宿舎での共同生活が始まった。リルにとっては、まさかの状況。一晩は成り行きから仕方がないことだと思う。止める、止められる存在もその場にはいなかった。だが夜が明け、プリムローズとローレルの二人が宿舎に泊まったことは周囲にも知られたはず。当主であるイザール侯の耳にも、すぐにではなかったが、届いた。だが三人での暮らしはすでに四日目になる。イザール候が容認した結果だ。
それがリルには信じられなかった。容認されるまでにひと悶着あったわけではない。宿舎にイザール候本人が姿を見せ、建物の中に入り、それぞれの部屋を確認しただけだった。
プリムローズの部屋は入口から一番奥で、その手前にローレルの部屋があり、リルの部屋は入口のすぐ横。それでイザール候は納得した。完全に納得したわけではないが、醜聞はローレルが否定してくれる。リルは二人の護衛として同じ建物に寝泊まりしているだけ、という言い訳も成立する。それでプリムローズが安全に、嫌な思いをすることなく暮らせるならばそれで良いと気持ちを整理したのだ。
騒いでいるのはプリムローズに対して悪意を持つ人たちのほうだ。プリムローズをまた「ふしだらな女」と侮辱しているが、それはこの件がなくても変らない。母屋にいないので、そういった陰口が、わざとプリムローズ本人に聞こえるように話される陰口が耳に届かないという点で、状況は改善している。
結果、プリムローズの選択は、ローレルがそれを支持したことは正しかった。今はこう言える状況だ。ただ、想定外の問題がないわけではない。
「えっと……どうして私が騎士団の鍛錬に参加しなければならないのですか?」
イザール侯爵家の騎士団、ノトス騎士団に呼び出されて、訓練場を訪れたリル。その場で訓練に参加するように言われて、戸惑っている。
「理由を知りたい? それは知りたいか。理由はね、やっかみ」
リルの問いに答えたのはノトス騎士団の団長補佐、ワグテイル。ノトス騎士団の騎士の中では若手だが、次期騎士団長候補の一人に挙げられている。
「……やっかまれる理由は教えて頂けないのですか?」
「えっ? これで分からないのかい? それは駄目だね。皆が怒るはずだ」
「すみません。まったく分かりません」
呼び出された時に想像していたのとは違い、かなり気さくな人物。ただ、気さくではあるが、面倒くさそうだとリルは思った。
「……教えてあげるから、他言無用で頼むよ? 自分も職を失いたくないので」
「はあ」
どうして、このような話になるのか。今の状況に至る原因に、まったく心当たりがないリルには理解出来ない話の流れだ。
「君とプリムローズ様の噂は以前から皆の耳に入っている」
「それがあり得ない関係のことであれば、まったくの嘘です」
「皆、そう思っていた。でも今回の件で、どうやらそれは根も葉もない噂ではないと皆、思うようになった」
リルとプリムローズの噂は、実際には多くが嘘だと思っていた。その嘘を流したのが誰かも分かっている。イザール侯爵家に仕えている、少し事情を知っている家臣であれば、誰でも分かることだ。
「根も葉もない噂であることに変わりはありません」
「行き過ぎた関係ではないのは分かっている。でも、プリムローズ様の好意が君にだけ向けられているのは明らかだ。この言い方では納得しなくても、唯一頼りにされている家臣であることは?」
「それは……」
肯定は口にしづらい。だがそれは、目の前の人物を含めて、他の人たちを批判することになるから。頼りにされていることはリルも認めるところだ。
「それを皆、妬んでいる」
「……えっと、まだ分からないのですけど?」
「君、本当に駄目だね? モテる男というのは皆、君みたいに鈍感なのかな? それとも君が特別?」
「モテるとか関係なしに、普通だと思いますけど?」
ここまで話をしていてもリルはワグテイルが言うことが理解出来ない。イザール侯爵家についての情報が足りないのだ。ワグテイルが言う通り、鈍感であることも理解出来ない理由のひとつだが。
「皆、自分にもチャンスがあると思っていた。でも、君がそのチャンスを奪ってしまった」
「はっきりと言ってもらって良いですか?」
「はあ……どうしてここまで察しが悪いかな? じゃあ、はっきり言う。プリムローズ様は家臣の誰かに嫁ぐことになると思われている。この理由も分からない?」
「それは……おおよそ」
プリムローズはイザール侯爵家の人間として認められていない。今のままでは貴族家に嫁ぐことにはならない。仮に嫁ぐことになっても、公式の妻という立場は与えられない。それは父であるイザール候が認めないだろう。
これはリルも知っている事情だ。
「だから同じ年頃の従士たちは、自分が選ばれることを期待していた。だって、プリムローズ様はすごく可愛いから」
貴族以外という条件だけでなく、イザール候が安心して娘を任せられる相手という条件も付く。その条件に合うのは自家の家臣。こう思われていた。若い家臣たちにとっては大歓迎だ。
「……そんな風に思われていることをプリムローズ様は分かっていないと思います」
イザール侯爵家の全ての人が自分を嫌っているとプリムローズは思っている。心を許せるのは父と兄の中ではローレルただ一人、そしてリルだけだと。
「それは、大っぴらには言えない。ある人に知られたら、この家にいられなくなるからね」
プリムローズへの好意を認めることは出来ない。そんなことをマリーゴールドに知られれば、イザール侯爵家にいられない。実際にどうなるかは分からないが、家臣たちはこう思っている。思わされている。
「……だからといって、プリムローズ様を傷つけることはないと思います」
「そう。だから、やっかみ。君は皆が出来なかったことをしてみせた」
リルは自分たちが出来なかったことを行い、プリムローズから信頼を得た。それをやっかむ人間が、騎士団にはいるのだ。
「だから、訓練を口実に痛い目に遭わせよう、ですか?」
「そう考えているのだろうね。ただ、大人しくやられろなんて命令を君に出すつもりは、騎士団にはない。降りかかる火の粉は遠慮なく払えば良いよ」
「……何を考えています?」
騎士団は団員たちの為に、この場を設けたのではない。別の思惑が、どうやらある。リルはこう思った。
「部下の思い上がりを正すこと」
「……ご期待には沿えないと思います」
ワグテイルは自分の実力をどこまで把握しているのか。今言ったことは真実なのか、別の目的があるのではないか。リルの心の中で、一気に警戒心が強まった。
「いや、出来れば期待通りの働きを見せてもらいたい。自分は、もちろん団長も、団の現状を憂いている。団員たちの意識を変える必要があると考えている」
「そうだとしても、それは私の仕事ではありません」
「悪いけど、君の都合は関係ない。騎士団がそれを望み、候はそれを認めた。だから家臣である君は従うしかない」
「……なるほど。そこまで整えられているのですか」
イザール候の許可を得た上での、自分の訓練参加。確かにそうされるとリルは拒絶出来ない。イザール候の命令に忠実であると示すことは、プリムローズを守る為に役立つことなのだ。
「私闘を許すわけにはいかないからね。これは候が認めた正式な特別訓練。実施する目的は、君をイザール侯爵家の従士として表に出しても恥ずかしくないように鍛える為、ということになっている」
リルが訓練に参加する理由も、きちんと考えられている。ローレルの従士として騎士養成学校に入る予定のリル。イザール侯爵家の恥を晒させない為、としておけば、悪意を持つ者たちも横やりを入れづらい。
「説明はここまでだ。皆待ちくたびれている。訓練に参加してくれるかな?」
「……分かりました」
実際、訓練参加にはそれほど抵抗を感じていない。一人で行う鍛錬には限界がある。プリムローズはもちろん、ローレルも立ち合い相手としては物足りない。リルの鍛錬にならないのだ。実力者が揃う騎士団の訓練に参加出来れば、その問題は解消される。自分とプリムローズに向けられる悪意さえなければ、この話は大歓迎だった。
ワグテイルに言われた通り、先のほうで待っている従士たちに合流する為に駆け出したリル。
「……どうだった?」
そのリルと入れ替わるようにしてワグテイルに近づいてきたのはノトス騎士団の騎士団長、グラシアールだ。
「少なくとも、団員たちに袋叩きされることを恐れていないのは間違いありません」
「そんなことにはならない」
そのような卑怯な真似を許すグラシアール騎士団長ではない。帝都の北の守り、最後の砦を任されているノトス騎士団の誇りは、かつての力を失った今も残されているのだ。
「そうではありません。そうなっても恐れる必要はないと考えているという意味です」
「……なるほど。候のお考え通りの力があるということか」
馬飼を訓練に参加させるなどという無茶をグラシアール騎士団長が受け入れたのは、イザール候がリルの実力を高く評価しているから。
ワグテイルはリルに嘘をついている。本当は、まずリルを騎士団の訓練に参加させることが決められ、団員たちのやっかみは、あとから付けられた口実。邪魔をさせない為だ。
「……お考え以上かもしれません」
「何?」
「仕事が増えました。未熟な団員たちを𠮟りつけるという仕事が」
すでにリルと従士たちの立ち合いが始まっていた。始まって、終わろうとしている。リルの圧勝という結果で。
「……では、私はノトス騎士団の団員としての心構えを一から説くことにするか。一人に大勢でかかって、さらに負けてしまうとは……どうやら、我々も反省すべきだな?」
「はい。鍛え方が甘かったようです」
井の中の蛙。正直、そこまでの思いはなかった。かつでほどの実力はないことを認めながらも、それなりに厳しく鍛え、実力を高めてきたつもりだった。
だがそれはどうやら間違いだった。リルが何者かは知らない。それでも従士たちとそう変わらないか、さらに年下である可能性もあるのは確か。それでここまでの実力差が、どうすれば出来るものなのか。それがワグテイルには分からない。分からない自分を恥じることになった。
◆◆◆
「……どうしてお前らがここにいる?」
その日の夜。まさかの来客にローレルは戸惑うことになった。
「これはローレル様。お騒がせして申し訳ございません。少しリルに聞きたいことがありましたので」
「リルに聞きたいこと? 従士のお前らが何を聞くというのだ?」
宿舎を訪れていたのは騎士団の従士たち。リルに用があるはずのない者たちだ。何か企んでいるのではないか。家臣に対して不審しかないローレルは、こう考えてしまう。
「本日、彼と共に訓練を行いました。お恥ずかしいことですが、まったく歯が立たず、これは謙虚に教えを乞うべきだと思い、こうして参りました」
「……本当なのか?」
従士たちが何を言おうとローレルは信じる気にはなれない。だが、この場にはリルがいる。リルに聞けば事実は分かる。
「嘘です」
「何だと!? だったら出ていけ! 今すぐ出ていけ!」
従士たちは嘘をついていた。それが分かれば、彼らをここに留まらせる理由はない。ローレルは出ていくように彼らに告げた。ただこれはリルが悪い。言葉足らずなのだ。
「い、いや、そうではなく、彼らの目的は私ではなく、プリムローズ様です」
リルに言わせれば、全てを話す前にローレルが反応してしまったせいなのだが。
「プリム?」
「プリムローズ様と会う為の口実に私を利用しているだけです」
彼らの目的はプリムローズ。これまで接触する機会などなかったプリムローズが、自室どころか母屋を出て、使用人の宿舎にいる。この機会を逃すわけにはいかないと彼らは考えた。最初は対立、一方的にだが、しながらも訓練を続ける中でリルと話すことが出来、こうして訪問を受け入れてもらえたからこそ、だが。
「……出ていけ」
「ええっ!?」「そんな!?」
ただ結果は同じ。プリムローズに群がる虫を許すローレルではない。
「ローレル様。一応、私を尋ねて来た客ですから追い出すのはどうかと」
「口実だと言ったのはリルではないか。それで? プリムは?」
「えっ? 目の前にいるではありませんか。見えないはずないですよね?」
プリムローズはすでにリルの部屋にいる。従士たちの要求をリルは押さえることが出来なかった。押さえ込むつもりは最初からなかった。訪問を受け入れた時点で、決めていたことだ。
「お人形のように固まっているな」
プリムローズは一段高いベッドの上で座っている。瞬きする以外はまったく動かず、その可愛らしい外見もあって人形のように見える。
「まさにお人形」「可愛すぎて、持って帰りたいくらいです」「この世のどの人形よりも愛らしい」
プリムローズを褒め称える言葉が続く。彼らはまだ若い。上の人たちが誰もいない場では、本音を口に出来るのだ。
「先ほどから、ずっとこんな感じで……照れて固まってしまいまして……すみません」
「……まあ、プリムの愛らしさを評価できることだけは認めてやろう」
プリムローズだけでなくローレルも褒められることになれていない。ローレルは自分が褒められているわけではないが、真正面からプリムローズの可愛さを褒める言葉を聞いたのは、これが初めて。それが素直に嬉しかった。
「真面目な話をしますと、彼らには彼らの立場があります。言いたいことを素直に言えない事情があります。それは知っておいてあげてください」
「……そうだな。お前たちはここにいなかった。それで良いな?」
「それは……」「…………」
それは卑怯。そんな思いが従士たちの心に沸いた。だが冷静に考えれば、この場のことが知られれば、確実に彼らの立場は悪くなる。騎士団内にも完全なマリーゴールド派がいる。派閥があるわけではなく、将来の為に無条件に従う者たちのことだ。
「無理をするな。この場で恰好をつける必要などない。お前たちはお前たちの未来を大切にしろ」
「……ローレル様」「…………」
この場だけの殊勝な態度など嬉しくもなんともない。どうせ彼らは自分やプリムローズと深く関わる者たちではない。こんな思いからのローレルの言葉なのだが、従士たちには異なる意味に伝わった。少しではあるが、彼らのローレルに対する認識を改める機会となった。