インターンとして帝国騎士団公安部で働くことになったリル、といっても本業はあくまでも騎士候補生。それを理由に授業を欠席することは許されない。この先はどうなるか分からないが。
三年生の授業はより実戦的なものになっている。個人の技量を高める為の授業は引き続きあるが、部隊行動に関する授業が増えた。講義も戦略。戦術の類が多く、数が増えただけでなく質も高くなっている。最低でも中隊規模、百人前後の部隊の動きは身につける。講義では、すぐに役立つものではないが、将に必要な基礎知識を学ぶというのが三年生における目標なのだ。
「……リルはこういうの本当に好きなのだな?」
「はい? なんことですか?」
「戦術。良くもまあこれだけ分厚い本を飽きもせずに読み続けられるものだ」
戦術の講義で使われる教本はかなり厚い。様々な状況における小隊の動き、その小隊がまとまった中隊の動き、さらにまとまった大隊の動きなどが事細かく書かれている。かなりのヴォリュームで、一年間の講義では全てを説明するには時間が足りず、要点を絞って教えられるものだ。
その分厚い教本をリルは暇さえあれば読んでいる。暇な時間はそれほどないので食事中など、何かをしながらだ。
「面白いですから」
「どれだけ几帳面な人間が書いたのだと思うような、細かい説明を読んでいて面白いか?」
「一人で考えたものではないと思いますけど?」
教本は何度も改訂を繰り返して、今のものになっているはず。誰か一人が考えたものではないとリルは思っている。
「考えたのはそうだとしても、こういう時はこう、ああいう時はああ、みたいに細かく書くと決めた者がいるはずだ」
「それって文句を言って良い相手ですか?」
決定したのは、それを決めた時の皇帝、そうでなければ帝国騎士団長のいずれか。最終承認者としての立場だが「誰が決めた?」の答えとなると、いずれかに違いない。
「……文句は言っていない。細かい人だと思っているだけだ」
「そうですけど……必要だから書かれているのですから。それに、その細かい指示通りに動くとどうなのかを考えたら面白いと思いますけど?」
「考える……どうやって?」
ローレルも考えている。だが面白いとは思えない。リルの言う「考える」は自分とどう違うのか。違わないのかを尋ねた。
「頭で考えるしかないと思いますけど?」
「そうじゃなくて、頭でどんな風に考える? 頑張って覚えようとしてみても僕は面白いとは思えない」
「ああ。そういうことですか。戦場を頭の中に思い描いて、そこで実際に部隊を動かしてみるのです。戦況が次々と変化していく中で、自分が所属する小隊はどう動くか、中隊はどう動くかを考えていると面白いです」
文字としてはなく、そこから戦場を具体的にイメージする。敵味方の部隊の動きを頭の中に思い浮かべる。その中の一人である自分はどう動くのかを考える。時々、動きが止まることがある。そういう時は文字に戻る。知識がないから動きが止まるのだ。どうすれば良いかを調べる必要がある。
「……分かった。頭の出来が違うのだな」
「はっ? そんなことはないですよ」
「そんなことはある。僕は戦場をイメージすることさえ出来ない」
恐らくリルの頭の中では、現実とそう変わらない戦場が映像として現れている。ローレルにはそれは出来ない。根本的に頭の作りが違うのだと思った。
「慣れだと思いますけど? 体育祭の騎馬戦の時と同じです。地形図から現場を頭の中に描く。その範囲を広くしていくだけです」
「あれは実際に現場を見て……ああ、そうか。知っている場所でやるのか」
「それはそうです。まったく知らない地形なんてイメージ出来ません」
見覚えのある景色を頭に浮かべ、それを、ここは想像も入るが、高低差を具体的なものにして戦場として再構築する。そこに部隊を配置。戦況を動かしていく。リルの頭の中で行われていることだ。
当たり前のことのようにリルは話しているが、誰にでも出来ることではない。
「ああ、旅をしていた分、見た景色が多いからですね? とりあえずローレル様は帝都周辺で考えたらどうですか? 何度も見た光景となると実家の周辺とか」
「家の近くか……気が進まないがそれでやってみる」
生まれ育ったイザール侯爵家領であれば、地形を頭の中にイメージ出来るかもしれない。すでにイザール侯爵家を出ているくらいの気持ちでいるローレルは、なんとなく気に入らないのだが、それしかないと考えた。
「……こういう話、前にもしませんでしたか?」
「前に……? そういえば騎士養成学校に入る前にしたかもしれないな。あれだ。帝国騎士団長が来た時」
その時は知っている景色からではなく、戦場図から地形を立体的にイメージするという話だった。帝国の祖、アルカス一世が奇跡の勝利を掴んだカントの戦い。それをローレルが家庭教師から学んでいた時のことだ。
「そういえば答えを間違えたのでした」
「間違えたと思っていないのだろ?」
家庭教師は間違いだと言った。実際に歴史とは違う答えだ。だがローレルは、今は違う考えを持っている。リルの答えは正解、かは分からないが、少なくともワイズマン帝国騎士団長の興味を引く答えだった。当時のことを思い返して、そう思ったのだ。
「……はい。敵があの駒の位置を押さえていれば、結果は異なるものになったと思っています」
「リルのような将が敵にいなかったおかげで今の帝国があるのか」
「それは大げさです。違う勝ち方をしただけです」
カントの戦いの勝ち方が異なるものになっただけ。もしくは別の戦場で決定的な勝利を得ることになった。それだけだとリルは思っている。戦神の加護を得ていたと言われるアルカス一世の力は、一戦場での敗北くらいで、否定されるものではない。リルはそう思っている。武の世界に身を置くものとしてリルも尊敬しているのだ。
「……本当に公安部に進むのか?」
帝国騎士団公安部の仕事場は戦場ではない。戦いはあるが、軍と軍がぶつかるような規模ではない。リルの進む道がそれで良いのかとローレルは思ってしまう。
「帝都に残る理由があるとすれば、公安部で働くことですから」
「それは僕の為か?」
「残念ながら違います。私にはまだ分からないことがあります。知りたいのに分かっていないことです」
笑みを浮かべてこれを言うリル。ローレルに話すべきか、少し迷ったのだが言うことにした。重く受け止められないように笑みを浮かべて。
「……そうか……その為に帝都に来たのだな。でも……大丈夫か? 色々と……」
二人がいるのは騎士養成学校。周囲に聞かれるわけにはいかないので、ぼやかして話をすることになる。だがこれで二人の間は充分に通じる。
「覚悟していたことです。どちらも」
ヴァイオレットには生きて出会えたら償わなければならないと考えていた。再会は、時期は想定外だったが、リルも望んでいたことだ。親の仇が強大であることも、帝都に来る前から分かっていた。返り討ちに遭う覚悟も出来ている。
「リル……何かあったら頼って欲しい。僕はありとあらゆる力を使って、手助けするから」
大嫌いな実家、イザール侯爵家の力を使うことも厭わない。リルの為であれば、自分に出来ることがあるのであれば、全てを行う。ローレルも覚悟を決めているのだ。
「……ありがとうございます。でも、しばらくは大丈夫です」
「リル……」
ヴァイオレットとは今のところ何の問題もない。ローレルはそう聞かされている。まったく覚えていないのかもしれない、とも言われた。だが、それを鵜呑みにするほどローレルは楽観的ではない。楽観的になりたいという気持ちは、正直ある。だが、それは出来ない。リルはリスクを犯して自分の側にいてくれている。こう思っているのだ。
リルと出会ってから未来が明るくなった。、不安がまったく消えたわけではないが、それ以前と比べれば、生きていくことに希望を感じるようになった。ヴァイオレットはそんな毎日に突然、現れた影。この先も光が差したままなのか、影に覆われてしまうのか。前者であって欲しいとローレルは願っている。
◆◆◆
プリムローズは厩舎に来ている。リルが忙しくなっているので、代わりにレイヴンとルミナスの相手をしているのだ。毎日というわけではない。毎日ではレイヴンが納得しない。ローレルに比べるとレイヴンに心を許してもらえているプリムローズだが、リルは別格。完全に代わりにはなれないのだ。
「……あっ」
レイヴンとルミナス、二頭を引いて馬場に向かおうとしているプリムローズ。近づいてくる人影に気が付いた。
「プリムローズ殿、また会いましたね?」
ヴァイオレットだ。プリムローズに会いに来たわけではない。また公安部の事務所に向かう途中なのだ。
「こんにちは」
「こんにちは。プリムローズ殿も、もう入学して授業があるのではないですか?」
前回ここで会った時、プリムローズは騎士養成学校に入学前。春に入学する予定だと聞いていた。その春はとっくに過ぎている。
「今は昼休みです」
「ああ、そうですか。なんだか大変ですね? 良い馬なのでしょうけど」
レイヴンとルミナスが良い馬であることは分かる。だが同時に、レイヴンだけだが、気難しい馬でもある。面倒を見るのは大変そうだとヴァイオレットは思った。
「……敬語はいりません」
「可愛い後輩さんだからね?」
「妹です」
「えっ……あっ、そうね。可愛い妹になるのね?」
プリムローズからこんなことを言われるとは思っていなかった。自分から申し込んでおきながら、ヴァイオレットにはローレルとの結婚に対する実感がないのだ。
「ひとつ聞いて良いですか?」
「なにかしら?」
「どうしてローレル兄と結婚しようと思ったのですか?」
ローレルがいる場では聞きづらい問い。良い機会なので聞いてみることにした。本当の答えを得られるとは思っていない。それでも聞いて分かることがあるかもしれないと思ったのだ。
「……人が好いから。わたしはローレル殿の人の好さを利用しようとしているの」
「利用……それは好きということじゃない」
「そうね……愛しているかと聞かれたら、否定することになるわ。でも……仕方がないの」
貴族の結婚は恋愛感情から始まらない。自家に利をもたらす結婚ということになるので、ほとんどが相手を「利用」することだ。そうであるのに「利用」という言葉に、好意からの結婚ではないことに不満そうなプリムローズ。貴族家の令嬢としての教育を受けていないことがこれで分かる。
「仕方がないって、どういうことですか?」
「……貴女には言い訳に聞こえるかもしれないけど……私は誰にも愛されない。結婚しても、いえ、結婚となれば尚更、愛されることはない」
兄を利用されているということに本気で怒っているプリムローズ。彼女が兄のローレルを大切に思っていることも分かった。。本当に聞きたいことは兄との結婚ではないはず。彼女はリルが、フェンが何者か知っているはずなのだ。
「そんなこと」
「あるの。私の左腕と左足には火傷の跡がある。腕と足、全体に広がっている醜い火傷の跡があるの。そんな私を妻として愛してくれる人は……いない」
フェン以外には。彼は露わになった火傷跡から目を逸らすことなく、自分を愛してくれた。「自分だけは絶対に貴女の傷から目をそらさない」と誓った。抱いたというだけで心に愛情があるわけではないことはヴァイオレットも分かっている。だが、それでも特別なのだ。
「……ローレル兄は……ヴァイオレットさんを好きになれると思います。ヴァイオレットさんも好きでいてくれたら」
「……そこまで求めるのはローレル殿に申し訳ない。彼には彼に相応しい人を愛してほしい」
フェンも同じことを言った。もしかすると、本当にそうなのかもしれないとヴァイオレットも思う。だがそうなってはいけないのだ。ローレルとの夫婦関係は形だけのものでなければならないのだ。
「でも結婚」
「形だけの結婚なんていくらでも存在するわ。私の両親もそうだった。愛情なんてなかった……あれは家族じゃなかった」
「ヴァイオレットさん……」
プリムローズにとっても家族と思えるのはローレル、そしてフェンだけだ。かつては父親も家族だったが今はその思いはない。義理の母、ローレル以外の兄は一度も家族と思ったことはない。
ヴァイオレットも同じ思いを抱いて生きてきたのかもしれない。家族を否定する言葉を聞いて、プリムローズはこう思った。
「……もう行くわ。また」
「はい。また」
プリムローズに背を向けて、速足で公安部の事務所に向かうヴァイオレット。少し歩いたところでその足が止まる。ゆっくりと、少しためらいを覚えながら後ろを振り返った。
(……プリムローズ。貴女は私とは違う。貴女には優しい兄がいて、愛される資格がある……私とは違う)
フェンがプリムローズと話している。彼の姿を見かけ、ヴァイオレットは慌ててプリムローズと別れたのだ。フェンとどういう顔をして会い、話して良いのか分からなかった。逃げるようにその場から去った自分がみじめだった。彼と楽しそうに話すプリムローズを見て、さらにみじめになった。
何があっても、誰を傷つけてもフェンを離さない。改めて心に誓った。