何故こんなことになったのか。遥か上にわずかに見える光を見上げながらリルは考えている。帝国騎士団に同行しての課外授業の途中のことだった。希望者だけが参加する課外授業だったが、リルは悩むことなく参加を決めた。実戦経験を、それが魔獣相手のものであっても、得られる機会だ。参加しないという選択肢はリルにはなかった。
だが結果、実戦の機会は得られていない。討伐対象の魔獣を見つける前にリルは、地面に空いていた裂け目に落ちてしまった。正確には落とされた。前を歩いていた騎士候補生がよろけ、倒れそうになった。咄嗟にその彼を助けようと動いたリルに、また別の誰かがぶつかってきた。その結果、リルもバランスを崩し、足を踏み出した先に、まさかの裂け目があったのだ。体が宙に浮いた感覚。その後の記憶ははっきりしない。気が付いた時には、暗い洞窟の中だった。
(……運が悪いのか、それとも良いのか?)
裂け目に落ちたのは不運。だがこうして、怪我はしていても、生きていられるのは幸運かもしれない。見上げている光の遠さがこう思わせた。
(登るのは……無理かな?)
体中が痛いのだが、特に左腕と右足首の痛みが酷い。骨が折れている様子はないが、ひびくらいは入っているかもしれない。この体の状態で地上まで登っていけるとは思えなかった。
(出口を探すか……)
歩いて出られる場所があるかは分からない。だがこの場に留まっていても助けが来る保証はない。大声で叫んでも応える声は聞こえなかった。落ちた裂け目のところにもう人はいないのだとリルは考えた。気絶していた時間は当初思っていたよりも、ずっと長かったのかもしれないとも。
(とはいえ……)
どちらに進めば良いのか。選択を誤れば出口から遠ざかることになるかもしれない。出口があれば、の話だが。
{……どうやら出口はありそうだ。人間の言葉が話せれば、聞けるのだけどな」
痛みに耐えながら立ち上がるリル。これも幸いというべきか腰に吊るしていた剣はそのままだ。その剣を抜いた時には、唸り声が聞こえる距離に相手は近づいてきていた。
「……よりにもよって魔獣か……やっぱ、不運だな」
近づいてきたのは普通の獣ではなく魔獣。リルが知る、間違いなく魔獣だ。洞窟の壁に寄りかかるようにして立ち、剣先を魔獣に向ける。戦える体ではない。そうだとしても戦うしかない。ここで死ぬわけにはいかないのだ。
◆◆◆
課外授業での事故はすぐにワイズマン帝国騎士団長にも伝わった。魔獣討伐、それもより上位の魔獣を相手にする実戦任務だ。事故が起きる可能性は当たり前にあった。だがその事故が移動中の、それも不注意によって起こされたものとなると、そういうこともあると納得することなど出来ない。しかも事故にあったのは帝国騎士団の正式団員ではなく騎士養成学校の騎士候補生なのだ。帝国騎士団長が、仮に納得することが出来たとしても、周りが収まらない。
「生死も定かではないだと? 事故が起きてからすでに五日が経つと聞く。それで何故、何も分からないのだ?」
その収まらない周囲は皇帝だった。会議の場で皇帝は事故を取り上げ、ワイズマン帝国騎士団長に説明を求めてきた。
「申し訳ございません。騎士候補生が落ちた洞窟の存在は知られており、入口の場所も把握しておりましたが、その入口が崖崩れで塞がれておりまして」
任務地に洞窟が存在すること、ところどころに裂け目があることも帝国騎士団は把握していた。裂け目の上から呼びかけても反応がないことが分かるとすぐに同行していた者たちは洞窟の入口に向かったのだ。だが、その入口は土砂で塞がれていた。
「……それで諦めたと?」
「いえ、救助活動を諦めてはおりません。現在は入口の土砂の撤去を行うのと並行して、洞窟まで降りられる別の裂け目を探しております」
救助活動は継続している。ただ洞窟の中に入れないことにはどうにもならない。
「まだ進入経路は見つからないのか?」
「いくつか候補は見つけております。ただ……二次被害が出ないように慎重にならざるを得ない状況であります」
「二次被害だと?」
皇帝のワイズマン帝国騎士団長を見る目の厳しさが強まる。二次被害と言われても皇帝には何のことか分からない。分からないので帝国騎士団が救助活動を積極的に行っていないように思えてしまうのだ。
「……それが……洞窟には魔獣が生息しているという情報がございます。少人数で洞窟内に入ってしまうと、魔獣の襲撃に対応することが出来ない可能性が……」
では、たった一人で洞窟に落ちたリルはどうなのか。皇帝からの追及を予想しているワイズマン帝国騎士団長の歯切れは悪い。
「…………」
だが皇帝がその点を追及することはなかった。追及するどころか何も言わないまま、目を閉じてしまった。
「万全の体制で救助活動を進めてまいります。恐れながら、今しばらくお時間を頂きたく、お願い申し上げます」
「……生存の可能性が無いということであれば、無理する必要はない。一人の死を確認する為に、大勢の命を犠牲にするわけにはいかんからな」
目を閉じたまま皇帝はこれを告げた。
「行方不明になっている騎士候補生を含めて、一人の犠牲も出さないよう全力を尽くして事にあたります」
皇帝の言葉を鵜呑みにして「では捜索活動は終了します」とは言えない。ワイズマン帝国騎士団長自身に諦める気持ちがない。どういう結果で終わるにしても最後までやり遂げるつもりだ。その上で責任を取る。この場に出る前からそう決めているのだ。
「……帝国騎士団長に任せる」
最後にこれを伝えて、皇帝は席を立った。予定されていた議題がまだ残っているが、それを止める者は誰もいない。途中で退席する。出席していてもろくに話を聞いていないなんてことは、今の皇帝においては、珍しいことではないのだ。
「ワイズマン。君のことだから自らの責任と思っているのだろうが、陛下がおっしゃられた通り、無理をすることはない」
皇帝がいなくなったところでフォルナシス皇太子が口を開いた。
「無理をしているつもりはございません。私は帝国騎士団長として、また帝国騎士養成学校の責任者として為すべきことを為すまでです」
「しかし、その結果、騎士に犠牲者が出るような事態は避けなければならない」
「そうではありますが、一方で行方不明になった騎士候補生を簡単に見捨てるような真似をすれば、他の騎士候補生たちに養成学校が、帝国騎士団がどのように見られることになるか」
ワイズマン帝国騎士団長は事故を起こしてしまったことへの負い目だけで救出活動を最後までやり遂げようとしているわけではない。他の騎士候補生の目も気にしているのだ。
「……それほどの悪影響があると?」
騎士の犠牲を覚悟してでも捜索活動を続けなければならない。そこまでのこととはフォルナシス皇太子は思っていなかった。
「実際のところは分かりません。しかし、行方不明になっている騎士候補生は影響力が大きい人物だと私は考えております。さらに、これは不適切な考えかもしれませんが、イザール侯爵家の従士であります」
出席者の数人からうめき声が漏れる。行方不明となっている騎士候補生が何者かまで知らなかった出席者たちだ。アネモイ四家のひとつ、イザール侯爵家の家臣が騎士養成学校の授業、それもこれまで行われていなかった特別な授業で命を落とした。これを知ると彼らの受け止め方も変わってくるのだ。
「……イザール侯爵家から何か?」
「いえ、今のところは何も。ただ私が知る限り、同じく騎士候補生であるローレルのその従士に対する信頼はかなり厚いものです。簡単に救助活動を諦めれば黙っていないでしょう」
また出席者たちから、先ほど以上に大きなうめき声が漏れ出た。ローレルの名が出た結果だ。
「ローレルか……陛下の反応はそれが理由だな。恐らく会ったこともあるのだろう」
フォルナシス皇太子のこの考えは他の多くの出席者と同じ。一騎士候補生が行方不明になったことを国政の場で取り上げるのは何故か。疑問に思っていた出席者たちは答えを得た。
「さらにローレルと従士のリルは同級生たちから信頼を得ております。彼らのクラスがひとつにまとまっているのは二人がいるから。その一人を見捨て、その結果もう一人の信頼を帝国騎士団が失うようなことになれば、その影響は他の騎士候補生にも波及する可能性がございます」
「騎士候補生の信頼を失くして、何の為の騎士養成学校か……」
帝国騎士団を進路に選ぶ者がいなくなれば、養成学校は私設騎士団と貴族家の騎士団の為のものになってします。それを影響は軽微だとはフォルナシス皇太子も言えない。
「皇太子殿下。万が一があった場合、陛下のお怒りがワイズマン帝国騎士団長に向かう可能性がございます」
皇帝が残した「帝国騎士団長に任せる」は「全ての責任はワイズマン帝国騎士団長にある」という意味。こう受け取った出席者はこれを言う彼だけではない。さらに行方不明になっている、恐らくはすでに死んでいる騎士候補生が皇帝のお気に入りであるローレルの従士であることを知れば、その思いは強くなる。
「さすがにそれは……これは事故だ。事故であるのは間違いないのであろう?」
「周囲にいた者たちの証言から、別の騎士候補生を助けようとした結果、起きた事故であることは間違いありません」
一人が先に躓き、倒れそうになった。それを助けようとリル、そして帝国騎士団の騎士が同時に動いたことで二人は接触。リルが裂け目に落ちてしまった。ここまでがすでにワイズマン帝国騎士団長にも報告されている。
「ではワイズマンに責任はない。陛下もお分かりのはずだ」
「しかし皇太子殿下。そうであっても……」
そうであっても責任を負わせるのが今の皇帝。言葉にしなくても皆が分かる。
「……さすがに今回のこれはないだろう?」
「そうあって欲しいと私も願っております。ただ万一の際は何卒、皇太子殿下からおとりなしを」
ワイズマン帝国騎士団長は彼らの地位を脅かす存在ではない。そうであれば優秀なワイズマンの失脚は、愚臣と陰口を叩かれる彼らとしても望むものではない。帝国を守るワイズマン帝国騎士団長は、彼らの地位も守ってくれる存在なのだ。
だからといって自ら皇帝の意向に逆らい、進言することは出来ない。フォルナシス皇太子に振ってしまうのが最上の選択だ。結果、フォルナシス皇太子が皇帝の怒りを買うことになっても彼らは困らない。彼らはルイミラに子が生まれ、その子が次期皇帝になることを望んでいるのだ。
「…………」
そんな彼らの思惑をフォルナシス皇太子ば分かっている。すぐに「分かった」とは言いたくなかった。無言のフォルナシス皇太子。沈黙が会議室に広がる、と思ったところで。
「失礼いたします」
近衛騎士が会議室に入ってきた。
「何かあったのか?」
近衛騎士が会議の場に入ってkることなど滅多にあることではない。何事が起きたのかとフォルナシス皇太子は不安になった。
「ワイズマン帝国騎士団長に伝言をお持ちしました」
「私に? ありがとう」
さらに用件はワイズマン帝国騎士団長に伝言を届けるというもの。こんなことはこれまで一度もない。この場にいる誰もが戸惑いの表情を浮かべている。
「……席を立つことをお許し願います」
伝言を呼んだワイズマン帝国騎士団長の言葉。
「何があった?」
「それが……行方不明であった騎士候補生が見つかったようです。ただ詳細が分かりませんので、急ぎ確認をいたしたく」
「……見つかった? そんな……い、いや、信じられないが事実なのであろう。良かった。分かった。会議はこれで解散にしよう」
これまでの話では助かるはずがない状況。そうであるのに無事に発見された。フォルナシス皇太子だけでなく、出席者全員が戸惑いの表情を浮かべている。伝言を受け取ったワイズマン帝国騎士団長も気持ちは同じだ。
何があったのか。それを少しでも早く知りたいという欲求が退席を申し出させたのだ。
◆◆◆
何があったのか。それを知るのはリル一人。この先もワイズマン帝国騎士団長が真実を知ることはない。それは二日前のことだ。
「……痛っ。あまりの痛さに、途中で気絶するかと思った」
「ぐっぐるる?」
リルの言葉に応えたのは人ではない。魔獣。それも上位種のナイトメアだ。
「ああ、お前のせいじゃない……って、これで合っているのか? こっちは言葉分からないから」
リルをここまで運んできたのはこの魔獣。ただかなり急な崖を駆けのぼるという荒っぽい移動だったので、リルは激痛に耐え続けなければならなかったのだ。元々怪我していた場所の痛みだ。移動のせいではない。
「……ぐるううううう」
「いや、別に一緒にいるのが嫌なわけじゃない。ただ俺はお前と違って生肉はちょっと……それに怪我もちゃんと治したい」
一緒にいた時間はわずか二日。それでも魔獣は別れを寂しがっている。リルはそう捉えた。その二日間、リルは食べれなかったが獣を狩ってきてくれたり、水場に連れて行ってくれたりと魔獣はリルの世話をしてくれていたのだ。、
「ぐる、ぐるる?」
「……また会える、かな? 機会があれば。でも、ここは危険かもしれない。また帝国騎士団が来る可能性がある」
「……ぐるぐるる」
「洞窟の中で暮らしていれば平気か……じゃあ、元気になったらまた来るかな」
「ぐる♪」
尻尾を振って喜びを表す魔獣。これはリルにもはっきりと分かる。
「人と関わっても良いことないと思うけどな。これで貸し借りなし。俺の為に無理して、ここに留まる必要はないからな。何かあった時は逃げろよ」
この魔獣はかつてリルが助けたナイトメア。その時に比べれば、かなり体も大きくなっている。親はいなかったので、すでに独り立ちしたのだとリルは考えている。
「ぐるるううううう」
「無理でなければ良い。今回、再会出来たのも俺たちには特別な縁があるってことだろうからな。貸し借り関係なく付き合いを続けられるのは俺も嬉しい」
不運なのか幸運なのか。幸運なのだとリルは結論づけた。絶体絶命の状況で出会ったのが、かつて助けた魔獣。偶然をかるく飛び越えて、もう奇跡だ。
「ぐるる♪♪」
「怪我が完全に治ってからだから少し先になる。でもまた絶対に会おう。約束だ。だから、もう行け。誰か来る」
「……ぐるっる。ぐる」
魔獣は登ってきた崖を降りていく。それと入れ替わりに現れたのは、捜索任務を行っていた帝国騎士団の騎士だ。リルは発見され、帝都に移送されることになった。
これが真実。こんなことは話せないし、話しても信じてもらえない、とリルは思った。