エセリアル子爵の屋敷はローレルたちが思っていた以上の広さだった。実際に広いのはその敷地で、建物自体は驚くほどではない。イザール侯爵家の建物のほうが大きい。
敷地が広いのには訳がある。皇城周辺の貴族屋敷は帝都に攻め込まれた場合の防衛拠点としての役割もある。帝国騎士団の大隊と同規模の貴族家軍が駐留出来るだけの広さが必要だったのだ。過去形であって、今はそれほどの規模の貴族家軍は帝都に駐留していない。使われない軍の為の建物は、メンテナンスコストを考えて、そのほとんどが壊されてしまっているのだ。
「土地を分割すれば、もっと屋敷が作れるのに」
敷地の中に入ったローレルはこう思った。実際にその通りなのだが、外壁を取り壊し、土地を分割し、新たな外壁と屋敷を建築するには、少なくないコストが必要になる。今回はアネモイ四家の人間が騎士養成学校に入学するという滅多にないことが重なったからであって、それ以外は帝都で暮らす貴族家が大幅に増える見込みなどない。そのような出費を良しとするほど、帝国は愚かではなかったということだ。
「エセリアル子爵です」
建物の入口のところでエセリアル子爵が出迎えてくれていた。隣にいるのは、ローレルたちは会うのは初めてだが、夫人であろうことは分かる。
「ようこそ、我が屋敷に」
「わざわざお出迎え頂き、恐縮です。こちらは私の妹のプリムローズです」
「プリムローズです。よろしくお願いします」
ローレルの紹介を受けて、一歩前に出て、エセリアル子爵と夫人に挨拶をするプリムローズ。
「これはこれは、可愛らしいお嬢さんだ。我が家に年頃の息子がいれば、イザール侯に婚姻を願い出るところだったのに」
「えっと……ありがとうございます?」
エセリアル子爵の言葉にどう反応して良いか戸惑ったプリムローズだが、「可愛らしい」という言葉から褒められたのだと判断した。
「外で立ち話もなんだ。話は中に入ってからにしよう」
「まずはお部屋に案内して、少し休んで頂いたらどうですか? ここまで移動してくるだけで大変だったでしょう?」
夫人は先に部屋に案内することを進めてきた。プリムローズを気遣ってのことだ。三時間の移動は、夫人の感覚では、短いとは言えないのだ。
「それもそうだな。荷物を運び入れなければならない。まずはそれを済ませてもらったほうが良い。よろしいか?」
「お気遣いありがとうございます……あの、今更こんなことを言うのは、あれなのですが……」
ずっと気になっていたこと。今更なのだが、ローレルはそれを話すことにした。黙ったまま世話になるわけにはいかないと思ったのだ。
「何かな?」
「僕たちは本当にここで暮らして良いのでしょうか?」
ローレルの周囲は騒がしい。身の危険を感じるような出来事があったわけではないが、この先もずっとそうだとは限らない。何か起きた時、エセリアル子爵家に迷惑を掛ける、迷惑どころではない可能性もあるのだ。
「……気にすることは何もない。我々は一緒に暮らせることを心から喜んでいる。嘘ではない」
「……ありがとうございます」
無理をしているのかもしれない。そうは思っても、ここでエセリアル子爵の言葉を否定するのも失礼だ。こう思ってローレルは、御礼を返して、この話を終わらせることにした。
「さあ、中に入りましょう。荷物の搬入は庭を回ってもらったほうが良いわね? まず部屋に行き、そこで入口を教えるわ」
「はい。お願いします」
夫人に促されて歩き出すローレルとプリムローズ。
「あの、少し敷地の中を見て回ってもよろしいでしょうか?」
リルはその場に立ち止まったまま。エセリアル子爵に敷地内を動き回る許可を求めた。今日からここで暮らす。今晩何かある可能性をリルは否定しない。警戒すべき場所を把握しておこうと考えているのだ。
「ああ……ここで待っていなさい。案内役を付けよう。一人で歩き回るよりも早く済む」
「ありがとうございます」
エセリアル子爵はリルの意図をすぐに読み取った。エセリアル子爵家でも警備は強める予定だが、それに全てを依存しようとしないリルの立場は理解出来る。そうでなくてはならないと思う。
「私は今言った通りです。よろしくお願いします」
「分かった。我々はお二人と共に建物の中を確認する」
ローレル、そしてプリムローズの護衛役はリルだけではない。イザール侯爵家のノトス騎士団からも護衛役として二名派遣されている。リルは平日の日中、騎士養成学校に通う為にローレルと共にプリムローズの側を離れる。その間の護衛役が必要なのだ。
騎士団から派遣された護衛役二人はローレルとプリムローズと共に建物の中に入って行く。残ったのはリル一人だ。ただ一人きりの時間はわずか。すぐに建物から、明らかに騎士と分かる人物が出て来た。
「……君がイザール侯爵家の騎士?」
明らかにリルは若く、イザール侯爵家の護衛騎士の責任者とは思えない。騎士とも思えない。エセリアル子爵家の騎士は自分の思いをそのまま口に出した。
「いえ。正確には私はローレル様個人に仕える従士です。ノトス騎士団には所属しておりません」
「そうなのか……まあ、良い。敷地内を見て回りたいということだったな? 正面入口はすでに見た通りだ。裏の通用口に向かおう」
イザール侯爵家がどのような護衛をつけようが、エセリアル子爵家が文句を言えることではない。その程度の人間がつけられているということを認識し、その前提で警護を行うしかないと考えた。いないものとして考えようと。
「あっ、正面入り口の門番の詰め所、ですか? そこには人はいないのですか?」
「……今はいない。今晩から常駐する予定だ」
エセリアル子爵から警護を固くするように自家の護衛騎士には命令が発せられている。ローレルたちが到着した今日から警護体制は変わる予定なのだ。
「常駐は御一人ですか?」
「そうだが……不満か?」
「いえ。事実を確認しているだけです。あそこの詰め所から、外に立っていたとして外壁の端から端まで目視は可能性ですか? ああ、灯りの位置を教えていただいたほうが良いですか」
リルはあくまでも現状を確認しようとしているだけ。考えとしてはエセリアル子爵家の騎士と同じだ。そういうものだと認識し、それに合わせた対応を考えるつもりなのだ。
「灯りは……壁沿いを歩いてみるか?」
「それが早いですね? お願いします」
実際に見てみるのが早い。リルは初めからそのつもりだ。エセリアル子爵家の騎士が正面入り口側を省略しようとしたから回り道をすることになったのだ。
正面入り口に向かい、そこから壁沿いに歩く二人。灯りの場所はそれで確認出来る。
「詰め所からですと、灯りの先はかえって見づらくなりますね?」
「……そうかもしれないな」
詰め所から正面入り口側の壁全体を見張ることは不可能。初めから分かっていたことだ。ただエセリアル子爵家も警護を疎かにするつもりはなかった。帝都屋敷に駐在している騎士の数が少ないのだ。
「あの建物には何人くらいの人が暮らしているのですか?」
正面入り口の東側。そこには建物がある。使用人たちの宿舎だ。
「十名ほどだ」
「あの建物に十名ですか……日中は誰もいないのですね?」
「その通りだ」
「……分かりました。では次、東側をお願いします」
リルの頭の中では正面入り口側の確認が終わり。次の場所に移ることにした。
「使用人宿舎が気になるのか?」
だがエセリアル子爵家の騎士にとっては終わりではない。リルの質問の意味も、その結果、何をどう考えたのかも、さっぱり分からない。
「えっ? ああ、気になるというか、隠れ潜むには丁度良い場所だなと」
「丁度良い?」
「この辺りは人通りが少ないようですので、日中でも活動は可能かと」
貴族屋敷のエリアは人通りが少ない。官職を得ている貴族たちの朝の出勤時間を過ぎると、ほぼ人通りはなくなる。ために貴族夫人が他家を訪問するのに馬車を走らせるくらいだ。人がいると目立つことはあっても目撃者がいないのであれば、問題ない。屋敷への侵入を試みることは可能だとリルは考えている。
「……定期的に見回りを行うことにする」
リルの考えにエセリアル子爵家の騎士も同意した。使用人宿舎には空き部屋が多い。隠れ潜んでいることは、十分に可能なのだ。
「そうして頂けると助かります」
「……東側だったな」
「はい。お願いします」
その後もリルは何か所か気になる点を見つけ、それをエセリアル子爵家の騎士に伝えた。エセリアル子爵家の騎士たちがお粗末ということではない。敷地の広さに比べて、警護を行う騎士の数が少なすぎるのだ。隙が出来てしまうのは仕方がない。
唯一、エセリアル子爵家に問題があるとすれば、増員を行うほどの危機感がないこと。屋敷に侵入してくる可能性は少ないという思いがあることだ。
ただこれも批判は出来ない。エセリアル子爵家にそこまでの義務はない。そもそも彼らは守るべきは誰なのかを正しく理解出来ていないのだ。
◆◆◆
エセリアル子爵家屋敷の警備状況は、リルにとっては、おおよそ予想通り。あらかじめ帝都駐在の騎士の数を聞いていたので、問題があることは分かっていた。あとは実際に現地を見て、特に危険な箇所を洗い出すこと。それも初日でほぼ完了。把握した現状に合わせて、対応を考えるだけだ。
ただこれはリル一人が頑張ってどうにかなるものではない。リルの体は一つだ。帝国騎士養成学校に行っている間はプリムローズの側にはいられない。ノトス騎士団の騎士はエセリアル子爵屋敷に残る予定だが、そもそもリルはノトス騎士団を信用していない。それなりに親しくなった従士は何人かいるが、それと組織は別。自分が所属する組織、ノトス騎士団の命令には、その従士たちも従わざるを得ないはずだと考えれば、誰も信用は出来ない。
では、どうするのか。対応策は考えた。イザール候にも話し、了承も得ている。あとは実現する為に動くだけだ。
「……ここが騎士団の拠点? 農家の間違いではないのか?」
目的地の建物が見えてきたが、道の両側には農地。その農地で、農作業を行っている人々がいる。場所を間違えたのではないかとローレルは考えた。
「自分たちが食べる分を作っているのではないですか?」
「騎士が農作物を? なんか、そういうの教わったな。確か……屯田兵か」
騎士養成学校の歴史の授業で学んだことだ。まだアークトゥルス帝国が帝国とは名乗らず、多くの小国のひとつに過ぎなかった時代。国境の守りと開墾の両方の役目を軍が担っていたことがある。屯田兵はそういう役割を与えられていた軍の兵士たちのことだ。
「自分たちが食べる分を作るのは、屯田兵とは違います」
「それならやはり、普通の農民ではないのか? 道を間違えたな」
「それは違う……と私は思いますけど、本人たちに聞くのが一番かと」
「えっ?」
農地の方向ばかりを気にしていたローレルは、行く手を阻むかのように道に立っている人たちに気付くのが遅れた。
「ガキ共。ここはお前らみたいなガキが来る場所じゃねえ。さっさと去れ」
実際に相手は行く手を阻むつもりだ。元々はそこまでのつもりはなかったのだが、ローレルの「農民ではないのか?」という言葉が彼らを怒らせてしまったのだ。
「年齢だけであれば、それほど変わらない人もいそうですけど?」
睨みつける彼らに怯んでいるローレルとは違い、リルは平然とした様子。
「なんだと?」
「あと、我々は喧嘩を売りにきたわけではありません。仕事の依頼に来ました」
リルとローレルがこの場所を訪れたのは仕事を依頼する為だ。エセリアル子爵家と自分たちだけでは警護の手が足りないので、私設騎士団で補おうと考えたのだ。
「ガキの依頼など引き受けるか!?」
「イザール侯爵家の依頼でも、ですか?」
「えっ……イザール侯爵家って、あの……?」
イザール侯爵家の名は、帝都の住民であれば、まず知らない者はいない。知らないのは子供くらいだ。
「だから何だ? アネモイ四家が俺たちに依頼? あり得ない! あるとすれば、どうせまた糞みたいな依頼で、俺たちをすり潰すつもりだろ!?」
アネモイ四家の依頼だと聞いて、さらに反発を強める者もいた。この辺りの事情はリルにも分からない。イザール侯爵家の名を出せば、少なくとも話を聞いてもらえるものと考えていたのだ。
思わぬ誤算、というところだが。
「どういう依頼か聞いてからでも良いのじゃねえか?」
相手側に助け舟を出してくれる者がいた。
「……ハティ」
「強がるのは良いけど、意地張っても腹は膨れねえ。糞みたいな依頼だろうが稼げるのなら受けるしかねえだろ?」
ハティだ。彼がいるからリルはこの場所に、イアールンヴィズ騎士団の拠点を訪れたのだ。
「……話だけは聞いてやる」
「ありがとうございます」