任務の帰り道は行きとは別ルート。里がある小さな盆地から西に向かって、山を三つ超える。行きよりもかなり険しい道のりを進むことになったが、山を超えてからは楽だった。行きに下った川の上流に出て、船で下れば、そこは帝都のすぐ近く。日数としても短かった。
帝都の外壁の門をくぐったところで解散。ここまでの行程で任務の振り返りは終えている。到着したその日に軍の施設に行ってやることはない。理由は色々だが、とにかく部隊長も含めて皆、早く家に帰って体を休めたかった。そういうことだ。
「ただいま!」
「おお!? お帰り、白夜!」
白夜も家に戻った。久しぶりの家。銀子もわざわざ外に出てきて迎えてくれた。そのまま抱きつく勢いの銀子だったが。
「……誰?」
その場にいたのは白夜一人ではなかった。言葉を選ぼうにも選びようがない「汚い」恰好の子供が白夜のすぐ後ろに立っていたのだ。
「俺も知らない。まだ一言も話していないから」
「はい? それどういうこと?」
一言も話していない。そうであるのに白夜は付いてくることを、まず間違いなく、認めている。銀子には事情がまったく分からなかった。
「とりあえず中に入ろうか?」
「その汚いのも家に入れるのか?」
「入れないと話せない」
「……仕方ないな」
ずっと外に立たせておくわけにもいかない。それは銀子も分かっている。それでも抵抗を感じてしまうほどの汚さ。匂いもかなりきつい。
「上に上がるなよ。水で、いや、お湯を沸かしてやるから、それで少し体を綺麗にしてからだ。白夜も」
白夜も子供に比べればマシだが、綺麗とは言い難い。任務の移動は毎晩旅館に止まって、美味しいものを食べて、お風呂に入って、なんてことは絶対にない。よほど天気が悪い日以外は野宿。川や湖の水で体を洗えるのも毎晩ではない。
二人を土間に立たせたまま、お湯を沸かす準備に入る銀子。
「……今の間に少し状況を教えろ。どこの子供?」
「黒土竜(クロモグラ)さん、知っているだろ?」
「ああ……えっ? あの人の子供なの? 前に会っているってこと?」
任務で会った化物は黒土竜と名乗っていた。銀子も会っている。白夜は銀子と合流してからも、銀狐に変わる修行先を探していた。黒土竜はその中の一人なのだ。
「いや、俺も会った記憶はない。君、名前は?」
「……ない」
「ナイ……どういう字、いや、名前じゃないか。名前ないの? あっ、一とか二とか、十、それとも十一?」
銀子も名前がなかった、本人は十三が名前だったと言い張っているが、どう考えてもただの番号だ。この子も同じなのだと白夜は思った。
「……ない」
「えっ、番号もなし? それともナイが実は名前?」
だが子供はそれを否定した。ナイ、でもないことは白夜の問いかけに首を横に振ることで答えた。
「そいつ……鼠じゃないか?」
「鼠? 鼠って名前?」
「違う……前から思っていたけど、もしかして白夜は里で暮らしてなかったのか?」
鼠が何を指すのか、里で暮らしていれば知っているはず。これ以外にも白夜は当たり前に知っているはずのことを知らないことがあった。銀子は、あえてこれまで聞かなかった疑問を、この機会にはっきりさせることにした。
「いや、里暮らし。でも他に誰もいなかったから」
「それ里というのか? でも、僕とは違うのは分かった。鼠というのは化物になれない役立たずのことだ。僕たちみたいに修行をつけてもらえない。無能なのに里で養ってもらっているから、いつでも里の為に死ななければならない」
養ってもらった恩は命で返す。と言うと、それらしく聞こえるが、要は奴隷だ。名前も一生与えられない。番号も与えられないのは個の存在として見られていないから。ひとくくりで鼠、なのだ。
「……無能……この子についてはそうは思えないけど?」
「でも鼠だ」
「だって、この子、ずっと俺たちに付いてきた。里でも存在を気付かれず、後をつけていることも気付かれない。俺が気付いたのだって、この子がわざと気付かせたからだ」
狩人たちに見つかることなく、この子は帝都まで付いてきた。離れていたわけではない。白夜にだけ分かるように、気配を感じさせていた。帝都までずっとその状態。船に乗る時、この子はどうするつもりなのかと疑問に思っていたが、帝都の門をくぐるとすぐに姿を見せた。ちゃんと付いてきていたのだ。
「……じゃあ、何だ?」
確かにそれは凄いことだと銀子も思う。銀子はそれが出来なかった。隠れていたのに見つかり、襲われていたところを白夜に助けられたのだ。
「何でも良い。黒土竜さんは死に、里はなくなった。この子が何者になるかは、この子の自由だ」
黒土竜の最後の言葉だ。「好きにさせてやって欲しい」と彼は言った。そうすれば良いと白夜も思う。
「白夜はたまにらしくないことを言うよな」
「らしくjないって何だよ?」
「化物らしくないってこと。白夜らしいとも言える」
化物に自由などない。里の頂点に立つような化物は別だが、それ以外は皆、縛られて生きている。命さえ自分の物ではない。鼠と呼ばれる人たちも銀子のような弟子たちも結局、同じなのだ。そうであることに疑問も持てないように心を縛られていた。
だが白夜は違う。一緒にいて銀子はそう思う。男としても、化物としても銀子にとって白夜は特別な存在なのだ。
「なんか……照れるな」
「お湯が湧いた。体拭いてやる」
体を拭いてやる、を口実に、なんて考えていた銀子だったが。
「ああ、ありがたいけど、俺は自分でやる。この子を綺麗にしてやってくれ」
「そうだった」
子供がいることを思い出した。この子がずっと一緒にいたら白夜との暮らしはどうなるのだろうと、少し不安に思った。その不安は一旦、横に置いて言われた通り、子供の体を綺麗にしよとする銀子。
「嫌がらない。お湯で拭くと気持ち良いから」
抵抗を見せる子供。それを諭して、お湯に浸したタオルで子供の体を拭く。
「いや、拭いてどうにかなる汚れじゃないか……白夜、水汲んできて。沸かしたお湯は全部この子に使うから」
「ああ、分かった」
水は外にある共同井戸から汲んでこなければならない。特別なことではない。水道など、この世界にはないのだ。貴族家でも同じ。屋敷の敷地内に井戸や水路があるというだけで水を汲む労力は変わらない。
「さて……頭をすっきりさせるか。ほら、この中に頭を突っ込め、だから嫌がるな。絶対に気持ち良いから」
少し無理やり、銀子は子供の頭をお湯の中に突っ込む。そこからは優しく、頭を指で梳いていく。抵抗していた子供もそれで大人しくなった。気持ちが良いのだ。
「汚い……これ、何回お湯を沸かせば良いのだろう?」
お湯はすでに黒くなっている。まだ頭を洗っている途中なのに。全身となるとどれだけのお湯が必要なのか。お湯を沸かす手間を考えた銀子は、少し面倒になった。
「良いよ。水は俺が何度でも汲んでくるから」
「ありがとう。よし、じゃあ、完璧に綺麗にしてやる」
白夜の言葉で気合を入れ直した銀子。久しぶりに白夜の優しい言葉は聞けて、嬉しくなったのだ。すでにお湯は汚れているが、構わず頭を洗う。一度では綺麗にならないほど汚れているのは分かったので、それで良いと思ったのだ。
「タオルで体拭くか。よし、脱げ。というか、この服捨てる」
お湯はまだ沸かない。その間はタオルで体を拭いて、ひどい汚れをざっくりと落とそうと銀子は考えた。丁寧に洗うのは新しいお湯が沸いてからだ。子供が着ている服を脱がそうとする銀子。子供はこれまで以上の抵抗を見せた。
「ち、ちょっと。こんな汚いの着ていると気持ち悪いだろ? あとで綺麗なの着せてやるから。脱げ、脱げえーーーーーー!」
あまりに抵抗が激しいので銀子のほうも思わず力を強めることになってします。
「何をやってる?」
そこに水を汲みに行っていた白夜が戻ってきた。銀子が大声を出しているので、何をしているのかと思って、様子を見に来たのだ。
「この子、服脱ぐのを嫌がるから」
「ああ……代わりの服を用意してやれば? 脱がされるのではなく着替えるのだと分かれば、大人しくしてくれるかも」
抵抗するには訳がある。白夜は裸にされるのを嫌がっているのだと考えた、当たり前の考えだが、銀子のそれとは少しだけ違っている。
「なるほど……じゃあ、白夜の服出して。出来るだけ小さいのを」
「……その子、女の子だと思うけど?」
「……ええっ!?」
まったく想定していなかった事実。銀子は子供は男の子だと思い込んでいた。髪の毛は長い。だがそれは伸ばしているのではなく、放ったらかしにしているから。前髪で顔が完全に隠れていることから、それは分かっていたのだ。
「いや、多分。ちょっとそのタオル貸して」
白夜も絶対の自信があるわけではない。少し汚れが落ちた顔を見て、もしかしてと思ったのだ。実際にどうかを確かめるために白夜は子供に近づいた。長い前髪を優しくかき分けて、露わになった顔をタオルで拭いてあげる。
くっきりとした眉、その下の黒い大きな瞳は男の子のようにも見えるが、小さなピンク色の唇、赤みを帯びた頬がはっきりと見えると、間違いなく女の子だと思った。
「はい。可愛い女の子だ」
「……ホントだ」
銀子も子供が女の子だと思った。さらに恥ずかしそうに俯く仕草が、それを確信させた。
「ん?」
女の子の頬が赤いのは元からか。そうではない可能性に銀子は気が付いた。照れて赤くなっている可能性だ。
「……あとは僕がやる」
「えっ? ああ、俺がいると裸になれないか」
「そういうこと?」
女の子が強い抵抗を見せたのは白夜に裸を見られたくないから。女の子なのだから当たり前、であれば良い。白夜を意識してのことであれば、そういう思いがすでに芽生えているのであれば、銀子にとっては大問題だ。
「じゃあ……水を汲んで、入口まで運んでおく。中に入って良い時は教えて」
「……分かった」
いくつもの鍋や桶をもって、白夜は外に出ていく。その全てで水を汲んで、入口に置いておこうと考えたのだ。
「……お前、いくつ?」
「…………」
銀子の問いに女の子は首をかしげるだけで答えた。
「自分の年齢知らないのか……それはそうだな」
銀子も知らない。周りの人が見て、そうだろうと納得する年齢にしている。この女の子が自分の年齢を知らなくてもおかしいとは思わない。
「……子供と競争してもな。よし、先に体を綺麗にするか。そうしないと白夜が入ってこれないからな」
子供に嫉妬しても仕方がない、というか客観的に考えるとみっともない。銀子は女の子を綺麗にすることだけを考えた。「白夜が入ってこられない」が効いたのか、今度は女の子は抵抗しない。なされるがままに服を脱いだ。
「本当に女の子だ」
男の子であればあるべきものがない。間違いなく女の子だった。、お湯に腕を、足をつけて、汚れを洗い流していく。体も一度では綺麗にならない。汚れたお湯を捨て、新しいお湯を注ぐ。空いた鍋に水を入れ、火にかけておく。結構な重労働だが、銀子は黙々とそれを続けた。
途中、何度か白夜が水を家の中に運び入れる。その間、女の子は布を巻いて体を隠している。途中でその方法を思いついた。
「こんなものか。今度……そうだ。白夜が給料を貰ったら浴場に行こう。それでもっと綺麗になる」
いつの話だ、とは浴場を知らない女の子はもちろん、白夜も思わない。この世界では風呂は贅沢。庶民は今と同じ体を拭いて済ませている。燃料代を惜しんで水で済ます家もあるくらいだ。
「それで……これからどうする? 聞くまでもないか。一緒に暮らすのだろ?」
「……良いの?」
「白夜が良いと言うなら僕は文句を言えない。そして白夜は良いと言う」
銀子も、ある意味では、居候のようなものだ。白夜に一緒にいてもらうように頼んで、今がある。女の子が望み、白夜が許すのであれば、文句は言えない。
「終わったか?」
「ああ、入って良い」
白夜が家に入ってきた。
「おお、さらに可愛くなった」
「……可愛い?」
「ああ、可愛い」
にっこりと笑って女の子を褒める白夜。それに女の子は、ぎこちない笑顔で応えた。
「……笑いたい時はもっと思いっきり笑えば良い。こう歯を見せて、ニッって」
「……ニッ」
白夜の真似をして、口を真一文字に広げる女の子。可愛くはあるが、少し変だ。
「まだぎこちないけど、だいぶ良くなった。そのうちもっとうまく笑えるようになる」
二人の様子を見て銀子が、白夜にも聞こえないように小さく呟いている。「こいつ、意外と女ったらしだな」と。銀子は「付いてくるのを許す代わりに抱かせろ」と言われた。銀子から提案したことだが、素の自分を抱かせろという白夜の要求は、そういうことなのだ。その時は「こいつ、絶対にモテない」と思ったものだが、今の白夜を見ていると自分の考えは間違っていたのではないかと思った。
「あとは……名前か」
「鼠だろ?」
「それは名前じゃない。それにその呼び方は良くない。銀子が教えてくれたことだ」
鼠は人を呼ぶ言葉ではない。化物は動物を名乗りにする人が多い。だから銀子も鼠をそのままと思ったのだが、人を人として見ていないその言葉を名前には出来ないと白夜は思った。
「じゃあ、土竜(モグラ)」
鼠が駄目であれば、師か父親か分からないが、黒土竜から。銀子はこう考えた。自分の名も師匠であった銀狐からだ。
「女の子の名前として、それはどうだ?」
「可愛くないか……じゃあ、何? 白夜も考えろよ」
「そうだな……ああ……いや……でも……」
一つの名を白夜は思いついた。ただ少し躊躇いを覚える名だ。
「なんだよ、言えよ」
「……ネコ?」
「鼠じゃやなくて猫? 安易」
「いや、そうだけどそうじゃない。音に銀子と同じ子で音子(ネコ)」
確かに鼠から猫を連想した。だがそれだけではない。文字も頭に浮かんだのだ。躊躇いを覚えたのは銀子が言う「安易」な名だと思ったからではなく、「音」の文字を使うことだ。
「音子……僕がそれが良い」
「銀子は銀子だろ? そう言うってことは良い名前だな。じゃあ、音子で決まり。君は今から音子。音(オト)に子供の子で音子。分かる?」
「音子……分かった」
さきほどに比べれば、かなり滑らかに笑顔を見せた女の子。音子の名前が気に入ったのだ。どういう名でも同じで、とにかく名前を与えられたことを喜んでいるだけなのだが。
「あっ、どういう関係にしよう?」
「それについては考えてある。実は妹は音子のほうで、僕は従妹という設定だ」
これであれば人前でもイチャイチャ出来る。一つの村で一生を過ごすのは普通のこと。狭い世界で生きているこの国の人々は親戚との結婚など当たり前。村人全員血縁者なんてことも普通にある。そうであるから、外の血を入れることに貪欲であったりする。
「……無理がある。実は妹はこの子ですって、おかしいだろ?」
「ええ……」
「いきなり従妹が居候っていうのもな……貧民区で拾ってきたで良いか」
無理に新しい家族や親戚にするよりは、「他人が居候している」のほうが通りやすいと思える。孤児が勝手に住み着いてしまった、という設定にしようと白夜は考えた。
「それって音子は他人……イチャイチャするつもりか?」
「ええっ? しないから」
「だって……」
汚れを洗い流して綺麗になった音子は、かなり可愛い。白夜もすでに可愛がっている。子供相手に、という思いをもう忘れて、銀子は嫉妬してしまっているのだ。
「……自分のことって自分では分からないものだな」
「どういう意味?」
「こういう意味」
銀子を抱き寄せて、唇を重ねる白夜。音子の可愛さに嫉妬している銀子だが、彼女もかなり可愛い。まだ幼さの残る音子とは違い、銀子もまだ若いが、女性としての健康的な色気もある。誰が見ても魅力的な女性だと白夜は思う。それを本人は分かっていないようだ。
「……ば、馬鹿。音子が見ているだろ?」
何度も体を重ねていても、恥ずかしさで顔を真っ赤にさせている。化物の修行をしていたとは思えない感情の起伏。それに合わせて、コロコロ変わる表情。銀子のそういうところも白夜は好きなのだ。
「ああ……部屋を作ろうか? 狭くなるけど壁を立てて、皆でくつろぐ部屋と音子の部屋ともうひとつ」
「あっ、賛成。すぐ作ろう。今、作ろう」
白夜と二人きりで過ごす部屋。銀子として反対する理由はまったくない。少しくらい窮屈になるくらいは、まったく問題ない。
「今日はもう疲れたから、明日以降。それに腹減った」
「そうだな。じゃあ、三人で食事にしよう」
三人での共同生活がこの日から始まる。どこにでもあるような当たり前の平凡な暮らし。この家にいる間だけは、三人はそれを体験出来る。その当たり前が三人にとっては特別なのだ。