帝都第三層、歓楽街から二区画ほど外れたこの場所まで来ると、夜のこの時間でも人通りはない。遊ぶ店がないのだ。わざわざ訪れようとする人はいない。このエリアで暮らしている人たちも、すでに自宅でくつろいでいる時間だ。
人気のない通りを歩いているリル。さらに角を曲がって、表通りから脇道に逸れる。少し進んで、また角を曲がる。人一人歩ける程度の細い裏路地。先のほうに、ぼんやりとした灯りが見える。そこが目的地だ。
灯りの前まで来ると飲み屋であることを示す看板がある。隠れ家中の隠れ家といったところだが、この世界の人々はそんなものは求めない。求めるのはごく限られた人たち。人目に触れたくない後ろ暗いところがある人たちだ。
「……あれ? 来ていたのか?」
中に入るとハティが待っていた。リルの予定にはなかったことだ。
「こういう時でないとお前とは、ゆっくり話せねえからな」
ハティは今、リルと距離を置いている。以前とは違い、会いたい時に会えるわけではない。ヴァイオレットに存在を気付かせない為にそうしているのだ。
「ユミルが話したのか?」
リルがここに来たのはヴァイオレットから渡された資料についてユミルと話をする為。この場所は飲み屋を装っているが、情報屋を営むユミルの拠点の一つなのだ。
「形の上では依頼人だからね」
情報分析をユミルに直接頼んだのはハティ。だからユミルから見て、ハティが依頼人ということになる。こじつけだ。まだ少しリルに対して意地を張っているのだ。
「そういうこと? まあ、別に困らないから良いけど」
「そういう言い方はないだろ?」
「ああ、悪い。それと、この間はありがとう。助かった」
反帝国勢力による闇取引の摘発。その現場にはハティもいた。黒い衣装を纏い、闇に溶け込み、戦いが始まった後も初手で何人か倒したところで姿を消した。ヴァイオレットに存在を気付かれないように。疑われるこちがあっても誰だか分からせないように。
「たいしたことしてねえ、というか、お前、あの後、大丈夫だったのか?」
敵は二十人以上。ハティ、さらにワーグ、ライラプスもいて、三人で半分は引き受けたが、残りの半分はリルが倒したはず。それなりの戦闘をリルは行っている。
「大丈夫? ああ、吐き気のことか。大丈夫。殺していないから」
「……都合の良い吐き気だな?」
殺さなければ気持ち悪くならない。なんとも微妙な問題だとハティは思った。心配する気持ちが薄れたのだ。
「あれで気持ち悪くなっていたら、この前の大会なんて出られないだろ? それに十分、いや、二十分? それくらいの時間は平気」
「お前、それ普通に戦えるじゃねえか?」
二十分あれば、リルであれば戦いを終わらせられる。ハティはこう思った。そもそも二十分以上、剣を振り続けるなんてことはハティでも辛い。
「戦場の戦いはそんな短い時間で終わるか? それに、はっきりと確かめていないけど、焼死体は無理」
ずっと戦い続けることはなくても、戦場での勝敗は短時間ではまず決まらない。初動では戦えても、それで終わり、途中離脱することになる。さらにトラウマのきっかけとなった焼死は時間や人数に関係なく、リルの心を傷つけてしまうのだ。
「……なるほど。制約は制約か」
都合が良いと言ったことは間違い。かなり厳しい制約だ。戦場に比べれば遥かに少人数の戦闘が主な公安部の仕事は出来ても、私設騎士団の仕事には影響は出る。戦場での仕事だけだとしても、私設騎士団、前身である傭兵団の本来の仕事はそれなのだ。
「そろそろ僕が話しても良いかな?」
「ああ、悪い。頼む」
「じゃあ、説明する。結論から言うと、目新しい情報はほとんどなかった。登場人物が増えたくらいだね」
「そうか……」
それほど期待はしていなかった。公安部としての調査では得られる情報には限りがある。相手は平気で嘘をつくだろう。それでも、わずかでも何かが分かれば。この期待はあったのだ。
「ほとんど、ね。ひとつ気になる情報があった」
「あったのか?」
「真実に繋がるほどじゃあない。でも、他の証言とは明らかに違いがある。命令は『イアールンヴィズ騎士団と繋がりがある人物を探せ』というものだったという証言」
イアールンヴィズ騎士団を討伐しろ。微妙に違いはあるが、他の証言者が白状した命令の内容はこういうものだった。確かにユミルの言う通り、他とは違う。
「繋がりがある人物……その命令の意図は書かれていたのか?」
「近頃、活躍している私設騎士団と繋がりを持ちたい。普通に考えれば嘘だよね? そこまでの騎士団ではなかったでしょ?」
「そんなこと言うと、親父たちに殺されるぞ? でも、まあ、嘘だな」
ユミルの言う通りだ。実績をあげて名が売れたと言っても、それは一地方での話。帝国全土を見渡せば、イアールンヴィズ騎士団程度の私設騎士団はいくらでもあったはずだ。
「でもよ、メルガ伯爵はその繋がりを持った。殺すことが目的で」
他とは違うという命令はメルガ伯爵の行動に繋がる。ハティはこう思った。
「その通り。ハティにも考える頭があったのだね?」
「てめえ、殺すぞ!」
「今のは条件反射。何も考えていない」
「こ、この!」
椅子から立ち上がり、ユミルに殴りかかろうとするハティ。
「はいはい。落ち着け。ユミルも挑発しない」
その彼を止めるのはリル、フェン。昔からの流れだ。
「まったく……」
まだ不満そうではあるが、大人しく椅子に座るハティ。以前はこれでは収まらなかった。今は、ハティも昔を思い出して怒りが薄れたのだ。
「ここから先はあくまでも仮説。僕はメルガ伯爵に二つの命令が届いた可能性を考えてみた」
「出所の違う同じ命令?」
この可能性はリルも考えていた。命令は何人もを経由して伝わっている。出所を隠す為と考えていたが、それにしても人数が多すぎる。貴族の間で噂として広まってしまう可能性だってあったはずだ。
「出所の違う、違う命令」
「違う命令?」
「命令の意図の話。奪われた物を取り返すというのが命令の意図だとフェンは聞いたのだよね?」
先ほどの他の証言とは違いを感じる証言の意図は「イアールンヴィズ騎士団と繋がる為」。これは嘘だとして、イアールンヴィズ騎士団討伐を命じる意図は何なのか。奪われた物を取り返す為。これはフェンが調べた結果、浮かび上がった可能性だ。
「ああ、奪われた物が何かは分からないが、確かにそう言っていた。殺される寸前の証言だから嘘ではないと思う。絶対でもないけど」
フェンの情報とヴァイオレットが得た情報の信ぴょう性の違い。フェンは手段を選ぶことなく、無理やり白状させている。死に際に嘘をついた可能性はフェンも排除していないが、それでもヴァイオレットの方法よりは信ぴょう性が高いはずだ。、
「それが正しいという前提で、目的は同じで異なる命令が発せられた可能性を考えた。何かを取り戻す手段として、交渉と討伐の二つがあった可能性だね」
「メルガ伯爵にはその両方が届いた。結果から考えると、最初はただ繋がりを作る目的で親父たちを呼んだ。だがあとから討伐命令を受けて、殺害に目的を変えた」
「あり得る話だよね?」
「悪い、出所が違うってのは? 今の話だと出所は同じなんじゃねえか?」
目的は同じで手段が二つあっただけ。そうであれば出所は同じなのではないかとハティは考えた。ユミルが言った「出所が違う」は間違いではないかと。
「そうかもしれない。でも交渉を目的としていると思われる命令の証言はまだひとつしかない。いや、ひとつ残っているという言い方が正しいのかな?」
「……どういう意味だ?」
「命令を訂正したのであれば、その証言をした人にも訂正が届いていたはずだってこと。たまたまかもしれない。でもそうでなければ命令の繋がりは二系統あったということになる」
ハティの問いにはフェンが答えた。ユミルの考えがフェンにも分かったのだ。そしてのその考えが正しいのではないかと、フェンも思い始めているのだ。
「たまたまではないと考えているのか?」
「出所を隠す為に何人も経由して、と考えていたけど人数が多すぎる。だから複数系統と考えたけど、それも違うかもしれない。今名前があがっている人たちは繋がっていないのかもしれない」
二つどころかもっと系統がある可能性。リルはそれを考えた。系統の数だけ命令の出所があるということではない。ひとつの系統からいくつも系統が生まれた可能性だ。
「……まだ分からねえ」
「あとからの命令で最初の命令を塗りつぶそうとしていたのかもしれない。命令が訂正されたのではなく、別の命令で最初の命令を潰そうとしていたってこと」
「本来は交渉だけで済ますはずだったのに、別の奴がそれを討伐に変えたってことか……誰だよ、そいつは?」
その命令を変えた人物が本当の仇。殺すべき相手だ。
「それを調べているのだろ? でも、手がかりは別の命令を発した人のほうがありそうだ」
「たどる人数も少なそうだからね?」
本来の命令を受け取っている人は今のところ一人。塗りつぶされてしまった人もいるかもしれないが、確実なのはその人だ。その人から辿れば、最初に命令を発した人物が分かるかもしれない、少なくとも何系統もある命令の出所よりは分かる可能性は高い。
「領地は……よりにもよってヴィシャスのいる南部か」
ヴァイオレットが集めた証言は帝国南部の貴族からのもの。南部は前宰相ヴィシャスの勢力が支配を強めている地域だ。
「そのヴィシャスは、交渉で決着させようとしていた可能性もあるけど?」
「確かに……」
ヴィシャスが黒幕、もしくはヴィシャスに命令出来る者が黒幕だと考えていた。だが今話している仮定だと。ヴィシャスはイアールンヴィズ騎士団と交渉で解決を図ろうとしていただけの可能性がある。家族の仇は、また別という可能性だ。
「まあ、今は何を話しても仮説に過ぎない。この仮説が正しいという証拠はないからね?」
「そうだな。ただ、いきなり真相にたどり着けるかもしれない情報がある」
「何それ? さきに教えてよ」
「ついこの間、知った話だ。生き残りがいるかもしれない。メルガ伯爵を殺したのは『災厄の神の落し子たち』という噂を生み出した人だ」
イアールンヴィズ騎士団関係者。その中でも鉄の森の拠点での戦いに参加した騎士、従士であれば、重要な情報を持っている。攻めてきた私設騎士団はどこ、という情報だ。黒幕はもちろん、実際に家族を殺した者たちも生かしておくつもりはない。
「生き残り……逃げた中の誰かだと僕は思っていた」
その人たちも生き残り。だがリルの言う「生き残り」は戦いの現場にいた人物のことだ。この可能性はユミルは考えていなかった。イアールンヴィズ騎士団は全滅した。これを信じていた。
「その可能性はある。でも……それならすでに何人か捕まっているはずだ。そうなっていないということは、その人は新しい住処を知らないということにならないか?」
一緒に逃げた人の中の誰かであれば、移住先も公安部に知られているはずだ。だがリルがいた時はもちろん、その後も公安部が村に来たという事実はない。誰も捕まっていない。
「なるほどね。確かにそうだね」
「誰かの父親かもしれない」
「そうだとしても、その人は今どこにいるのだろうね?」
「……どうだろうな?」
証言として記録に残っているということは、信ぴょう性のある証言だと判断されたということ。「災厄の神の落し子」なんていう言葉が、何故、信ぴょう性があると思われたのか。それはその人物がイアールンヴィズ騎士団の人間だと認識されていたから。当たり前のことだ。
だが公安部の資料には、その人物が何者かの記録がなかった。それは何故か。記録漏れかもしれないが、そうでないとすれば。もし証言者の素性を隠そうとする意図があってのことだとしたら、それは何のためなのか。考えられることは様々だ。ひとつ分かることがあっても、また新たな疑問が生まれる。真相に近づけない。
こうなるのは当然だ。フェンはもっとも重要なことを分かっていない。命令者は何を取り返そうとしていたのか。身近にその情報を持っている人がいるのに、それが伝わっていないのだ。