まんまと嵌められたかもしれない。近頃、ローレルの心の片隅には常にこの想いがある。エセリアル子爵屋敷で話をした後、ヴァイオレットはローレルに伝えた通り、正式にイザール侯爵家に婚姻を申し込んできた。そこからイザール侯爵家とローレルの話し合いが始まる、はずだったのだが、事は彼が予想していなかった展開を迎える。婚姻の話が想定していなかった早さで進んでいってしまったのだ。
まずこの婚姻はイザール侯爵家にとって良縁だ。ローレルは家を出ることになる。自立しなければならないのだが、その方法がメルガ準伯爵家の婿になるというものであることは、イザール侯爵家にとって願ってもないことなのだ。
貴族家の結婚は政略。自家の勢力を拡大するという目的がある。ローレルがメルガ準伯爵家の婿になるということは、実質的な当主になるということ。メルガ準伯爵家はイザール侯爵家の、ローレル個人は受け入れないだろうが、支配下に入るということに周囲には思われる。少なくとも帝国騎士団公安部の一騎士で終わられるよりは家の為になる。母親を筆頭に、ずっとローレルを厄介者扱いしていた者たちが推進力となってしまったのだ。
さらに、貴族家同士の婚姻、それも片方がアネモイ四家のひとつとなれば両家だけで話は完結せず、帝国、要は皇帝の許しも必要になるのだが、それもあっさりと認められてしまった。皇帝が許したとなると、逆に強制力を持つことになる。イザール侯自身は、ヴァイオレットの体のこともあって、慎重姿勢を崩さなかったのだが、そうも言っていられなくなった。、
「……申し訳ありません。なんだか私自身も思っていなかった勢いで」
この話の進みの早さはヴァイオレットにとっても想定外。これは嘘ではない。働きかけは行った、だがそれは簡単には話が進まないだろうと考えてのこと。リルが災厄の神の落し子たちの一人であることは否定した。そのすぐ後にリルの主であるローレルとの婚姻というのは、何らかの疑いを持たれるものと考えていたのだ。
「そうですね……あっ、いや、決してヴァイオレット殿との結婚が嫌だというわけではないのです。ただ、気持ちが追い付かなくて……」
ローレルの気持ちをわずかに軽くしているのは、ヴァイオレットがリルの正体に気が付いていないこと。そう思わされているだけだ。リルが隠したのだ。
「ローレル殿には本当にご迷惑をおかけすると思っています。私のような者を妻にすることには抵抗があるでしょう」
「……あの、そこまで自分を卑下することはないと思います。ヴァイオレット殿は、その……とても、美しい人で……妻になってもらえるなど夢のようです」
「……ありがとうございます。そのお言葉はとても嬉しいのですが、結婚となるとまた違うと思います。私の体にある火傷の跡は……」
ヴァイオレットは間違いなく美人だ。鍛えているので貴族の女性としてはしっかりした体だが、それでも長い手足が人並み以上にスタイルを良く見せている。容姿を褒められることを嫌味とは思わない。
だが妻として愛されるかとなれば、それはない。火傷跡が広がる肌が露わになった自分を美しいと言ってくれる人はいないと思っている。
「ぼ、僕は! あっ、いや、軽々しく言うことではないと分かっていますが……それでも結婚するとなれば……愛することが出来ると思います」
「……ローレル殿」
「嘘ではありません。今は信じてもらえないと思いますけど……あれ?」
どうして自分はこんなに必死にヴァイオレットを口説いているのか。ふとローレルは思った。
「そのお気持ちは本当に嬉しいのですけど、無理はしないでください。私は結婚してもローレル殿を独占しようとはしません」
「ヴァイオレット殿。僕は貴女の苦しみを知らない。だから偉そうなことを言う資格はない。でも……過去にとらわれて未来を諦めるのはやめてください。本当に僕に出来ることがあれば、何でもしますから」
これはローレルの本音だ。ヴァイオレットを口説こうとしているのではない。過去の恨みを忘れ、未来に目を向けて欲しい。リルを許して欲しい。その為であれば、何でもする。心からこう思っているのだ。
「ローレル殿は……本当に優しい方ですね?」
そのローレルを自分は利用している。ローレルが良い人であればあるほど、心が痛む。メルガ家当主の座だけを求めている相手のほうが気持ちは楽だった。ローレルがそういう人物であって欲しかった。
「そんなことはありません。僕に優しさがあるとすれば、それは偽善です。本当の優しさは強さを伴わなければならない。僕はそう思います」
「優しさと強さ……どういう意味でしょう?」
「優しくしたい相手を守りきれる強さです。一時の優しさはただの同情と変わらない。優しくあり続けるには、それが出来る強さが必要だと僕は知りました」
「……どうしてローレル殿はそんな風に思えるのですか?」
ローレルは帝国貴族の頂点の一つ、イザール侯爵家の人間だ。彼個人は普通の人間であってもイザール侯爵家という力がある。そのローレルがどうしてこのような想いを抱くのか、ヴァイオレットは不思議だった。。イザール侯爵家よりも下位の貴族家でも、もっと傲慢な人間がいる。そういう人間を数多くヴァイオレットは見てきている。
「どうして……僕の瞳は青いでしょう?」
「ええ……そうですね」
突然の問い。この流れでどうしてこの質問になるのか、ヴァイオレットは分からない。彼女は知らないのだ。
「知らないのですね? イザール家の血筋は瞳の色が翠色になります。僕の体にイザール家の血が流れていないというわけではありません。でも僕の瞳は翠ではない」
「それは……」
「僕はこの世に生まれ落ちた瞬間からイザール家失格の烙印を押されました。それはプリムも同じです」
ローレルの視線が離れた場所でリルと鍛錬をしているプリムローズに向く。ヴァイオレットの視線も。プリムローズはローレルの妹だった。これは驚きの事実だった。再会を嬉しく思う気持ちはある。だが同時に心が苦しくもなった。自分はプリムローズの兄を騙している。罪悪感が湧き上がったのだ。
「プリムは母親が亡くなってイザール家に引き取られました。他に身寄りがなかったのでそうするしかなかった。でも……プリムにとってそれは不幸だった。母親が亡くなったことだけでなく、イザール家の人間として認められず、様々な嫌がらせを受けて辛い思いをしました」
「……そんなことが」
明るく愛らしいプリムローズも辛い思いをしていた。家族に虐げられる辛さはヴァイオレットも知っている。味方は誰もいない。孤独の中で地獄の日々に耐える辛さは今も忘れられない。
「僕はプリムの支えになろうとした。少しはなれていたつもりだった。でも違った。本当の意味でプリムを救ってあげられていなかった」
「そんなことはないのではありませんか? プリムローズ殿はローレル殿のことを大切に思っています」
再会し、ローレルの婚姻相手がヴァイオレットであると知ったプリムローズはとても喜んでくれていた。素敵な姉が出来て嬉しいと言ってくれた。ヴィクトリアがメルガ準伯爵だと知るまでは。
プリムローズの顔が曇ったのを見て、ヴァイオレットは彼女も真実を知っていることが分かった。彼女の喜びに心が温まっていた分、冷えた心との落差が激しく、辛かった。
「プリムが今のようにいられるのはリルのおかげです。以前は僕に心配させまいと無理をしていました。向けてくれていた笑顔は心からの笑顔ではなかったことを僕は知りました」
「…………」
「リルは僕も救ってくれました。僕に自分が凡庸であることを認める強さを教えてくれました。イザール家に認められない苦しみから解放してくれました。だから僕は……リルの為であれば何でもします。そう誓っています」
まっすぐにヴァイオレットに視線を向けて、これを告げるローレル。もしこれ以降、ヴァイオレットがリルが何者かを思い出し、害を及ぼすようなことになれば、自分は全力でそれを防ぐ。その宣言だ。今は伝わらなくても、その時になって思い出してもらえれば良い。そう考えているのだ。
「……素敵な関係ですね? とても羨ましく思います」
「貴女にも僕らとの関係をそう感じてもらえると良いなと思います。未来が明るいものになれば良いなと」
「そうですね……私もそれを望みます」
瞳ににじみそうになる涙をヴァイオレットは堪えようとしている。ローレルが良い人であればあるほど心が痛む。自分のことを想ってくれようとしているのだと思うと辛くなる。だが引き返せない。何度も絶望で心が折れて生きることを諦めようと考えた。だが生きてきた。生きる理由があった。生きてきた意味があった。
地獄に現れた黒い羽根を持つ天使。また彼に会えたのだ。
◆◆◆
ヴァイオレットの行動は事情が分かっている人ほど理解出来ない。何も知らない人たちは直近で行われた帝国主催の会がきっかけだろうと思うだけ。侮辱されていたヴァイオレットを助けたのはローレル。従士のリルではなく、主のローレルの名で人々は認識している。それが縁で婚姻という話になったというのは、多くの人々が納得するものだ。貴族の結婚に恋愛する時間は必要ない。結婚前に会ったのは両家顔合わせの一回だけ、なんてことも珍しいことではないのだ。
頭を悩ませているのは裏事情を知っている人々。メルガ伯爵屋敷襲撃事件の犯人、災厄の神の落し子たちの一人と思われていたリルの主であるローレルと、その被害者であるヴァイオレットが結婚するなんていう結果は普通ではないと思うのだ。
「……本当にリルは災厄の神の落し子たちの一人ではなかった、ということ?」
信じられなかったがヴァイオレットの証言は事実だった。この可能性をマグノリアは口にした。
「そんなはずはない。リルは間違いなくイアールンヴィズ騎士団関係者だ」
ヴォイドはその考えに同意出来ない。リルがイアールンヴィズ騎士団関係者であることは間違いないと考えている。
「では、イアールンヴィズ騎士団関係者ではあるけど事件には関わっていない」
「それは……完全には否定出来ない」
イアールンヴィズ騎士団関係者だからといって全員がメルガ伯爵屋敷襲撃事件に関わっているとは言えない。そもそもどれだけの人数が関わっていたのかも分かっていない。まだ子供だったという話もヴァイオレットの証言だけで、裏付けはないのだ。
「でも関わっている可能性も否定出来ない」
「えっ?」
マグノリアは一転、リルが災厄の神の落し子たちの一人であることを肯定する発言をしてきた。
「ヴァイオレットが現場で見ていないだけかもしれない。この可能性は彼女にだって思いつくはずよ」
「……犯人である可能性を考え、ローレルを利用して近づいた? いや、しかし、それで結婚?」
リルの正体を探る為に近づいた。これは分かる。だがその方法として結婚を選ぶというのはヴォイドには理解出来ない。
「ヴァイオレットにとって結婚は何の価値もないわ。幸せになれるとも、大切なことだとも思っていない」
「なるほど……そうであれば道具として使うことに躊躇うことはないか。この可能性が高いかな?」
ヴァイオレットの行動を説明できる仮説。他に思いつかない以上はこれが事実なのだろうとヴォイドは考えた。実際にこれであればヴォイドも納得出来る。
「一つ大事なことを忘れているな」
「えっ? 団長、それは……?」
ワイズマン帝国騎士団長はヴォイドが考えつかなかった点に気付いていた。犯人だと暴くため。この仮説に疑念を持たせる点だ。
「ヴァイオレットは事件の唯一の生き残りで目撃者だ。犯人にとっては自分の罪を暴く唯一の危険な存在。逆にヴァイオレットさえいなくなれば証拠はなくなる」
「リルはヴァイオレットを殺す……?」
「そういうことを言いたいのではない。だがヴァイオレットはそう思うはずだ。相手は父親と家臣を皆殺しにした凶悪犯なのだからな」
近づくことは自分の身を危険にさらすことになる。リルが殺害を決めた時、ヴァイオレットに自分の身を守る力はない。それは騎士養成学校に入学してからのリルについて少し調べれば分かるはずだ。
「ヴァイオレットは、たとえリルが犯人であっても自分を害することはないと信じている。そう信じられる何かがあるか、知っているということよ」
マグノリアはワイズマン帝国騎士団長と同じことを考えていた。ヴィクトリアは自分の命をなんとも思っていない。だが、犯人を捕らえられるとなれば、それが実現するまで命を惜しむはずだ。彼女がずっと犯人を探していることをマグノリアは知っているのだ。
「……逆にローレルとプリムローズを人質にとっているというのは?」
「ずっと側にいるわけでもないのに? 無理でしょ?」
「じゃあ、何?」
「分からない。分からないけど……私はリルが犯人だとしてもヴィクトリアを殺すような真似はしないと思う。もしその気があるならヴァイオレットの代わりに決闘するなんて真似はしないはずだわ」
リルは自らヴァイオレットの前に出た。顔は覚えていなくても、会ったことがなくても、彼女が誰か分かるはず。彼女はメルガ準伯爵なのだ。
「……罪悪感。罪悪感からの行動か」
「そうね。そしてヴァイオレットはリルが強い罪悪感を持ち、自分を害することは絶対にないと知っている。ただこれでも疑問は残るわ。彼女は何をしたいのか」
これはヴァイオレットはすでにリルが犯人だと分かっている前提。そうであるのにヴァイオレットはそれを伝えてこない。リルの無実を証明し、ローレルと結婚しようとしている。この理由は分からないままだ。
「……振り出しだ」
「つまり、まだ情報が足りないということよ。しばらくは様子見。これでよろしいですか?」
「……ああ、そうだな」
ヴァイオレットの真意を理解するにはまだ情報が足りない。その通りなのだろうとワイズマン帝国騎士団長も思った。今はとりあえず、真相究明がならなかったことに安堵することだ。
リルが犯人かそうでないかに関係なく、帝国騎士団はリルの力を求めている。彼の力を帝国騎士団で活かしたいのだ。このまま真相が有耶無耶のままになることは、ワイズマン帝国騎士団長にとっては都合が良い。様子見。それで良いのだ。