食堂を出たプリムローズの足は止まらない。珍しく怒りの感情を表に出し、彼女らしくない荒々しい足音を立てて、といっても小さな彼女では音の大きさはたかがしれているが、玄関に向かって行く。
あとを追いかけているローレルはその様子にかなり焦っている。プリムローズが、このままどこかに行こうとしているのかと思ったのだ。
「プリム、待て! 早まるな!」
彼女の気持ちが落ち着くのを待つ、なんて余裕はないと考えて、大声で引き留めることになった。
「……早まる?」
その声は見事にプリムローズの足を止めた。ローレルが発した言葉の意味が分からず、何を言いたいのか聞こうとプリムローズは足を止めたのだとしても。
「家を出て、どうする? 一人では暮らしていけないだろ?」
「私も働くから大丈夫」
「私……も?」
プリムローズの言葉に違和感を覚えたローレル。実際は、彼女が何を言いたいのか薄々察している。認めたくない気持ちが、理解を遅らせているのだ。
「……リルと一緒に働く」
さすがにこれを口にすることには躊躇いを見せたプリムローズ。自分が何を言っているのか、彼女は分かっているのだ。
「あ、あれだ……二人はまだ若い。そんなに急がなくても良いのではないかな?」
完全に否定しては、プリムローズは反発する。そう考えてローレルはこういう言い方を選んだ。現実的な意見だ。プリムローズはまだ十三歳。それにリルとは何の約束もしていないどころか、付き合ってもいないのだ。
「別に急いでいないもの」
かなり先走ってはいることはプリムローズも理解している。ただ今の彼女にとって、これが最善の選択。彼女はそう思っているのだ。
「プリム……リルは……リルは良い奴だ。僕もあいつのことは好きだ。でも……リルは駄目だ」
「……身分なんて関係ない。私は侯爵家の人間じゃない」
「そうではない。そうではなくて……リルは普通とは違う。穏やかな生き方をする人間とは僕には思えない。僕はプリムには、もっと普通の、穏やかな幸せを掴んで欲しい」
リルのことはローレルも信頼している。他の使用人とは違う。自分のことを見て、自分の為の言葉を向けてくる。それが厳しいものであっても、自分を思ってのことだと受け入れられる。
ローレルにとって特別な人間だ。だが、リルの特別さはそれだけではないとも感じている。何かが違う。普通とはかけ離れた生き方をする存在だと感じられるのだ。
「……普通の幸せって何?」
「それは……平凡ではあっても、穏やかで、家族仲良く生きて行く人生だ」
イザール侯爵家でのプリムローズの暮らしは、それとは違う。それはローレルも分かっている。侯爵家を出ていくことそのものは反対ではないのだ。ただこのような異常な手段ではなく、普通に良い人のところに嫁いでほしいのだ。
「……私は……私とお母さんは普通に幸せだった」
「それは……」
「お父さんと滅多に会えないのは寂しかったけど、お母さんと私は普通に幸せに暮らしていた。でも……周りに人たちは私たちを普通じゃないと言う。私たちは他人を不幸にしたと言う」
父であるイザール候と共に過ごせる時間は短かったが、それでもプリムローズは幸せだった。母と父は自分を愛してくれた。母と二人の時間も、父が加わった三人の時間はもっと、楽しかった。
だがイザール侯爵家の人々はそれを否定する。プリムローズと母の存在を否定する。幸せだったと口にすることを許そうとしない。
「周りの人たちの言うことが正しいと言うなら、私はそんな普通の幸せなんていらない」
周りが自分の幸せを否定するならすれば良い。自分も彼らの幸せを否定するだけだ。プリムローズはこう思っているのだ。
「プリム……すまない。僕にもっと力があれば」
「違うよ。ローレル兄上は悪くない。悪いのは私。それは分かっているの。でも……ごめんなさい」
「プリム!」
背中を向けて駆け出していくプリムローズ。その彼女にローレルは名を呼ぶことしか出来なかった。追いかけることが出来なかった。
ここまではっきりとプリムローズの気持ちを聞かされたのは、ローレルでもこれが初めてだったのだ。
「僕は……僕は……駄目だな」
プリムローズを支えているつもりだった。自分だけは彼女の味方で有り続け、守り続けようと思っていた。だが、彼女の心の奥底にあった思いを、自分は気付くことが出来なかった。そしてリルは、きっとそれが出来ているのだと、ローレルは思った。それが悔しく、悲しく、羨ましかった。
◆◆◆
ローレルと別れたプリムローズは、リルがいる馬小屋横の宿舎に向かった。気持ちは、食堂を出た時よりも、さらに落ち込んでいる。父親以外で、大切に思う唯一の家族であるローレルを傷つけてしまった。それは自分が傷つけられるよりも、心を落ち込ませることだったのだ。
「……いない?」
辿り着いた宿舎は真っ暗。まだ眠るには早い時間だ。灯りが一つもついていないのは不在の証。それに、さらに気持ちを落ち込ませたプリムローズだったが。
「あっ、あっちかな?」
リルがいるだろう場所に気が付いた。何か根拠があってのことではない。なんとなく、そう感じられたのだ。
それを不思議に思うことなく歩き始めるプリムローズ。向かう先は第二馬場だ。宿舎にいなければそこ、と思ってもおかしくない場所。もっとも可能性の高い場所を選んで向かっているのだと、プリムローズは考えている。
「…………」
そしてそこにリルはいた。プリムが予想していた鍛錬をしているわけではなく、ただ空を、夜空に浮かぶ月を見上げているリルが。
「…………ん? あっ、プリムローズ様」
声を掛けられずにいたプリムローズを、リルのほうが気付いてくれた。
「……何をしていたの?」
「何? 月を眺めていました。昔から好きなので。プリムローズ様はどうされたのですか?」
「リルに会いに来たのだけど……」
すぐには声を掛けられなかった。それが許されない雰囲気をリルはまとっていた。怖いと感じてしまうような雰囲気だったのだ。
「……あっ、ああ。もしかして近寄り難かったですか?」
プリムローズの戸惑いにリルは心当たりがあった。
「少し」
「良く言われます。なんでしょう? 満月の夜は心がざわつくというか……満月に魅入られていて他が見えていないというか……とにかく、そんな感じらしくて」
「……それじゃあ、獣人。狼男みたいだね?」
リルの普段とは異なる雰囲気を感じ取ったのは自分だけではなかった。それに少しホッとし、少し残念に思ったプリムローズ。とにかく、今のリルはいつもの彼。会話を躊躇うことはなくなった。
「狼男? 半狼半人の種族って、そういう性質なのですか? 俺の本だと……そう、月と言えばヴァンパイオ族ですね?」
「ヴァンパイオ族? 私は知らない」
プリムローズが読んだおとぎ話には出てこない種族だ。
「外見は人間と同じですが、全員が美形で、夜の闇の中でより力を発揮する種族です。主人公の家族、愛した人たちが、この種族」
「そうなの? リルの本を私も読みたいな」
「ああ、じゃあ、俺が……い、いや、ちょっとあれだな。実は楽しい物語ではなくて……どちらかというと悲劇の物語なので」
「悲劇の物語……」
プリムローズに読み聞かせるには、かなり抵抗を覚える内容もある。リル自身も、この先は読みたくないと考えて、読み飛ばしている部分がかなりあるのだ。
プリムローズも悲劇の物語と教えられ、詳しい中身を知りたいという欲求が少し薄れた。悲しい思いをしたくて本を読みたいわけではない。その逆で、楽しみたいのだ。
「気持ちが落ち込む物語なのでやめておいたほうが良いです。俺の親父も、多分、戦記のところを読ませたくて買ってくれたのだと思います」
「戦記? リルは戦記が好きなの?」
「好きですけど、それは本を読んだ結果ですね。親父が買ってくれたのは……あれです。俺の親父は騎士だったので。多分、強い騎士になって欲しいと思ったからだと思います」
「やっぱり……だから、リルは強いのね?」
リルの父親は騎士だったと教えられて、プリムローズは納得だ。リルが強いのは子供の頃から鍛えていたから。疑問のひとつが消えた。
「強いと言えるかは別にして、物心ついた時には剣を握っていました。正直、最初は嫌でしたね」
「えっ、そうなの?」
「親父は、他の人たちも、子供相手に容赦なかったですから。当時の俺にとっては苦痛でしかなかったです。自ら鍛えようと思えるようになったのは、かなり後だったと思います」
物心ついた時にはもう、剣術ごっこではなく本格的な鍛錬になっていた。体力のない子供にはかなり辛い鍛錬で、その時間はリルにとって苦痛でしかなかった。それでも続けられたのは大人たちの真剣さを子供ながらに理解出来たから。この人たちは自分を強くする為に真剣に教えてくれているのだと分かったからだ。
「リルは凄いね?」
辛い鍛錬を乗り越えて、今の強さがある。リルが普段どういう鍛錬を行っているか知っているプリムローズは、それに感心した。リルが「辛い」というからには、普通の人では耐えられないほどの厳しい鍛錬なのだろう考えているのだ。
「凄くはありません。俺はその人たちの想いに応えることから逃げて、こうしてフラフラしているのですから」
「でも、リルは毎日鍛錬を続けている」
さらに強くなろうとリルは努力を続けている。それは教えてくれた人たちの想いを忘れていないからだとプリムローズは思った。
「……力の使い方を間違っているのです」
「人を守る為じゃないから? それは違うよ。リルは私を守ってくれている。人の為に力を使っている」
リルが何度か口にした言葉をプリムローズは覚えている。「自分の力は人を傷つけるだけ」とリルは言う。だが、それを聞くたびに、プリムローズは心の中でそれを否定してきた。リルは自分を守ってくれている。この思いを今日は言葉にして伝えた。
「……そういえば、プリムローズ様は何か御用があったのでは?」
プリムローズを守っているのだとすれば、それは後悔する過去があるから。その過去の話をリルはしたくない。
「私……えっと……私もリルと一緒に馬小屋で働こうかと思って」
リルと一緒に宿舎で暮らす。これは口には出来なかった。
「……はい?」
「自分で稼げるようになりたいの」
「ああ……事情は分かりましたけど、それにはご当主様のお許しが必要ですね?」
働きたいと言われても、リルも雇われている身。賃金を支払うのはイザール侯爵家であるので、当主であるイザール侯の許可が必要だ。
といってもリルは本気でプリムローズが働こうとしているとは思っていない。働いた形にして、お小遣いを増やしてもらおうとしているのだ、くらいに考えている。それで以前話した旅が実現するとは思っていないが、プリムローズがやりたいようにすれば良いと思っているのだ。
「……そうだね。お父様のお許しは必要だね。でも許してもらえるかな?」
「どうでしょう?」
イザール侯がどこまでプリムローズのしたいようにさせてくれるか。悪い言い方をすると、甘やかしてくれるかだとリルは考えている。
「リルも考えてね?」
「えっ、俺ですか?」
自分が考えてどうにかなることではない。プリムローズと父であるイザール侯の関係性が全て。娘に甘い父親であれば、上手く行く。そうでなければ駄目。他人が割り込む話ではない。
「そうだよ。私たち二人のことなのだから」
「……二人、というのは?」
「リルと一緒に暮らすことを許してもらうのだから、リルもお父様を説得する方法を考えて」
「ああ、なるほど……ええっ!?」
ここでようやくリルは自分の勘違いに気が付いた。正しくはプリムローズがとんでもない勘違いをしていることに気が付いた、だ。
「あ、あの……迷惑かもしれないけど……私、頑張るから」
プリムローズもかなり強引であることは分かっている。だが、まずは二人の暮らしを始めること。全てはそこからだと、思い込んでいるのだ。
「絶対にお許しは出ないと思います」
「身分は関係ない。私も平民だもの」
「いや、身分の問題ではなく、父親って娘の結婚を簡単には認めないものではないのですか? 相手が誰であろうと、まずは反対する。そういうものだと聞いています」
最初から結婚ありきで話が進む貴族家の場合、反対はない。良い相手と、これは娘にとってだけでなく家にとってが優先されて、思える人が選ばれ、家同士の話し合いで進められるのだ。反対するはずがない。
ただリルの知識は貴族でなく、平民のもの。それも周囲が面白おかしく話す例だ。
「……そう。でも、いつかはお父様も分かってくれるよね?」
「最後は娘の気持ちを優先してくれるでしょうから」
未だに他人事なリル。それがプリムローズの期待を膨らませてしまうことに気が付いていない。
「……そうだね。私もそう思う」
イザール侯はプリムローズにとって優しい父親。いつかは父親も許してくれると信じられる。それでリルとの結婚に対する障害はなくなる。プリムローズはこう考えている。
「……そろそろ部屋に戻りますか?」
「えっ……あっ、そうだね……え、えっと、でもまだ早いよね?」
さらにプリムローズの誤解、というより思い込みは続く。
「そんなことありません。もう寝る時間です」
「……ごめんなさい。そういうのは、結婚してからだと私は思っていて……リルのことは好きだけど……私まだ子供だから」
「……えっ? あっ、いや、そういうことではなくて、私はただもう遅い時間だから寝たほうが良いという意味で」
また少し遅れて、お互いの勘違いに気が付いたリル。
「あっ……そうだね? 普通に寝るだけ。それだけ」
だがリルが気付いただけでは、認識の違いは正されない。はっきりとリルが否定しない限り、プリムローズの期待は続いてしまうのだ。
だがどう否定すれば良いのか。プリムローズがイザール侯爵家で辛い思いをしていることをリルは知っている。突き放すような言い方は出来なかった。
「だったらさっさと寝るぞ。僕はもう眠い」
「ローレル兄上……」「ローレル様?」
悩むリルの前に助け人が現れた。問題の先延ばしになるだけだとしても。
「ベッドはさすがに運び込めなかったから布団だけだ。質素なベッドだけど構わないだろ?」
「良いの?」
母屋を出る時に強く反対していたローレルが、リルとの結婚を認めてくれた。プリムローズの勘違いだ。
「三人、別々の部屋だ。問題ない」
ローレルは自分もリルが暮らす宿舎で寝泊まりするつもりなのだ。彼にとってはぎりぎりの譲歩だ。
「……三人?」
「嫌な顔するな。悲しくなるだろ? プリムが周りの目を気にしないで暮らしたいというのであれば、そうすれば良い。僕は応援する。でもリルとのことはもっと時間をかけるべきだと思う。一生のことになるなら尚更」
「ローレル兄上……ありがとう」
ローレルの気持ちはプリムローズにも分かる。自分を大切に想ってくれての選択であることは疑う余地もないことだ。それに素直に感謝の気持ちが湧いた。
「……良いのですか?」
「ああ、かまわない。その代わり、お前がプリムを傷つけたら、僕は必ずお前を叩きのめす。お前にどんな事情があっても関係ない。僕はプリムが一番だからな」
「……私の都合は?」
「関係ない。言っただろ? 僕はプリムが望むことを優先する。それ以外の答えを聞くつもりはない」
ローレルなりの覚悟だ。このことでプリムローズがまた周囲から責められることになってもかまわない。プリムローズが望むことを優先する。そう決めたのだ。リルの進む道が苦難に満ちたもので、それによってプリムローズが苦しむことになるのであれば、自分はその苦しみを少しでも減らす為に全力を尽くすだけ。これがローレルの覚悟だ。