騎士養成学校での昼休みの間、食事をしながら午前中の復習などの勉強を行うことがローレルの日課になっている。リルが馬の世話の為に昼休みの前半は側を離れることになったことがきっかけだ。隠れた理由には、一人でいる間、グラキエスやディルビオ、トゥインクルら、同じアネモイ四家の幼馴染たちに話しかける隙を見せない為というのもある。
ただ最初はそういう理由もあったということで、今は真剣に勉強に向き合っている。自分は他人よりも劣っている。だから他人の倍、努力をしなければならない。この思いだけでなく、少し勉強が面白くなってきたのだ。
「えっと……」
顔を上げて、周囲を見渡すローレル。すぐ近くのテーブルにいるグラキエスと目が合ったがそれは無視。すぐに逸らして、真逆の方向に視線を向ける。
「……ああ……まあ、良いか」
席を立ち、少し離れたテーブルにいる騎士候補生のところに向かう。友達どころか知り合いと言える関係でもない。ただ顔を知っているというだけの相手だ。
「少し良いか?」
「えっ? あっ……何ですか?」
声を掛けられた相手は、ローレルだと分かって、驚いている。まさかローレルが直接、自分に話しかけてくるとは思っていなかったのだ。
「分からないところがあるので、教えて欲しい」
「分からないところ、ですか?」
「午前中の授業で習ったことだ。難しくて僕には理解出来ない点があるので教えて欲しい」
ローレルが彼に話しかけたのは午前中の復習をしていて分からないところがあったから。同じ授業に出ていた彼に教わろうと考えたのだ。
「どうして俺に?」
ただ彼のほうは、どうして自分に聞こうとするのか、理由が分からない。まったく心当たりがないわけではないが、ローレルが聞こうとしている内容はそれとはかけ離れているのだ。
「ああ、悪い。顔を知っているというだけだ。それに多分、一方的にだな」
話しかけた相手はリルが食堂で暴れた時に、殴りかかってきた騎士候補生。ローレルは揉め事の原因ではあるが、直接は関わっていない。彼のことは、本当に顔を知っているというだけだ。
「いや、俺も貴方の顔は知っています。名前も」
アネモイ侯爵家の同級生の名は当然、知っている。ローレルに自覚はなくても同学年、養成学校全体でも有名人なのだ。今のところは良い意味でも悪い意味でもなく、自分たちとは住む世界が違う相手として。
「そうか。お前の名前は?」
「……シュライクです」
「シュライクか。それで、教えてもらえるのか?」
「いや、ですから、どうして俺なのですか? もっと相応しい相手がいるでしょう?」
「その相応しい相手があいつらのことなら、それは間違いだ。奴らは僕がもっとも頼りたくない相手だ」
わざわざシュライクの、平民の席に座っている彼のところまで来たのはグラキエスたちに頼りたくないから。他の貴族家の騎士候補生に聞こうとも、ローレルは思わなかった。彼らの近くで他の騎士候補生に質問していれば、絡んでくるのは間違いない。グラキエスのお節介とトゥインクルの面倒くささをローレルは良く分かっている、つもりなのだ。
「だからって……そうだ。従士の彼に聞けば良いじゃないですか?」
いつもは遅れてやってくるリルが教えているはず。食堂でそう思える光景をシュライクは何度も見ている。
「リルは今日休みだ。仕事中に少し怪我してな」
「怪我? それは……」
「心配はいらない。念のために今日一日は安静にしているだけだ」
リル自身はまったく休む必要性は感じていないのだが、周囲が無理やり休ませたのだ。ガラクシアス騎士団との戦いでそれなりにリルもダメージを受けた。顔にも痣が残っているので何かあったのは明らか。その顔を見られない為と、エセリアル子爵の忠告もあってのことだ。
戦いの後は見えないダメージが残っている場合がある。元気にしていたのに突然、具合が悪くなること、場合によっては亡くなってしまうこともあると教えられたのだ。
「そうですか」
「今日の授業については僕がリルに教えてやらなければならない。きちんと理解していないと教えられないのだ」
ローレルが授業の不明点をシュライクに聞くのは、欠席したリルに今日教わった内容を伝える為。自分が分かっていないことは教えられないと考えたからだ。
「……どこですか?」
「おっ? ありがとう。ここだ」
まだ「どうしで自分なのか」という疑問は残っているが、とりあえずシュライクは分からないところを聞くことにした。休んでいるリルに教える為という理由が、彼をその気にさせたのだ。
「ああ……すみません。ここは俺も良く理解出来ていません」
ただ、ローレルには、残念なことにシュライクには教えることが出来ない箇所だった。
「そうなのか?」
「はい。家に帰ってから聞こうと思っていました」
「家に帰ってから? シュライクの家は騎士の家系なのか?」
貴族ではない。貴族であればこのテーブルには座っていない。このエリアは平民の騎士候補生が座る場所だ。そうなると世襲騎士の家。こうローレルは考えた。
「騎士……騎士は騎士でも私設騎士団です」
「ああ、なるほど。ん? もしかして跡継ぎなのか?」
親は私設騎士団の騎士。それも戦術が分かる騎士となると騎士団長か、それに近い立場なのだとローレルは思った。
「私設騎士団は世襲ではありません。ただ、そうなりたいとは思っています」
「そうか……親に恵まれたな。僕は頼まれても後を継ごうとは思わない。頼まれることは絶対にないけどな」
親の後を継ぎたい。シュライクの親がそう思える人物であることをローレルは少し羨ましく思った。イザール侯は悪人ではないが、夫人であるマリーゴールド、ローレルにとっては実母なのだが、に対する嫌悪感が強く、その彼女を許している父親もローレルは嫌いなのだ。
「……だから帝国騎士に?」
「そうだ。ただ今は……強くなりたいと考えている。今よりも、もっともっと強くなりたい」
イザール家から追い出されたあとの居場所を作る為。それが自らの意志でイザール家を離れる為に変わった。さらに今は、先のことは関係なく、ただ強くなりたいという思いでローレルは学んでいる。自分も戦いの場に立てるようになりたいと。
「……明日で良ければ、大人たちに聞いたことを教えます」
純粋に強くなりたいという思いはシュライクにもある。今よりももっと。騎士団の大人たちよりも強く。そして騎士団全体をもっと強く、立派にしていきたいという思いがシュライクにはあるのだ。
「ありがとう。そういえば、なんという騎士団なのだ?」
「ああ、ガラクシアス騎士団です」
「えっ……?」
まさかの答え。予想していなかった事態に、ローレルは呆然としてしまう。
「どうしました?」
「あっ、いや……その……昨日……なんだか怪我をした騎士が大勢いたと聞いて……」
「ああ、知っていましたか。それはきっと、うちの騎士団です。任務に失敗したらしくて。幸い戦死者はいなくて、怪我人も安静にしていれば……安静……」
安静という言葉は、つい先ほど聞いた。自分のところの大人たちと同じように安静にしている人間がいることを、ついさっき、シュライクは聞いているのだ。
「ああ!」
「はっ?」
「それは不幸中の幸いというのか? いや、幸いなんて言葉を使うのは悪いか。ただ戦死者がいないことは良いことだな?」
シュライクが作った間をローレルは慌てて埋める。彼に考える時間を与えないように。
「……そうですね。死者が出なくて良かったです」
今回はそうだったというだけ。死者を出した任務もある。その時の家族の悲しみをシュライクは間近で見ていた。強くなろうと思った。
「強くならなければだな。仲間を守れる強さを手に入れなければならない」
「はい」
だがその強さは敵を傷つける。仲間を守る代わりに、殺される敵がいる。この事実はまだ彼らの頭には浮かばない。この先、浮かぶかも分からない。騎士として生きるのであれば、気付かないほうが良いのかもしれない。敵の死に心を痛めながら殺し続ける苦痛を知らなくて済むのだから。
◆◆◆
陽の高い時間にベッドの上で寝ている。こんなことは、いつ以来かとリルは思った。考えてみても答えは出ない。幼い頃に体調を崩して寝込んだことはあった。それは覚えているが、いつのことかまでは思い出せなかった。思い出せたのは、周りが騒がしかったこと。父親を筆頭に騎士団の男たちは右往左往。何をするのでもなく、ただ歩き回っていた。そんな男たちは叱る女性の声も耳に残っている。母替わりの女性たちの声だ。
体調は悪く、苦しかったが、何故か楽しかった。当時の記憶ではなく、今思い出して、楽しいと感じているだけかもしれないが、あの頃は楽しかった。
(……寝てた……な)
ベッドに寝転んでいるだけでなく、実際に寝ていた。それも「ぐっすりと」という表現を使えるくらい。これもいつ以来かとリルは思った。
この答えは分かる。メルガ伯爵を殺す前まで。伯爵家の人たちの死にざまを目の当たりにしたあの日までは、今のように眠れていたのだ。
(……風……ああ……そうか)
心地良い風が顔をなでる。それが深く眠れた理由。根拠はないが、リルはこう思った。同じ風が柔らかそうな金色の髪をなでている。ふわっと浮かび上がった金髪はプリムローズのものだ。
指を伸ばして、その髪に触れる。軽い感触。想像していた通りの柔らかさだった。
「ん……」
プリムローズの頭が転がり、顔がリルのほうを向く。ゆっくりと開いた大きな翠色の瞳。
「おはようございます」
「あっ……」
みるみるうちに赤く染まっていくプリムローズの顔。リルの看病をしているつもりが、いつの間にか自分が寝てしまっていた。それを恥じているのだ。
「気持ちの良い風ですね。おかげで良く眠れました」
「……そうだね」
その心地良さのせいで、プリムローズも眠ってしまった。実際はリルの側にいる安心感のせいかもしれない。今この瞬間は、彼女が心落ち着いていられる時間なのだ。
「痛いところはない?」
「……まったくないというのは嘘になりますけど、大丈夫そうです」
擦り傷、打撲。痛いところは当たり前にある。ただどれも、ここは痛いに決まっているという場所だ。忠告された頭の中や体の奥深くの痛みとは違う。
「大丈夫でも、今日は一日安静にしているのだからね?」
「分かっています……そういえば彼らは?」
今日一日くらいは、ゆっくりしていても良いかもしれない。ぐっすりと眠れたことでリルは、こう思えた。だがハティはどうなのかと思う。自分以上に落ち着いていられないハティが、大人しくしているとは思えなかった。
「ハティさんとシムーンさんは別の部屋で寝ているよ」
「大人しく?」
「ああ、ハティさんはリルよりも体を痛めているようだから。動きたくても動けないみたい。シムーンさんは……寝るのが好きみたい」
「そうですか」
ハティはリルが参戦する前にかなり痛めつけられていた。その状態で戦い続けていたのだ。ダメージはリルとは比べものにならなかった。本人は元気な振りをしていたが、いざベッドに寝させられると大人しくしている。
二人に比べてると、ほぼダメージのないシムーンは、休む口実を得られて、喜んで寝ている。
「……ハティさん、嬉しそうだった」
「えっ?」
「ローレル兄上が言っていた。リルと一緒に戦えるのが嬉しいだろうって。きっと、リルも同じだね?」
「……そんな風に見えましたか」
戦っている間、そんなことはまったく考えていなかった。そんな余裕はなかったはずだった。それでもプリムローズには、一緒に二人の戦いを見ていたローレルにも、そう見えた。そう見えたのなら、そうだったのだろうとリルは思う。
「どうして……どうしてハティさんと別れたの?」
聞くべきではないのかもしれない。プリムローズはこう考えているが、今しか聞けないという思いもある。結果、この機会を逃さないことを選んだ。
「……それは……共に戦えなくなったからです」
「でも……そう……」
今回一緒に戦った。戦えた。リルの答えはおかしいと思ったが、これ以上、問いを重ねることがプリムローズは出来なかった。どこか遠くを見ているようなリルの表情が、それをさせなかった。