リルが運び込まれたのは酒場や売春宿が立ち並ぶ帝都歓楽街でも、最も賑やかなエリアの端。賑やかな看板が並ぶ中、逆に目立つ薄汚い病院の看板が掲げられている古い建物だ。外観だけでなく、建物の中もオンボロという言葉を遠慮なく使える有様。その部屋の中にあるベッドの上にリルは寝かされている。すでに治療は終え、目が覚めるのを待っているのだ。
「大丈夫かよ、ここ?」
リルはかなり重症だ。ハティはそう見ている。このような場所ではなく、もっと良い病院に連れていくべきではないかと思った。
「こんなだけど、怪我の治療に関しては腕は良いと聞いている。ここら辺りはそんな患者ばかりだからね」
この病院を訪れるのは酔っ払い同士の喧嘩で怪我した人が圧倒的に多い。だが時に。裏社会の組織同士の抗争で大怪我を負った者も運ばれてくる。ユミルの言う通り、怪我の治療に関してはかなり経験を積んだ医者なのだ。
「大丈夫なら良いけど……」
「それよりも、これ、どういう状況?」
声量を落としてハティに問いかけるユミル。部屋にいるのは二人とリルだけではない。リルが寝かされているベッドの横にはヴァイオレットが不安そうな顔で座っている。メルガ伯爵襲撃事件の犯人である三人と被害者であるヴァイオレットが同じ部屋にいるのだ。
「どういうって……成り行きだ。仕方ねえだろ?」
「緊急事態だったからね? 仕方ないのは分かっている。ただ……居心地が悪い」
リルを助ける為だ。ヴァイオレットと顔を合わせる事態になったのは仕方がない。それはユミルも分かっていたが、気持ちが落ち着かないのだ。
「俺もだけど、やっぱり仕方ねえだろ? 二人だけにしておくわけにはいかねえ」
この場から離れることが出来るものならハティもそうしたい。だが、ここは怪我した場所から近い。再襲撃の可能性を否定出来ないので、安全を確認出来るまで二人はリルの側にいなければならない。、
警戒すべきは再襲撃だけではない。ベッドの横に座っているヴァイオレットも、二人にとっては、警戒すべき相手だ。
「しかし……あの二人、どういう関係?」
ただ、当初思っていたのとは様子が違っている。
「どういう関係って、それは……俺にも分からねえ」
ヴァイオレットには恨まれているはずだ。リルが殺されても、彼女は喜ぶくらいだと思っていた。だが今のヴァイオレットは喜ぶどころか、憔悴しきっている。なかなか目覚めないリルの顔をずっと見つめていて、時折、涙を流している。恨んでいる相手に対する態度ではない。
「聞いてみてよ」
「はあ!? 聞けるわけねえだろ!?」
「声がデカい!」
ヴァイオレットに聞こえないように声を潜めて話していたのだ。それなのにハティは大声を出してしまった。そうさせたのはユミルだが。
「……何か?」
当然、ヴァイオレットはその声に反応した。
「えっと……ああ、あれだ。そいつを怪我させた奴は何者だ?」
二人はどういう関係なのか。こんなことは聞けない。聞ける立場にない。ハティもヴァイオレットに恨まれているはずの立場。彼女を傷つけた一人だという自覚があるのだ。
「……フェンは相手をキースおじさんと呼んでいました」
「キース……そうか……」
イアールンヴィズ騎士団の関係者であることは分かっていた。だが名前が分かると、良く知る相手であることが分かると、何とも言えない思いが湧き上がってくる。どうしてこのようなことに。今更だが、こう思う。
「……知っているのですね?」
「いや、知らない」
「誤魔化しても無駄です。貴方はフェンの仲間。多分、私と会っていますね?」
ヴァイオレットはハティにも会っている。フェンに比べると記憶は曖昧だったが、こうして正面から顔を見ると、見覚えがあることが分かる。
「……どうして、刺されることになった? 中で何があった?」
ヴァイオレットの問いを無視して、ハティは問いで返した。相手が顔を覚えているからといって、自ら白状する必要はないのだ。
「フェンが目を逸らした瞬間、いきなり短剣で」
「最初から殺すつもりだったということか……その前に何か話さなかったのか?」
「フェンは襲ってきた騎士団についての情報を求めましたが、相手は何も知らないと答えました。嘘だと思いますけど」
運良く生き残って、フェンと再会できた。それだけであれば殺そうとする理由がない。リルの殺害を試みた理由となる何かがあったはずなのだ。
「……他には?」
「自分が生きる為にフェンを殺すのだと。私も殺されそうになったのですが、いきなり黒い炎が男の体を焼いて……フェンが助けてくれたのだと思います」
「そうか……」
「驚かないのですね? フェンが、恐らくは守護神獣の力を使ったというのに。つまり、貴方は知っていた」
ハティがフェンの仲間であることをヴァイオレットは確かめようとした。確信を持ってのことだ。ヴィオレットに聞こえない小さな声で「馬鹿が」とユミルが呟いている。ハティのほうは、ヴァイオレットに見えないように、見えても構わないつもりだが、そのユミルを蹴ろうとしたのだが、それは空振りに終わった。
「知っている。以前、お嬢ちゃんを助ける時に見た」
ハティは言い訳に出来る事実を持っていたのだ。
「お嬢ちゃんというのは?」
「プリム。プリムが攫われた時、俺の騎士団は救出に協力した。その時に見ている」
「そうですか……」
プリムローズの名が、それも誘拐されていたという驚きの事実と共に、出たことでヴァイオレットは気持ちが重くなった。フェンとプリムローズには、そういう過去もある。自分にはないものがある。また、それを思い知らされたのだ。
「フェン! 大丈夫!?」
さらに、噂をすれば影、とばかりにプリムローズが現れた。ローレルも一緒だ。ユミルが使者を送って、フェンが怪我したことと、この場所を伝えていたのだ。フェンが寝ているベッドに駆け寄るプリムローズ。そのまま周囲の目を気にすることなく、フェンに抱きついていく。
「お、おい!? プリム? リルは怪我を!」
ローレルのほうは、プリムローズよりは、少し冷静だ。プリムローズの動揺が激しい分、自分が冷静にならなければと思ったからでもある。
「あっ……ごめんなさい。リル、大丈夫?」
「……少し痛かったですけど、大丈夫です」
「リル!」
その痛みのおかげ、というべきか、痛みのせいと言うべきか。とにかくフェンは目を覚ました。
「……えっと、ここは?」
「近くの病院。小汚い病院だけど医者の腕は良いから」
「ユミル……ありがとう。助かった」
「良かった。本当に良かった」
今度は抱きしめることはせず、フェンの手を握って言葉をかけているプリムローズ。ローレルも彼女に遅れまいと、フェンに声を掛ける。
「……もし帰りたいなら、自宅まで送ろうか?」
ハティが声を掛けたのがヴァイオレットに向けて。ベッドに近づくことが出来ず、悲しそうな顔をしているヴァイオレットだ。
「いえ、一人で……やっぱり、お願いします」
強がりは止めた。一人で帰るのは、惨めさに耐えられそうになかった。
「まだ安全とは言えねえからな。護衛依頼料はいらねえ。今回は特別だ」
「……騎士団員なのですね?」
「ああ、イアールンヴィズ騎士団で働いている。今回はおまけしてやるから、何かの時には是非依頼を」
「……そうします」
ハティの言うイアールンヴィズ騎士団は、かつてのイアールンヴィズ騎士団ではない。まったく別物のイアールンヴィズ騎士団があることをヴァイオレットは知っている。襲撃事件に関わっている者がいないか、公安部の依頼で調べたことがある。
だがその時にはハティはいなかった。彼が今言ったイアールンヴィズ騎士団は、はたしでどうなのか。こう思ったが、ヴァイオレットにはどうでも良いことだ。フェンがいないイアールンヴィズ騎士団に用はないのだ。
◆◆◆
「わざとか? わざとだな? 俺たちに試練を与える為にわざと怪我をしたのだな?」
「シュライク……いくらなんでも体育祭の為に、こんな大怪我しないから」
リルは騎士養成学校に復帰した。まだ完全には傷は癒えていないが、家で寝ているだけでは退屈だ。訓練は無理でも講義は受けられる。こう思って騎士養成学校に来ているのだ。
当然、近々行われる体育祭は不参加。これで二年連続での不参加になる。
「しかし……無事で良かった」
「出血は酷かったけど、傷そのものはまだ浅いほうだったらしい。急所も外れていたと言うし」
もっと深々と短剣を突き刺されていたら、心臓を狙われていたら、リルは今ここにいられなかったかもしれない。キースは何故そうしなかったのか。自分を殺すことに躊躇いがあった。そうであって欲しいとリルは思っている。
「そうか……お前は一足先に戦場に出ているのだな」
卒業したあとは怪我することは特別ではなくなる。騎士団で働くということは、そういうことだ。若くして命を落とす同級生もいるかもしれない。
「その自覚がないままに。今回は完全に油断していた」
相手がキースだったということで油断があった。疑いを抱いていたにも関わらず、攻撃を許す隙を作ってしまった。結果、キースを死なせ、何の情報も得ることが出来なかった。完全な失敗だ。
「お前でもそういうことがあるのか」
「俺を何だと思っている? まだまだ未熟だ。もっと成長しないと……なのに、これじゃあな」
「こちらとしてはありがたい。少しでもお前が足踏みしている間に、距離を縮めないと」
リルには引き離される一方だとシュライクは、他の同級生も感じている。怪我を負ったことには同情するが、差を縮めるチャンスでもある。
「俺は頑張って頭のほうを鍛えておく」
体を動かすことは出来なくても学べることは山ほどある。戦略、戦術の類の学問は、三年間の騎士養成学校生活だけで全て身につけられるものではない。時間が余ることなどないのだ。
「リル、お客さん」
突然、別の同級生が声をかけてきた。
「えっ? 何?」
「だから、お客さん。凄い美人の」
「……あ、ああ。ヴァイオレットさん」
教室の入口に立っていたのはヴァイオレット。どうして彼女が騎士養成学校を訪れたのか、リルには分からない。事前に伝えられていなかったのだ。
「リル、お前……」
「……何?」
シュライクが、視線はヴァイオレットに向けたまま、話しかけてきた。
「プリムローズ様がいながら何だ!? あの見目麗しい女性は!? 貴様、浮気しているのか!?」
大声で叫びながらリルの首を絞めるシュライク。その彼を止める同級生は誰もいない。皆、シュライクと同じ思いなのだ。リルばかりが何故モテる、と。
「い、痛いっ! 俺は怪我人! それに彼女はローレル様の婚約者だ!」
「えっ……今なんて?」
「だからヴィオレット様はローレル様の婚約者」
教室に静寂が広がる。といってもほんの数秒。その沈黙のあとには。
『嘘だぁあああああっ!!』
同級生たちの絶叫が響き渡った。
「ローレル! 貴様!」
「ま、待て! 怒られることではないだろ!?」
「いや、ある!」
同級生たちの矛先はローレルに向くことになった。もうガンマ組の生徒たちにイザール侯爵家の人間だからという遠慮はなお。ローレルはリルと違って怪我もしていない。シュライクを戦闘に一斉にローレルに襲い掛かっていく。といっても押し合いへし合いしているだけ。規模を小さくした体育祭の棒倒しといったところだ。
「……止めないのですか?」
「あれはお互いに好きでやっていることですので」
「そう……ローレル殿は……いえ、マグノリア副部長が呼んでいます」
ヴァイオレットが教室を訪れたのはマグノリア公安部副部長に命じられたから。彼女の命令でリルを呼びに来たのだ。
「それでわざわざ?」
「すぐ隣ですから」
「分かりました……私だけですか?」
公安部の仕事であればローレルも呼び出されるはず。だが、ヴァイオレットはローレルに声をかけようとしない。同級生にもリルを呼ぶように伝えている。
「先日の件で」
「動けるようになるのを待っていたということですか……何か話しました?」
「刺された時の状況は話しました。それ以外は、言われた通り、私は何も知らないで現地に行ったと」
メルガ伯爵襲撃事件の、イアールンヴィズ騎士団襲撃の真相を解明する為の行動。これはマグノリアには話していない。ヴァイオレットが事件について調べていることはマグノリアも知っている。だが会った相手、リルを刺した相手ががイアールンヴィズ騎士団の生き残りであること、リルの知り合いであるということは話せなかった。リルが災厄の神の落し子たちであることを教えるのと同じだからだ。
「……説教だけで終わるかな?」
リルも真実を話すつもりはない。会っていたのは裏社会の人間ということで、誤魔化するつもりだ。
「これで二度目だから。説教だけだとしても、かなり厳しいお説教になると思うわ」
「……覚悟しておきます。では、行きましょう」
教室を出る二人。また一つ隠し事が増えた二人だが、それは真実が明らかになる日が近づいてきているから。あらゆる動きが加速し始めているから。だがまだ二人はそれを知らない。