食堂に大きな音が鳴り響いた。その原因は一人の男子騎士候補生。ものすごい勢いで廊下から食堂に入ってきたその彼は、勢いを殺せないまま、目の前のテーブルにぶつかった。テーブルはひっくり返り、上に乗っていた食器が辺りに散らばる。そのテーブルで食事をしていた騎士候補生たちにとっては、予期出来ない災難だ。
「なっ、何なんだ、お前!?」
食堂の床に倒れている騎士候補生が大声で叫んだ。「それを聞きたいのはこちらのほうだ」と食事を台無しにされた騎士候補生たちは思っているのだが、叫んだ彼はそれに気付く余裕はないようだ。
「何なんだって……私の用件はすでに伝えましたけど? まあ、良いです。もう一度聞きます。どこに行くつもりなのですか?」
大惨事を引き起こした彼が問いを向けた相手はリルだ。先に入ってきた彼とは違い、ゆっくりと食堂に入ってきた。
「どこって……どこでも良いだろ?」
「私が知りたいから貴方に聞いているのです。貴方の意志は関係ありません」
「……お、俺は、ただ、トイレに」
リルの言葉遣いは丁寧であるが、放つ雰囲気はかなり不穏なもの。相手は正しくそれを感じ取った。
「はい。まずはありがとうございます。嘘をつかなければならない理由があることが分かりました」
ただ、危険は察知したが、それで素直に白状するわけではない。リルの問いに嘘で返していた。
「嘘なんてついていない!」
「いや、嘘でしょう? トイレは食堂の奥。今見る限り、並んでいる人もいません」
リルが問い詰めている騎士候補生は食堂内にあるトイレとは反対の廊下に出て、どこかに行こうとしていたのだ。それだけで、このような真似をするのはかなり横暴なのだが、嘘をついてくれたことで自分の行動が間違いではなかったようだとリルは思えた。
「……別に、どこのトイレに行こうと俺の勝手だ」
「そうですか? かなり急いでいた様子でした。トイレを焦っていたのであれば、近くを選ぶのが普通だと思いますけど?」
「それは……」
「分かりました。正直に話したくなるようにしましょう」
リルの雰囲気がさらに剣呑なものに変わる。対峙している彼だけではなく、周囲で二人の様子を見ている騎士候補生も感じ取れるくらいに。
実際にそれを感じ取り、行動に出た騎士候補生がいた。食堂に響いた手と手を打ち合う音。
「お仲間ですか?」
殴りかかってきた拳をリルが手のひらで受け止めた音だ。
「……同じ騎士候補生だ」
「それを言ったら私もですけど? でも貴方は彼の味方をし、私の敵に回った」
「敵味方は関係ない。俺は揉め事を止めようとしているだけだ」
殴りかかってきた彼はリルが追及している騎士候補生の仲間ではない。同期生という点では仲間だが、それはリルに対しても同じ。たんに揉め事がさらに酷くなると考え、止めようと行動を起こしただけだ。
「それでいきなり殴りかかります?」
「それは、お前のほうが危険だからだ」
リルに拳を向けたのは、どう見ても事態を悪化させようとしているのはリルのほうだから。追い詰められているほうは、最初から動けない。止める必要はないのだ。
「あの……私は質問をしているだけ。この人が答えてくれたら、それで終わります」
「その聞き方が……そもそもお前は何を聞きたいのだ?」
彼だけでなく、周囲の人全員が何が起きているのか、正確なことは分かっていない。とにかくリルが相手を追いつめている。それだけだ。
「聞こえていませんでした? この人がどこに行こうとしているかを聞いているのです」
「それは知っている。どうしてそれを知りたがる?」
「その言葉、そのまま返して良いですか? どうして知りたいのですか?」
今のリルはこの食堂にいる、唯一ローレルを除いて、全員を疑っている。割り込んできた騎士候補生も、善意の行動とは限らない。そう見せているだけの可能性があるのだ。
「お前が危ないことをしようとしているからだ。何なんだ、お前? 可愛い顔して、ヤバすぎるだろ?」
放っておけばリルは相手を殺してしまいそうだ。騎士養成学校の食堂で、平気でそれを実行してしまう残忍さがある。それは彼の見た目の印象とは裏腹な性質だと彼は思っている。
「……可愛い? それ、もしかして俺のこと言っています?」
「お前、自覚がないのか?}
リルの見た目はかなり良いほうだ。幼さが残っているが、女性的な美しさも備えている。今は、女の子のような可愛さがある、という言い方も出来、彼はこちらを選んだ。
「……申し訳ありませんが、俺はそっちのほうは、多分ないかと」
「違う! 誤解されるようなことを言うな!」
「えっ? 言い出したのは貴方ですよね?」
今のように纏っていた剣呑な雰囲気が消え、素なのかは分からない、惚けた雰囲気を纏うと尚更。
「だから……」
「とにかく邪魔しないでもらえますか?」
「……穏便に済ますのであれば邪魔はしない」
だがすぐにリルは元の雰囲気に戻る。まだ目的は達成していない。達成する為に手段を選ぶつもりもない。
「それは無――」
「リル、もう良い」
「ローレル様……」
今のリルを止められる唯一の存在はローレル。その彼が動いた。
「僕は他人に知られて困ることは何もしていない。後悔もない。だから、リルも周りのことは気にするな」
「護衛は周りを気にするのが仕事です……が、分かりました」
ローレルがこう言うのであれば、リルは何もする必要はない。ローレルが堂々としているのに、仕える自分がそれを否定するような行動を選ぶわけにはいかない。リルはこう考えた。
「休み時間を台無しにして済まなかった。僕が詫びても時間が戻ってくるわけではないけど」
「……い、いえ」
ローレルの謝罪に、リルに殴りかかった騎士候補生が代表して、反応した。たんに目の前にいたからだ。彼が反応しなければ、皆、無言のままで終わる。この辺りは平民の騎士候補生たちが座るスペース。貴族の、それも上級貴族家のローレルに謝られても、どうして良いか皆、分からないのだ。
「事は収まったかな?」
「えっ? あっ……」
現れたのはローレルも見覚えのある帝国騎士団の騎士。帝国騎士団長の側近、ヴォイドだ。
「じゃあ、君。放課後、学長室に来るように」
「……俺ですか?」
ヴォイドの視線が自分に向いていることに戸惑っているリル。ここで戸惑う理由は、リル以外には分からないだろう。
「君以外に誰が?」
「……そうですね。はい」
ただ一応、戸惑う理由はあった。リルはどうして自分だけが、と思ったのだ。だがその理由もすぐに分かった。リルが追及していた騎士候補生は、いつの間にか食堂から消えていた。それでは今この場で呼び出しを告げたくても出来ない。それが分かった。
◆◆◆
リルが学長室を訪れるのは初めてのこと。初めてであるのは当然。それどころか、普通はほぼ全ての騎士候補生が、一度も訪れることなく、卒業を迎えることになる。学長室には普段は誰もいないのだ。訪れる機会などあるはずがない。リルが何年かに一度、あるかないかの機会を得ただけだ。
「……えっと……学生同士の揉め事に帝国騎士団長が?」
帝国騎士養成学校の学長は帝国騎士団長が兼務している。かつてはそうではなかったのだが、人員削減のあおりを受けて、こうなったのだ。
「騎士団長は戦争でもない限り、帝国騎士団でもっとも暇な人間だからな」
「そんなことはないような……」
リルが思った通り、帝国騎士団長は閑職ではない。帝国騎士団に関わる、ありとあらゆることに決断を下さなければならない身だ。それが皇帝に決裁を仰ぐという決断であっても、物事を理解しなければならない手間は同じ。報告を聞くだけで一日のかなりの時間を費やすことになる。
「まあ、今日はたまたま学長室に来ていた。そこに君がたまたま騒動を起こしたということだ」
これは本当だ。騎士養成学校の現状について詳しく話を聞く為に帝国騎士団長は学長室を訪れていた。そこに食堂で騒ぎが起きているという情報が飛び込んできたのだ。
ただそれだけで帝国騎士団はずっと騎士養成学校に留まることはしない。ローレルとリルが関わっていると知って、直接話を聞こうと考えたのだ。
「……申し訳ございません」
「まずは説明を聞こうか。何があったのかな? 他の騎士候補生から何かを聞き出そうとしていたことまでは聞いている」
続く質問はヴォイドが引き継いだ。話を引き出すのはヴォイドの役目。騎士団長は横で話を聞き、話す相手の反応を見て、判断を行う。こういう役割分担なのだ。
「……ご存じなのですか?」
と聞きながらリルの視線はヴォイドではなく帝国騎士団長に向いている。知っているとすれば帝国騎士団長。その上で、同席しているヴォイドも知っているのかを同時に尋ねているつもりだ。
「それが何のことか分からなければ答えようがないな」
「皇帝陛下の件です。ごく最近、話題になったことがあるはずなのですが、それをご存じですか?」
知らない時のことを考え、リルは曖昧な答えかたを選んだ。ただ知っている人には、これで十分なはずだ。
「それか……おおよそのことは聞いている」
帝国騎士団長も帝国重臣の一人。政治の場に出ることはないが、かなりの情報は届く。エセリアル子爵が皇帝に拝謁し、そこで何が話されたかは知っている。
「おおよそですか……まあ、今更ですか。皇帝陛下にお会いしたのはローレル様です」
遠回しに話をしていたリルだが、考えてみれば、もう隠すことに意味はない。食堂にいた騎士候補生が知ったことだ。いずれ騎士養成学全体に広まってもおかしくない。平民の騎士候補生にとっては何の意味もない話でも、貴族家の騎士候補生にとっては、それなりに重要情報のはずなのだ。
「……それはつまり、そういうことかなのかな?」
皇帝と会って話をしたのはローレル。それが何を意味するのか、騎士であるヴォイドも分かる。こういう一般の騎士が、事によっては帝国騎士団長も苦手な領域について考えを巡らすのも、ヴォイドの役目なのだ。
「食堂でその事実が公になり、すぐに廊下に出て、どこかに向かおうとした騎士候補生がおりました。私はその騎士候補生に、どこに行くつもりかを聞いただけです」
「それにしては、やり方が荒っぽかったと聞いている」
「素直に話してくれないからです。申し上げておきますが、私からは一切、手を出しておりません。相手が勝手に騒いだだけです」
これは事実だ。リルは脅しただけで、手は出していない。相手が怯え、騒いだだけだ。そうさせるような強い殺気は放っていたが。
「……気になる点がある。君はそれを知って、どうするつもりだったのかな?」
ヴォイドは情報を得たあとのリルの行動が気になった。リルに追い込まれた騎士候補生は情報を誰かに伝えに行こうとしたことは、リルの話で分かった。その誰かをリルはどうするつもりなのか。
「警戒すべき対象と認識します」
「それだけかな?」
「それ以上のことは許されないと思っております。もちろん、相手が行動を起こせば別ですけど」
相手が行動を起こせば、躊躇うことなく反撃する。だが、事が起こされる前に、未然に防ぐのが正しいやり方。その選択を捨てるつもりは、リルにはない。
「……相手の騎士候補生は誰か分かっているのかな?」
「食堂にいた人たちに聞けば分かるはずです。それとも騎士団のほうで調査を引き継いで頂けますか?」
「君の、いや、イザール侯爵家の為であっても、帝国騎士団は動かない」
特定の個人、貴族家の利の為に帝国騎士団が動くわけにはいかない。今回の件は、あくまでもイザール侯爵家、そしてローレル個人の問題だとヴォイドは考えている。
「……私は急いで動いたほうが良いと思います」
「だから……いや、何故?」
それでもリルは動くべきだと言ってきた。一度はまた否定しようとしたヴォイドだが、リルの考えは聞いておくべきだと思い直した。
「あの彼は情報を得て、すぐに慌てて食堂を出ました。急いで伝えなくてはならない理由があったからだと考えます」
「それは……そうだろうね」
「情報の内容はあそこまで急いで伝える必要があるものとは思えません。つまり、急いだのは情報の中身以外の理由があったからだと考えます」
すぐに知ったからといってすぐに何かを行えるものではない。他に先駆けて、と考えたとしても昼休みが放課後になったとして、何の問題があるのかとリルは考えている。
「……時間がなかった?」
ヴォイドが思いついたのはこれ。これしか思いつかなかっただけだ。
「はい。私もそう思います。彼には時間がなかった。午後の授業に遅れないように昼休みの間に情報を伝えるには、急がなければならなかった」
「それは……」
リルも同じ考えだった。だがだからどうなのか、ヴォイドは分かっていない。
「君は情報を伝えようとした相手は、校内にいると考えているのだな?」
答えを教えてくれたのは騎士団長だった。
「あの時間で午後の授業に間に合うとなれば、そうなります。また放課後では駄目で、昼休みでなければならなかった理由もあるはずです」
「……そうなるか」
「さて帝国騎士団は本気で調べていただけるのでしょうか? その気がないのであれば、私は自分で調べます」
「……少なくとも私が知ることではない」
リルは、帝国騎士団が組織として騎士候補生を使って情報集めをさせている可能性を示唆している。帝国騎士団がやらせていることであれば、調査結果が信用出来ないどころか調査そのものが行われない可能性が高い。
だが帝国騎士団長はそれを否定した。そのような命令は、少なくとも、帝国騎士団長は発していないのだ。
「……ではお任せします」
帝国騎士団が本当に調べるかどうかは、リルにとってはどうでも良いことだ。リル自身で調べる方法はある。方法はあるのに、それを行わないという選択はない。
「……ひとつ教えてもらいたい。味方の本拠地周辺に魔獣が大量に送り込まれた。敵の意図は何だと思う?」
「……はい? 今の話の流れでどうしてそういう質問が出てくるのでしょうか?」
帝国騎士団長の問いは唐突過ぎる。質問の意味がリルにはまったく分からない。質問の意味が分かっているヴォイドも戸惑っている。リルに聞くことではないと思ったのだ。
「食堂の件は話が終わった。これは試験、いや、試験を考える上で騎士候補生がどう考えるかの参考にしたいだけだ」
「試験問題を試験を受ける人間に聞くのですか?」
「これをそのまま出題するつもりはない。戦略論、戦術論の類をそのまま教えても身が入らない騎士候補生がいる。少し視点を変えた問いにするのはどうかと考えただけだ。本当は君の主に聞くべきかもしれないな」
滑らかに嘘を語る帝国騎士団長。政治に関わることはなくても、これくらい出来なければ帝国騎士団長は務まらない。真顔で嘘をつかなければならない場面というのは、あるものなのだ。
「ローレル様は近頃は真面目に勉強しています」
「それは失礼した。だが彼に限った話ではない。剣など分かりやすく強くなれる授業には熱心でも、戦術の類は熱が入らない騎士候補生はいる。学ぶだけでは役に立つ実感は得られないというのもあるのだろう」
「それでも……いえ、ご質問の答えですか……魔獣はどういう種類で、どれくらいの数なのですか?」
まだ納得はしていないが、帝国騎士団長の問いに答えないわけにはいかない。答えるとなると真面目に考えなければならない。
「魔獣はダークタイガー。四十頭くらいの群れだ」
「ダークタイガーですか……珍しくない魔獣ですけど、四十頭の群れは大きいほうかな……?」
ダークタイガーはその名の通り、黒い、虎のような外見の魔獣。ただ外見は虎だが狼のように群れを作る。山奥や深い森の中に生息している、帝国内であれば東西南北、どこにでもいる魔獣だ。
「討伐は難しくないでしょうから、たんに一般の人たちの不安を煽る為か……誰かの暗殺でしょうか?」
「暗殺?」
「その数では、軍に損害を与えることは出来ないと思います。ですが、四十頭の魔獣を運んでくるのは大変です。ただ不安を煽るだけでは割に会いません」
「なるほど。割に合わないか」
軍として考えると確かに割に合わないかもしれない。ただ暗殺目的にしても大がかりだ。リルの答えは、暗殺の可能性については気付きがあったが、正解とするにはまだ不確定なところがある。帝国騎士団長はこう思った。
「ただブラックタイガーではなく、そうですね……ナイトメアならまた違った答えになると思います。ナイトメアを四十頭も集められるかという問題がありますけど」
「ナイトメア……確かに討伐は犠牲覚悟になるな。魔獣に詳しいのだな?」
ナイトメアは、一説にはブラックタイガーの上位種と言われている魔獣。実際のところは分からないが、とにかくブラックタイガーよりも遥かに強く、それが四十頭も群れたとなれば、討伐にはかなりの犠牲を覚悟しなければならなくなる。
「騎士団で働いたことがあります。騎士ではなく下働きとして。その騎士団は討伐任務の為に多くの魔獣の資料を持っていました。その知識です」
ブラックタイガーとナイトメアを間違えて任務を引き受けてしまうと大変なことになる。他にも似て非なる魔獣は多くいて、魔獣討伐で稼いでいる私設騎士団は、その特徴について、かなり詳しい情報を持っているものなのだ。
「そうか……我々にも必要な知識かもしれないな。分かった。話は以上だ」
「では、失礼します」
この先も帝国騎士団は魔獣討伐を行うことがある。討伐対象を見誤り、実戦経験を積むどころか、多くの騎士を失ってしまうような事態はあってはならないのだ。
「……どういう頭をしているのでしょう?」
リルが学長室を出ていくとすぐヴォイドは独り言のように疑問をつぶやいた。十六歳という年齢で、あそこまで考えが巡らすことが出来るものなのかと思ったのだ。
「経験もあるのかもしれない」
「だったら尚更です」
「……そうだな」
リルとの話にはいくつかの気付きがあった。わざわざ騎士養成学校に残って、話をした甲斐があったと帝国騎士団長は思っている。問題はどうやってリルを帝国騎士団に入団させるか。その方法も教えてもらいたいものだと考えた。