プリムローズの日常は以前と比べれば、かなり自由になった。四六時中、護衛が付き従うことは、相手によってはプリムローズ本人はそれを嫌がっていなかったが、なくなった。ローレルとリルが騎士養成学校に行っている日中は、ずっとエセリアル子爵屋敷に籠っていなければならない、という制約もない。一人で自由にどこへでも行けるということまでには、さすがになっていないが、外出機会は増えた。外出先は、ほとんど騎士養成学校だが。
「……フェンのようには行かないな」
プリムローズが騎士養成学校に行くのは、レイヴンとルミナスの面倒をみる為。レイヴンのご機嫌伺いの為にフェンが頻繁に厩舎に来なくて済むように、プリムローズが相手をしているのだ。
といっても実際は、リルのようにレイヴンを乗りこなすことが出来るようなりたくて、その役目をプリムローズは、やや強引に引き受けたのだ。
「きっと私が頼りないからだね?」
レイヴンは大人しく乗せてくれる。だがプリムローズが望んでいるのはそういうことではない。リルを乗せている時と同じように、もっと荒々しい、驚くような動きを見せて欲しいのだ。
だがそれを望んでもレイヴンは応えてくれない。自分には無理だと思っているのだろうとプリムローズは考えている。
「少しくらい怪我しても大丈夫だから」
乗馬の技術を高めなければならない。ただその為にもレイヴンの協力が必要だ。落馬することになっても大丈夫、とプリムローズは伝えたが、レイヴンは顔を振って拒否してきた。多分そうだろうとプリムローズが勝手に思っているだけだが。
「……駄目か」
実際に拒否されたのかは分からないが、レイヴンが動きを変えないのは事実。慣れて覚えようというプリムローズの試みは失敗だ。
「ルミナスに教えてもらおう」
のんびりと歩かれているだけでは練習にならない。今日のところは、といっても毎日のことだが、諦めてルミナスに乗り換えて練習を行うことにした。ルミナスを繋いでいる場所に向かおうとするプリムローズ。
「あれ? 誰だろう?」
ルミナスの近くに誰かが立っていることに気が付いた。レイヴンに少し足を速めてもらって、近づいていくプリムローズ。帝国騎士団の団員、それも公安部であることは着ている制服から分かった。女性であることも。
「……貴女の馬?」
「え、ええ、あっ、いえ、兄の馬です」
突然、相手のほうから話しかけられて焦るプリムローズ。離れた場所からでは長身に見えたが近づいてみるとそうでもない。小さな顔とすらりと伸びた長い手足がそう見せているのだ。髪を短く切り、帝国騎士団公安部の騎士服を纏う姿は「男装の麗人」という言葉がぴったり。そんな彼女の姿にプリムローズは見とれていたのだ。
「そう。素敵な馬ね? 今乗っているその馬も」
「ありがとうございます」
切れ長の瞳は少し冷たい印象を与えるが、笑みが浮かぶと雰囲気は一変。温かなものに変わる。プリムローズが勝手にそう感じているだけかもしれないが。
「もしかして騎士候補生なのかしら?」
「兄はそうですけど、私はまだ。この春に入学する予定です」
「……帝国騎士団を志望しているの?」
そうは見えない。女性はそう思っているのだろうな、とプリムローズは考えた。目の前の女性を見ていると、自分の子供っぽさが少し恥ずかしくなってしまうのだ。
「そうですけど、公安部志望です」
「まあ? じゃあ、私の後輩になるのね?」
自分と同じ公安部志望だと聞いて、嬉しそうに笑う女性。 パッと花が開いたよう。プリムローズはその笑顔を見て、思った。同性に対して、初めて胸が高鳴った。
「可愛い後輩さん。名前を教えてもらえるかしら?」
「プリムローズです」
「名前まで可愛い。私はヴァイオレットよ。よろしくね?」
「ヴァイオレットさん……よろしくお願いします」
こういう素敵な女性が帝国騎士団公安部にいる。公安部配属になれば、この人と一緒に働けるかもしれない。それをプリムローズは嬉しく思った。
「もっと話したいけど、これで。近道したのに約束の時間に遅れてしまいそうだわ」
「近道?」
「知らないの? 厩舎を抜けた先に帝国騎士団官舎があるの。そこにある裏口を使うと正面入り口からより、公安部の事務所に早く着けるのよ。将来の為に覚えておいて」
「はい……」
ヴァイオレットが向かっているのは騎士養成学校ではなく、帝国騎士団公安部だった。職場なのだから当然ではあるが、公安部の騎士服を着た人がここを通るのをプリムローズは今日初めて見たのだ。
「でも他の人には内緒よ? 私が怒られてしまうから」
それはそうだ。普通は使わない、使ってはいけない行き方なのだ。
「はい!」
片目をつむって、いたずらっ子のような笑みを浮かべるヴァイオレット。無表情の時の怜悧な美しさと、今のような温かな雰囲気。その変化をプリムローズは素敵だと思った。
「また会える日を楽しみにしているわ」
軽く手を振って、速足で去っていくヴァイオレット。
「……素敵な人。私もああいう大人の女性になりたいな……なれるかな?」
その背中を見つめながらプリムローズは呟いた。その後ろでレイヴンが頭を振っていることには気が付いていない。
◆◆◆
帝国騎士団公安部の人員は、およそ五百名。ただ今現在、帝都に残る部員はその半分にも届かない。多くが地方に派遣されている。地方の情勢を探る為。反帝国勢力についての情報を集める為だ。
ヴァイオレットも同じ任務を与えられて地方を回っていた。今回は久しぶりの帰還だ。
「戻ったわね。疲れていない?」
戻って最初に報告する相手は公安部副部長のマグノリア。彼女がヴァイオレットの直属の上司なのだ。
「大丈夫です。帝都に近づいてからは緊張も解けましたので」
「つまり、それ以前は緊張を解けなかったっていうこと?」
「他の部員からも報告を受けておられると思いますが、帝国打倒の気運の高まりは、すでに一部の貴族や私設騎士団だけに限ったものではなくなっております」
今の帝国に成り代わる新たな支配者を。これを望む声が広がっている。一部の貴族や私設騎士団が私欲からそれを求めているのではなく、民衆からもそれを求める声があがるようになっているのだ。
地方の治安悪化は人々の暮らしに大きな悪影響をもたらしている。力ある者は富み、弱者はますます貧しくなる。そういった問題に対する無策が、人々の心を帝国から引き離した。今、地方で帝国側の人間あることを知られると命の保証はない。そんな状況に陥っているのだ。
「だからといって反帝国勢力に味方しても、人々の暮らしは良くならないわ」
人々を苦しめているのは反帝国勢力。争いの世の中にしているのは反帝国勢力だ。自分たちを苦しめている相手に期待を抱く気持ちがマグノリアには分からない。こう思うのはマグノリアが帝国公安部の人間だからだ。
「そうかもしれませんが、人々にはそれが分かりません。帝国は何もしてくれない。人々が分かっているのは、この事実だけなのです」
すでに状況は最悪。そうであれば何者であろうと帝国に成り代わってくれたほうがマシ。人々のこういう想いをヴァイオレットは見聞きしてきたのだ。帝都にい続けるマグノリアとは違った見方になっている。
「……ヴィシャスは勢力をどこまで広げているの?」
反帝国勢力の中でも一番の強敵は前宰相ヴィシャス。ヴァイオレットの任務はそのヴィシャスの支配下にある南部に赴き、その勢力について調べることだった。
「さすがは、というべきでしょうか? 単独で繋がりを調べるのは容易ではありませんでした」
「簡単には尻尾は掴ませないか……」
勢力を拡大しているのは間違いない。だがどの貴族家がすでにヴィシャスに従っていて、どの貴族家が今も帝国に忠誠を向けているかは、はっきりしない。帝国に分からせないようにしているのだ。
「帝都から追放された者たちが繋がっているのは調べるまでもありません。そこから先、どこまで伸びているのか。分かったことは決して多くはありません」
「それでも分かったことがあるのね?」
「南部の貴族家は大きく四つに分かれます。ヴィシャスが新たな皇帝になると考えて従っている者。ヴィシャスの行動は帝国の為であると信じて従っている者。従っている振りをしている者。公に従うことを拒否している者。最後はすでに極少数です」
それも長くは続かない。反抗し続けていればヴィシャスに滅ぼされることになる。今、従うことを拒否して無事でいられるのは、ヴィシャスが自分の意思を明らかにしていないから。自分が新たな皇帝になると宣言してもほとんどが従う状況となれば、逆らう者たちに力を向けるはずだ。、
「それは……まさか、具体的にどの家がそうか分かっているというの?」
調べなくても分かること。マグノリアはそう思ったが、そんなことをわざわざヴァイオレットが話すはずがない。ヴァイオレットはマグノリアの「分かったことがあるんほで?」という問いに対する答えとして話したのだ。
「一部の貴族家だけです」
「一部でも、よく調べられたわね?」
「話した相手が真実を語ってくれたのであれば、です」
「……どういう意味かしら?」
ヴァイオレットの言う「話した相手」は南部の貴族に違いない。それはつまり、ヴァイオレットは直接、相手に問い質したということ。敵であるかもしれない相手に。
「言葉の通りの意味です。何人かに直接話を聞きました」
「危険な真似を……どうしてそんな無茶をしたの?」
相手がヴィシャスに忠誠を誓う者であれば、ヴァイオレットは殺されていたかもしれない。殺されないまでも酷い目に遭わされ、帝都に戻ってこられなかったかもしれない。
「惜しまなければならない命ではありません」
「ヴァイオレット……」
「帝国の為ではなく、父の死の真相を知りたくて情報を集めていると言えば、会うことが出来ます。その話の中でヴィシャスと深い繋がりがあるかは、おおよそ分かります。今の帝国をどう思っているかも」
ヴァイオレットをメルガ家の当主にしたのはルイミラ妃。こういう噂がある一方で、死んだ父親はヴィシャス前宰相と繋がりを持っていた。ヴァイオレットはどちらの側なのか。彼女の話次第で相手はどちらにも受け止める。
完全にヴィシャス側である貴族は彼女から逆に帝国の情報を引き出そうとする。彼女はそれを話すと思う。逆の、まだ帝国に忠誠を向けている貴族はルイミラ妃に行いを改めるように伝えて欲しいと言ってくる。分かりやすい例だが、そういうことでその貴族がどういう立場か分かるのだ。
「ヴァイオレット……命を粗末にしないで」
「粗末にしているつもりはありません。ただ情報を得る為には危険を覚悟しなければなりません」
「……戻ってすぐで悪いけど、貴女に頼みたい仕事があるの」
命を粗末にするな。この言葉は何度もヴァイオレットに伝えている。だがマグノリアの言葉は彼女の心には届かない。それをマグノリアは分かってしまっている。しつこく話を続けることを止めた。
「何でしょうか?」
「ある人物に会って欲しいの……災厄の神の落とし子たちの一人である可能性がある人物よ」
「…………」
ヴァイオレットの目が驚きで大きく見開かれる。この場で聞くことになるとは、まったく思っていなかった言葉。「災厄の神の落し子たち」の言葉を聞いて。
「名はリル。でもこれは偽名ね。本名はフェンだと思われるわ。他にも数人いるけど、まずはこのフェンが災厄の神の落し子たちか確かめて欲しいの」
「…………」
「……大丈夫? もしかして、フェンという名を覚えているの?」
完全に固まってしまっているヴァイオレット。こうなるのも当然だとマグノリアは思っている。災厄の神の落し子たちはヴァイオレットにとって父親と家臣を殺し、自分の体に消えない傷を残した憎い相手。その相手がようやく見つかったかもしれないのだ。
「……い、いえ……名前までは覚えていません。そ、それで、そのフェンという人物はどこに?」
「騎士養成学校にいるわ。ただ確かめる場は別に作る予定よ。相手にも周囲にも知られたくない事情があるの」
実際にリルが、フェンが災厄の神の落し子たちの一人であった場合、その場で大騒ぎになっては困る。マグノリアは納得していないが、ワイズマン帝国騎士団長はその事実を揉み消そうとしているのだ。真実は自分とヴァイオレット、そしてワイズマン帝国騎士団長だけのものにしなければならない。
「……分かりました。その場、というのはどういう場なのでしょうか?」
「王宮で小さな宴が開かれるわ。小さなといっても王宮で行われるのだから、それなりの規模。参加者の数は少なくなく、目立たないようにしていれば、相手に気付かれる心配はないわ」
「王宮……宴ですか……」
ヴァイオレットとしては、出来れば、遠慮したい場。そういった華やかな場に出るのは嫌なのだ。ただ、今回に限っては、嫌だからといって断るわけにはいかない。
「……ヴァイオレット。これは余計なお世話かもしれない。でも……もし確認が終わって、思った通りの結果だったら、もう事件のことは忘れたほうが良い」
「…………」
「女性として生きることも考えてみない? 縁談の話もあると聞いているわ」
ヴァイオレットはずっと父親の敵を、自分の人生を台無しにした相手を探し続けている。マグノリアはそれを知っている。それだけに人生を費やしていると言って良いほど、全てを横に置いて。だが、もうそういう生き方は終わりにしたほうが良い。そう思ってしまうのだ。
「……女性として生きることを選んでも、愛されることのない私は幸せになれません。時々来る縁談の話も私ではなく、メルガ準伯爵の地位を欲してのこと。副部長もお分かりのはずです」
「今まではそうだったかもしれないけど……」
この先はそうではない保証なんてない。だが、このままではヴァイオレットは命を落とすことになる。命を惜しむ、生きることを強く望むような生き方をして欲しいと思っているのだ。
「……まずは目の前の仕事です。その結果が出ないと、何も動きません」
「そうね。詳しいことは改めて伝えるわ、それまでは仕事は良いから、体を休めていて」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
椅子から立ち上がったヴァイオレットは、マグノリア副部長に一礼して部屋を出る。廊下に出て、出口に向かう足が速まるのを抑えきれない。
「……見つかった……見つけたわ、フェン。絶対に逃がさない。逃がさないから」
今すぐ騎士養成学校に行って、本当に本人か確かめたい。その気持ちを抑えるのにヴァイオレットは必死だ。ずっと待ち望んでいた機会。待ち望んでいたが絶対に叶うことはないと思っていた機会。それが訪れるかもしれないのだ。
ヴァイオレットは運命に感謝した。この世に生を受けてから、まだ二回目の感謝だ。