帝国騎士養成学校の秋の行事、体育祭の会場となったのは帝国騎士団の施設。帝都第五層にある演習場だ。一軍規模、万の軍勢が演習出来るほどの広大な演習場。そこに、この体育祭の為だけに、競技が見易い中央近くに観戦席を設けるなど、かなりの労力を費やして開催準備を行ってきたのだ。
これは当初予定にはなかったことだ。それが必要になったのは、皇帝の臨席が決まったから。観戦席の一部には皇帝が座る場所も、他とは異なる造りで、設けられている。
開会式が始まっても体育祭を見学に来た人たちの騒めき声は収まらない。皇帝臨席は一般には公にされなかったので、観客は会場に来て、初めて知ったのだ。暗殺を警戒してのことだ。
演習場の外、さらに元々あった観覧席にも帝国騎士団が配置され、周囲を見張っている。皇帝が座る席の周りも厳戒態勢だ。周囲の一定範囲は全て空席。観客との距離を空けた上で、あちこちに護衛の近衛騎士が立っている。かなりの物々しさ。ワイズマン帝国騎士団長の開会の挨拶など、ほとんどの人は耳に入って来ない。
そのような状況の中。
「あれ? 養成学校の行事って、こんなに人が集まるものなのか?」
遅刻したハティたちが会場に姿を見せた。
「兄貴がのんびりしているから」
自称弟分のシムーンも一緒だ。
「のんびりなんてしてねえ。見てみろ。まだ始まってねえだろ?」
開会式は、ハティにとっては、始まったことにはならないようだ。たんに自分のミスによる遅刻を誤魔化そうとしているだけだが。
「どうするのですか? 俺と兄は良いですけど、プリムにまで立ったまま、見学させるつもりですか?」
さらにプリムローズも二人と一緒に見学に来ている。そうでなくては護衛役の二人もこの場には来られない。
「うるせえな」
「うるせえな、ではなく、まずプリムに謝ったらどうですか?」
「あ、あの、別に私は……立ち見でも平気だから」
プリムローズは会場に来たことは自分の我儘だと思っている。護衛という観点では、誰が紛れ込んでいるか分からない、このような場に来るべきではないことは、彼女も分かっている。
「……ああ、あそこ。がら空きじゃねえか。あそこで見よう」
「ああ……えっ、でもなんか」
「良いから行くぞ」
躊躇うシムーンの言葉は最後まで聞くことなく、見つけた場所に歩き出すハティ。だが、彼らはすんなりと目的の場所に辿り着くことは出来ない。ハティが見つけた空席は、皇帝がいる場所の近くなのだ。
「ここから先は立ち入り禁止だ」
当然、護衛の近衛騎士に止められることになる。
「はあ? どうしてだ? 席空いているじゃねえか?」
そして当然、ハティは素直に近衛騎士の言うことを聞こうとはしない。
「陛下が臨席されている場所だ。立ち入ることは許されない」
「陛下……? ええっ? 皇帝が来てんのか?」
皇帝が体育祭に来ている。この可能性をハティはまったく考えていない。それはそうだ。この会場にいるほとんどの人がそうなのだ。
「無礼な物言いをするな」
「あ、ああ……その隅っこは駄目か?」
皇帝がいるから、では諦めないのだがハティ。空席となっている場所の一番端を指さして、近衛騎士に尋ねる。
「駄目だ」
「考える間もなしかよ」
「兄貴、当たり前ですから。もう行きましょう」
シムーンはハティに比べれば、かなり常識人だ。これ以上、この場に留まり、ハティが近衛騎士と揉めることを避けようと考えている。
「……しかたねえな」
たださすがのハティも、皇帝がいる場で揉め事を起こすほど愚かではない。無駄に命を捨てるつもりなど、まったくないのだ。
諦めて別の場所を探そうと動き出すハティたち。
「失礼。貴女様はプリムローズ・イザール様で間違いないですか?」
「えっ? あ、はい。私はプリムローズです」
不意に声を掛けられてプリムローズは驚いている。振り返って相手を見ても、まったく見覚えがない。知らない人がどうして自分の名を知っているのか。こう思って、警戒心が心に沸いた。
「……お前は何者だ?」
警戒心が湧いたのはハティも同じ。
「私の素性はどうでも良い。陛下がお呼びです。ご同行ください」
「……陛下?」
プリムローズに視線を向けるハティ。皇帝が何故、プリムローズを呼ぶのか。どうして彼女のことを知っているのか。これについてはまったく思いつくことがない。プリムローズに心当たりがあるか視線で尋ねた。
そのハティの視線に、プリムローズは顔を横に振ることで答えた。彼女もまったく心当たりはないのだ。
「お連れ様もどうぞ、陛下のお許しは頂いております」
後の言葉は近衛騎士に向けたものだ。
「どうぞ、こちらに」
後ろを向いて歩き出す男。躊躇いながらもプリムローズたちはそれに続いた。続かざる得ない。皇帝が望んでいるのだ。それを無視するわけにはいかない。
空席の観覧席を進むとすぐに人々の姿が見えてきた。そこにいるのは皇帝一人ではない。女性はルイミラ、そして若い男性はトゥレイス第二皇子だ。彼はフォルナシス皇太子が出席しないのであれば代わりに自分が、と考えたのだ。
「あの……私も詳しくないのですけど、頭を下げて、視線を合わせないように」
もう皇帝は目の前。プリムローズは、彼女自身もそれほど詳しくないのだが、正しいであろう礼儀をハティたちに伝えた。
「お主がプリムローズか?」
皇帝はすぐに声をかけてきた。
「……はい。プリムローズでございます。恐れながら、私は陛下の御前に出る資格のないもの。正しい礼儀を知りません。ご無礼をお許しください」
それに対してプリムローズは謝罪で応える。どうすれば分からないが、とにかく何か仕出かす前に言い訳を。こう思ったのだ。
「良い良い。このような場で礼儀など無用だ。構わない。頭をあげて顔を見せてくれ」
「……はい」
本当は頭を下げ続けているべきなのか。こんな風にも思ったが、正解が分からない以上は、素直に言うことを聞いたほうが良い。プリムローズはこう判断した。
「ほう。これは可愛らしい女子だ。イザール侯はこんな娘を隠しておったのか」
「本当に……いや、これは……」
プリムローズの可愛さにはトゥレイス第二皇子も驚いている。
「何だ? お主のそのような反応は珍しいな」
「私だって素敵な女性を見れば、当たり前の反応をします。ただ……プリムローズ。社交界へのデビューはいつの予定だ?」
「……予定はありません」
社交界デビューの予定など、プリムローズは知らない。貴族家の令嬢がいつ、どのような場でお披露目されるか。これを決めるのは爵位を持つ男性ではなく、その正妻だ。イザール候の夫人が、プリムローズの為にそのような場を設けるはずがない。
「そうなのか? それは惜しい。では次に開かれる皇家主催の場ではどうだ? 私がエスコートしよう」
「あの……私は……そのような場に出る身分ではありません」
その資格があってもそのような場に出ることをプリムローズは望まない。出席する理由がないのだ。
「イザール侯の娘だ。問題ない」
「正式には認められておりません」
「認められていない? それは」
「殿下。初対面で込み入ったことを尋ねるのは可哀そうではありませんか?」
会話に割って入ってきたのはルイミラ。不快さを感じている表情を隠そうとしていない。
「何が可哀そうなのかな? 私は彼女の社交界デビューを手伝いたいだけだ」
「余計なお世話という言葉をご存じ?」
「なんだと?」
ルイミラの挑発に、すぐにトゥレイス第二皇子は反応した。もともと彼女に悪感情しか持っていないトゥレイスだ。相手に悪感情を向けられれば、すぐに本音が表に出てしまう。
「プリムローズ。はっきりと伝えて良いのですよ? 余計なお世話と」
「あ、あの、それは」
「確かにそうだな」
「あ、兄貴!?」
言葉に詰まるプリムローズの代わりにハティがルイミラの問いに肯定を返した。それも敬語などまったく使わずに。シムーンも思わず叫んでしまう。
「それと、そこの皇子様が嬢ちゃんを口説こうと考えているなら、それは無駄、嬢ちゃんにはすでに将来を約束した相手がいる」
「あ、兄貴、もう黙ってください」
さらにトゥレイス第二皇子を「そこの皇子様」呼ばわり。シムーンは小声、の本人はつもりで、止めさせようと必死だ。
「婚約者がいるのか? それはどこの家の者だ?」
だがハティの言葉にトゥレイス第二皇子が反応してしまう。トゥレイス第二皇子も礼儀を気にするタイプではない。逆に庶民とこのような話し方が出来ている自分を、内心喜んでいる。
「どこの家……? 一応、イザール侯爵家なのか?」
「家臣と婚約を? いや、それはどうだろう? 別にその家臣が駄目だと言っているのではない。プリムローズはもっと、こう、なんというか良い相手がいると思う」
相手は家臣だとして、トゥレイス第二皇子は諦める気が失せた。貴族家の人間であれば、臣下の婚約者を奪うのかという批判もあるだろうが、イザール侯爵家の家臣、トゥレイス第二皇子から見て、陪臣となればその心配はない。プリムローズにとってより良い条件だと周囲に思われるはずなのだ。
「それを決めるのは嬢ちゃんだ」
「それは……しかし、貴族家に生まれたとなれば、個人の感情だけを優先するわけにもいくまい?」
「父親が貴族だというだけで、プリムはイザール侯爵家の人間として認められていねえ。個人の感情を優先しても文句を言われる筋合いはねえ」
トゥレイス第二皇子の言葉は、きっぱりと否定するハティ。すぐ隣でシムーンが遠くを見つめて、「もう止めてえ」と呟いていても、お構いなしだ。
「確認したいことがあります」
ここでまたルイミラが割って入ってきた。その表情はきつい。
「……どうぞ」
ハティも少し怯んでしまうくらいの厳しい表情だ。
「プリムローズが将来を約束した相手は、もしかしてローレル殿の従者、リルのことですか?」
「……そうですけど?」
「貴方には聞いていません。私はプリムローズに尋ねているのです」
ハティの答えではルイミラは問いを終わらせなかった。プリムローズ本人の答えを求めているのだ。
「あの……将来を約束したというのは嘘です。私が勝手に……ずっと側にいると決めて……」
「……貴女の一方的な想いということですか?」
「そうです」
リルに愛されている自覚はプリムローズにはない。優しくしてもらえている。守ってくれている。だが愛する女性に向ける感情とそれは同じではない。そう思っているのだ。
「……どうして彼のことを?」
「……私を理解してくれる唯一の人だと思えたからです。あっ、ローレル兄上もいるのですけど……少し違っていて」
「だから側にいたい。でも彼はそれを望んでいないのですね?」
「……今の私はリルの役に立てません。でも、いつかきっと、ハティさんがリルの背中を守るのであれば、私は彼の隣で戦える力を持ちたいと思います」
「俺の話はいらなくないか?」と照れ臭そうにしながらハティが呟いている。その彼にも視線を向けたルイミラ。リルとハティの関係性を考えているのだが、すぐに答えが得られるものではない。
「そうですか。今度は、もっとくつろげる場で話をしましょう。貴女のことはローレル殿から話を聞いていて、少し気になっていました。今日こうして話が出来て、もっと親しくなりたくなったわ」
「……ありがとうございます」
この言葉が正しい返しなのか、プリムローズは分からない。分かったのはルイミラがこの場を終わらせようとしていること。プリムローズにとっても望むところだ。なんだか分からない、この場の緊張感は心が苦しくなってしまう。
深くお辞儀を、皇帝に対しても行って、この場を離れて行くプリムローズたち。
「……あの娘が……まあ、一途な感じは悪くはない」
「想いが強すぎるのもどうかと私は思いますわ。それに……彼女は戦うという言葉を使いました」
「今の時代を感じ取ってのことか……それとも別のことを感じ取ったのか、か。難しいところだ」
離れて行く三人の背中を見ながら話をする皇帝とルイミラ。この会話にどういう意味があるのか。トゥレイス第二皇子は考えているが、今の彼に分かることではない。彼は多くを知る立場にはないのだ。