けている場合ではないのだ。それに最後の行事も待っている。帝国騎士団との演習だ。
例年、三年生が完膚なきまでに叩きのめされる行事。今年は違う結果にしたい。そう思っている騎士候補生は少なくない。
「ローレル。今日はリルは?」
「ああ、公安部の仕事だ」
「またか……帝国騎士団との演習が近いというのに」
帝国騎士団との演習は、クラスごとではなく三年生全体で挑むことになる。部隊編成はクラスごとになるとしても全体の動きは合わせておきたい。グラキエスはこう思っているのだ。
「仕方がないだろ? 仕事だ」
「……どうしてお前は残っている?」
ローレルも公安部の仕事をしている。リルだけが仕事に出ている理由がグラキエスには分からない。
「僕の出番はないからだろ?」
ローレルも分かっていない。一緒に仕事をしているとはいえ、裏社会との交渉などリルが一人で行っている部分は多い。ローレルの出番がないのは珍しくないのだ。
「……リルは演習に参加しないのではないだろうな?」
リルがいるといないのでは戦力が違ってくる。戦術立案、指揮能力、それに個人の武においても絶対に外せない戦力だとグラキエスは考えている。
「まさか。参加するに決まっている」
「決まっているって……確認していないのか?」
「……確認する必要なんてない」
リルに確認はしていない。その必要性をローレルは感じていない。ただ、最近少し話す時間が減っているように思う。それに今、気が付いた。
「それもそうか。主のお前が参加するのに従士が側にいないなんてことはないな。リルに戦術について相談したいことがあると伝えておいてくれ」
「……分かった」
帝国騎士団との演習でどのように戦うかも話し合っていない。リルのことだから一人で考えているのだろうとは思う。だが、全てを丸投げしているのは良くないとローレルは反省した。
「…………」
卒業後、帝国騎士団公安部でリルと一緒に働くことになる。だがはたして自分はリルの役に立つのか。彼を支えることが出来るのか。今は出来ていない。騎士養成学校入学から三年になろうとしているのに、自分は何も変わっていない。ローレルはそう思った。
「ローレル、貴方も悩み事? それはそうか」
「トゥインクル……別に僕は悩んでいない」
グラキエスと入れ替わりにトゥインクルがやってきた。来ていきなり、ローレルにとっては、嫌なことを言ってくる。自分の考えていることを見透かされたと思ったのだ。
「悩みなさいよ。貴方だって無関係ではないのだから」
「……何の話?」
思っていたこととは違っている。トゥインクルの言葉はそうであることを示している。では、彼女は何について話をしているのか。すぐに思いつくことが、ローレルにはなかった。
「もしかして……気付いていないの?」
「だから何の話だ?」
「自分が誰と婚約したか…………まっ、別に良いけど。貴方がそれで幸せなら良いと思うわ」
ローレルはリルが何者か分かっていない。トゥインクルはこう考えた。だからヴィオレットと婚約出来たのだと。間違いだ。
「……もしかして……気付いているのか?」
ここでようやくローレルはトゥインクルが何を話しているのか、一部ではあるが、理解した。トゥインクルはリルの素性を知っている可能性を考えた。
「……それはリルのこと? それとも婚約者のこと?」
「どちらでも同じことだ」
「ああ……そういうことなら、答えはハイね」
ローレルの答えはリルの素性に関わることであることを示している。トゥインクルはそう受け取った。これは、正解だ。
「……誰かに話したのか?」
「怒るわよ。話すはずないでしょ?」
「そうか……彼女は気付いていない」
トゥインクルはリルがメルガ伯爵襲撃事件の犯人であることを知っている。そうであることを隠してくれている。ローレルは彼女の言葉を信じた。口ではトゥインクルのことを疎んじているようなことを言っているが、信頼はしているのだ。
「……どうして分かるの?」
「リルが言っていた。大丈夫だって」
「ローレル……貴方、それを信じているの?」
そんな都合の良い話があるのか。仮に事実だとして、リルはいつ気付くか分からない相手と、どうして一緒にいられるのか。普通は距離を取る。もっと言えば、逃げる。
「リルが嘘をついたというのか?」
「貴方の為であれば、リルは平気で嘘をつくと思うけど?」
「僕の為……? でも彼女は……」
トゥインクルの言う通り、自分の為であればリルは嘘をつくだろう。だが自分の為とはどういうことなのか。ヴァイオレットはリルがメルガ伯爵襲撃事件の犯人であることを誰にも話していないはず。どうして話さないのか。
「……これを言うと貴方を傷つけるかもしれないけど、どうして彼女は貴方と婚約しようと思ったのかしら?」
「それは他からの求婚を断る為に……彼女にとっては形だけの結婚だ」
「それでも……いえ、本当のところは彼女に聞かないと分からないわね。私から言えることは、リルは何かを思い悩んでいるということ。それにローレル、貴方が気付いていないことが驚きだわ」
ローレルはわざわざ「彼女にとって」という言葉を使った。それはローレルにとっての結婚は違うということ。ローレルは「形だけ」の結婚を望んでいない。トゥインクルはこう理解した。そうであればヴァイオレットについて、どうこう言うのは止めるべき。リルについてだけ、トゥインクルは伝えることにした。
「……リルが……悩んで……?」
「貴方が鈍感だから気付かなかったとは、私は思わないわ。きっとリルは気付かせないようにしていたのね」
「…………」
自分には悩んでいることを気付かせたくなかった。それはどういったことなのか。ヴァイオレットは真実に気付いていない。これが嘘であるとすれば、悩みは彼女に関りがあることである可能性が高い。
当たり前の話だ。ヴァイオレットを近づけてはいけなかった。分かりきっていることを、自分は出来なかった。それによって、リルが苦しんでいるのだとすれば。自分の愚かさをローレルは悔やんだ。
◆◆◆
はたして自分は望むものを手に入れたのだろうか。誰かに愛されること。それは諦めていた。「誰か」とは誰なのか。誰でも良かったわけではない。誰かを特定するとすれば、それはリルだ。では自分はリルに愛されているか。そうは思えない。であれば、やはり自分は求めていたものを手に入れられていない。
そうであるのに以前に比べて、自分の心は明るくなっている。リルの心には別の女性がいる。これを思うと苦しくなる。そうであっても、リルに抱かれている時間は心が満たされている。求めていたものを手に入れられたように感じられる。
この時間が永遠に続けば良い。そう願ってしまう。自分の欲求が膨らむのを抑えられない。これ以上は求めてはいけない。頭では分かっているのに、満たされたはずの心に、さらなる欲求が生まれてしまう。
「……どうしたの? 忘れ物でもした?」
扉が開く音。つい先ほど、部屋を出ていったリルが戻ってきたのだとヴァイオレットは考えた。
「……フェン、何を…………ロ、ローレル殿……」
だが部屋に入ってきたのはローレルだった。まさかのことにヴァイオレットは酷く動揺している。フェンの名を口にしてしまった。それだけではない。余韻に浸っていたヴァイオレットは、ベッドの上にいるのだ。
「……勝手に入ってきてしまって、申し訳ありません……ですが……リルと一緒だったのですね?」
「…………」
言い訳しなければならない。だがヴァイオレットの頭は真っ白で、何も思い浮かばなかった。
「フェンという名も知っている」
「……はい」
「どうしてですか? 貴女は何をしたいのですか? リルを、いえ、フェンをどうしたいのですか?」
ローレルの頭の中も混乱している。ヴァイオレットとフェンの間には何かある。トゥインクルに教えてもらってそれが分かったローレルは早速、確かめようと考えた。だが部屋に来てみれば、ヴァイオレットはベッドの上、シーツで隠しているが下着しか身に着けていないことは分かる。
「……か、彼には償いを」
「償い? 僕には分かりません。フェンはどう償っているのですか?」
「……私に……女性としての喜びを……彼が奪ったものを、彼に返してもらっているのです」
ようやく頭が動き出した。誤魔化すことは諦めたが、それらしい、まったく嘘ではないが、話を考えることが出来た。
「フェンを脅して?」
「そんなことはしていません。彼は了承してくれています」
これも嘘ではない。フェンは自ら望んではいなくても、受け入れてくれている。
「了承はしたのでしょう。でも、了承させるために貴女は何かしたはずです」
「そうだとして、何が悪いのですか? 彼は私を傷つけた。そのせいで私は誰にも愛してもらえなくなった。その償いを求めて、何が悪いのですか?」
隠し事は露わになった。だからといってフェンとの関係を終わらせるつもりはない。開き直りと受け取られようとも、自分を正当化するつもりだ。
「僕がいます」
「えっ……?」
「僕は貴女と結婚します。貴方の夫になり、妻となる貴女を愛します」
「そ、そんなことは……綺麗ごとを言わないで。それとも私を騙そうとしている? 嘘をついて私からフェンを奪おうとしている?」
そんなことはあり得ない。自分には愛される資格はない。体が汚れているだけでなく、心も醜い。ローレルはもうそれを知ったはずなのだ。
「フェンを奪おうとしているのは貴女だ。プリムからフェンを奪おうとしている」
「……それが何? 私は愛されないのに、どうして彼は愛されることを許されるの!? 彼に私以外を見る資格はない!」
プリムローズの名を出されるとヴァイオレットはますます冷静でいられなくなる。分かっているのだ。フェンの心の中にはプリムローズがいる。自分を見てと、どれだけお願いしても、彼が見ているのは自分ではなくプリムローズだと。
「……貴女の気持ちは理解出来なくもない。でも、僕はフェンにこれ以上、辛い思いをさせるつもりはない」
「私が訴え出れば貴方もただでは済まない。プリムローズも犯罪者を、そうだと知って匿っていたのだから」
「……なるほど。これでフェンを脅したのですね? だからフェンは貴女のいいなりになった。好きにすれば良い。僕には恥じる点は何もない。それで罰せられるのであれば罰すれば良い。プリムも……同じ気持ちのはずです」
自分の為、プリムローズの為。フェンがヴァイオレットの要求を受け入れた理由。ある意味、自分への裏切りとなる行為に及んだ理由。ローレルはそれを知って、心が軽くなった。やはりフェンは信頼できる相手だった。それを再認出来た。
「……フェンは捕まる」
「その前に逃がします。フェンであれば、どこででも生きていけるでしょう。会えなくなるのは寂しいですけど、友が苦しみ続けるよりはずっと良い」
もっと前から逃がすべきだったのだ。フェンもずっと帝都にいるつもりはなかった。それを引き留めたのは自分のエゴ。ローレルはこう思っている。プリムローズは罪を軽く、出来ることなら罪を問われないようにして、フェンの後を追わせれば良い。一緒に逃がしても良い。二人を捕まえる力は、追う余裕も今の帝国にはないはずだ。
「……駄目……それは駄目……」
「貴女の指示には従えません」
「……お願い……私からフェンを奪わないで……フェンは私の全てなの……彼がいないと私は生きていけないの」
大粒の涙を零しながらローレルに訴えるヴァイオレット。これは彼女の素直な気持ち。誤魔化しも、強がりもない本当の気持ちだ。
「ヴァイオレット、さん……?」
「彼が私の人生の全てなの。彼がいたから、彼と出会えたから私は生きていられる。彼が……彼が私の命なの」
「……どういうことですか? 何故、そんな風にフェンを……貴女は……貴女はフェンを恨んでいるのではなく……愛している?」
どう考えてもこういうことだ。ヴァイオレットはフェンを愛している。だからフェンを、無理やりにでも、自分のものにしようとしている。だが何故なのか。何故、ヴァイオレットはフェンを恨むのではなく、愛したのか。
「教えてください。どういうことですか?」
それをローレルは知りたいと思った。ヴァイオレットがフェンだけを求める理由を知りたかった。
「……彼は私を地獄から救い出してくれました」
「地獄……ですか?」
「私は……監禁されていました。夜になると父親は……私の……部屋にやってきて……私の……体を……」
「そんな……ば、馬鹿な……」
途切れ途切れの言葉。それでもヴァイオレットが何を言いたいのかローレルは分かった。分かってしまった。そんな馬鹿なことはあり得ないと思う。父親が自分の娘を、それもまだ子供だったヴァイオレットを。
自分の勘違いに違いないと思いたい。だが分かってしまったのだ。どうしてヴァイオレットが必要以上に自分を卑下するのか。汚らわしいなんて言葉を使うのか。
「母も、兄弟も……家臣たちも私を助けてくれなかった。孤独と恐怖と……地獄の日々だった。ずっとこれが続くと思って、絶望していた」
「…………」
メルガ家は、当然、ヴァイオレットがそのような目に遭っていることを隠していた。彼女だけが他の家族とは別の屋敷で、監禁されて、暮らしているなんてことは外には漏らさなかった。これがヴァイオレットがフェンたちの襲撃に巻き込まれた原因。
「でも……彼が現れた。炎の中に突如現れた彼は……黒い羽根を持つ天使……私にはそう見えた」
だが、ヴァイオレットにとっては幸運だった。
「天使……僕は良く知りませんけど……そうですか……」
天使というのは帝国にいくつも存在する宗教の中のひとつが持つ概念。ローレルにはこれくらいの知識しかない。そんなことはどうでも良いことだ。フェンは出会った瞬間からヴァイオレットにとって特別な存在だった。そういうことだ。
「……感謝だけで終わるべきだった……分かっているのです。でも……どうしても、もう一度、彼に会いたいと思った。思い続けていたら……」
地獄から救われた。そうであってもヴァイオレットの孤独は変わらなかった。家族も家臣も信用出来ない。世の中に信用出来る人はいなかった。フェン以外には。フェンがヴァイオレットの希望だった。唯一無二の存在となった。
「ヴァイオレットさん……」
かける言葉が見つからない。彼女のこの想いを否定することはローレルには出来ない。零れ落ちる涙を止められる言葉を、ローレルは持っていない。
「……馬鹿ですよね。私は? どれだけ執着しても、愛されるはずないのに」
涙を流しながら自嘲の笑みを浮かべるヴァイオレット。その笑顔が答えを出せないでいるローレルの思考を完全に止めた。
「えっ……? ロ、ローレル殿……」
ヴァイオレットの体をきつく抱きしめるローレル。同情か、愛情か。それを判断する思考は停止したままだ。ただ愛おしい。この感情のままに体が動いている。
「…………かまいません……私なんかの体で良ければ、好きにしてください」
ローレルの思考を動かしたのはこの言葉。燃え上がってしまった感情に水をぶっかける言葉だ。
「……ち、違う。そうじゃない。僕は……僕は……すみません!」
自分がしでかしてしまったことに動揺し、恥ずかしさでヴァイオレットの顔を見ることも出来ない。謝罪の言葉を残して、ローレルは部屋を出ようとした。
「あ、あの!?」
「……な、何ですか?」
「父の話はフェンには……彼には……知られたくない……」
「……分かっています」
自分とフェンは違う。分かっていた。分かっていたが、ローレルはさらに心を抉られることになった。
「……ちくしょう」
廊下に出たところで漏れ出た呟き。自分はヴァイオレットの救いになれない。特別な存在になれない。それが分かった。分かったことが悔しかった。悔しいと思う感情が自分の中にあった。自覚があるようでなかったその気持ちをローレルは、はっきりと思い知ることになった。