プリムローズの毎日は、これまで以上に充実している。ローレルとリルが帝国騎士養成学校に行っている間もそうだ。剣の鍛錬はハティが、ほぼつききりで相手をしてくれる。教え方も、プリムローズの感覚では、上手い。ハティは最初に教えたリルの意図を正しく汲み取って鍛錬方法を考えている、というより選んでいるので、そう思えるのだ。リルとハティは、ほぼ同じ鍛錬方法をイアールンヴィズ騎士団の大人たちから教わり、それを続けてきた。自分たちが習ったことをプリムローズに教えているので、二人の教え方には共通するものがある。それがプリムローズには分かりやすいのだ。
馬術のほうは、訓練方法に関しては以前とそれほど変わりはない。ただ、リルが騎士養成学校に連れて行くのはレイヴンだけになり、ルミナスはエセリアル子爵屋敷に残ることになった。エセリアル子爵屋敷に引っ越してくる前とは違い、平日もルミナスに乗る機会を得られるようになったので、訓練時間は大幅に増えている。リルとローレルの二人が騎士養成学校に通う前、ずっと一緒にいられた頃に戻っている。
さらにイザール侯爵家にいた時から増えた日課がある。エセリアル子爵夫人との時間だ。ただお茶を飲みながら会話を楽しむだけの日もあるが、共に過ごす時間はそれだけではない。プリムローズは貴族令嬢としての礼儀作法をエセリアル子爵夫人に教えてもらっている。イザール侯爵家では得られなかった知識だ。イザール侯爵家夫人、本来は母代わりのマリーゴールドは、無作法を叱るだけで正しいやり方を教えてくれなかったのだ。
当初は、いずれイザール侯爵家を出る自分には必要のないものだと考えていたプリムローズだったが、今は気持ちが変っている。帝国騎士養成学校では騎士としての礼儀作法も学ぶと教わったからだ。
上級騎士となれば舞踏会などに呼ばれる機会もある。そういった場で恥をかかないように騎士養成学校では礼儀作法の基本を学ぶ。ダンスも必須科目になっており、実際に養成学校主催で舞踏会も開かれる。場慣れする為の授業の一環なのだが、中身は本格的なものだ。
「つまり、あれか? 舞踏会であいつのパートナーを務める為に熱心に教わっていると」
「……そう」
「はあ、やってられねえ。何だ、そのノロケは? そんなにあの馬鹿が良いかね?」
プリムローズが礼儀作法を熱心に学ぶようになった理由。それを聞いたハティは呆れ顔だ。プリムローズがリルを好きなことは分かっている。だがここまで強く想える理由は、ハティには理解出来ないのだ。
「だって……私が踊れなかったら、リルは他の人と踊ってしまうもの」
「いやいや、お嬢ちゃん。そういう独占欲はあまり表に出さないほうが良いと思うな。もっとこう、包容力を感じさせる女のほうが男は好むものだ」
そういう女性と付き合ったことなどないくせに、偉そうなことを言うハティ。そういう女性どころか、恋人と呼べる相手はこれまでいなかったハティだ。恋愛事はど素人と言っても良い。
「ほうようりょく?」
「男が何をしても、温かい目で見てくれて、許してくれる人」
「……都合の良い女ってこと?」
プリムローズの表情が厳しくなる。ハティの言っていることは男性の我儘。そう思ったのだ。
「そういう言葉、どこで覚える?」
「子爵夫人が教えてくれる」
「へっ? 嘘だろ?」
エセリアル子爵夫人どころか、貴族が使うような言葉ではない。ハティはそう思って、プリムローズに問い返したのだ。
「貴族の女性は賢くなければならない。夫人からそう教わっているの」
家庭内だけでなく、社交界でも様々な駆け引きが必要となる。常に勝ち組でいることを望むのではなく、時には敗者になることも必要。賢く、時には愚者のように振舞うことも必要。公侯伯子男、貴族ではない士爵を加えても下から数えたほうが早い子爵家の女性には、その立場と場面に合わせた振る舞いが必要なのだ。
プリムローズはこういったことまでエセリアル子爵夫人に教わっていた。
「……良く分からねえけど、何か怖い」
ハティは、そういった賢い女性の手の平で踊らされることになる側だ。貴族の女性とは縁がなくても、身分に関係なく、女性とはそういうものなのかと考えた。
「怖くなんてないわ。大切な人を支えるには必要な知識だもの」
「大切な人を支える……」
プリムローズが言うこれは、自分の頭に浮かんだこととは違う。それは分かっている。分かっていてもハティは、そういう知識があるのであれば知りたいと思った。
リルとは、こうして同じ屋敷内で暮らしていても、あまり話す機会がない。話をしてもハティが聞きたいことは聞けない。プリムローズやローレルに聞かせて良い内容ではないのだ。
何故、リルは仲間の前から姿を消したのか。自分たちは何をすべきだったのか。ただ聞いても答えてもらえないことは分かっている。自分には何かが足りないのだと、ハティは思っている。
「……兄貴」
ただ、感傷的になっている時間はなかった。
「先輩だ」
「そういう場合じゃないでしょ?」
「分かっている。さっさと様子を見に行ってこい」
遠くで聞こえた指笛は何かが起きた合図。まだ明るいこの時間に敵が襲ってきたとは思えないが、緊急の合図を送らなければならない事態が起きたのは事実だ。
ハティに命じられて正門に向かって駆けて行くシムーン。
「……どうしたの?」
「何か起きた。今はこれしか分かっていねえ」
「そう……」
プリムローズの心に不安が広がる。また周りの人たちに迷惑をかけることになる。また誰かの命を奪うことになってしまうかもしれない。こんな不安だ。
正門に向かったシムーンはすでに誰かと話をしている。驚いているのは、離れたこの場所からでも分かった。何が起きたのか。
「大変だ! 兄貴、大変、大変!」
大変なことが起きたのはこのシムーンの声で分かる。ただ、彼のこの反応は少し意外だった。
「大変だけじゃ分からねえ! 何が起きたか教えろ!」
「カチコミだ! ガラクシアス騎士団がカチコミをかけてきた!」
「……はあ!?」
想定外の事態にハティは驚きの声をあげた。
「かちこみ?」
プリムローズは驚く以前に、シムーンの言葉の意味が分からない。「カチコミ」なんて言葉は初めて聞いたのだ。
「殴り込み。いや、襲ってきたのほうが分かるか」
「やっぱり」
ガラクシアス騎士団が襲ってきた。これはプリムローズの想定内のことだ。騎士団の名は初めて聞くもので、ハティとシムーンが何か起きたことを示唆していたからこその想定内だが。
「多分、勘違い。そいつらが襲ったのは俺らの拠点だ」
「えっ?」
「ハティ! 大変だ! ガラクシアス騎士団の奴らが殴り込みをかけてきた!」
これはシムーンと一緒に駆け寄ってきたイアールンヴィズ騎士団の騎士の言葉。彼がこの事実を伝えてきたのだ。
「それはもう聞いた。それで何しに来た?」
彼は護衛任務に就いていない。だからイアールンヴィズ騎士団の拠点にいて、殴り込みを知り、こうして伝えに来られたのだ。
「何しに来た? 殴り込みだぞ?」
「今は任務中だ。任務を放り出すわけにはいかねえ」
「それは……いや、でも、俺たちだけじゃあ」
引き受けた任務を自分たちの都合で放り出すわけにはいかない。騎士団の一員である彼もそれは分かる。だが、ハティはイアールンヴィズ騎士団で一番の強者。彼を欠いてガラクシアス騎士団と戦っても勝てるとは思えない。だからこうして事実を伝えに来たのだ。
「なんとかしろ。喧嘩であって殺し合いじゃねえんだろ?」
殴り込みは、多くの小騎士団が競争している帝都では、珍しいことではない。騎士団同士の揉め事から喧嘩になることは普通にある。ただあくまでも素手での喧嘩。武器を持っての殺し合いは許されない。理由のない殺人は罪を問われるというだけでなく、帝都の仕事を独占する為に強い騎士団が他の騎士団を潰してしまうのを防ぐという理由もある。ルールを破った騎士団は帝都に拠点を持つ他の騎士団全てによって、逆に潰されることになるのだ。
「そうだけど大怪我したら、しばらく働けなくなる」
イザール侯爵家からの依頼だけではイアールンヴィズ騎士団全体を潤すことは出来ない。イザール侯もそこまで太っ腹ではない。任務に投入される人数分の報酬しか支払われる予定はないのだ。これはイアールンヴィズ騎士団も承知のこと。拠点に残っている仲間は、初めから別の仕事を行うつもりだったのだ。
「大怪我しないように頑張れ」
「無理だからこうして来ているのだろ!?」
相手が弱小騎士団で、拠点にいる人数だけで対処できるのであれば、初めからそうしている。ガラクシアス騎士団は、イアールンヴィズ騎士団よりも規模は倍以上。味方の実力者抜きで勝てる相手ではないのだ。
「任務を放り出したら、イアールンヴィズ騎士団は信用を失う! 二度と仕事は出来なくなる!」
ただ強ければ仕事が貰えるわけではない。怪しげな騎士団が乱立している今、顧客の信用はとても大切なものだ。それを失えば、怪我していなくても、仕事は出来なくなるとハティは考えている。
「……それは……確かに、そうだ」
迎えに来た騎士も、良く分かっていること。今は引き受けていることを隠しているが、任務達成の暁には公表する予定だ。それはイザール侯爵家も承知のこと。実績を知られることで騎士団は信用を増し、仕事を増やせる。隠し続けなければならない特別な事情がない限り、任務は公表されるのが普通なのだ。
「……早く戻れ。一人でも味方は多いほうが良い」
「……分かった。戻る」
勝ち目のない戦いに加わる為に拠点に戻る。足取りは重いが、それでも彼は屋敷の外に向かった。
「待って! 待ってください!」
「……嬢ちゃん。これは俺たちの問題だ」
その騎士を呼び止めたのはプリムローズ。だが呼び止めても、どうにかなることではないとハティは考えている。
「そうだとしても放っておけない。私が大丈夫だと言えば、任務を放り出したことにならないのでしょ?」
「その間に何かあったらどうする? いくら依頼人の許しを得たからといって失敗の危険を犯すわけにはいかねえんだよ」
もし離れている間に何か起きてしまえば、それは任務を放棄したということだ。プリムローズが許可していても、その評価は変わらない。
「……じゃあ、私も行く」
「はっ?」
「騎士養成学校は、ここからならすぐ。リルも、ローレル兄上も一緒に行けば良い。それなら護衛を離れたことにはならない。何か起きることもない」
「それは……いや、それは……」
確かにプリムローズの言う通りだ。護衛対象の側で喧嘩をしていることを任務を続けていると言えるのかは微妙だが、少なくともプリムローズだけをこの場所に置いていくよりは安全だ。ガラクシアス騎士団もイアールンヴィズ騎士団とは無関係な女の子に危害を加えることはない。あくまでも殴り込みが目的であれば。
「急ごう! まずはリルを迎えに行かないと!」
ハティの躊躇いを無視して、プリムローズは行動を起こす。正門に向かって駆け出してしまったのだ。そうなるとハティたちも動かないわけにはいかなくなる。護衛としてプリムローズの側を離れるわけにはいかないのだ。
「意外と行動力ありますよね?」
そんなプリムローズを、シムーンは感心している。当事者たちが躊躇っている状況で、プリムローズは解決先を示し、真っ先に動き出したのだ。
「……意外じゃねえだろ? 嬢ちゃんはそういう嬢ちゃんだ」
プリムローズの行動力をハティは意外には思わない。リルが関わることに対する言動で、それはもう分かっている。ハティが驚いているのは、プリムローズの提案だ。自らを危険かもしれない場所に置くことに、プリムローズは躊躇いを覚えない。命を狙われている可能性があるのに争いの場に出ていこうとする。何故それが出来るのか分からなかった。