一年生の目の色が変った。体育祭の後に一年生に変化が生まれるのは毎年のこと。だが今年は例年とは変化の仕方が違っている。いつもは自分たちの力不足を痛感し、自信を失い、落ち込み、そこから徐々に立ち直り、授業にそれまで以上に身が入るようになる。こういう変化なのだが、今年は落ち込む期間はほぼ無。体育祭後、すぐに気合いの入った授業が行われるようになった。
その理由は明らかだ。一年ガンマ組が起こした番狂わせ。他のクラスにはガンマ組に負けたという落ち込みはあっただろうが、その期間はわずか。すぐにガンマ組に負けていられない。ガンマ組に出来るのであれば、自分たちもやれる。こういう思いが心を占めるようになった。結果、一年生全体が、これまで以上の真剣さで授業に取り組むようになったのだ。
「なんか……凄いわね? 皆、気合い入りまくりって感じ」
その熱意にトゥインクルは少し気圧されている様子だ。
「これ以上、差をつけられるわけにはいかないからな」
体育祭の結果はグラキエスにも衝撃を与えた。二年生に太刀打ちできなかったこともそうだが、その二年生にローレルのクラスが勝利したことは、それを目の当たりにしていても信じられない衝撃の出来事だった。
「それは誰との差なのかしら?」
ガンマ組の番狂わせはローレルが為したことではない。トゥインクルはそれを知っている。
「……誰というのはない。前を行く全員のことだ」
グラキエスも分かってはいる。だが、それでもこういう言い方を選んだ。従士であるリルを意識していると周囲に思わせたくないのだ。
「それだと帝国騎士団長も含まれるわね?」
「それがどうした? 最強を目指すのであれば、帝国騎士団長も超えなければならない存在だ」
「さすが」
「帝国騎士団長を超える」なんて台詞は、守護神獣持ちでなければ口に出来ない。自分には言えない台詞だとトゥインクルは思った。
「強くなりたくないのか?」
「なりたいわよ。ただね。最近は少し気持ちが緩んでいるの」
ネッカル侯爵家の騎士団、サントシュトルム騎士団の団長にはなれない。ずっと目指していた目標をトゥインクルは失ってしまった。だが気持ちが緩んでいるのは、これだけが理由ではない。頑張っても届かないのではないか。こう思ってしまう存在を知ってしまったのだ。
「無駄な時を過ごす余裕はないと思うが?」
強くなる為の努力の時間が無駄なのではないか。トゥインクルのこの想いにグラキエスは気付けない。気付けるはずもない。
「……分かっているわ。休憩は終わりね」
これ以上、グラキエスと話をしていても心の中のモヤモヤが増すだけ。そう思ったトゥインクルは鍛錬に戻ることにした。向かったのは、さらにモヤモヤした気持ちが強くなりそうな相手のところだ。
「リル。相手をしてもらえるかしら?」
「ああ、ええっと……はい。大丈夫です」
立ち合い稽古をしていたガンマ組の同級生は、リルが答える前に離れて行ってしまった。トゥインクルに遠慮したのだ。そうされるとリルも「少し待って欲しい」とは言えない。もう相手をしてくれる同級生はいないのだ。
「……じゃあ、行くわ」
素早い動きでリルとの間合いを詰める。並の相手であれば、これだけで勝負が決まるのだが、リルには通用しない。余裕を持って剣を受け止められ、さらに押し込まれる。
力比べではトゥインクルに勝ち目はない。正面からの押し合いをなんとか躱そうとするが、それさえもリルに防がれてしまう。剣を交差させたまま、推し合う形から逃れられない。
「……完全に組み合う前に避けたほうが」
すぐ目の前にあるリルの口から、助言が告げられる。
「分かっているわよ」
トゥインクルだってそうしたい。だが力だけでなく、自慢の速さもリルには通用しないのだ。体をずらして、組み合う姿勢から逃れる。上手く逃れられたのは、リルがそれを許したからであることをトゥインクルは分かっている。
またトゥインクルから間合いを詰める。剣を受けられたところで、すぐに横に移動。リルの側面を取ろうとするが、伸ばされた剣で間合いを詰められず、躊躇った一瞬の間で逆にリルに懐に入られた。
「……負けたわ」
年の近い男子に「負けた」という言葉を口にするのは、リルが初めてだった。初めての体験以降、何度もこの言葉をリルに向かって言うことになった。口にする度に、心に何だから分からない感情が湧いてきた。
「…………」
「……な、何?」
じっと自分を見つめているリル。その視線のせいで、トゥインクルの何だから分からない感情は、さらに強くなった。
「いえ……勘違いだったらすみません。最近、稽古に身が入っていなくないですか?」
「……お見通しなのね?」
「やっぱり、そうでしたか……何か理由があるのですか?」
「理由は……自分でも良く分からないわ」
気が散っている理由は「貴方」とは口にしない。実際にリルのせいなのかも、トゥインクルは分かっていない。
「そうですか……そういう時はあるものですよね? 私にもありました」
「そうなの?」
「あまり気にせずに鍛錬は続けて、ただ少し時間を作って何か他のことをするのも良いかもしれません」
これまでとは違う何か。それに時間を使うことで気持ちが整理されることもある。自分は何をするべきなのか、したいのかが分かることもある。リルはそうだった。
「……リルは何をしたの?」
「酒場で働きました。忙しそうだったので、気がまぎれると思って。結果、自分には向いていないということが分かりました」
人を傷つけることのない仕事を選んで働き、争いとは無縁な人生を生きる。自分の生き方はそうではないとリルは分かった。
「そう……でも、それは私には無理ね」
「ですね」
ネッカル侯爵家のトゥインクルが酒場で働く。そんな真似が出来るはずがない。本人が求めても周りが許さない。
「……でも気晴らしは良いわね? 今度の週末付き合って」
「……えっ? 私が、ですか?」
「リルが言い出したのだから協力するのは当たり前でしょ? それに、普段とは違う経験をしたほうが良いと思わない?」
「それは……そうですけど」
トゥインクルの気晴らしに付き合うことに文句はない。ただ貴族の、それも上位貴族家のトゥインクルが喜ぶようなことが、リルにはまったく思いつかないのだ。
「じゃあ、決まりね。当日は私が迎えに行くわ。一応、言っておくけどプリムもローレルも今回はなし。私と貴方二人だけだから」
「分かりました」
離れて行くトゥインクルの背中を見ながら、リルはトゥインクルの言った「二人だけ」の意味をどう受け取れば良いのか考えている。普通に考えれば本当に二人きりはない。トゥインクルには護衛の騎士が付いてくるはずだ。
「……これは噂に聞くデートというものだな?」
リルが結論を出すより先に、ローレルが答えを決めてきた。
「デートなんて……ただの気分転換に付き合うだけです」
「プリムへの言い訳を考えておけよ。僕は助けてやらないからな」
リルが何を言おうとローレルはデートだと決めつけている。ただこれはローレルだけではない。
「い、いや、ですから、ただの気分転換です」
「リルの気分転換は今からだ。皆、待っている」
「えっ?」
いつの間にかリルの周りには同級生が集まっていた。皆、厳しい目つきでリルを睨んでいる。
「……プリム様のことはどうにか許せた。許してやったのにリル、お前という奴は」
皆の気持ちをシュライクが代表して伝えてきた。つまり、「リルばかりが何故モテる。許せん」という不満だ。
「……い、いや、勘違い、これは勘違い」
「問答無用! 皆の者、かかれっ!!」
「「「おおおおっ!!」」」
ローレルを除いた同級生三十八人が一斉にリルに襲い掛かる。それだけの人数だ。立ち合い稽古というより、おしくらまんじゅう。一年ガンマ組は大騒ぎだ。
「……あれは、何を盛り上がっているのだ?」
「さあ? 何かしら?」
その様子を見て、何故か少しスッキリした気持ちになったトゥインクルだった。
◆◆◆
その週末。エセリアル子爵屋敷まで迎えにきたトゥインクルと一緒にリルは出かけた。思っていた通り、完全な二人きりではない。ネッカル侯爵家の騎士たちが同行している。彼らの仕事はいつもの護衛だけではない。独身の男子と二人きりで出かけることなど、ネッカル侯爵家が許すはずがない。リルが不埒な真似をしないように監視するのも彼らの役目だ。リルに言わせれば、そんなことは絶対しないのだが。
「アルファ班、ベータ班、配置につきました」
「良し。作戦継続だ」
そしてリルの側も二人きりでのデートなど許さない。一年ガンマ組の同級生たちに、さらにハティとシムーン、プリローズまで加わって二人を監視していた。プリムローズは護衛の都合という理由があって、半ば無理やり連れてこられたのだが、
「……あれは隠れているつもりなのかしら?」
だが四十人以上が周囲で動き回っていれば、どんなに鈍感な人でも気づく。さらにトゥインクルとリルは鈍感ではない。
「いえ、わざと存在を知らせているのだと思います」
「皆、暇なのね?」
「面白がっているのです。それに皆にとっても気分転換になります」
同級生たちは尾行ゲームを楽しんでいるのだ。本気の尾行でもない。自分たちがいることをリルに知られても、それはそれで面白いのだ。
「そう。じゃあ、邪魔はしないでおくわ」
「気になりますか?」
「平気。周囲に誰もいない経験のほうがないから」
ネッカル侯爵家の令嬢であるトゥインクルには、常に人が付き従っていた。一人きりになる時間は寝ている時くらいだ。周囲に人がいても、それを気にすることなく生活出来る。常に気を張っていることに慣れている、とも言える。
「トゥインクル様は人気があるのですね? 今日のことを知った時、皆、ひどく怒っていました」
「様はいらないわ。敬語も」
「……それは無理です」
「ローレルたち以外で敬語を使わずに話す同年代はいない。新鮮に感じるわ」
トゥインクル相手にため口で話す同世代は、幼馴染で同じアネモイ四家の人間であるローレルたち三人くらい。彼ら以外の養成学校の同学年は皆、敬語だ。
「そう言われても……」
「今日だけで良いわ」
無茶な要求をしていることはトゥインクルも分かっている。リルの身分は侯爵家の従士に過ぎない。平民なのだ。彼女自身が許しても周りが許さない。
「じゃあ、頑張って。それで? 気分は……ああ、これ聞かないほうが良いのか」
鍛錬に気持ちが入らない理由を聞こうとしたリル。だがこれは聞くべきではないと途中で思った。それを話題にしては気分転換にならないと考えたのだ。
「……私ね、自分よりも強い男じゃないと絶対に結婚しないと心に決めていたの」
「はい……えっ?」
今明らかに彼女より強い男、その一人が自分であることをリルは知っている。
「だから私と結婚してと言っているわけじゃないわ。ただリルと稽古をすると、自分が女であることを思い知らされるの」
「女であることを……」
リルのほうは鍛錬の時にトゥインクルが女性であることを意識したことはない。彼女の意識がどういうものか分からない。
「ちょっと! 変な想像しないで!」
「してない! していませんから!」
「……と、とにかく、なんというか……私は女性であることが嫌だった。その、思い上がりだと思われたくないけど、幼い頃から可愛い、美人と言われ続けてきたわ」
「それはそうでしょうね? トゥインクル様は綺麗だから」
思い上がりだとは思わない。実際にトゥインクルは美人だ。まだ幼さが少し残っているが、大人になればさらに美しさが際立つはずだ。
「……様は外して」
「トゥインクルは綺麗だから……」
「……は、恥ずかしいわね?」
「そ、そうですね……」
お互いに顔を真っ赤にしている二人。そうなるような会話とはどのようなものか。気になった人たちの包囲の輪が縮まって行く。
「……私は強くなりたかった。帝国騎士団長は無理でも自家の、サントシュトルム騎士団を率いるつもりだった。でも……」
「…………」
その願いは叶わない。ネッカル侯爵家はトゥインクルが騎士団長になることを認めない。
「どれだけ私が頑張っても、家の者たちは私の外見しか褒めてくれない。それ以外の能力を認めてくれない。外見は、私が努力して得たものではないわ。褒められても嬉しくない」
「……認められている。ネッカル侯爵家の方たちは認めなくても俺たちが、騎士養成学校の貴女の仲間たちは努力を認めている」
「私の仲間たち……」
トゥインクルは騎士養成学校の同学年の騎士候補生たちを「仲間」と見ていなかった。それを恥じることになった。
「持って生まれた美しい外見も、努力して手に入れた強さも、全部、トゥインクルのもの。それで良いのでは?」
「良いというのは?」
「トゥインクルという人はとても素敵な、魅力的な人。皆がそう思っているのだから、貴女自身もそれを認めれば良い。拒絶する必要も、諦める必要もないと思います」
拒絶しても、諦めても、後で必ず後悔する。トゥインクルとは事情はまったく違うが、リルはそれを経験している。だからといって、それ以前には戻れない。後悔が残るだけなのだ。
「……貴方もそう思ってくれているの?」
「もちろん」
「……嘘つき」
無意識のうちにリルに向かって伸びるトゥインクルの手。その手がリルの頬に添えられる、その前に。
「そこまでだ!」
トゥインクルの手の代わりに剣の刃が頬に、首に添えられることになった。リルがそれに反応しなかったのは、それを行った人たちがシュライク等、同級生たちだからだ。
「リル。お前を誘惑罪で逮捕する」
「誘惑罪って……」
「聞いているこちらが恥ずかしくなるような言葉を吐いて、トゥインクル様を誘惑した罪だ! 拘束っーーー!」
シュライクの命令を受けて、また四十人近くがリルに群がって行く。完全な悪ふざけだ。そうであることはトゥインクルにも分かる。
「……笑顔だな」
「えっ?」
「そのような笑顔を見るのはいつ以来だ? トゥインクルのそういう無邪気な笑顔は、僕も嫌いじゃない」
「ローレル……」
無意識な笑み。ローレルはそれを久しぶりに見たという。では、これまで自分はどのように笑っていたのか。ローレルが嫌だっただろう自分の笑顔は、どのような気持ちからのものだったのかとトゥインクルは思った。
「ここにも誘惑罪の犯人がいるぞ! ローレルを拘束しろ!」
「え、ええっ!!」
同級生の悪ふざけはまだまだ続くことになる。それを見ているトゥインクルの笑顔も。