外に出た時には、すっかり日が暮れていた。騎士養成学校での授業を終えてからここに来たのだ。当初聞かされていた通り、プリムローズへの贈り物を受け取ってすぐに帰ったのであれば、明るいうちに家に着けただろうが。それでは終わらなかった。終えることは出来なかった。
つい先ほどのことを考えようとしても頭が回らない。次から次へと様々な想いが浮かんでは消えていく。頭が回らないどころか、ぼうっとしてしまうほど思考が巡っているのかもしれないが、結論が出ないのだ。
あり得ない出来事。加害者と被害者。その二人が体を重ねることになった。ヴァイオレットは嫌がらせのつもりだったようだが、彼女が思うような嫌悪感はリルの心に生まれなかった。もしかすると自分は楽しんでしまったのではないか。この考えが頭に浮かんだ時になって強い嫌悪感が心に広がった。自分に対する嫌悪感だ。男としての欲望を彼女の体で満たした。汚らわしい自分が許せなかった。
「……こんなところで何をしている?」
巡り巡る思考を止めたのは、屋敷の敷地を出たところで待っていたハティだった。
「それはこっちの台詞だ。お前な、まさか、ここがどこだか分かっていねえわけじゃねえだろうな?」
「分かっている。お前こそ分かっているなら、どうしてここにいる?」
ハティもメルガ伯爵屋敷襲撃事件に関わっている。現場にいてヴァイオレットに会っている。短い時間だが、リルのことを彼女は覚えていたのだ。ハティは覚えていないなんて都合の良い考えは出来ない。
「ローレルのお坊ちゃまに頼まれた。何かあった時に頼むってよ」
「ああ……そういうことか」
ローレルに心配をかけていた。そうであるのに自分は彼を裏切った。ヴァイオレットの言う通り、形ばかりの婚姻なのかもしれない。そうであっても彼女は、ローレルの妻になる女性なのだ。
「それで? どうなんだ?」
「どうなんだって……俺はこうしてここにいる」
具体的なことは話せない。ハティ相手でも話したくない。
「まだ気付かれていねえのか。だからって油断は出来ねえだろ?」
「いや、気付かれてはいる」
だが、これについてはハティも知っておかなければならない。ヴァイオレットは知っているという前提で行動してもらわなければ、ハティに危険が及ぶ可能性があるからだ。
「……なんだって?」
「彼女は俺のことを覚えていた。恐らく、最初に会った時からだな」
皇城の庭園で彼女と向き合った時、リルは気付かれていると思っていた。そんな雰囲気をヴァイオレットから感じていた。その後のやりとりで、どうやら分かっていないようだ、と思い直したがそれは間違い。彼女はすぐに行動に移した。自分を逃がさない為の予想外の行動を。
「お前……それでどうしてここにいる? それとも……」
正体がばれているのであれば、すぐに逃げなければならない。そうであるのに単身、会いに来ているのが信じられない。あり得る可能性は口封じに来たこと。ハティはそれを考えた。
「理由は分からないが、彼女には公にするつもりはないらしい。今のところは、だが」
「だからって、このままってわけにいかねえだろ?」
「だからといって……殺すことは許されない。俺たちがこれ以上、彼女を傷つけることはあってはならない」
これはハティの考えを否定したのではなく忠告。ハティが口封じを考えないように自分の考えを伝えているのだ。
「それは……そうかもしれないが……」
「まったく警戒しないほど俺も馬鹿じゃない。だからハティ、お前も必要以上に俺に近づくな。いざという時に一網打尽なんてことになったら終わりだ」
ヴァイオレットが事実を公表しない理由。リルだけでなく仲間を炙り出すためであることをリルは考えた。その為の行動としては、あまりなやり方なので可能性は低いと考えているが。
リルを捕らえて拷問にかける。普通はこれを選ぶと思っているのだ。
「……伝えておく」
「ただ今日のところは丁度良かった。これをユミルに渡してくれ」
「何だ、これ?」
リルから渡されたのは封筒に入った紙の束。パッと見ただけでは何だか分からない。
「彼女からもらった資料だ。メルガ伯爵屋敷襲撃事件の調査資料、その一部ということになっている」
「何故、これをあの女が? しかもどうしてお前に渡す?」
「彼女も調べていたそうだ。何故俺たちの家族は殺されなければならなかったのか。何故、彼女の父親はそれに加担したのか。理由は分からない。これしか生きる理由はなかったとは言っていた」
人生に絶望したヴァイオレットにとっての唯一の生きる意味。だがリルは彼女のこの説明を少し疑っている。父親と家臣を殺し、自分に一生消えない傷を負わせた犯人を探す為。こう言われたらそれで納得しただろうが、彼女はそう言わなかった。まるでリルたちの家族を殺したことに疑問を持っているような言い方だ。たまたま、リルに合わせて、そういう言い方をしただけである可能性は考えているが。
「……お前に渡す理由が分からねえ」
調べていた理由はなんとなく分かった。だがその結果得られた情報を何故、リルに渡すのか。それに何の意味があるのか分からない。
「俺にも協力しろってことだ。つまり、彼女は真実を求めている。求める理由は、今言った通り、分からない」
「真実? 親父たちは殺された。殺したのはメルガ伯爵で、さらに黒幕がいることは聞いた。これ以上の何がある?」
「言っただろ? 何故、親父たちは殺されなくてはならなかった? しかもイアールンヴィズ騎士団は殲滅された。そこまでされる理由は何だ?」
「それは……分からねえけど」
ハティの頭に浮かんだのは、リルは殺された団長の子供ではないという事実。それが関係している可能性。だが、これをリルに伝えるつもりはない。少なくとも今は言えない。
「ユミルに情報の分析を頼んでくれ。偽情報である可能性もなくはないからな」
「……なるほど。分かった」
「じゃあ、これで」
エセリアル子爵屋敷に向かう方角に足を向けるリル。
「……おい? 何もかも一人で背負うんじゃねえぞ」
「……分かっている」
すでに背負っている。ヴァイオレットと関係を持ったことは誰にも話せない。ローレルは勿論、ハティたちにも、この先も話すつもりはない。話せない。それはまたヴァイオレットを傷つけることになる。リルはそう思ってしまうのだ。
真相は、今と同じ、夜の闇に覆われている。だが確実に時は近づいている。その時に向かって、動き出している。
◆◆◆
運命のいたずら、というより、嫌がらせ。こんなことをリルは頭の中で考えている。どうしてこう自分の望まない方向に物事は進もうとするのか。望まないのはリルだけではない。この場に呼び出された全員が、誰も何も言わないが、同じ想いだ。
「……副部長……私が彼らとですか?」
ヴァイオレットも望んでいない。この問いと表情で、リルにも分かった。
「ええ、そうよ。正式な公安部の人間がいないと彼らも思うように活動出来ないでしょ?」
「正式な公安部部員ではない彼らを働かせることは良いのですか? それと、ご存じのはずですが、ローレル殿は私の婚約者です」
この場にはローレルも呼ばれている。リルと二人、何故か公安部の仕事をさせられることになりそうなのだ。「どうして自分たちが」という二人の思いをヴァイオレットは代弁してくれた。
「これは……インターンという制度よ。入団志望者に実際に入団する前に仕事を経験してもらう制度。囲い込みってやつね」
「インターン……初めて聞きましたけど?」
「公安部志望を公言する騎士候補生なんて滅多にいないから」
ヴァイオレットの問いに、考えることなく、それらしい答えを返すマグノリア。あらかじめ予想される質問に対する答えを考えていたのだ。
「そしてヴァイオレット、貴女は指導係。知らない仲じゃないのだから、やりやすいでしょ?」
「それは……」
ヴァイオレットの視線が一瞬、リルに向く。「知らない仲じゃない」というマグノリアの言葉に、過剰に反応しているのだ。
「あの……それで僕たちは何をするのですか?」
そもそも自分たちは何を行う為に呼び出されたのか。それが分からなければ、判断出来ない。判断しても、マグノリアの様子では拒絶は出来なさそうだ。
「私設騎士団との提携推進。提携私設騎士団との共同活動」
「……それは騎士候補生が行うことですか? 実際の交渉はヴィクトリア殿が行うのでしょうけど」
対外折衝。これを学生である自分たちが行うのはおかしい。ローレルは当たり前の疑問を持った。実際の窓口はヴァイオレットになるにしても自分たちが関わるような仕事ではない。
「いえ、交渉も貴方たちに行ってもらうわ。これは貴方たちが入団後に作られる新たな組織の為だから」
「新たな組織、ですか?」
「公安部特務強行班。帝都および帝都周辺の治安維持活動の中でも、特に凶悪な犯罪に対応する組織よ」
ここまで決められている。リルについては、見習い期間など設けることなく、すぐにその能力を活かせる仕事をさせたい。それには新しい組織を作って、ある程度の権限を与えたほうが良いと考えたのだ。
「えっと……それを騎士候補生である僕たちにですか?」
「だから貴方たちだけでやれとは言わない。一緒に活動してくれる私設騎士団を探して、そこと組むの、そもそもこれは貴方たちが陛下に話すことから始まったのよ?」
「でも、協力してくれる私設騎士団はいるのでしょうか? 今この段階で帝国と強く結びつきたい私設騎士団はいないと思うのですけど?」
帝国騎士団公安部と協力関係を結べば、反帝国勢力からは敵とみなされる。勝敗定かではない今の状況では、どちらに付くか曖昧にしておきたいはずだ。これは実際に私設騎士団の人間から聞いた話。間違いないとローレルは思っている。
「状況が変わった……そうね。貴方たちには話しておくわ。これも貴方たち、いえ、リルのせいだから」
「はい?」
「貴方が剣術競技会でシムラクルム騎士団を叩きのめしたから」
「……何の関係があるのですか?」
どうして剣術競技会での戦いと、私設騎士団の状況に関りがあるのか。シムラクルム騎士団は反帝国勢力であることは分かっているが、何がどう影響したのかまったく分からない。
「シムラクルム騎士団は力を誇示することに失敗した。力を見せつけて帝都周辺の私設騎士団を自勢力に引き込むことが出来なかった。当然、その失敗を取り返そうとする。密かに影響下にある私設騎士団を潜り込ませようとしている気配があるわ」
「シムラクルム騎士団から選択を迫られているということですか……」
「おそらく他の勢力も動いている。帝国騎士団だけが動かないなんて選択肢はないわ。リル、貴方は剣術競技会で力を見せつけた。個人戦とはいえ、シムラクルム騎士団に勝ってみせた。交渉窓口として適任だわ」
実際はこれだけが理由ではない。リルには私設騎士団との特別な関係がある。上層部ではなく一騎士、従士との繋がりではあるが、何もないよりはマシだ。団丸ごとでなく、繋がりのある騎士、従士が味方になるだけでも意味はあると考えたのだ。
「……あれくらいのことで判断に影響を与えるとは思えませんけど」
私設騎士団、イアールンヴィズ騎士団の仲間たちと距離を取らなければならない状況である中で、この任務。しかもヴァイオレットも同じ任務に就くことになる。リルとしては、無駄だと分かっていても抵抗したいところだ。
「実際にやってみなければ分からないわ。そして何もしないでいることは許されないのは、今話した通り」
これまで何もしてこなかったわけではない。いくつもの私設騎士団と接触してきた。だが上手く話はまとまらなかった。そうであればアプローチ方法を変えなければならない。リルとローレルに任せるのは、この意味もある。
「話は以上よ。具体的なことはまた今度、もう少し準備が整った段階で話すわ。分かっていると思うけど、今日ここで話したことは他言無用よ」
「分かりました」「はい」「承知しました」
「では、また。ヴァイオレットは残って」
ヴァイオレットを残して、ローレルとリルは部屋を出ていく。三人とも疑問は感じていない。ヴァイオレットは唯一の正式な公安部員。別の話があるのは当たり前だ。
「……最近どう?」
「……最近?」
ただマグノリアの問いは、ヴァイオレットの想定外のものだった。ローレルとリルにはまだ明かせない具体的な話があると思っていたのだ。
「何か話すことはある?」
「……結婚の話ですか? 申し訳ありません。きちんと話がまとまってからと考えていました」
「本当に結婚するの?」
まったく関係ないわけではないが、聞きたいのは結婚の話ではない。
「ローレル殿の気持ち次第です」
「そう……」
「本当に良いのですか? 同じ職場で同じ仕事をして」
ヴァイオレットは何故、自分が選ばれたのか疑問に思っている。ローレルとリルがこの仕事を行う理由しか、マグノリアは説明していない。
「ずっと、ということではないわ。扱いづらい二人だからお目付け役が必要。でも、何らかの関りがある人でないとその役目は果たせないと考えたの」
「そうですか……分かりました。あとは?」
「……大丈夫。また話しましょう」
マグノリアの話はこれで終わり。ヴァイオレットは部屋を出た。残された理由はたわいのない話をする為、とは思っていない。任務を与えられた理由も、恐らくだが、分かった。
(……疑われている……それはそうね。そうだと思っているから、私に確かめさせようとしたのだもの)
ローレルたちと、リルと組まされたのは自分が嘘をついていないか確かめる為。帝国騎士団は、少なくともマグノリア公安部副部長は、リルが災厄の神の落し子たちの一人だと考えている。そうではないという自分の証言を疑っている。想定していた事態だが、それがはっきりと分かった。
言動に気を付けなければならない。だが、どのように。あの日以来、リル、フェンとは初めて会った。それ以前とは違う態度を見せてしまいそうになった。気をつけなければならない。ローレルに気付かれないように。