帝都の貴族屋敷は帝都中央部、皇城の外側を囲む区域に集中している。帝都常駐の貴族家は皇城防衛も担っている。帝都の内壁が突破され、皇城に迫る敵を防ぐ盾とならなければならないのだ。
というのは帝国建国時の話。今、帝都に常駐している貴族家は、自分たちの護衛に必要な最小限の、軍事力とは呼べない数の騎士を屋敷に置いているだけ。一人二人の騎士がいるだけで何かある時は私設騎士団に頼るような貴族家もある。軍事力を持つにしてもそれは守るべき領地に全て置く。帝都に無駄な経費を使う気は、余裕もないのだ。
「……大きな屋敷だな。二人、プリムも入れて、三人でも広すぎる」
「そうですね」
ローレルとリルはようやく見つかった帝都の屋敷を見に来た。自分たちで住むには大きすぎる屋敷。今二人が見ているのは大きな門と先まで広がる壁だけだが、それで十分、広大な屋敷であることは分かる。
「使用人と護衛騎士たちは贅沢が出来るな」
部屋数がどれだけあるか、まだ分からないが、使用人にも一人一部屋を与えられると思うくらいに敷地は広い。領地とは違った暮らしが出来るだろうとローレルは思った。
「貴族屋敷なのですから使用人の宿舎は別にあるのではないですか?」
「ああ、それはそうか」
ただそれはローレルの考え違い。貴族屋敷なのだから使用人の為の宿舎もあるはず。貴族が暮らす建物とは異なる、質素な宿舎が。
「広すぎると掃除とか大変そうですね? 帝都で働く人の数が増えてしまいます」
借りた帝都の屋敷で働く使用人の数は必要最低限にしている。ローレルもプリムローズも、ほとんど使用人の世話になることはない。今、寝泊まりしている建物にいるのはリルも加えて三人だけ。使用人は呼ばなければいないので、日常の身の回りのことは自分たちで行っているのだ。
「ああ……まあ、なんとかなるだろ」
使用人の数を少なくした一番の理由は必要ないということだが、多くの使用人がいることをローレルが、プリムローズも、煩わしく感じるからという理由もある。二人ともイザール家の使用人が嫌いなので、接触したくないのだ。
「あれ?」
「どうした?」
「門が……」
内側から門が開いた。中に誰かいたということだ。
「当家に何か御用ですか?」
実際に人が出て来た。見るからに貴族家に仕えている、使用人の中でも上級であろう身なりの男性だ。
「……屋敷の様子を見に来た」
「もしかして、イザール侯爵家のローレル様ですか?」
男性はローレルの答えだけで彼が何者かを理解した。
「そうだ」
「……申し訳ございません。明け渡しが遅れていることは承知しております。明日、いえ、明後日にはお引渡ししますので、もう少しお待ちください」
「明け渡し……えっ? どういうことだ?」
自分たちに屋敷を貸し与える為に、そこで暮らしていた人たちが追い出される。そういうことになっているのをローレルは知らない。
「準備で慌しくしておりますが、それでもよろしければ中を見学していただいて構いません」
「……ああ、じゃあ、そうさせてもらう」
ローレルはまだ事情が分かっていない。ただ中を見ることが出来ると言われれば、それを断ろうとは思わない。壁の外から見ただけでは、これから暮らす屋敷の様子はほとんど分からないのだ。
「では、こちらです」
男性は門を広く開けてローレルに中に入るように促してきた。素直にそれに従い門をくぐるローレル。リルもその後に続いた。
「……本当に広いな。あちらは庭か? レイヴンとルミナスを遊ばせておくのに良いかな?」
「ローレル様。今はそういうことは口にしないほうが」
「ん? どうしてだ? 屋敷をどう使うか考えておいたほうが良いだろ?」
「そうですが……それを不快に思う人たちがいます」
ローレルを見る周囲の目。それほど多く人がいるわけではないが、どれも好意的とは言えないものであることは、すぐに分かる。分からせるような表情を相手はしている。
「……どういうことだ?」
リルに指摘されてローレルもその視線に気が付いた。不快な視線には慣れているつもりだが、今向けられているのはローレルが知るそれとは違う。蔑みや憐みではなく、怒りだ。
「先ほどの話が関係していると思います。まずはもっと詳しい事情を聞いてみたらどうですか?」
「ああ、そうだな」
男性が行った「明け渡し」の意味。それがどういうことかをローレルは尋ねることにした。
「主です」
だがローレルが問いを口にする前に男性は主の到来を告げた。彼が仕える当主が建物から出て来たのだ。
「イザール侯爵家のローレル殿ですかな?」
「はい、そうです。貴方は?」
「私はハダル・エセリアルと申します。覚えているか分かりませんが、ローレル殿とお会いするのは二度目です」
「……エセリアル子爵。まだ幼かったので何を話したかは覚えていませんが、確かに」
エセリアルという姓をローレルは覚えていた。人の名を覚えるのは貴族にとって大事なこと。その日会った人の名前は帰ってから何度も復唱させられ、無理やり覚えさせられたのだ。
「屋敷を見学に来たとか。片付けが終わっておらず、まだ綺麗にはなっておりませんが、それでもよろしければどうぞ」
子供のローレルに対してもエセリアル子爵の言葉遣いは丁寧だ。アネモイ侯爵家の人間を、たとえ子供であっても怒らすわけにはいかない。内心どう思っていようと態度を崩すわけにはいかないのだ。
「僕は状況が分かっていません。エセリアル子爵はここで暮らしているのですか?」
「……やはり、そうでしたか。はい、当家はこの屋敷で暮らしておりました。ですが、今回、屋敷を明け渡すことを命じられ、退去することになりました」
ローレルが子供だから知らない、ということではないとエセリアル子爵は判断した。皇太子が言ったように、アネモイ四家が知らないところで勝手に進められたことだと。
「それは僕のせいですか?」
「ローレル殿のせい、という言い方は……」
ローレルのせいだ。だが、何も知らないローレルに責任を問うのは大人げないとエセリアル子爵は思っている。
「それは駄目です」
「えっ?」
「それは間違っている。屋敷がなくても僕は領地から通える。今までそうしてきた。エセリアル子爵から屋敷を取り上げるような真似は必要ない」
「それは、そうかもしれませんが……」
すでに決定事項。ローレルがいくら間違っていると言っても、状況が変わるわけではない、とエセリアル子爵は思っている。
「エセリアル子爵はこのまま、この屋敷で暮らせば良い。僕もこれまで通り、領地から通います」
「ローレル殿、そのお気持ちはありがたいのですが、すでに決まったことですので」
「間違ったことは正すべきです。幸いにもまだエセリアル子爵はこの屋敷にいる。今ならまだ正せる」
若さ、ということなのだろう。他人を追い出して手に入れた屋敷でローレルは暮らす気になれない。こんなやり方は間違っている。間違っているものは正すべきだと考えている。
「……これは陛下がお決めになったことです」
「そうであっても……へ、陛下?」
「そうです。陛下のご命令です。それがどのようなものであっても臣下として私は従わなければなりません。そして従わなければならないのはローレル殿も同じ」
「それは……そうかもしれないけど……」
皇帝陛下の命令に逆らうわけにはいかない。エセリアル子爵の言う通りだ。だが、それは分かっていても、ローレルは受け入れられない。自分のせいでエセリアル子爵が、子爵家の人たちが理不尽な目に遭うことに耐えられない。周囲の視線が心に刺さる。
「……出立予定は明後日。これで間違いないですか?」
「そうしていただけるとありがたい」
「では、そうしてください。明後日までは絶対に出立しないでください。それまでに僕は……僕がなんとかします!」
ここで引くわけにはいかない。不甲斐ない自分をリルは許してくれても自分が許せない。そんなことでリルに一緒にいてもらえるはずがない。ローレルはこれだけを考えた。あとは何も考えず、行動を起こすことにした。
「……ひとつお聞かせください」
屋敷を出ていくローレル。リルはすぐにその後に続かなかった。その場に残り、エセリアル子爵に話しかけた。
「何かな?」
「皇帝陛下には簡単に会えるものでしょうか?」
「……イザール候本人であれば会えるだろう。だが……」
ローレルでは無理だ。アネモイ四家の一員とはいえ、ローレルは公式には無位無官の身。イザール家の後継者でもない。皇帝にお目通りがかなう立場ではないのだ。
「そうですよね……分かりました。ありがとうございます」
「まさか、ローレル殿は陛下に直談判しようと考えているのか?」
「分かりませんが、それがこの状況を解決する唯一の方法であれば、そうするしかないのではありませんか?」
「無茶だ。いくらイザール侯爵家の人間であっても……いや、会えることはないのだから大丈夫か」
皇帝の怒りを買えば、いくらイザール侯の息子だとしてもただでは済まない。そう考えたエセリアル子爵だが、そもそも皇帝への直談判など実現しないことに気が付いた。謁見が叶うはずがないのだ。
「どうでしょう? 結果がどうなるかは、やってみないと分かりません」
皇帝に会うことなど出来ないだろうとリルも思う。だが、それでもなんとかしたいというローレルの思いは否定したくなかった。
「止めないのか?」
家臣として主の無謀を止めるべき。エセリアル子爵はこう思う。
「正しいことを行おうとしている人をどうして止めなければならないのですか? もし正しいことを行った人を罰するというのなら、そんな相手には仕える価値などありません」
「…………」
「あっ……今のは私個人の考えです。ローレル様もイザール侯爵家もこんなことはまったく考えておりませんので。では、失礼します」
現皇帝は仕えるに値しない。これはさすがに暴言であることにリルも気が付いた。人に聞かせて良い考えではないというだけで、考えそのものを取り消す気はまったくない。
本当は止めるべきなのかもしれない。リルもこう思う。だが正しいことを行おうとしている人に、その行動は間違いだと言えるのか。言うべきではない。リルはこう考えてしまうのだ。
◆◆◆
貴族屋敷が立ち並ぶエリアから皇城までは遠くない。一番外側の城壁まではすぐ。その城壁の門をくぐり、緩やかな坂を昇って行くとまた城壁がある。ここまでは、よほど怪しい様子がなければ、誰でも辿り着ける。問題はここから先だ。
「はっ? 陛下に会いたいだと?」
まだ成人前の子供がいきなりやってきて、「皇帝に会いたい」と言う。それはこんな反応になる。
「イザール侯爵家のローレルだ。陛下にお取次ぎ願いたい」
「イザール侯爵家……い、いや、しかし、約束がないのでは」
目の前の子供がイザール侯爵家の人間だと知って門番の態度が変わる。だがそれだけで通すことはない。そんなことは許されない。
「だからその約束を取り付けようとしている。とにかく陛下に伝えてもらいたい」
「いや……それは……」
これを取り次いでは皇帝を怒らせるのではないか。ローレルではなく、取次を認めた自分が。門番はこう思っているのだ。
「イザール侯爵家のローレルがお会いしたいと言っていると伝えるだけ。断られても文句は言わない」
「ですから、その伝えるのが……」
門番が恐れているのはローレルでも、イザール侯爵家でもない。皇帝だ。断られる以前に伝えることで皇帝を怒らせてしまうことを恐れている。ローレルに「文句は言わない」と約束されても意味はない。
「そこを何とか……僕も簡単に諦めるわけにはいかないのだ」
皇帝に話した結果、駄目であったのであれば、まだローレルも諦めがつく。だが会うことも出来ないで終わっては、何もしなかったと同じなのだ。
「そこは諦めてもらいたいのですが?」
「いや、無理。出来るだけのことをすると約束してしまった」
「どこの誰とそんな約束を? それは順番が違います。まず陛下とのお約束を取り付けるべきではありませんか?」
「その為には会いたいという意志を伝える必要がある。僕はそれを頼んでいる。お会いするのは今日でなくても構わない。明日までであれば良い」
「……陛下は意外と忙しいのですけど?」
謁見を申し出ても、実現するのは早くて半月先。一か月以上、先になることも珍しくない。門番の言うように忙しい、ということだけではなく、人に会うのが面倒くさいのだ。それが会いたくない相手となると、予定が空いていても先延ばしにされてしまう。
「そこを――」
「陛下はお会いになるそうだ」
「えっ?」「嘘?」
とつぜん割り込んできた声。まさかの言葉にローレルと門番二人ともが驚きの声を漏らすことになった。
「陛下のお許しは出た。ローレル殿をお通ししろ」
「はっ」
現れた男性の命令に、門番は何も尋ねることなく、従うことを選んだ。門番がそうする相手ということだ。
「そこの従士。お前もだ。特別に謁見の場に立ち会うことを許す」
「……はい。ありがとうございます」
感謝の言葉を口にしたのは、相手が「特別に」という言葉を使ったから。何が特別なのか、リルは分かっていない。リルはイザール侯爵家に仕える身。皇帝にとっては陪臣で、お目通りが叶う立場ではない。こういう事情をリルは知らないのだ。
皇帝との謁見がかのうことになったローレル。だが問題はここからだ。謁見が出来たことは、より危険な立場に身を置いたということ。それはローレルも分かっている。彼の表情は緊張で、これ以上ないほどに強張っていた。